網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「永井荷風「細雪妄評」」で検索した結果

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  • 永井荷風「雪解」
     兼太郎《かねたらう》は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕から半白の頭を擡げて不思議さうに鳥渡《ちよつと》耳を澄した。  枕元に一問の出窓がある。その雨戸の割目から日の光が磨硝子の障子に幾筋も細く糸のやうにさし込んで居る。兼太郎は雨だれの響は雨が降つてゐるのではない。昨日|午後《ひるすぎ》から、夜も深けるに従つてます/\烈しくなつた吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだといふ事を知つた。それと共にもう彼れこれ午近くだらうと思つた。正月も末、大寒の盛にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろ/\近所の家から鮭か干物を焼く匂のして来る時分だといふ事は、r度去年の今時分初めてこ」の二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚を見てくらしたので、時計を見るまでもなく察しる事が出来るのであつた。それにつけても月日のたつのは早い。又一年過ぎたのかなと思ふと、兼太郎は例の如く数へ...
  • 永井荷風「勲章」
    寄席、芝居。何に限らず興行物の楽屋には舞台へ出る芸人や、舞台の裏で働いている人たちを目あてにしてそれよりもまた更に果敢い渡世をしているものが大勢出入をしている。 わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立っていた彼のオペラ館の楽屋で、名も知らなければ、何処から来るともわからない丼飯屋の爺さんが、その達者であった時の最後の面影を写真にうつしてやった事があった。 爺さんはその時、写真なんてエものは一度もとって見たことがねえんだコと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがとうを繰返したのであフたが、それがその人の一生涯の恐らく最終の感激であった。写真の焼付ができ上った時には、爺さんは人知れず何処かで死んでいたらしかった。楽屋の人たちはその事すら、わたくしに質問されて、初て気がついたらしく思われたくらいであった。 その日わたくしはどういう訳で、わざわざカメラを提げて公園のレヴュ...
  • 永井荷風「寐顔」
      竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした⊥蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。 竜子は十七になった今日でも母の乳を飲んでいた頃と同じように土蔵につづいた八畳の間に母と寝起を共にしている。琴三味線も生花茶の湯の稽古も長年母と一緒である。芝居へも縁日へも必ず連立って行く。小説や雑誌も同じものを読む。学課の復習試験の下調も母が側から手伝うので、年と共に竜子自身も母をば婦か友達のように思う事が多かった。 しかし十三の頃から竜子は何の訳からとも知らず折々乙んな事を考えるようになった。母はもし自分というものがなかったなら今日までこうして父のなく...
  • 永井荷風「榎物語」
    市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅の際に、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革の篋があった。 大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持は錠前を打破して篋をあけて見た。すると中には何やら細字でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。 愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と串候者の次男にて有之候。不束ながら 行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰になされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは眤懇の間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
  • 永井荷風「あぢさゐ」
     駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄つた或寺の門内《もんない》で思ひがけない人に出逢つた。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出てゐた時分だから、二十年ちかくにもならう。その頃折々|家《うち》へも出入をした鶴沢宗吉といふ三味線ひきである。 「めづらしい処で逢ふものだ。変りがなくつて結構だ。」 「その節はいろ/\御厄介になりました。是非一度御機嫌伺ひに上らなくつちやな与ないんで御在ますが、申訳が御在ません。」 「噂にきくと、その後商売替をしなすつたといふが、ほんとうかね。」 「へえ。見切をつけて足を洗ひました。」 「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」 「へえ。四谷も大木戸のはつれでケチな芸者家をして居ります。」 「芸人よりかその方がい猿だらう。何事によらず腕ばかりぢや出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」 「さうおつしやられると、何と御返事をしていゝかわかりません。い...
  • 永井荷風「牡丹の客」
     小れんと云ふ芸者と二人連、ふいとした其の場の機会で・本所の牡丹を見にと両国の橋だもとから早船《はやふね》に乗つた。  五月も末だから牡丹はもう散つたかも知れない。実は昨日の晩、芝居で図らず出会つたま撫地の待合へ泊つて、今朝は早く帰るつもりの処を、雨に止められたなり、其の霽れるのをば昼過ぎまで待つてゐたのだ。一日小座敷に閉籠《とちこも》つていたゴけに、往来へ出ると覚えず胸が開けて、人家の問を河から吹き込む夕風が、何とも云へぬほど爽に酔後の面を吹くのに、二人とも自然と通りか」る柳橋の欄干にもたれた。  雨霽《あまあが》りの故《せゐ》でもあるか、日は今日から突然永くなり出したやうに思はれた。丁度寺院の天井に渦巻く狩野派《かのうは》の雲を見るやうな雨後の村雲が空一面|幾重《いくへ》にも層をなして動いて居る。其の間々に光沢《つや》のある濃い青空の色と、次第に薄れて行く夕炎《ゆふばえ》の輝きが際立つ...
  • 永井荷風「元八まん」
    元八まん  偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。  わたくしが砂町《すなまち》の南端に残っている元《もと》八幡宮の古祠を枯蘆《かれあし》のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思い立って杖《つえ》を曳《ひ》いたのではない。漫歩の途次、思いかけずそのところに行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思い立って尋ねたよりも遙かに深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫《そうぼう》たる暮烟《ぼえん》につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以《ゆえん》であろう。  ある日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄《てすり》には豊砂橋《とよすなばし》としてあった。橋向うには広漠たる空地《あきち》がひろがっていて、セメントのまだ生々《なまな...
  • 永井荷風「散柳窓夕栄」
     天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いっもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の奏暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴犀の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。  「種員さん、もうやがて六ッだろうが先生はどうなされた事だろうの。」  「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上.、てるのでは御ざいますまいか。」  「何さまこれア大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御眤懇であったとかい...
  • 永井荷風「監獄署の裏」
    われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。世のあらゆる醜きものを。ー『ヘッダガブレル』イプセン     兄閣下お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫車と裸体画ばかヴ。年は己に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では見付のやや大い門構え、高い樹木がこんもりと繁っていますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直にそれと分りましょう。 私は当分、何にもせず、此処にこうしているより仕様がありますまい。一生涯こうしているのかも知れません。しかし、この境遇は私に取っては別に意外というほどの事ではない。日本に帰ったらどうして暮そう...
  • 永井荷風「ひかげの花」
     二人の借りている二階の硝子窓《ガラスまど》の外はこの家《うち》の物干場《ものほしば》になっている。その日もやがて正午《ひる》ちかくであろう。どこからともなく鰯《いわし》を焼く匂《におい》がして物干の上にはさっきから同じ二階の表《おもて》座敷を借りている女が寐衣《ねまき》の裾《すそ》をかかげて頻《しきり》に物を干している影が磨硝子《すりガラス》の面に動いている。  「ちょいと、今日は晦日《みそか》だったわね。後《あと》であんた郵便局まで行ってきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見ている男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗いざらしの浴衣《ゆかた》の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝《たてひざ》して寝乱れた髪を束《たば》ねている。 「うむ。行って来《こ》よう。火種《ひだね》はあるか。この二、三日大分寒くなって来たな。」と男はまだ寐《ね》たまま起きようとも...
  • 永井荷風「雪解」ルビなし
    雪解 兼太郎は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕から半白の頭を擡げて不思議そうにちょっと耳を澄した。 枕元に一問の出窓がある。その雨戸の割目から日の光が磨硝子の障子に幾筋も細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれの響は雨が降っているのではない。昨日午後から、夜も深けるに従ってますます烈しくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれ午近くだろうと思った。正月も末、大寒の盛にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家から鮭か干物を焼く匂のして来る時分だという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚を見てくらしたので、時観を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大崩落に...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
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