網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「E.S.モース・石川欣一訳『日本その日その日』「日光への旅」」で検索した結果

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  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 亀井勝一郎「千代田城」
     遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無 関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知 している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思 いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈 折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく 多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。  むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松 明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の 火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残...
  • 江戸川乱歩「双生児」
    (ある死刑囚が教誨師にうちあけた話)  先生、きょうこそはお話しすることに決心しました。わたしの死刑の日もだんだん近づいてきます。はやく心にあることをしゃぺってしまって、せめて死ぬまでの数日を安らかに送りたいと思います。どうか、御迷惑でしょうけれど、しばらくこの哀れな死刑囚のために、時間をおさきください。  先生も御承知のように、わたしはひとりの男を殺して、その男の金庫から三万円(註、今の千万円に近い)の金を盗んだかどによって死刑の宣告を受けたのです。だれもそれ以上にわたしを疑うものはありません。わたしは死刑とぎまってしまった今さら、もう一つのもっと重大な犯罪について、わざわざ白状する必要は少しもないのです.たと診、れが、知られているものよりもいく層位重い大罪であったところで、極刑《ごくけい》を宣告せられているわたしに、それ以上の刑罰の方法があるわけもないのですから。  いや、必要...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十四
     相模守北条時頼の母は松下禅尼といった。ある時時頼を請待《しようだい》されることがあったが、その準備に、煤けた紙障子の破れたところばかりを、禅尼は手ずから小刀で切張りをしておられた。禅尼の兄の秋田|城介《じようのすけ》義景が、その日の接待役になって来ていたが、その仕事はこちらへ任せていただいて何の某にさせましょう。そういうことの上手な者ですからと言ったところが禅尼はその男の細工だってわたしよりは上手なはずはありますまいよと答えて、やはり一問ずつ張っておられたので、義景がみな一度に張りかえたほうがずっと面倒くさくないでしょう。斑《まだら》に見えるのも不体裁でしょうしと重ねて言ったので、尼は、わたしも後にはさっぱりと張り代えようとは思っていますが、今日だけはわざとこうしておきたいのです。物は破れたところだけ修繕して使用するものであると若い人に見習わせ、心得させるためですと言われた。誠に結構なこ...
  • 片岡鉄兵「綱の上の少女」
     街の夏祭りを当て込んで、このごろ来ていた軽業師の中に、私の妹がいるという事実は、私をひどい憂欝に陥し入れてしまった。  生まれつき空想家の私は、これまでの二三年間、幾たび、妹をそうした境遇から救い出そうと考えただろう……けれども、私はどうすることも出来なかった。私は貧しい少年職工にすぎなかったし、彼女はいつも旅から旅を放浪して歩く巡業団の中のひとりだったのだからー私は、どれだけ彼女に逢いたくても、いつどこで彼女たちが興行しているのかも知らなかったし、また、この三年足らずの間には、たまには彼女が属する「山谷興行部」の巡業先を知る機会があったとはいうけれども、私にはその土地まで行く旅費のあろう道理がなかったのだ。  彼女はそんな身の上にならなければならなかったーこれは、彼女が誘拐されたというようなことがあったわけではない。私の父が、そうした興行師に、彼女を売ったのである。私の父は、どうい...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 江戸川乱歩「そろばんが恋を語る話」
     ○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へはいると、がいとうと帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、かれの助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして、何かこう、盗みでもするような格好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一丁のそろばんを取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきで、その玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千...
  • 菊池寛「三人兄弟」
    一 三筋の別れ道  まだ天子様の都が、京都にあった頃で、今から千年も昔のお話です。  都から二十里ばかり北に離れた丹波の国のある村に、三人の兄弟がありました。一番上の兄を一郎次と言いました。真中を二郎次と言い、末の弟を三郎次と言いました。兄弟と申しましても、十八、十七、十六という一つ違いで脊の高さも同じ位で、顔の様子や物の言いぶりまで、どれが一郎次でどれが二郎次だか、他人には見分けの付かないほどよく似ていました。  不幸なことに、この兄弟は少い時に、両親に別れたため、少しばかりあった田や畑も、いつの間にか他人に取られてしまい、今では誰もかまってくれるものもなく、他人の仕事などを手伝って、漸くその日その日を暮しておりました。が、貧乏ではありましたが、三人とも大の仲よしでありました。  ある夜のことでありました。一郎次は、何かヒドク考え込んでいましたが、ふと顔を上げて、  「こんなにして、毎日...
  • 尾崎士郎「夏草」
     いよいよ番付編制ということになるとたちまち大へんな騒ぎになった。  ー朝に酒、夕に酒、というと甚だ威勢がいいが、欝結した気もちをまぎらすものは酒のほかにはなかったのである。それほど、誰も彼も貧乏だ、退屈をまぎらす時間を持てあましきっていた。酒の余勢が此処まで延長してしまったと言えばそれまでのはなしになるが、しかし考えようによっては理屈はどうにでもつく。当時、相撲協会は天竜脱退事件の余波をうけて、その成立さえも覚束なくなるのではないかと思われるほどの悲境時代にあった。雛壇も二階桟敷もがら空きで、どんな名勝負があったところで熱狂して湧きたつ空気などは薬にしたくもない。新聞の社会面の片隅にやっとその日の勝負だけ六号活字で報道されるという時代である。銀座の雑踏の申にのそのそ歩いている力士の姿があらわれると、その頃時代色の中からあざやかにうきだした有閑婦人やモダンボーイたちは、まるで牛か馬がとびこ...
  • 永井荷風「勲章」
    寄席、芝居。何に限らず興行物の楽屋には舞台へ出る芸人や、舞台の裏で働いている人たちを目あてにしてそれよりもまた更に果敢い渡世をしているものが大勢出入をしている。 わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立っていた彼のオペラ館の楽屋で、名も知らなければ、何処から来るともわからない丼飯屋の爺さんが、その達者であった時の最後の面影を写真にうつしてやった事があった。 爺さんはその時、写真なんてエものは一度もとって見たことがねえんだコと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがとうを繰返したのであフたが、それがその人の一生涯の恐らく最終の感激であった。写真の焼付ができ上った時には、爺さんは人知れず何処かで死んでいたらしかった。楽屋の人たちはその事すら、わたくしに質問されて、初て気がついたらしく思われたくらいであった。 その日わたくしはどういう訳で、わざわざカメラを提げて公園のレヴュ...
  • 吉川英治・五島慶太対談「文学と事業」
    吉川 相変らずお元気のようで結構ですね。健康法としてはどのようなことをなさっておりますか。 五島 毎朝六時半に起きまして九時まで歩きます、多摩川ぶちを……。帰ってきて、樫の棒を百回振るのです。 吉川 そうですか。 五島 それから昼寝をするのです。 吉川 昼寝はいいですね。しかし、樫の棒を振るというのは長く続いておりますか。 五島 百回毎日振ります。そうでなければ手が弱ってくるし、また歩かないと足が弱る。われわれぐらいになると、歩く以外に健康法はありません。樫の棒は必ずしも振らなくてもいいかもしれないが、しかし、振ったほうがいいですな。 吉川 昼寝は……これは久原さんがそうです。昼寝自慢みたい。 五島 昼寝自慢と熊胆《くまのい》を飲むことです。私も教わって熊胆を毎日飲んだ。あれを飲みますと、まず第一に澱粉の消化を助ける。だから胆汁が多少少くてもいい。肝臓及び胆嚢の弱ったのを助ける。また肝嚢と...
  • 科学への道 part6
    第三章 !-- タイトル -- 天才論 !-- --  自然研究者の中にはとくに天才を要望するのであって、天才が出でて初めて研究 が|進捗《しんちよく》し、天才が出でざれば|停頓《ていとん》するのである。天才は出ずる事がはなはだまれで あり、天才はまた|薄幸《はつこう》である。おそらくその時代においては理解出来ない議論を|吐《は》 く故でもあろうが、時の経過とともに|尊敬《そんけい》されるのである。天才は正に科学史を綴 る人である。|凡庸《ぼんよう》は単に科学を持続けるに役立ち、科学を横に|濃《みなぎ》らせることは出来 ても前進させることは出来ない。天オは果たしてその出現を期待し得べきものであ ろうか、また天才は|栴檀《せんだん》の|二葉《ふたば》より|香《かん》ばしというがごとく、幼少よりして|聡明《そうめい》なる ものであろうか、筆者の思索は|低迷《ていめい》する。  天才は先...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 江戸川乱歩「赤いへや」
     異常な興奮を求めて集まった、七人のしかつめらしい男が(わたしもその中のひとりだった)わざわざそのためにしつらえた「赤いへや」の、緋色《ひいろ》のビロードで張った深いひじ掛けイスにもたれ込んで、今晩の話し手が、なにごとか怪異な物語を話しだすのを、今か今かと待ちかまえていた。  七人のまん中には、これも緋色のビロードでおおわれた一つの大きなまるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台《しよくだい》にさされた、三丁の太いローソクがユラユラとかすかにゆれながら燃えていた。  へやの四周には、窓や入り口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅な重々しいたれ絹が豊かなひだを作ってかけられていた。ロマ払チックなローソクの光が、その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした、たれ絹の表に、われわれ七人の異様に大きな影法師を投げていた。そして、その影法師は、ローソクの炎につれて、いくつかの巨...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 永井荷風「元八まん」
    元八まん  偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。  わたくしが砂町《すなまち》の南端に残っている元《もと》八幡宮の古祠を枯蘆《かれあし》のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思い立って杖《つえ》を曳《ひ》いたのではない。漫歩の途次、思いかけずそのところに行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思い立って尋ねたよりも遙かに深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫《そうぼう》たる暮烟《ぼえん》につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以《ゆえん》であろう。  ある日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄《てすり》には豊砂橋《とよすなばし》としてあった。橋向うには広漠たる空地《あきち》がひろがっていて、セメントのまだ生々《なまな...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 太宰治「津軽」一二三(新仮名)
    青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html 津軽 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)業《わざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白髪|逓《たがい》 [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] 津軽の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みず雪  かた雪  ざらめ雪  こおり雪   (東奥年鑑より) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#大見出し]序編[#大見出し終わり]  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 永井荷風「監獄署の裏」
    われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。世のあらゆる醜きものを。ー『ヘッダガブレル』イプセン     兄閣下お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫車と裸体画ばかヴ。年は己に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では見付のやや大い門構え、高い樹木がこんもりと繁っていますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直にそれと分りましょう。 私は当分、何にもせず、此処にこうしているより仕様がありますまい。一生涯こうしているのかも知れません。しかし、この境遇は私に取っては別に意外というほどの事ではない。日本に帰ったらどうして暮そう...
  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」
    1  たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。  学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。  遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるま...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 永井荷風「ひかげの花」
     二人の借りている二階の硝子窓《ガラスまど》の外はこの家《うち》の物干場《ものほしば》になっている。その日もやがて正午《ひる》ちかくであろう。どこからともなく鰯《いわし》を焼く匂《におい》がして物干の上にはさっきから同じ二階の表《おもて》座敷を借りている女が寐衣《ねまき》の裾《すそ》をかかげて頻《しきり》に物を干している影が磨硝子《すりガラス》の面に動いている。  「ちょいと、今日は晦日《みそか》だったわね。後《あと》であんた郵便局まで行ってきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見ている男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗いざらしの浴衣《ゆかた》の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝《たてひざ》して寝乱れた髪を束《たば》ねている。 「うむ。行って来《こ》よう。火種《ひだね》はあるか。この二、三日大分寒くなって来たな。」と男はまだ寐《ね》たまま起きようとも...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 永井荷風「寐顔」
      竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした⊥蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。 竜子は十七になった今日でも母の乳を飲んでいた頃と同じように土蔵につづいた八畳の間に母と寝起を共にしている。琴三味線も生花茶の湯の稽古も長年母と一緒である。芝居へも縁日へも必ず連立って行く。小説や雑誌も同じものを読む。学課の復習試験の下調も母が側から手伝うので、年と共に竜子自身も母をば婦か友達のように思う事が多かった。 しかし十三の頃から竜子は何の訳からとも知らず折々乙んな事を考えるようになった。母はもし自分というものがなかったなら今日までこうして父のなく...
  • 佐藤春夫「家常茶飯」
     朝田が或日訪ねて来た。  書斎へ通すとイキナリ「(理想的マッチ)を君は持っていないか」と言う。 「何、(理想的マッチ)て何だい」と、僕は聞いた。 「お伽話《とぎぱなし》なんだが、僕は其のテキストを無くして弱っているんだ。  年越しの金を工面する為に受け合った例の拙速な翻訳仕事の一つなんだが、本屋が出版を馬鹿に急いでいるのでね。外国に注文して取り寄せるにしても、時日がもう間に合わないのだ。  クリスマスの贈答用をアテコミなんだからね。  君のところには色んな本が沢山あるから、ヒョットしたら持っていないかと思って来たんだが、珍らしい本でもないのにあまり見かけない  アッサージの初期の作なんだ」 「うん、聞いた事は有る様にもあるが、あいにく僕は持っていないよ。何《ど》うして又無くしたんだい」 「それがね、翻訳はもう出来上っているんだ。原稿は印刷所に廻してあるんだがね。  只大人に読ませるんなら...
  • 永井荷風「散柳窓夕栄」
     天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いっもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の奏暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴犀の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。  「種員さん、もうやがて六ッだろうが先生はどうなされた事だろうの。」  「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上.、てるのでは御ざいますまいか。」  「何さまこれア大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御眤懇であったとかい...
  • 江戸川乱歩「白昼夢」
     あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実のできごとであったか。  晩春のなま暖かい風が、オドロオドロと、ほてったほおに感ぜられる、むし暑い日の午後であった。  用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、わたしは、ある場末の、見るかぎりどこまでもどこまでもまっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。  洗いざらしたひとえもののように白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤《ごばん》のように仕切った薄っぺらな本箱の中に、赤や黄や白や茶色などの砂のような種物を入れたのが、店いっぱいに並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 久生十蘭「呂宋の壷」
         一  慶長のころ、鹿児島揖宿《いぶすき》郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。 慶長十六年の六月、隠居して惟新といっていた島津義弘の命令で、はるばる呂宋《ルソン》(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞《カンポジヤ》の町々を七年がかりで探し歩いたが、その結末は面白いというようなものではなく、そのうえ、帰国後、宗門の取調べで、あやうく火焙りになるところだった。寛永十一年に上書した申状には、吉之丞のやるせない憤懣の情があらわれている。  惟新様申され候には、呂宋へ罷越、如何様にしても清香か蓮華王の茶壼を手に入れるべし、呂宋とか申す国は吉利支丹の者どもにて候に付き、この節は吉利支丹に罷成り...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 谷崎潤一郎「詩と文字と」
    谷崎潤一郎 詩と文字と 大正六年四月號「中央文學」 詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。 人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 永井荷風「榎物語」
    市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅の際に、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革の篋があった。 大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持は錠前を打破して篋をあけて見た。すると中には何やら細字でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。 愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と串候者の次男にて有之候。不束ながら 行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰になされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは眤懇の間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江...
  • 小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語
     寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。  初め私は、そのうち戦争がすん...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 柳田国男「南島研究の現状」
    大炎厄の機会に  大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。  私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。  此議員のしたやうな...
  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 岡田三郎「三月変」
     一生のうちにたった一遍、三吉は雨の降る往来を母をおぶって歩いた経験のあるのを、その母の死後、時々思いだしては、まざまざと生ける母の姿を、まのあたりに見る思いすることがあった。  母、三吉、四郎、五作、それに先年死んだ長兄の遺子で、来年あたり中学へはいろうという年ごろの宏と、この五人が、小樽《おたる》で死んだ三吉たちの父の葬式を済まし、初七日もおわったところで、遺骨を携え帰京したのであった。  上野へ着けば、どしゃぶりの雨だった。十二月の上旬、日の暮れも早く、雨脚《あまあし》が広場のぬかるみに光って、一層寒い思いがした。  母は一昼夜半の長旅に、すっかり疲れきっていた。そうでなくてさえ、つれあいの死によって、ひどく落胆し、あとの始末やなんか、みんな人手に委《まか》せきりで、自分では何一つ出来ないような状態のところへ、汽車でも汽船でも、すべて乗物には弱い人で、寝台車に寝ていてさえ、わずかばか...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十一
     赤舌日《しやくぜつにち》ということは、陰陽道にも定説のないものである。昔の人はこの日を忌まなかった。近ごろ、何者が言い出して、忌みはじめたのであろうか。この日にすることは成就せずと説いて、この日に言ったこと、したことは目的を達せず、得たものも失い、企てたことも成功しないというのは愚劣なことである。吉日を選んでしたことで成就しないのを数えてみたってまた同様の統計を得られよう。その理由は、常住ならぬ転変の現世では、目前に在りと思うものも実は存在せず、始めあることも終りがないのが一般である。志はとげぬ勝ちである。欲望は不断に起る。人間の心そのものが不定であり、物もみな、幻のように変化して何一つしばらくでも止っているものがあろうか。この道理がわからないのである。吉日にも悪事をしたらかならず凶運である。悪日に善事を行うのはかならず吉であるとかいわれている。吉凶は人によって定まるもので日に関係するも...
  • 中谷宇吉郎「清々しさの研究の話」
     この頃ハンチントンの『気候と文明』が岩波文庫に出たので、前から読みたいと思っていた矢先、早速買って見たが、大変面白かった。中には少しくだくだしいところもあるし、随分身勝手な資料を基とした議論もあって、勿論あのままに簡単に承服するわけには行くまいと思われる点もあるが、私はこの方面には全くの素人なので、この新しい地理学の全面的批判などをする気持ちは勿論無いし、またしようと思っても出来る話でもない。ただ少し身勝手だと思われる点は、例えば人種に本質的の優劣があるという例に、アメリカにおける黒人と白人との能率の比較をしている条《くだ》りなどがあるからである。例えば白人と黒人との農民が経営している農揚の広さの比較とか、収入の比較などから、白人が人種として本質的に優れているというような結倫を平気で出しているようである。その結論自身は或いは本当なのかもしれないが、その説明が少し私などには腑に落ちぬところ...
  • 科学への道 石本巳四雄
    国会図書館の近代デジタルライブラリの画像を使って校正したので、 旧仮名使い(途中まで -- 後半は新かなつかいのまま)になっています。 コメントは、 !-- -- の中に記載しました。 part1 科学への道 石本巳四雄 序  天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出 でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。  しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究 が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今 日もなおその発展が続けられているのである...
  • 宇野浩二「枯野の夢」
    一 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉  汽車が大阪の町をはなれて平野を走る頃から、空模様がしだいに怪しくなって来た。スティイムの温度と人いきれで車内はのぼせるほど暖かであったが、窓ガラスひとえ外は如何にも寒そうな冬枯れの景色であった。青い物の殆んど見られない茶褐色の野の果てには、雪をかぶった紀伊の山脈、その手前に黒褐色をした和泉《いずみ》の山脈、汽車の行く手には、右側に、二上山《ふたがみやま》、葛城山《かつらぎやま》、金剛山、左側に、信貴山《しぎさん》、百足山《むかでやま》、生駒山《いこまやま》などが墨絵の景色のように眺められ、目の下の野には、ときどき村落、ときどき森林、などが走り過ぎるだけで、人の子ひとり犬の子一ぴき見えない。と、見る見るうちに、まず紀伊の山脈が頂上の方から姿を消しはじめ、つぎに和泉の山脈が、それから、右手は、金剛山、葛城山、二上山の順に、左手は、生駒山、百足山、...
  • @wiki全体から「E.S.モース・石川欣一訳『日本その日その日』「日光への旅」」で調べる

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