He111

「He111」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
He111」を以下のとおり復元します。
&font(#6495ED){登録日}:
&font(#6495ED){更新日}:
&font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます

----
&link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧
&tags()
----

#center(){&sizex(7){&bold(){ドイツを代表する爆撃機。果たしてその内容は}}}

He111とは、1935年から運用が開始されたナチス・ドイツの双発爆撃機である。

◆本機の開発
第二次世界大戦が始まる前の[[ドイツ]]でのお話。当時、ヴェルサイユ条約の影響で軍事兵器の開発がほとんど出来なかった。しかし、政権を握ったナチ党により下積みという形で再軍備が行われた。戦車が農業用トラクターという名前で開発されていたように、軍用機もまた民間機として開発が始まった。そして、ハインケル社は民間輸送機名目で爆撃機の開発を決行。こうして開発されたのがHe111である。世間からは民間機に見えるように、先に輸送型のC型が作られたのである。1935年2月24日に初飛行した機体は、貨物輸送にフル活用され、世間は物資を運んで飛び続けるHe111を輸送機と見るようになった。


その後、爆撃機タイプであるA型が開発され、裏でこそこそと飛行研究を始めた。が、輸送機より重量が増加したため巡航速度が遅くなる始末。これでは敵機に捕捉されれば逃げ切れず、「爆撃機を高速で飛ばせ。戦闘機を振り切れ!」というドイツ空軍の要求を満たせない。そこで新たに開発されたB型にはダイムラーベンツ社が新開発したDB600Aエンジンが搭載され、優秀な成績を収めるとどうにか軍に正式採用されたのである。

◆ドイツ空軍の爆撃機事情

ドイツ空軍の要求通りにHe111は当時の爆撃機としては非常に速く、空軍の要求を満たした双発(エンジンが二つ)爆撃機である。しかししばしば、以下のような批判を浴びる。


#center(){&bold(){なぜドイツ空軍は主力爆撃機を大型の4発機にしなかったのか。}}


しかし、まずHe 111が初飛行した直後は、双発機でもなんら問題視されていなかった。翌年(1936年)には、ドルニエ社が大型爆撃機開発計画である「ウラル爆撃機計画」に則った&bold(){Do19}が初飛行を済ませ、その翌年にはFw 200コンドルが完成しており、既に4発機の枠は埋められていたのだ。He 111はこれらの後に続く形で爆撃を行う予定だったのであり、無茶な使われ方などされるはずがなかったのだ。

……その予定だったのだが、ドイツの事情はソレを許さなかった。He111も没にしかけたドイツ製エンジンの非力さは4発爆撃機の性能をも縛り(例えばDo19のエンジンはDB600Aの8割程度の出力しかないのである)、また当時のドイツにとって最大の脅威とされたポーランドやフランス相手ならば、4発機よりも安価で数を揃えやすく、一機当たりの資材も少なく済む双発機の数を揃えたほうがよい、と考えられた。
おまけにドイツ空軍ははどっちかといえば地上軍を援護するための「戦術空軍」としての能力を整えるように求められ、爆撃機が長距離疾駆し敵の拠点や都市を爆撃する「戦略空軍」としての能力に特化することが出来なかった。なにしろドイツは平地続きで陸軍の展開はた易い。例え相手の都市をフルボッコにしても、その間に敵陸軍がドイツ国内を荒らしまわってしまっては意味が無い。ついでにウーデットとかいう急降下爆撃機バカもいたし。
そして止めとばかりに大型爆撃機に熱心であったヴァルター・ヴェーファー将軍の事故死によってウラル爆撃機計画は棚上げされ、後についたアルベルト・ケッセルリンクは双発戦術爆撃機の量産化が優先、この様な大型機は製造されなくなったのである。

Fw200もそんな具合だったので空軍からの反応は芳しくなく、戦争が始まってから慌てて軍用機へ転用される始末であった。

そんなこんなで、He111は双発のまま戦力化されてしまい、この様な遠くまで飛べない機体をもってドイツは戦争を始めることとなる。


◆初陣
早速、このHe111は1937年の[[スペイン内戦]]で初めて投入された。この戦いは西班牙人同士の内乱であるが、共和国側と反政府側に分かれており、それぞれの陣営を前者が[[ソビエト]]やメキシコが、後者を[[イタリア]]、ドイツ、ポルトガルが支援しており第二次大戦の前哨戦ともいえる状況だった。しかし、実際は新兵器の実験場という色合いが濃く、ドイツ側はHe111と共に[[Bf109]]、[[Ju87]]も進出させている。これらの軍用機で構成された軍団は「コンドル」と呼ばれた。He111は、優れた運動性と速度で共和国側を一掃したのである。

まあ、反政府側に対して迎撃に上がってきた機体と言えば、I-15やI-16、I-153といったそんなに強力な武装を持っていない機体であり、特に穴だらけになっても墜落した機体は少なかったという。更に、Bf109が本気を出して一撃離脱戦法を実施したため共和国側の航空戦力はすり減らされていった。こうして、地上での支援により共和国側はどんどん戦意を落としていき反政府側は勝利を収めたのである。


◆第二次世界大戦
そして、第二次世界大戦を迎えたのである。

当初よりポーランド軍を駆逐するために電撃戦の一環として投入された。主な任務は地上軍を支援することである。その身軽な機体であることを利用して敵の迎撃をしのいだり相手の陣地を爆撃するのに用いられた。まあ相手がそんな高性能な機体を持っていなかったのが不幸中の幸いでしたけどね。

その後、返す刀でフランスにも勝利し、いよいよ1940年にイギリスへと照準を合わせたのである。これを「バトル・オブ・ブリテン」と呼ぶ。


#center(){&bold(){しかし、ここでHe111は双発機ゆえの限界を露呈する}}


敵地を叩くHe111の爆弾の搭載量は最大でも2.5t。これはドイツ本土への爆撃に使用される連合軍の[[B-17]]の3.6tや[[アヴロ ランカスター]]の6.4tよりも少ないのである。よって、敵陣を完全に叩くには複数の機体で何十回も攻撃を繰り返さなければならないのである。当然、出撃回数が増えれば機体の損失も搭乗員の疲弊も計り知れない。最大の売りである高速飛行も時期と共に大型化し重くなる爆弾によって殺された状態になった。一応、前述のFw200はこの地点でもあるにはあったが、バトル・オブ・ブリテンの地点でも生産数は50機に満たなかった。護衛するBf109にしても、燃料搭載量が少なく、引き返す分の燃料を考えれば護衛するための滞空時間が短くなる。護衛機なら[[Bf110]]双発爆撃機もあるじゃなかって?加速性能も旋回性もお察しな時点でどうしろと。

こうしてHe111は長距離飛行を何十回も続けねばならなくなったのだ。人に例えるなら、短距離走の選手が、長い距離でシャトルランをやらされるようなものである。

最初の内は、ドーバー海峡沿岸部の基地を叩くために用いられており、護衛に必要なBf109の航続距離も問題視されなかった。が、次第にイギリス軍も迎撃態勢を整えると損害が急増。さすがに後のワンショットライターほどではないが、防護銃座の死角を狙うスピットファイアによって次々と撃墜され火達磨に。特に、Bf109が離れた隙を突いてスピットファイアが乱闘するようになり、さすがのHe111も1~3機は撃墜できても多数機で迫るスピットファイアには対処のしようがなかったのだ。

そして、He111は遂に重大なことをやらかしたのである。ドイツ空軍による搭乗員のことを無視した連続した攻撃にイギリス空軍も引き始めていた頃、1機のHe111が航法ミスによりロンドン市内を誤爆してしまう。よってイギリス側は仕返しに爆撃隊を出動させ夜間にベルリンを空爆。突然首都を爆撃されたことにより戦争の指揮官である[[ヒトラー]]も空軍司令官であるゲーリングも顔面蒼白に。そして我に返るやいなやブチ切れたヒトラーの手で爆撃目標は敵の基地から市街地に切り替えられてしまった。

これによって連日のドイツ空軍によるフルボッコで麻痺していたイギリス空軍に回復の時間を与えてしまい、以後の戦局に重大な影を落とすようになった。

まあ、なぜここまでドイツ空軍が苦悩したかと言えば、勢いと和平の失敗でイギリスを叩きのめそうとしたヒトラーとドーバー海峡という幅の狭い海域に制空権を見いだそうとした上層部にあるんですけどね。


◆その後
イギリスを空爆した後、ドイツ軍はその兵力をソビエト連邦に向けた。これが独ソ戦の始まりである。開戦直後のソ連空軍は&bold(){練度も低ければ機体をカムフラージュしていない}というのが当たり前だったので好き放題に攻撃できた。よって、バトル・オブ・ブリテンのような損害は少なく済んだのである。42年のスターリングラード攻防戦では友軍への空中補給任務を行っている。が、ユンカースが開発したJu88が戦績を伸ばすようになり、He111は次第に夜間爆撃やミサイル母機、偵察や雷撃といった方向に使われるようになる。これは東部戦線も同じで1943年から任務を夜間爆撃に切り替えたという。

◆余談
対艦ミサイルを発射したり魚雷を投下したりする型など、主力機だけあって様々な派生型が存在するが、その中でMe321とよばれるグライダーを牽引するための「Z型」がある。&bold(){これは、2機の機体を中央主翼で横に繋ぎ合わせて5発のエンジンを装備する機体にしたというもの}。まあ言うまでもないが、その姿を遠くから見た連合軍のパイロットは、見たこともない機影だったこともあって恐怖のあまり逃げ回ったという。しかし、そのグライダーが動力を持った以後は引っ張る必要がなくなったため、地味な存在になってしまった。

まあ4発機で爆撃できなかったけどこの地点で面目は保たれたかな・・・・。

また、本機は一度Ju87に続いて、日本に輸出される可能性があった。ちょうど日本は支那事変を迎えており、重爆撃機として九三式を保有していたが、これは旧式化しており配備が遅れている九七式重爆までの埋め合わせとして、He111の購入をドイツに打信していたが、なんとドイツ軍側から購入を拒否されてしまった。結局この空白はイタリアのイ式重爆で賄われることになる。

He111の後継機はHe117であるが、こちらは稼働率が低くHe111が終戦まで使われ続けるようになった。その結果、本機は最高7,603機という生産量を記録している。

◆戦後
終戦後も海外でライセンス生産されたものが配備された。これがCASA 2.111と呼ばれる型式で、バトル・オブ・ブリテンを題材にした映画「空軍大戦略」にも出演している。今でもドイツ空軍の中枢であり、その中で本国が東西に分裂したり第三次大戦の危機があったりと波乱の人生を送ったが、今でも元気な彼らが国を守り続けている。まあJu88やJu390より機数は少ないでしょうけどね。


追記・修正は4発機にしてからお願いします。

#include(テンプレ2)
#right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,1)
}
#include(テンプレ3)

#openclose(show=▷ コメント欄){
#areaedit()

- なんかわかってるようでわかってない。He111が四発だったら電撃戦は成立してないぞ。当時のドイツに四発重爆は不要どころか有害なんだよ。  -- 名無しさん  (2015-03-07 18:58:37)
- 四発機なんてそれこそ持てる国じゃないと満足に扱えない。稼働率や生産性のハードルが高い  -- 名無しさん  (2015-03-07 21:04:35)
- 戦中日本は四発機を作ったが試作段階で終了。ドイツは確かにFw200を投入したが、生産数は200機程度、他の機体も大して造られず、ソ連も似たり寄ったり。米英、特に米は四発機を多数作ったが、これは技術と生産力が十分にあったから。四発重爆は他の戦闘機等を作りながら作れるだけの工業力が必要。だから日独は四発機は無理  -- 名無しさん  (2015-03-08 01:17:02)
- He111の4発機化をしなかったことを失策のように書いてるけど、4発機が欲しいならDo19の開発を続けるだけでよくね?その場合ポーランドとフランスがどうなるかは知らんけど  -- 名無しさん  (2016-04-07 23:52:49)
#comment
#areaedit(end)
}

復元してよろしいですか?