いっしん虎徹

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山本兼一の時代小説。
『別冊文藝春秋』上において2005年11月号~2006年11月号までの間に連載されていたのが初出。翌2007年4月に単行本として発売された。現在は2009年10月初版の文庫本が文春文庫から出版されている為、それが最も手を出しやすいであろう。


□概要
最上大業物にも名を列ねる稀代の刀鍛冶、長曽祢興里(後の虎徹)の刀工としての生涯を描いた傑作時代小説。
著者の山本兼一は、安土城の築城を任ぜられた宮大工と仲間たちによる落成までの困難とその克服を描いた「火天の城」や、信長のもと、南蛮由来の鉄砲の有用性にいち早く気付きその量産に心血を注いだ男の一生を描く「雷神の筒」等といった「技術者的視点から見た歴史」を題材とした作品を得意としており、本作にもそれらで培われた表現の技術が存分に活かされている。流石に一刀工である長曽祢興里を題材とした本作では、歴史的に大きな転換点に関わることは無いものの、その分「技術者としての生き方」を全面に押し出した小説として完成しており、前述した二つとは似ているようで違った魅力を持っていると言える。
特に、綿密な取材を元に描写された、たたら製鉄による大鍛治のシーンや、緊迫感溢れる作刀のシーンなどは、興里の心理的な描写も相まって下手なアクションシーン以上の迫力を持って進められている。

ただ、興里を主人公としており、そのライバルとして実在の刀鍛冶である越前康継が登場するが、物語が興里の視点で進むこともあって康継が徹底的にdisられている為、越前康継のファンは要注意。


【物語】
越前から重病の妻とともに江戸へと向かった鍛冶の秘めたる決意。それは、「己が作った兜を、一刀のもとに叩き切る刀を鍛える」という途方もないものだった。
後に彼の刀を、数多の大名、武士が競って所望したという伝説の刀鍛冶、長曽祢興里こと虎徹の、鉄と共に歩み、己の道を貫いた炎の生涯描く傑作長編。
〈文庫版、あらすじより〉


【登場人物】
○長曽祢興里(長曽祢虎徹)
本作の主人公。
言わずと知れた名匠であり、彼の鍛錬した刀は古今を問わず人気が高い。その分贋作も多く、刀剣業界においては未だ「虎徹を見れば偽物と思え」の訓示が存在する程。
そんな彼も本作では時に迷い、失敗を重ねる一鍛冶師に過ぎない。そんな一個の人間としての興里を描き出すのが本作の主筋である。

興里はもともと、越前に祖を持ち、鉄に携わることを生業としてきた長曽祢一族のひとりであり自身もまた鎧兜を打つ甲冑鍛冶として生計を立てていた。
甲冑鍛冶としての腕は高く藩内の品評においては第一等に選ばれた程であり、鍛冶場には弟子も多く在籍していた。そして妻との間に4人の子宝にも恵まれ、それを養えるだけの収入もあった。だがそんな生活も寛永の大飢饉を機に一変する。
徳川が天下を握って数十年。世も泰平に向かい、大きな戦も既に失せた世にあっては鎧兜の注文も少ない。それでも腕の良い甲冑鍛冶である興里は家族と弟子たちを食わせるだけの収入を得ていたが、そこにきて大飢饉である。困窮した[[武士]]たちも鎧兜に使う程の扶持の余裕もあるはずがなく、客足は途絶え、[[弟子]]は去り、満足に食えない子は次々と命を落としていった。
結局、夫婦二人のみが生き残ったものの、生き延びた妻のゆきもまた病で床に伏せがちになる。
最早、田舎の甲冑鍛冶では碌に食えず、ゆきの病が治る見込みも無いと悟った興里は、泰平の世に有りながら、武士の魂として地位を保つ刀を打つ為、江戸へ上がる事を決意する。

作中でも言われているが、鉄に対し真摯な男。その真摯さ故に人に認められ好かれる事も多いが、逆に人と衝突し嫌われる事もある。また、鉄に真摯であるが故にそれ以外のことに対しては視野が狭く、時には周りの人間に知らぬ間に無茶を強いる事も。
ただし、嫁に対しては鉄と同様に真摯であり、自らの行いが嫁に負担をかけていたと知った時には己の矜持を曲げて嫁に尽くしていた。

初期においてはとにかく我が強く、自らの腕に大きな自負を抱いた男として描かれる。そしてその自信から傲慢な態度を取る事も多い。無論、自信に見合うだけの腕は持っているのだが、それも甲冑鍛冶としての話。刀工としてはまだ駆け出しであり、その矜持が完膚なきまでに砕かれた際には目も当てられない程に荒れていた。でもいくら荒れていたにしても健気な嫁に対するあの仕打ちには思わず殺意が湧いた人もいるだろう。

そんな彼も多くの出会いや別れ、失敗と成功を経て、正に名刀の如く、折れず、曲がらず、粘りを持った芯の強い人間へと成長していく。そしてそんな、人間としての深みを持った彼が打った刀は遂に――。

○ゆき
興里の妻。
嫁入りして暫くは健康で、興里との間に4人もの子供を儲けたが、興里の鍛冶を長年に渡り手伝っていたことと飢饉による栄養不足が祟り[[労咳(肺結核)>結核]]と眼病にかかっており、現在は床に伏せる事も多い。今では治療法も確立しているが、当時労咳と言えば死病の類であった。

身体は弱いものの精神的には強く興里を精神的に支える事になるが、時にその強さから興里を優先し自身を顧みず無茶をすることも。良くも悪くも、夫を支える妻の鑑と言える女性。

興里の打った刀を見る事を楽しみとしているが、本人曰くこれは名刀を見たいのではなく興里の毎日のすがたを見たいらしい。いくら興里が嘘を言おうと「刀は嘘をつかない」らしいが、この辺は[[夫婦]]の妙が成せる技であろう。尚、この事に関するやり取りは作品の終盤あたりに存在するが、この時の彼女は悶えるほどかわいい。

#center(){
&color(pink){「ふふ」}
&color(pink){「教えて、あげません」}
}

本来鍛冶場は女人禁制。あるいは禁制では無いにしても立ち入りが厳しく制限されているが、彼女はある程度鍛冶にも通じている。上にも書いたように興里の鍛冶を長年に渡り手伝っていた事が原因であるが、これは興里が甲冑鍛冶であった頃、弟子が去り、子供も死に絶え、向槌を打つ相手が居なかった事に依る。いくら鍛冶師の腕がよかろうと、鍛冶は一人では出来ないのである。
その為、(興里が刀工となってから雇ったような)下手な新弟子よりも興里の鍛冶の呼吸を理解しており、時に不如意な身体を押してまで鍛冶場に立つ事も。最も、病状や興里の状況の変化もあり物語が進むに連れそんな無理を通す事も少なくなっていくが。
鍛冶場に立つ事がなくなってからも興里を陰に日向に支えており、彼女の言葉により作刀のヒントを得たりすることも少なくない。添い寝もしてくれる。正に理想の[[嫁]]であろう。

○正吉
越前福井の刀鍛冶貞国の息子。後に興里の弟子となる。
貞国は、興里が越前に居た時に鍛刀の仕事を見学させてもらっていた、云わば興里の最初の師とでも呼ぶべき人物であり、その息子である正吉と興里も面識を持っていた。が、興里が江戸へ向かうのと前後して貞国は何者かに殺害され、秘蔵していた行光の短刀が盗み出されてしまう。
本来人には見せない行光を貞国が興里には見せていた事を知っていた正吉は、(貞国が興里の江戸行きに前後して殺害された事もあり)興里が行光を奪って逃げたのだと思い興里を追う。
出雲で興里に追いついた正吉は、紆余曲折ありながらも興里の「鉄に対する真摯な姿勢」を目の当たりにし誤解を解く。以降は、弟子として興里を助けるようになるのであった。

刀工の息子だあって刀鍛冶に関する事は一通り修めており、後に二人の新弟子が入ってからも興里は正吉を重宝していた。
正吉もまた、興里の事を尊敬しており、将来的には家系の「貞国」を継ぐのではなく、興里の「興」の一字を貰い、「興正」として身を立てたいとまで言う程。&del(){その割には康継に騙され唆されてハンマーで興里を叩き殺しに来るが。}きっとそれだけ康継の口が上手かったのだろう。
因みに余談であるが、後に虎徹を継ぎ「二代虎徹」と呼ばれる事になる刀鍛冶は「長曽祢興正」という。こちらも最上大業物に選ばれる程の名工であった。

○長曽祢才市
興里の叔父で鍛冶師。江戸銀町で多くの弟子を抱えながら鍛冶屋を経営しており、お抱えではないものの御用鍛冶として幕府の用いる金物を主に打っている。
その才智故に才市の名をたまわった程の鍛冶師であり、長曽祢一家の中でも特に大成した人物。作中では[[日光東照宮>世界遺産(日本)]]の金具や、幕府の御金蔵の錠前を打ったとされている事からも、その才覚がうかがい知れるであろう(日光東照宮は[[家康>徳川家康(戦国武将)]]の霊廟、御金蔵は幕府所有の財宝を収める場所であり、双方共に重要度は非常に高い)。

江戸に上がった興里が最初に頼った人物であり、それ以降も刀工として身を立てようとする興里を幾度となく助ける。ゆきの主治医として腕の良い医者を選べたのも、後に興里の師となる刀工、和泉守兼重に弟子入りできたのも切っ掛けは才市の人脈があったが故と言える。

多くは語れないものの彼もまた鉄に生き、鍛冶師としての仕事に矜持を持つものである。鍛冶師の矜持に殉じたその壮絶な最期は興里の心に鍛冶師のなんたるかを示した。

○山野加右衛門
刀の切れ味を試す試刀家。[[こっちの項目>最上大業物]]に詳しいが、泰平に向かいつつあるこの時代においては刀の切れ味を試す機会もそうそう有るはずが無い。それでも切れ味が知りたい!という欲求から需要が増加したのが試刀家と呼ばれる職である。
試刀家は、屍体を用いてで切れ味を試す。その屍体には罪人の屍体が使われており、罪人の屍体を多く手に入れられる首切り役が副業として行っている事が多い。
加右衛門も例に違わず普段は小伝馬町の首切り役をしており、依頼があった際に試刀を行っている。
とはいえその実力は相当に信頼のおけるものであり、刀を売る際、加右衛門の銘が入った截断名(どれほどの切れ味があるかの証明。通常は「二つ胴裁断」「三つ胴落し」のように、一太刀で何人の屍体の胴が切れたかを記す)があれば値段が一気に跳ね上がるという。

興里と初めて会った際には興里渾身の一振を叩き斬り、鉄に対する自負を完膚無きまでにへし折った。その後、興里に何か光るものを感じたらしく、後に興里の強力な後ろ盾となる大僧都圭海を紹介する。

○圭海
寛永寺の大僧都(その寺で一番高い位のお坊さん)。加右衛門の紹介で興里と知り合い、興里の打った刀に可能性を感じ支援するようになる。

いろいろあって興里も恩義を感じており、尊敬もしている模様。作品中盤に興里は僧籍に入ることになるのだがその際、
#center(){
&color(skyblue){一心日躰居士 入道虎徹}
}
の法名を授けたのも彼。虎徹の名は興里自身とても気に入っており、「自らが本当に納得出来た刀が打てた場合のみ”虎徹”の銘を切る」という自分ルールも定めていた。

坊主ではあるがなかなかに腹黒……というよりは権力欲の強い人物で、現在の大僧都という地位に満足していない。
興里の刀に対しても、可能性を感じたのは事実であるが、それよりもむしろ興里の刀を足がかりにもっと高い地位へ上り詰めようという野心の方が強かった。そんな彼も興里の打つ刀が完成に近づくと共に徐々に考えを変化させて行き……。

恐らく作中、最も興里の影響を受けた人物。最終的には生粋の[[虎徹マニア>新選組]]へとジョブチェンジする。

○和泉守兼重
越前出身の刀鍛冶で神田紺屋町に鍛冶場を構えている。現在は藤堂家のお抱え鍛冶師であり、藤堂家から禄も貰っている。

興里が五年の間、鍛刀の技術を学ぶ事になる師匠。初登場の時点で齢五十になる壮齢の鍛冶師であるが体力気力共に充実し、新しい知識の吸収にも余念が無い。興里が金策の為に鎧兜を鍛造していた時には、作刀に役立てるためかしきりに質問しながら眺めていたという。

作刀の腕も然ることながら、人間的にも出来た人物。興里自身、作刀のみならず刀鍛冶としての心得も兼重から教わっていた。

○四郎右衛門康継
越前の刀鍛冶。本作における興里のライバル……の、ようなものだが技倆はかなり劣る。

康継は茎に三葉葵を切ることを許された幕府お抱えの御番鍛冶であり、これは言ってしまえば幕府が公認の名鍛冶であることを示している。実際、康継は名工と呼んで良い程の鍛冶師であり、三葉葵の紋に相応しい程の刀を打つことの出来る技倆を持っていた。&color(red){初代は}。

四郎右衛門康継は初代康嗣の三男、即ち三葉葵を許された鍛冶師の息子である。三葉葵は康継銘に対し許されたものであるため四郎右衛門も切ることは出来るものの、その技倆は興里に言わせれば「初代は兎も角二代目以降は駄作(意訳)」との事。実際、現在の地位も刀の出来というよりはも政治的な駆け引きにより保っている側面が強い。
だが、四郎右衛門は三葉葵を己の打った刀の全てに切っている、初代康継ですら自作の中でも本当に限られた物にしか切らなかったのに対し、である。その傲慢もまた、興里が康継を嫌う一因となっている。

初代の息子で四郎右衛門の兄に当たる二代目康継が没し、現在は二代目の嫡子との間で三代目の相続争いをしている真っ最中。これに関しても色々と根回しの最中なのが本編の描写から見て取れる。気の早い事に四郎右衛門は既に自身の打った刀に「三代康嗣」の銘を切っているらしい。&del(){史実を見れば四郎右衛門は相続争いに敗れる訳だが。}

興里と四郎右衛門は、興里が甲冑鍛冶だった頃からの因縁がある。
その当時越前福井藩では、藩主の令により刀と甲冑の藩内第一等を決める品評会が行われていた。その品評会では、刀の第一等として四郎右衛門の作、甲冑の第一等として興里の作が選ばれたのである。
そこで終わっていれば良かったのだが、福井藩主は「四郎右衛門の刀で興里の甲冑を斬ろうとしたらどうなるのか」と疑問を覚え、実際に競わせてみた。だがその結果は興里達には知らせらされず、どうなったか不明のままにされたのだ。
その為今でも「どちらが勝利したのか」という事で興里と四郎右衛門は互いに因縁を持っているのである。

○桜井直重
出雲の鉄師、可部屋の三代目当主。
鉄師とは砂鉄から鉄を作り出す鍛冶師の事。刀鍛冶や甲冑鍛冶のような鉄を加工して作品を生み出す鍛冶師を「小鍛冶」と呼ぶのに対し「大鍛治」と呼ばれる事も。
無論製鉄には多くの人力が必要であるため、直重はそれら「可部屋の製鉄に携わる者達」のまとめ役である。因みに桜井家と言えば、この時代の日本において大部屋の御三家の一つに数えられる程有名な鉄師。当時の和鉄はほぼ全てがこの御三家の内から生み出されていたといっても過言ではない。

刀を打つ前に鉄について知りたいと考えた興里が江戸に上がる前に出雲を訪れ、そこで直重出会う事となる。たたら製鉄と呼ばれる製法により巨大な炉の中で鉄が生み出される様は、興里に八岐大蛇を幻視させた。
ここで教わった製鉄についての知識が興里の火床(刀に火を入れる炉の様なもの)にも活かされており、この経験なくして名刀たる”虎徹”は生まれ得なかっただろう。

鉄師だけあって鉄にはうるさいが、刀を見る目はあまりよくない模様。
とはいえ自らの炉から生み出される鉄に関しては利点も欠点も知り尽くしており、良い鉄師だと言える。彼もまたエキスパートなのである。

中盤以降は物語が江戸に移るため出番がさっぱり無くなるが、終盤になって意外な形で再登場する。なお、その時の興里に対する言動は紛うことな気[[ツンデレ]]である。いやマジで。


【興里の打った刀】&color(red){ネタバレ注意}
虎徹は、贋作が多いことで有名な刀であるが、銘の変遷が激しいことでも有名な刀である。
本作においてはこの銘の変遷が興里の心情や状況を反映しており、銘の変化が興里の環境や心境変化とマッチしているため、その辺も読みどころの一つと言える。

本項では、興里が実際に打った刀の内、銘の入ったものを登場順に紹介していきたい。なお、銘を切られていないものは興里的に言えば駄作になるためここでは割愛する。

○長曽祢興里入道/三寸(約九センチ)/小刀
興里が初めて銘を切った刀。古鉄を卸して(卸し鉄と呼ばれる)精製された鋼で打たれた。
よい古鉄で、尚且つ同じ種類の古鉄を使う事に拘った結果、少量の鋼しか精製出来ず、わずか三寸あまりも小刀となった。

刀身に明王の彫り物、柄に「思無邪(思いに邪な事無し)」の文字を刻んである。

自慢の一刀を加右衛門に叩き折られた興里が、これに失敗したら刀鍛冶を諦めるという思いを込めて打たれた刀であり、この成功によって刀を打ち続ける事を決意する。
本作自体は、ゆきに守り刀としてプレゼントされた模様。

○長曽祢興里古鉄入道/一尺六寸二分(約四九センチ)/脇差
明暦二年に打たれた脇差。上のものと同様に卸し鉄を用いて打たれている。

ようやく納得の行く刀が打てたものの、それは興里自身の力ではなく古鉄が良かったからだ、という思いから「虎徹」ではなく「古鉄」と切られている。
大僧都圭海に納められた。

○長曽祢興里/一尺六寸二分(約四九センチ)/脇差
明暦の大火のすぐ後に打たれた脇差。大火により焼けた大量の古鉄を古鉄屋から買い取り、それを用いて打たれた。

古鉄の力に頼りきっていた前作とは違い、(古鉄の力もあるが)自らの実力もあって打てた刀であるため「古鉄」銘は外されている。
然し、未だ地肌(波紋等の日本刀の芸術的部分)に師匠である兼重の影響が抜けていないため「虎徹」としては不足としてこのように銘を切られた。
町奴の幡随院長兵衛に渡される筈だったが、長兵衛が謀殺されたため結局生きている間に渡せず、供養として供えられた。

○長曽祢興里虎徹入道/一尺五寸八分(約四八センチ)/脇差
初めて虎徹銘の刻まれた脇差。明暦の大火により得た古鉄が用いられている。

虎徹ファンには馴染み深いであろう。倶利伽羅像と梵字の彫られたアレである。本作においてこの装飾は「大火で得られた古釘から打たれているため、大火で亡くなった人々への供養」として彫られたとされている。傲慢な態度の多かった初期の興里からの成長が垣間見える。
大僧都圭海に納められた。

○以南蛮鉄長曽祢興里入道/五寸以下(詳しくは不明)/小刀
南蛮鉄を用いて打たれた小刀。大僧都圭海の伝手で手に入れた南蛮鉄であったが、不純物が多く、折り返し鍛錬をする内に小刀程の鉄しか残らなかったため小刀として仕上げられる。南蛮鉄は日本刀には向かないということを証明した一作。

龍虎梅林(猛々しいだけじゃダメよ。やわらいだ情緒も理解しなきゃ人間とは言えない)と彫られている。
大僧都圭海に納められた。

○長曽祢興里入道虎徹/二尺三寸五分(約七一センチ)/打刀
初めて「虎徹」銘を切ってから二年。安定して「良い刀」を打てるようになった興里の、その中でも特に良い刀。最早天下の名刀に名を連ねても不思議ではない程の出来となっている。

本項目では統一してあるが、「興」の字が略字体から普通の字体に変化している。これは画数が多くなる分、形を取るのが難しく、興里としてはこれを以て腕が上がったとの自負を込めたつもりであった。
大僧都圭海に納められた。

大僧都に三百量の値を吹っかけた(ゆきの薬代のため。南蛮由来のもので金が相当にかかる)ら切れられ、ブチ切れた興里がなんとこの刀で&color(red){灯篭を斬った}。
地味に作中、初めて虎徹の銘が刻まれた太刀である。

○銘不明/一尺五寸八分(四八センチ)/脇差
額田藩主、松平頼元の依頼で打たれた脇差。据え物斬りを意識した造りになっており、本人曰く「これであれば三つ胴や四つ胴も切れる」との事。
松平頼元に納められた。

○銘不明/一尺八寸(五四センチ)/脇差
無実の罪で捕らえられた才市の生き胴試し(生きた人間を使った試刀。斬首より罪の重い罪人に用いられる処刑法)に依る処刑の為に用意された脇差。無実の罪といえど、最早才市の裁決は覆しようがなかったため、興里の刀による処刑は最後の慈悲と言える。

刀身に不動明王の梵字と、蓮台が彫られている。
才市の処刑に使われたが、以後の消息は不明。

○銘不明/三尺二寸(九七センチ)/大太刀
本作における、興里が打った最後の刀。桜井直重の手で運ばれてきた可部屋の銑(たたら製鉄により生み出された鋼の屑)を卸して精製された鋼を用いて打たれた。

当代一流の刀工の作を集めて行われる品評会に出す為に打たれた。因みに品評の方法は兜割りで、どれだけ兜に切り込めたかを競う。兜が切れること前提ってやっぱりこの時代の刀鍛冶ってちょっと頭おかし(ry

遠心力を用い切断力を上げるため、長尺の太刀となっているが、他に装飾等は施されておらず、最後を飾るに相応しいシンプルながら美しい太刀となっている。

兜割りに使われて以降の消息は不明。



追記修正よろしくお願いします。

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