Ⅲ号戦車

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Ⅲ号戦車」を以下のとおり復元します。
&font(#6495ED){登録日}: 2011/09/06(火) 13:13:38
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
&font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます

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III号戦車とは、ナチスドイツ軍で使用された[[戦車>戦車(近代兵器)]]である。

正式名称はPanzerkampfwagen III。
正式番号はSd Kfz 141(A型~J型前期型)、Sd Kfz 141/1(J型後期型~M型)、Sd Kfz 141/2(N型)、Sd Kfz 141/3(火炎放射仕様)。
秘匿名称はZW(Zugführerwagen=小隊長車)。
質も量も常に満足の行く水準に到達できなかったが、第二次世界大戦の初期から中期まで活躍した。
ドイツ軍の代名詞とも言える「電撃戦」の立役者である。

#contents

*開発経緯
ドイツ陸軍はナチスが政権を取る前から新型戦車の開発を進めていた。
1934年1月に、ハインツ・グデーリアン大佐(最終階級は上級大将)から「電撃戦」の為の二種類の戦車開発が要請された。

&font(#ff0000){III号戦車}と[[IV号戦車>Ⅳ号戦車]]である。
IV号戦車は項目を見てもらうとして、III号戦車に求められたのは

&font(#ff0000){グデーリアン}「電撃戦は機動力が大事なんだよ。オゥ(戦車の足)速くしろよ。」

要求された速度は40km/hと、当時としては高速であった。
これ以外にも様々な要望があり、開発担当のダイムラー・ベンツ社(&font(#008cff){DB}社)は相当苦労をすることになる。
 
*開戦に向けて
・A型
ほぼ試作型と言うに等しい型。生産数も1937年の10両だけ。

要求された
・&font(#ff0000){5人乗りで砲塔に3人入れる。}
・&font(#ff0000){15トンを超えないこと(※当初軽戦車として構想されたためで、後に撤回された)。}
・&font(#ff0000){3.7cm砲を装備し、将来的に5cm砲も搭載できる設計にする。}
以上の事項を概ね達成する(※全備重量が0.4トン超過)。
しかし、
・&font(#0000ff){重量制限で装甲が14.5mmと貧弱(※対戦車ライフルに撃ち抜かれる危険性がある)。}
・&font(#0000ff){にも関わらず最高速度が32km/hで要求速度に達しない。}
とまだまだ問題も多かった。

ちなみに三番目の要求事項は、将来への脅威に備えて5cm砲を検討したところ、兵器本部長と砲兵監に3.7cm砲で充分だと異を唱えられたり、&br()牽引式対戦車砲(後にドアノッカーと晒された3.7cm PaK 36の事)と弾薬を統一したいという意向から採用を断念する代わりに、&br()ターレットリング径に余裕を持たせて後日載せられるようにしたためである。[[極東の某国でも似たような事が行われてる>97式中戦車]]。

・B型 & C型 & D型
兎に角、最高速度を上げる為に足まわりを改良し、改良し、改良したタイプ。
コイルスプリングからリーフスプリングに変更したわけだが、3km/h増の35km/hに留まり解決せず。
15両(1937年)、15両(1937年~1938年1月)、30両(1938年1月~同年6月)と作られた。
D型が出来たのが1938年の初め。第二次世界大戦が起きたのが1939年。遅い!

&font(#ff0000){総統閣下}「おっせぇ開発だなぁ、早くしろよ」

&font(#ff0000){グデ}「オゥ早くしろよ」

&font(#ff0000){兵器局}「ハヤクシロ!!」

&font(#008cff){DB}「軍部はせっかち」
 
・E型 & F型
そんな感じで難航していた&font(#008cff){DB}であったが、ここで&font(#ff0000){一 転 攻 勢}に出る。
サスペンションに「トーションバー方式」を採用したのだ。
これは比較的最近まで戦車に使われていたり、現在も重量のある車両の主流でもある方式で、当時はまさに「革新的」だった。

このサスペンションとエンジン変更(マイバッハ HL108TR 250馬力→マイバッハ HL120TR 300馬力)のおかげで機動力が上がり、&br()更に重量にまで余裕が出来たので装甲を今までの14.5mmから30mmに強化し、これが正式に生産型として採用された。

E型が96両(1938年12月~1939年10月)、それを微調整したF型(1939年9月~1940年7月)が435両生産された。
ただ、E型が出来たのが1938年末。1939年9月の開戦に数が揃わないのは当たり前である。具体的には96両くらい。

その後も数が足りず、1940年の西部戦線に参加したドイツ戦車2,128両のうち339両がIII号戦車だった
(詳細な内訳はI号×554、II号×955、III号×339、IV号×280で、チェコのメーカー製である35(t)と38(t)はカウント外)。
これまでの戦闘でIII号戦車は二つの教訓を得る。

・砲がやっぱり貧弱だった(ポーランド戦で42口径5cm砲、対仏戦で60口径5cm砲が制式化される契機となる)。
・装甲もやっぱり貧弱だった(ポーランド戦で足回りにも問題があるA型~D型がリストラ、対仏戦でE型以降の装甲強化が決定)。

華麗な電撃戦の印象のあるフランス戦だが、投入されたIII号戦車の40%が破壊されていた。

だがしかし!前述したようにIII号戦車は5cm砲を搭載することができる!
じゃあ次は5cm砲を乗っけよう、という話になったのだ。
 
・G型
&font(#0000ff){戦車兵}「5cm砲ください!オナシャス!」

&font(#b8d200){工場}「あ、待ってくださいよ~。数が揃ってないんすよ~。」

仕方ないね。
と言うわけでG型は後ろの装甲を強化しただけで、従来の3.7cm砲を装備したまま量産された…
北アフリカ戦線用の熱帯仕様(Tp型)は、機関系の防塵機能及び冷却能力を高める改修も施されている。
1940年4月~1941年2月にかけて600両が生産された。

・E型後期 & F型後期 & G型後期
&font(#0000ff){戦車兵}「すいませぇ~ん、前線ですけどぉ~5cm砲はまだ時間掛かりそうっすかねぇ~」

&font(#b8d200){工場}「お待たせ!E型F型G型関係無く載せるけど、良いかな?」

&font(#0000ff){戦車兵}「あぁ~いいっすね~」

1940年7月頃になると、42口径5cm砲も数が揃ったので、現在あるIII号戦車に順次搭載された。
&font(#808080){区別が付きづらく我々にとっては紛らわしいのだが。}
 
・H型
最初から42口径5cm砲を装備した型。
車体を抜本的に見直し、III号戦車の新基準を作る…筈だったが結局砲塔が新しくなり、30mmの増加装甲を付ける程度に留まった型。
とはいえ、砲塔内部の容積拡張と砲塔バスケットの追加は戦闘効率の改善に寄与した。
1940年10月~1941年4月にかけて308両が生産された。

・潜水戦車型
1940年秋に予定されたゼーレーヴェ作戦(英本土上陸作戦)用として開発された特殊任務車両。
F型~H型の内168両を水密構造に変更してダクトパイプを追加した事で、水深15mの海底を5km/hで航行可能だった。
戦車揚陸艦艇を持たなかった故の苦肉の策で、上陸地点の沖合で輸送用の徴用船舶から発進させる予定だったという。
後に渡河作戦用として改造され、ダクトパイプからシュノーケルに交換された。

・J型
リベンジH型。今度こそ車体を改良し、E、F型から続くベースを更新した。
装甲を50mm一枚板に変更したが、これは30mm+30mmの二枚板(60mm)のH型より優れている。
1941年3月~1942年7月にかけて1,549両が生産された。

ここで改良は一段落を終え、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空戦)の敗北で1940年秋発動予定のゼーレーヴェ作戦が凍結された事もあり、&br()[[豆戦車>豆タンク]]や軽戦車が大部を占めていた装甲師団は1941年の戦闘に備えて、本来の主力であるIII号戦車とIV号戦車に陣容を改める同時に、&br()鹵獲器材の活用と戦車定数の更なる削減を以って大拡充された(戦車を有する装甲大隊を35個から55個へ、装甲師団を10個から20個へ増設)。

ところが、番狂わせの事態が生じる。
北アフリカ戦線におけるイタリア第10軍の大敗北とユーゴスラヴィア王国の反枢軸クーデター及びイギリス軍のギリシア派遣である。
前者は[[ロンメル>エルヴィン・ロンメル]]が率いるDAKの派遣、後者は電撃戦と空挺作戦(増援として山岳猟兵の空輸も行われた)で打開を図ったが、&br()これらは1941年春に発動されるはずだったバルバロッサ作戦とその後の東部戦線に深刻な悪影響を及ぼした。
貴重な装甲兵力の一部と兵站の維持に不可欠な大量の支援車両を新たな戦線に割けなくてはいけなくなり、&br()バルカン半島の作戦行動に参加した装甲部隊は疲弊して対ソ作戦の発動が一ヶ月以上延期される羽目となったのだ。
III号戦車は北アフリカでは対戦車砲との連携もあり活躍できたが、バルカン半島ではある戦車中隊が誤った指揮により壊滅的な被害を負っている。

そして1941年の初夏、また新しい敵と対峙していた…

&font(#ff0000){ヨシフおじさんと愉快な赤軍}、そして[[T-34>T-34(戦車)]]とKV-1である。
特にKV-1はIII号戦車では全く歯が立たず、貴重なタングステン弾芯の高速徹甲弾でさえ有効弾にならない事が多かった。

・J型後期 & L型前期
J型には
・H型以前の42口径5cm砲
・新型の60口径、つまり5cm長砲身砲
のどちらかを装備した二種類がある。

何故そうなったかと言うと42口径5cm砲の火力が、かつて威力不足と評された試作対戦車砲(5cm PaK 37)と似通っていたためである。
対仏戦の戦訓から求められていたのは5cm PaK 38(1940年に部隊配備が開始された対戦車砲)と同じ性能の60口径砲だった。

&font(#ff0000){総統閣下}「III号に長砲身砲を載せて差し上げろ(名言)」

&font(#ff0000){兵器局}「おう、考えてやるよ(やるとは言ってない)」

製造上の都合もあり42口径5cm砲の生産を継続していたのだが、1941年4月18日の供覧でバレてしまい……

&font(#ff0000){総統閣下}「あのさぁ……言わな、載せなかった?長砲身砲ォ!あのIII号んとこ!」

&font(#ff0000){兵器局}「しーましェーン!!」

こうして総統閣下の怒りを買った結果、ようやくにして60口径5cm砲が導入される事となった。

と長らく解説されてきたのだが、1941年12月~1942年7月にかけて1,067両が生産されたJ型の後期仕様は、&br()研究が進んだ現在では後日L型に編入されていた事実が判明している。
よっても最も多く量産されたサブタイプはJ型ではなく、L型という事になる。&font(#808080){まあマニア以外にはどうでもいい事だが。}
[[ガールズ&パンツァー]]では黒森峰女学園の所属車両で、大洗女子学園との決勝戦では偵察用兼囮役として登場した。
 
・L型 & M型
T-34との戦いで
&font(#ff0000){総統閣下}「東方作戦実施から一年過ぎたけど、T-34相手分が悪いって言われてるぞ。
&font(white){_____}とりあえず攻防走全ての点で負けてるんだよね、それ一番言われているから」
と気付いた。

1941年12月に量産車が登場した60口径5cm砲搭載のIII号戦車でさえ、射距離500m以内ではないと正面装甲を貫通できなかったのである。
そこで43口径7.5cm砲への換装も試みられたが、ターレットリング径とトップヘビーの問題により失敗に終わってしまう。
それでも何とか戦おうと、砲塔前面を57mm厚にして防楯と車体前面に20mm装甲板を中空式に貼ったL型(1942年6月~同年12月)1,700両や&br()&font(#ff0000){何故か}川を渡る能力を向上したM型(1942年10月~1943年2月)250両が生産された。
なおネタにされているM型については、渡河作戦に転用された前述の潜水戦車型の後継ではないかとする見方もある。
 
しかし、1942年の末には、軍部の意見はほぼ一致していた。 
時代遅れ、と。
 
*その後
1943年8月。III号戦車の生産中止命令が下された。事実、III号戦車の改良は限界点まで達していた。
新しい期待の星[[パンター>パンター(戦車)]]が後継となり、女房役だったIV号戦車は立派な一物を従えて立ち向かう事になった。


しかし前線で残った戦車は、劣勢になっていく戦場で戦い続けたのである…

・N型
亜種とでも言うべき型。
IV号戦車と[[III号突撃砲>突撃砲]]が43口径ないし48口径7.5cm砲を採用し、従来の24口径7.5cm砲が余っていた頃、&br()どこぞの頭の良い奴が「頑張ればIII号に載せれるんじゃね?」と言うことで作った。
1942年6月~同年8月にかけてまず450両、更に1943年8月までに213両が生産され、1944年には後送された旧型37両がN型に改装された。
その口径の大きさにより榴弾威力が高く、歩兵散らしとして活躍。
更に丁度配備され始めた&font(#ff0000){成形炸薬弾}(略称HEAT、メタルジェットで装甲板に穿孔を穿つ化学エネルギー弾)を使用することにより、&br()従来搭載していた5cm砲の徹甲榴弾よりも高い対戦車戦闘能力を発揮できた。
成形炸薬弾は当時の技術だと砲口直径の等倍から1.25倍が貫徹力になるので、弾速の遅い短砲身砲でも威力は変わらないのである。
ちょっとしたリサイクル精神から生まれたのだが、兵士からの評判は良かったとか。敵側の英国軍公式戦史でも言及されてる程である。

・K型
部隊統制用に無線機やアンテナを増設した指揮戦車の特別仕様。
5cm PaK 38用の弾薬も扱えるように改修した60口径5cm砲をIV号戦車用の砲塔に収めて、III号戦車の車台へ搭載している。
1942年12月から1943年2月にかけて50両が生産された。本来は200両の整備が予定されていたが、旧型からの簡易流用改造で賄った。


他に亜種としては、[[汚物は消毒]]火炎放射仕様(Fl)とか、牽引車や観測車など雑用係的な物が存在する。
III号戦車が第一線で通用しなくなったためで、少なくない車両が他用途の車両へ改造されている。


 
III号戦車は実戦ではなかなか苦戦することも多く、改良しても改良しても新たな敵に劣勢を強いられた。
しかし、その技術はけして無駄ではなく、革新的で優秀なものであったことに違いはない。

ポーランドの騎兵隊を駆逐し、英仏の連合軍を大陸から追い出し、モスクワの一歩手前まで攻め込んだのは、&br()紛れもなく彼女の功績なのだから。


追記・修正は限界点までお願いします。

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- 帝国軍はホモ  -- 名無しさん  (2013-07-25 01:28:30)
- フランス戦では数が全然揃ってない→揃ってきたソ連戦だとT34出てきて陳腐化というクッソ哀れな主力戦車  -- 名無しさん  (2014-03-26 10:27:38)
- なおアフリカ戦線では英戦車相手に十分無双できた  -- 名無しさん  (2014-12-20 18:52:21)
- 北アフリカでもマチルダ2には手を焼いたはずだが。だからこそ88の武勇伝が生まれたわけだし  -- 名無しさん  (2014-12-20 19:53:27)
- とろいので正面戦闘を避けて横から殺れた 特に5cm60口径はマーク3スペシャルとして恐れられた  -- 名無しさん  (2014-12-20 21:05:05)
- 初期型はチハたん以下の性能だったんだね…  -- 名無しさん  (2014-12-20 21:10:33)
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