97式中戦車

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97式中戦車 - (2017/09/26 (火) 16:15:01) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2009/06/25(木) 02:42:09
更新日:2024/03/22 Fri 19:39:03
所要時間:約 11 分で読めます




読み:キュウシチシキチュウセンシャ


日本帝国陸軍が誇る偉大なやわらか戦車である。

リベット止めされた車体と短い57ミリ砲、はちまき状の無線アンテナが特徴。

チハたん可愛いよチハたん。

チハタンばんじゃーい
   ___
   丶=☆=/
  n( ・ω・)n
  ヽエニエ/ニア
  ||::|l「亠―o
__|⊥::⊥|L工 ̄
Lミ/_/__」ミ丘百(==¬
(◎~O~~O~◎)三)-)三)
ヽ◎◎◎◎ノ三ノ-ノ三ノ

これまでの89式中戦車に変わる歩兵支援戦車として、皇紀2597年(西暦1937年)に採用された。
だが、ドイツ軍が戦車戦を開拓したおかげで、本来の目的外の対戦車戦を強いられ、実質的に主力戦車となった。
日本軍としてもこれは予想外の出来事だった。
後に自走砲の車台としても重宝され、96式15糎榴弾砲や10年式12糎高角砲まで無理矢理載せてしまった。


軌跡


日米開戦前

初戦は皇紀2599年(西暦1939年)5月のノモンハン事件である。
戦車第3連隊が装備していた4両の97式中戦車の内、1両が45mm対戦車砲で撃破され、同連隊長の吉丸清武大佐が戦死した。
後日鹵獲砲で行われた射撃試験でも、砲塔前面の25mm装甲板が射距離1,500mで貫徹されており、やわらか戦車であることが露呈した。
とはいえ初速700m/sの37mm徹甲弾抗堪という要求性能は満たしていて、射距離150mで94式37粍砲に撃たれても凹痕が残る程度で済んだ。
もっとも支那事変(日中戦争)で押収した独製37mm対戦車砲に対しては、倍の射距離300mでも撃ち抜かれてしまったが……

日中戦争では無敵で、車両といったらI号戦車やCV33豆しかない国府軍相手に大活躍した。

太平洋戦争

太平洋戦争が始まると、さすがのチハたんでも無敵とはいえなくなった。
M3スチュアート軽戦車やM3リー/グランド中戦車が現れたためである。

彼らの前にはチハタンは『ジャップの戦車はブリキだぜ!HAHAHA!軽戦車よりLightだぜ!』なやわらか戦車でしかなかった。
当然ながらこの時になって急に日本戦車兵らから上層部へ文句が出まくり、
戦車否定・歩兵至上主義者で部内で有名であった時の総理大臣である東條英機を慌てさせた。

「総理!前線でチハタンが軽戦車にも勝てませんと報告が!」
「馬鹿なこというな!チハタンは無敵なのだぞ!現に支那戦線では無敵なのだぞ、チミィ」
「これを見てもまだそれいいます?」(M3軽戦車の写真見て)
「ガ━━(;゚Д゚)━━ン!!ヤンキーどもはこんな、こんな凄いのを軽戦車と言い張るというのか!?」

……だったらやる前に調べろよ。

因みに日本が開戦した時には東條英機を首魁とする日本陸軍主流派がアホのように信仰していたドイツも、
イワンおじさんの誇るT-34中戦車やKV-1/2重戦車に手を焼き、大慌てで対抗策を講じる事態となった。
アメリカの機甲戦力を自軍基準で考えていた東條は軽戦車にさえチハタンがフルボッコされている現実に顔面蒼白になり、
持論を捨てて戦車戦力の拡大を進めるが……日本の努力をよそにドイツと連合軍はどんどん戦車を恐竜的進化させ、
日本軍が血反吐を吐いて完成させた『四式中戦車』や繋ぎとして開発した『三式中戦車』も辛うじて対抗できたに過ぎなかった。

流石に『自軍の中戦車が軽戦車にフルボッコされる』事実に重い腰を上げた日本軍は、
ノモンハン事件時から開発されていた高初速の47ミリ砲を搭載した新砲塔チハたんを製造した。
これでM3軽戦車には何とか対抗できるようになったものの焼け石に水。
その頃にはアメリカ軍は更に強力なシャーマンを投入し、終戦の年にはあのティーガーIより優れたM26パーシングが現れていた。
後継戦車が生産されても、日本海軍の急激な衰退で輸送手段を失った日本は本土決戦に使うのを名目に本土で死蔵させたので、
チハタンは『現れないであろう後継』を待ち焦がれながら戦い続けた。だが、その絶望にもチハたんは諦めなかった。

グアム島のチハタン無双(1944年8月2日午後)

グアム北部で追撃戦を行っている米陸軍第307歩兵連隊が日本軍の待ち伏せしていると思われる地点を掃射したところ、
戦車第9連隊に所属していた1台のチハが飛び出してきた。
猛烈な弾幕で跨乗していた3人はすぐに倒されたが、チハは攻撃を跳ね返して疾走を始める。
機銃が据えられた教会に突っ込んだり、野戦病院や連隊本部が置かれた後方まで侵入、
チハの通った後はめちゃめちゃにされ、死傷者や破壊された物資が転がっていてわかったという。
あわててバズーカを呼んだりしたが間に合わず、チハを止められる者はいなかった。

更に隣の第3海兵師団の戦区に侵入したチハたんは第9海兵連隊の前線を食い破り、第3海兵連隊後方の飛行場地区にまで潜り込んだ。
第3海兵連隊の第1大隊本部付近を爆走していくのが目撃されている。
弾丸が尽きたのか、砲塔ハッチから乗り出した戦車兵がピストルを乱射していたという。

最後は湿地にはまり込んで動けなくなって、ようやく駆け付けたシャーマン戦車によって破壊された。

しかし残骸の中に日本兵の姿はなく、乗員は既に脱出してジャングルの中へと消えていたのであった。

占守島の戦い(1945年8月18日~21日)

また、終戦のどさくさ紛れに侵攻してきたソ連赤軍相手に士魂部隊のチハタンは大活躍し、
あのヨシフおじさんをして「8月19日はソビエト人民の悲しみの日である」と言わしめた。
ただし戦車第11連隊の損害も多く、九五式軽戦車を含む64両中21両を喪失し、同連隊長の池田末男大佐も戦死している。

ちなみに、ソ連赤軍にはノモンハン事件時のBT-5快速戦車より更に強力なT-34-85中戦車やIS-2重戦車などがあったが、
「満州の同志が言っていたが、ヤボンの戦車はゲルマンやパスタ野郎共のファシスト軍の戦車よりも圧倒的に弱いぞ」
「それじゃ可哀想だからうちらの戦車は置いていくか~」

彼らはチハタンが歩兵相手だと無敵であることを知らなかったようだ。

第二次世界大戦後

中国の八路軍(人民解放軍)に滷獲されたチハタンは戦後の国共内戦でも大活躍し、功臣号と名付けられた。

一方、日本国内に残ったチハタンは砲搭の代わりにドーザープレートを装着してブルドーザーに生まれ変わった。

生まれ変わったチハタンは戦争で荒れ果てた国土を直す復興作業に従事して消えていった。

中には港のクレーン車や、はたまた警察の装甲車になったチハタンもいて、終戦から20年後まで現役だった個体もいるそうな。

日本陸軍の内部事情

チハタンが登場から終戦までの10年近く頑張り続ける羽目になった要因は様々であった。
一つは日本軍の実質的な主力は国情の限界もあり、豆タンクと、九五式軽戦車である事。
つまりチハタンすらも機甲部隊にいないというのも、日本軍では当たり前だったのだ。
もう一つは、開戦前の陸軍主流派の首魁でもあった東條英機らが戦車を『金かかるんだよ( ゚Д゚)ヴォケ!!』として嫌い、
戦車整備を軽視していたという内情があり、これは巷にも有名。戦後日本で普及した思想である『陸軍悪玉論』の根拠の一つとして知られている。
だが、もう一つ当時の日本の切実な事情があったのは意外と知られていない。
当時の日本のモータリゼーションの遅れと、輸送船を含めた国内インフラが超絶的に貧弱なために、
『欧米列強と同等の戦車を作ったとしても、本土から戦線へ運べない!』という切実な問題が重くのしかかっており、
チハタンは登場当時の日本軍にとっては『高価で重く、性能が高い』戦車だったのだ。
しかも、戦車戦はそもそもドイツ軍が1939年の開戦以降に実証した分野であり、それを知った日本軍は教義を変更し、新型戦車には反映された。
なお、競作の『安くて軽いチニ』が採用されなかったのは日中戦争で予算が増えたからである。
しかし東條英機らの予想を覆す様相を呈した太平洋戦争でチハタンは『陸軍が弱い日本のシンボル』として連合軍に嘲笑されてしまい、
大戦での頼みの綱であるドイツ軍でさえ抗しきれずにパンターやティーガーIIなどの強力な戦車の開発に走った事を知った陸軍上層部は
「本土決戦にしか使えなくてもいいから強力な戦車作らないとあかん!!」と四式中戦車や五式中戦車を開発させるが、時すでに遅しであった。
チハ系そのものは三式中戦車にまで発展していたが、哀れにも機会を逸した。

戦後、チハタンを棺桶となるまで酷使させた陸軍はGHQの戦車との落差に愕然とし、国民から罵倒された。
内務官僚らなどは『歩兵突撃馬鹿のせいで戦車兵が無駄死にした』と侮蔑し、米軍も陸上自衛隊が陸軍の伝統を継ぐ事を認めなかった。
だが、彼ら日本軍の当事者からすれば、『だって戦前は軽戦車で十分だったし、まさか戦車がこんなに強く、大きく発達するとは思わなかったんだもんヽ(`Д´)ノウワァァァン!!』であった。実際、総理大臣となった後の東條は機甲行政を整え、優勢時には無敵を誇ったティーガーIの輸入を目論むなどの努力を払った。
陸軍自体も大戦末期にはシャーマン(75mm砲型)やT-34-76に比肩しうる四式中戦車を完成させてはいた(五式中戦車は量産断念)。
もっとも戦車砲の調達が間々ならず野砲転用の砲身を検討する始末で、実質的な主力は繋ぎとして開発したはずの三式中戦車だった。
だが、大戦前の判断ミスの代償は大きく、チハタンを引退させられる後継は戦線に現れずじまいだった。
戦後に『日本陸軍は戦車と機甲師団を軽視して滅亡した』と白眼視されるレッテルを貼られたのはこの戦車発達に関する判断ミスが大きい。
彼らは出来る範囲で努力を払ったのだが、『ヨーロッパを蹂躙したドイツ軍と同盟を結んでいたのに戦車の力を侮り、チハタンをいじめた』
という事実の前には、後世の人間には自己弁護にしか映らないだろう。

言っておくが、チハタンは登場当時の1937年当時の時点では間違いなく世界水準であった。
悲しむべくはチハタンの想定された戦場は投入時には無く、戦車同士の機動戦も生起するのが当たり前の時代になっていた事、
「兵器が登場後わずか数年後には『時代遅れ』」になったほどに技術が加速度的に進化する大戦の時勢に生まれ出た事自体だろう…。








「うるせぇ、追記・修正しねぇとチハタンぶつけんぞ!」

「やめて!!チハタン凹んじゃう!!」

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