ねぎを植えた人

「ねぎを植えた人」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

ねぎを植えた人 - (2023/12/20 (水) 08:52:48) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2011/05/11 Wed 00:01:46
更新日:2024/01/03 Wed 23:35:24
所要時間:約 6 分で読めます




ねぎを植えた人」は、朝鮮半島に伝わる民話である。








~ねぎを植えた人~

これはまだ、人々がねぎを食べていなかった頃のお話。



昔々、人々はねぎを食べていませんでした。そもそも、ねぎというものを知らない人も多かったのです。

その頃の人々は、よく人間を食べていました。
というのは、例え家族や友人といった親しい人であっても、人々は人間がとても美味しそうな牛に見えていたからです。

そんな人々がまだねぎを食べていなかったある日。

牛と間違え、兄弟を食べてしまった若い男が呟きました。












「人がいねェ! 人見えねェ!
どいつも牛にしか見えねェ!


俺らこんな村いやだぁ
俺らこんな村いやだぁ


俺ら旅さ出るだぁ
俺ら旅さ出るだぁ


人が人に見える所さ行くだぁ」











男は何処かに人が人に見える国があるはずだ、とそんな国を探して旅に出ました。

山を、谷を、長い長い道のりを越えるうち、季節が幾度も巡りました。若かった男も、いつの間にか髪に白髪が混じる歳になっていました。

そんなある日。
男は、遂に探し求めていた国を見つけ出したのでした。そこでは人々はちゃんと牛と人とを識別し、仲睦まじく暮らしておりました。

男はそこの長に尋ねます。












「なぜこの国では、人と牛とを識別できているのですか?」












「フェッフェッ、旅のお方や、それはねぎのお陰じゃよ」












「ねぎ……だと……?」












「どれ、畑に来てみなされ。ここにあるのがねぎですじゃ」

見ると、畑には今まで男が見たこともなかった植物がたくさん植えられています。


「これがねぎですか?」


「That's right.昔はワシらも人が牛に見えとったのじゃが、このねぎを食べてからというものちゃんと人が人に見えるようになってな。
 そうじゃ、旅のお方にもねぎの種を分けて差し上げよう」

ねぎの種を分けてもらった男は嬉しくてたまりません。
これで人が人を食べる事もなくなる! そう思うと帰りの足取りも軽く、男はあっという間に村へ帰り着きました。

村に戻った男は、早速畑にねぎの種を撒きました。

それを済ませると、せっかく久しぶりに村に戻ったのだからと友人の家を訪ねる事にしました。どうせなら、ついでにねぎの話も聞かせてあげようと思ったのです。


「お久ー」


「おぉ、












これはこれは、












美味しそうな牛じゃないか」











男は食べられてしまいました。

それからしばらく経った日の事です。村人は畑に、見慣れない植物がたくさん生えているのを見つけました。

試しに食べてみると、今まで食べた事のないような味と共に、目から涙が溢れてきました。

気が付くと、ねぎの刺激で出た涙で目が清められた人々は人を人として見る事ができるようになっていました。

それからというもの、人々は幸せに仲良く暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。




解釈

まるで意味がわからんぞ!と叫びたくなるが、まじめな解釈を試みてみよう。
この民謡の解釈のためには「ネギをうえた人 朝鮮民話選」の編纂者、金素雲(キム・ソウン)について知ることが必要となる。

金素雲は1908年韓国釜山生まれの詩人・エッセイスト。併合された朝鮮の文化を日本で知らしめるため文壇で活躍した人である。
……と書くとあっけないのだが、彼には日韓両国に対する相当アンビバレントな感情があったようである。
1909年(日韓併合の前年)、大韓帝国の財務省に務めていた金の父は職務の都合上日本との関わりがあったために親日派と見なされ同胞によって暗殺される。
大黒柱を失った一家は没落、養育を巡って母と祖父母が対立したため母はロシアへ去ってしまい、事実上の孤児になった金は1920年に叔母を頼って日本に渡る。
日本国内では朝鮮人であると言うだけで理不尽な扱いを受ける一方で、駅で絡んできたDQNから助けてくれた日本人の名刺を後生大事に持つなど
日本(人)に対する複雑な思いを持つようになる。日本人の朝鮮人に対する蔑視の原因は朝鮮文化に対する無知・無関心であると考えた彼は
文芸の道を歩むことになり、朝鮮民謡の収集・翻訳に携わるのであった。彼は日本でねぎの種をまいたのである。

日本において様々な本を出版する一方、1933年に帰国した金は子供向けの雑誌の発刊に取りかかる。
家では朝鮮語、学校では日本語を使う子供達の精神的潤滑油になるような雑誌となるよう祈願していたのだが、これが思わぬ問題を生む。
お上ににらまれないよう、情緒面の記事はハングル、科学記事は日本語と配慮したところ、
朝鮮の同胞から「総督府の御用雑誌」「同胞のためにと言いながら日本語で書くのかよ」などと心ない中傷を受けてしまう。
雑誌は赤字続きで、三度も名前を変えたあげく多大な借金を残して廃刊となった。
同胞のために種をまいたのに、その同胞が示したのは無理解だった。

終戦後、彼は日韓両国の和解を呼びかける運動へとコミットしていく。川端康成の紹介で雑誌に記載された文章が今も残っている。
「日本の<悪>を挙げよとなれば、私は韓国のいかなる志士、いかなる速成愛国者にも譲らぬつもりです。
同時に、日本の<善>を語るにも、敢えて人後に落ちようとは思いません。」と語る金は両民族が互いの<善>を認めあう事で和解しようと訴え、
自分の息子が死んだ際の電報が東京駅に誤配された際に、鉄道職員が弔意を添えて電文を取り次いでくれたエピソードを紹介している。

十年経ち、十五年経っても、私にはその日のその鉄道職員の声を忘れることができません。他人の不幸、
他人の悲しみを、そのまま自分のものとなすことのできる――その心情、その良識こそは、私が命にかけて、
わが郷土、わが祖国に移し植えたいと願うところのものです。そのゆえに敢えて私は、日本の<善>を識る
と自負するのです。

ところが両国は互いの<善>を語れない状況へと進んでいく。
1951年から始まった日韓会談では李承晩ライン、竹島を巡る問題、戦後補償、歴史認識、文化財返還、日本在留韓国人の資格問題など
今日でも炎上不可避な数多の問題が議論され日本国民の対韓感情は悪化の一途を辿っていた。
韓国は韓国で態度をこじらせていく。1952年、国際芸術家会議に韓国代表として出席するためにヴェニスへ行く最中、
経由地の東京で朝日新聞から最近の韓国事情についてインタビューを受けた金は貧富の拡大や賄賂の横行など朝鮮戦争による混乱の現実をありのまま語った。
しかしこれが「日本に韓国の恥部を晒した」として大韓民国国政広報処の逆鱗に触れ、帰路再び東京に降り立ったおりに駐日本韓国代表部によってパスポートを没収されてしまう。
帰国不可能になり日本で暮らすことになった金が、収録した34篇の民話を集めて出版したのが「ネギをうえた人」である。

大勢の人を幸せにするためにねぎを手に入れ、しかし救うべき同胞から食われた「ネギをうえた人」。
両民族に互いの<善>を見いだそうと説き、しかし双方から後ろ指を指され続けた、金素雲。
金素雲は「ネギをうえた人」に自分を重ね合わせていたのだ、と解釈してみたいのだが、どうだろうか?

不幸にして私は<楯の両面>を見る位置にいる。海一つ距てて相接するこの二つの民族の、憎悪と侮蔑の
シーソーゲームが終りを告げる日はついにないであろうか?私はそうは思わない。
お互いに相手を憎む気でいなから、その実、傷つき辱しめられるのは、おのれ自身であることにおたがい
が気づかずにいる。こんなバカな話はない。自分の祖国に対して私は機会あるごとに同じ念仏をくり返して
きた。日本に対しても、私のいいたい言葉は同じである。


追記・修正は、救いたかった人々から食われてしまった男へ思いを馳せながらお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/