Gladiateur(競走馬)

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Gladiateur(競走馬) - (2020/08/29 (土) 22:22:16) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2011/06/24(金) 22:43:19
更新日:2024/01/02 Tue 08:04:51
所要時間:約 8 分で読めます




1815年6月18日
フランスの皇帝、ナポレオン・ボナパルトは、ワーテルローの戦いをもって、イギリス率いる同盟軍に敗北した。

戦争に負けた影響は大きく、国力や文化的水準、競走馬の質までも、フランスはイギリスに大きく遅れをとることになる。


時は過ぎ……

1864年10月11日
一頭のフランスの競走馬が、イギリスの競馬場にてデビュー戦を迎えていた。

しかし、まだ誰も知らない。
この馬が、皇帝ナポレオンをも超える『伝説の英雄』への覇道を突き進んでいくことを……



フランス競馬史上最強
《剣闘士・グラディアトゥール》




世界で最も美しいと称される『ロンシャン競馬場』
『凱旋門賞』が開催されることからも有名だが、この競馬場の正門には本馬の銅像が鎮座している。


Gladiateur
グラディアトゥール

通算成績:19戦16勝

主な勝ち鞍(獲得順)
2000ギニー
ダービーステークス
パリ大賞典
セントレジャーステークス
ゴールドカップ
アンペルール大賞典


上記のレースはどれも、当時の英仏……つまりは世界を代表する最高級のレースばかりである。

特に、「2000ギニー」「ダービーステークス」「セントレジャーステークス」を合わせた3レースは、現代まで累々と続く伝統ある『イギリスクラシック三冠
「パリ大賞典」は、当時まだ凱旋門賞の無かったフランスにおいて、最高の権威と賞金を誇るレースである。



では、本馬の経歴を、ポイントを絞って語りたい。



☆生誕
1862年に生まれる。
場所はフランスのラグランジェ伯爵の牧場。
すぐさま、母親に右前脚を踏まれる。

☆敵地へ
右前脚を悪くしたが、それでも本馬は高い能力を持っていた。
イギリス遠征組に選ばれ、ドーバー海峡を越える。
イギリスにて、最悪の理解者、調教師のT・ジェニングスと出会った。

☆2歳
デビュー戦を優勝。
その後、10日も経たないうちに2戦するが、三着と着外に敗れる。
つーか、3レース目なんて、疲労のせいで完走すらギリギリ。
その後、3ヶ月寝込み、さらに3ヶ月休みをもらう。

☆一冠
休みから帰ってきたら、結構走れたので、三冠の初戦『2000ギニー』に出ることに。
これまでの実績は3戦1勝だったから大穴。
久しぶりのレースで終盤に息切れしたけど、見事に勝利!
このレース、ジェニングスは本馬に大金を賭けて大儲けしたという。
フランス国内では、歓喜の叫びをあげて国民中が大騒ぎ。

☆ワーテルローの復讐
ダービー前に、ちょっと力試し。
去年のオークス馬がいたけど楽々優勝。
周りの見る目が変わってきた。

そして、クラシックの第二冠、全てのダービーの祖、『ダービーステークス』が開催される。
未だ外国馬の勝利がない英国ダービー。
イギリスの人々は、グラディアトゥールを1番人気で迎え入れた。
不安と期待が交錯する中、最終コーナーを十番手で回ると、グラディアトゥールは末脚を爆発させた。
「他の馬が止まって見えた」と伝えられる追い込みで前方の馬を次々にかわしていくと、ゴールした頃には二着馬との間に二馬身半もの差が開いていた。

この素晴らしい勝ちぶりにはイギリス人も心打たれ、グラディアトゥールが敵国フランスの馬であることも忘れて、総立ちした観客が
その頃、フランスではお祭り騒ぎ。
戦争でイギリスに勝ったくらいに喜んでいた。
翌日の新聞紙の一面には
ワーテルローの復讐』と書かれていた。
たぶん、今なら国際問題。

時間が経って流石に頭が冷めたのか「フランスのダービー(ジョッケクルブ)に俺ら出れねーじゃん。不公平だろ」と、イギリス人がいちゃもんをつけてきた。

☆英雄の凱旋
「ワーテルローの復讐」から僅か11日後、フランスに凱旋したグラディアトゥールは、ロンシャン競馬場『パリ大賞典』に出場する。
フランス国民は『英雄』を一目見ようと競馬場に詰めかけた。
場内にはその数15万人。
入れなかった人も含めれば25万人はいたといわれ、国をあげての大騒ぎは、かのナポレオンの凱旋をも上回る規模となった。

……もう、日数に関してはツッコミしないことにする。
グラディアトゥールは二着馬に八馬身差をつけて圧勝したし、別にいいよね。

☆三冠馬
グラディアトゥールはイギリスへ戻り、ドローイングルームSというレースを40馬身差で勝利した。
……ん? 着順にツッコムつもりもありませんよ?
まぁ、今回はちゃんと、パリ大賞典から1ヶ月余りの期間があったし。
と、思ったら翌日、次のレースに出走。
それは流石に……と思ったら、みんな逃げ帰ってしまい一人で走ることに(単走)。
でも、やっぱり連日で走るのはツラいらしく、例の脚を痛める。
ジェニングス(糞)「じゃあ、次、そのままセントレジャー行くか」

三冠最終戦『セントレジャーステークス』、当日。
脚の具合は悪いままだった。
レースに使えば、二度と走れなくなるかもしれない、そんな中……ジェニングスの野郎、出走を決断しやがった。

さて、レースが始まった。
グラディアトゥールは……痛めている右前脚を庇いながら、なんと三本脚で必死に走っていた。
そして、そんな状態のまま3000mもある長距離を走り抜いてしまう。
結果、今年度のオークス馬(同年代の牝馬最強)レガリアに三馬身差をつけての優勝。

もう……なんなんだろうか?
「ガラスの脚」なんて言われているサラブレッドに、こんな芸当ができるとは思えないのだが……

まぁ、なんにせよ、グラディアトゥールはイギリス産馬以外での、史上初の『英国三冠馬』となった。

☆奇跡的な何か
これでようやく、この馬もゆっくりできる……かと思ったら、ここで出てくるジェニングス。
ジェ何とか「え? 明後日もレースあるよ」
この阿呆調教師、2日後のレースに出走登録していた。

ムリである。
無理をした上にムリである。
が、何故かグラディアトゥール自身がやる気を見せる。
ジェ何とかは馬の意思を尊重した(かどうかは判らない)。
結果、圧勝。
追加効果で、パンパンに膨れ上がっていた脚が治った。

たぶん、この馬は新手のUMAか何かなんだろう。

☆久々の敗北
その後、さらに2連勝。
現在、3歳になってから9連勝中。

……が、ここでまた馬鹿調教師。
何をとち狂ったのか、本馬をハンデキャップ競走に出走させた。

ハンデキャップ競走とは、馬に課す斤量(馬に乗せる重量)を調整することで、競走能力に差が出ないようにするレースである。
本馬は、他の馬よりも圧倒的に重い斤量を課された。
結果、着外。

☆3日に1勝
あの敗北の後、4月まで春休みをもらう。
その後、イギリスで2勝(対戦相手がまた逃げた)、フランスで長距離競走を2勝。
この間、4月4日〜4月15日。

☆-100→+40
また暫く時間をおいて、グラディアトゥールはアスコット競馬場の『ゴールドカップ』に出走した。

イギリス王室が主催する芝20ハロンのこの競走は、現在も世界最長のGTレースとして残っている。
ちなみに、天皇賞(春)のモデルでもある。

ジェ何とかは楽勝だと思い、騎手に「いつも通り一番後ろから」と伝える。
すると、いざレースが始まってみるとグラディアトゥール、なんと先頭集団から250m(約100馬身)も離れた距離を走っているではないか。
騒ぎ出す観客。
しかし、中盤に入って騎手が合図を出すと、グラディアトゥールは一気に加速し、その速度のままゴールまで突き抜けた。
最終的に、二着馬との間に40馬身もの差をつけて勝利してしまう。

今更だが、一応、言っておく。
これはフィクションではありません。

☆引退レース
金杯の獲得から4ヶ月と少し。
グラディアトゥールは引退レースを迎えた。
舞台となったのは、母国フランスの当時の古馬最強決定戦『アンペルール大賞典』。
レースは、6400mの超長距離をグラディアトゥールが駆け抜け、二着馬に三馬身差をつけて優勝する。
後にこの賞は『グラディアトゥール賞』と名を変え、3100mの競走として今も残っている。

☆余生
さて、引退レースも終え、フランスの英雄もようやく平穏な生活を送れ……なかった。

種牡馬として成績が残せず、グラディアトゥールは、あちこちへ転売される。

度重なる環境の変化、酷使した脚の限界。
心身ともにボロボロになったグラディアトゥールは、安楽死処分になった。

フランスのために闘い続けた英雄は、世間から遠く離れたところで消えたのだ。


☆英雄
故国フランスの栄誉と誇りを取り戻すために、その身を捧げたグラディアトゥール。
彼が今でも、フランスの英雄として、ロンシャン競馬場に飾られていることが、唯一の慰めか……


☆余談
グラディアトゥールの馬体は背が低く、ごつごつしていると決して見栄えのする物ではなく、
ジェなんとかがグラディアトゥールを見に来たフランスのファンに冗談で「これが私が競馬場に行く時に使う馬車馬です」と紹介した所、
そのファンが盛大に真に受けて「こんな太った無様な馬見せるぐらいなら早くフランスの英雄を見せてくれ」と返し、
ジェなんとかから「その無様な馬が英雄だよフランス人にこんな馬見る眼無いとは思わなかったわ(意訳」と冷笑される羽目になったそうな。


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