周公旦

登録日:2020/01/28 Tue 10:00:00
更新日:2023/01/23 Mon 01:21:37
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周公旦とは、周の開祖、文王第四子であり、殷を滅ぼした武王である。

姓は「姫」、名前は「旦」。「周公」は爵位である。
同時代の太公望が複数の呼び名を持つのに対し、彼は「周公」「周公旦」でおおむね通じる。



【生涯】

【前歴】

文王(姫昌)の第四子として生まれる。
ちなみに、のちに武王となる姫発は第二子(姫旦の次兄)であるが、姫発は姫昌が十五歳(数え)で生んだ子供とされる
現代で考えると姫昌は十二か十三歳あたりで種を仕込んだことになり、恐るべきショタ 驚くべき存在となるため、このあたりは多少とも後世の誇張があると思われる。

周公旦は殷朝打倒後の周朝を一手に担う大人物となるが、若いころの姿については記録がほとんどない
殷周易姓革命のころにも具体的な業績はなく、「武王を補佐していた」とあるのみ。
従って、実際には後方で補佐官だけをしていて、なんらの武功もなかったと思われる。
「封神演義」においても、周の文官として活躍するのは散宜生であり、周公旦は革命直後のワンシーンにしか登場しない。

殷周易姓革命の推移については太公望の項目を参照。


【周の封建】

天下を取った周は、さっそく諸侯の封建に乗り出した。
周公旦は、兄武王の補佐役として、この封建に参画したようである。

まず、功績第一の元帥太公望に、山東半島の「」を与えた。これは追放でもあるが、お互い不幸な殺し合いにならないための妙手でもある。

ついで、紂王の遺児で殷王家の血を引く武庚禄父*1を、殷の都に封じた。
敵の王子に国を与えると言うのは、表向きは殷の祭祀を継がせる意図とされたが、実際には殷の残党が依然として強く、彼らを平和的に抱き込むため、あえて「王子」を立てたのだろう。
もちろん、武庚が殷の残党に担ぎ上げられる危険性はある。

そこで武王らは、管叔鮮*2蔡叔度*3霍叔処*4の三人を、武庚の領地のすぐ近くに配置し、監視と牽制をさせた。
彼ら三兄弟は、殷の王家を監視する意味で「三監」と総称された。


ほかに、王族や活躍した武将も、それぞれ土地を貰い領主となった。南宮括散宜生と言った、封神演義でも著名なメンバーもいる。


周公旦召公奭も封建された。
周公旦は斉の西に位置する魯国を、召公奭は斉の北に位置する燕国を与えられる。
この配置は、斉の太公望が周に反旗を翻すことを警戒しての措置であった。もし太公望が西に進撃した場合、魯国が正面から食い止め、燕国が背後を突く配置である。「三監」とよく似た構図であった。

ただ、周公旦と召公奭は、現地には赴任しなかったようである。
周公旦は太子の伯禽を「魯侯」に任じて首都の曲阜に派遣する一方、自分は首都に残り、武王を補佐した。
実は発掘資料によると、彼は首都のほうで「周公」の爵位を拝命し、こちらは「魯侯」とは別に、次男の明保に跡を継がせたようだ。

江戸幕府で例えるなら、自分の藩は長男に治めさせる一方、自分自身は旗本になって江戸で働き、旗本としての家は次男に継がせる、という形をとったようだ。

召公奭も、王族ではないが周公旦と同様、自らは閣僚として都に残り旗本的な爵位ももらう一方、燕国は長男に託している。



とにかく、殷朝を打倒して周が王者となり、しかも封建も滞りなく済ませた。
これで易姓革命は終わり、天下泰平………………と、そう簡単に行かないのが政治の世界であり、中国史だ


【武王の死と王家の混乱】

第一の異変は、武王が危篤に陥ったことである。
殷を倒してからわずか三年後、天下は安定には程遠い。
さらに、太子である姫誦はまだ若く*5、混乱期の王としては心許ない。
都が混乱に陥るなか、周公旦必死の延命祈祷の甲斐もなく、武王はあっけなく病死
若き太子誦が成王として即位する事態になるが、統治は見込めなかった。
長兄の伯邑考はとうの昔に死に、三兄の管叔鮮は地方に赴任している状況下で、この事態を支えられるのは四兄・周公旦のほかになかった。

やむなく、周公旦は「摂政」となり、少年王に代わって政務を総覧
さらに、成王の母・邑姜*6、外様の閣僚・召公奭、それに遠方とはいえ太公望が、周公旦を中心とした新体制を補佐することになる。


ところが、周公旦が摂政となり王事を代行したことを、「周公旦による王位の簒奪」と非難する声が出現した。
あるいはそれは「君側の奸・周公旦を除く」と言う「名目」を欲しがる、陰謀家たちの流した流言飛語だったのかも知れない。
そして現に、それを図る立場にいる人間が多かったのも事実。
周公旦を倒して、代わりに摂政の座につける王族や、周に滅ぼされた残党たちである。

そして彼らはすぐに動いた。武王の急逝と年少王の即位、周公旦政権への批判の声を隙と捕えて、殷王家の末裔・武庚禄父反乱を起こしたのである
しかも、禄父の反乱を警戒してつけられた「三監」が、逆に禄父の側について反乱を起こしてしまった
ここに周の天下は、周公旦と禄父・管叔鮮連合とのあいだで二分されたのである。


なお、近年発見された出土資料によると、武王が殷を倒して三監を設けたことまでは確かだが、三監は反乱した禄父にいきなり殺されたとある。
この戦いは、殷王禄父が主導した、純然たる殷周決戦の第二幕なのかも知れない。
もっとも、この場合も「監視・牽制役」を果たせなかった三監の責任は免れないが。


【三監の乱】

ある程度は予期されていたとはいえ、殷の残党が大規模な反乱を起こし、しかも牽制役の三監が役に立たなかったことは、周朝サイドに大きな衝撃を与えた。
しかも武王は死に、成王はまだ若すぎる。
「三監の乱」「武庚の乱」は、そのまま周朝を追い落とすかに見えた。

しかし、ここで周公旦が奮起。周の軍勢を動員して防備を固め、逆に東征までして、反乱軍を相手に大いに戦った。
戦争は三年にも及んだが、最終的に周公旦は反乱軍を殲滅し、禄父と管叔鮮を討ち取り、蔡叔度と霍叔処を追放する

さらに戦後処理としてもう一度封建をし直し、殷の遺民を「」と「」の地に分割。
宋国は紂王の異母兄(禄父の叔父)である微子啓を、衛国は周公旦らの九弟である康叔封*7を、それぞれ君主として送り込んだ。
どうやら、殷の残党の主流は衛国のほうに多かったようで、春秋戦国時代の文献資料では、やたら康叔封に対する訓戒・指導の文章が多い。
宋国のほうは本当の殷王家の末裔が君主なのに、あまり警戒されていないふうなのは、宋に移されたのはあくまで「王族だけ」で、実際に殷の恩徳を受けた庶民がいなかったからだろうか。

その後も周公旦は東征を行ない、魯国周辺にいた国や異民族を討伐している。


出土資料によれば、この「三監の乱」は成王自らが親征し、周公旦と召公奭が幕僚として従軍したという。
しかし周公が鎮圧したとする資料もあるため、実際の指揮は周公旦がとり、成王は「名目上の最高司令官」として、座っていただけかも知れない。

また、同じく出土資料によると、太公望(祖甲斉公)の斉国封建などを含めた本格的な封建は、武王の代には行なわれず、三監の乱以後・成王の代に行なわれたとされる。
武王が病で死にかけのときに封建なんて危険すぎてやってられないので、これはかなりありそうな話である。
乱後に周公旦ら首脳が「今回の封建は生前の武王の遺志でもあります」と箔づけしたのが、諸侯や歴史に「封建は武王がやった」と伝わったのかも知れない。


【周公旦と成王】

殷の反乱に終止符を打ち、封建システムの再編も完了させた周公旦は、周の実質的な最高責任者として国家を運営。
洛陽の地に一大都市「成周」を建設して、ここに遷都。ただ、それ以前の都だった鎬京(長安)も「宗周」と呼ばれ、引き続き首都として扱われていた。明確には決まらず、「西の本拠が宗周、東の本拠が西周」というところらしい。

かくして、周公旦が周朝の政務を総攬すること七年間に及んだ

しかしその七年間で、若かった成王も徐々に大人になっていた。
そうなると、王として育てられてきた成王も、いつまでも「置物」ではいられなくなる。
いつしか彼は、摂政として実権を握り続ける叔父を疎むようになっていた
また、いまは亡き管叔鮮と同じく、周公の「悪意」を吹き込む側近もいたようである。
それでなくても、権力を握りすぎた臣下は、君主と共存できない。それは愛情だけでどうこうなるものではないのである。


だが幸いにも、周公旦には先哲がいた。過剰な軍権と功績を上げたために、追放というカタチで共存できた男、太公望がいた。
周公旦は成王が粛清の挙に出るまえに、潔く摂政の座を下りて、臣下として成王に膝を屈した。
それでもまだ成王が疎んでいると見抜いた彼は、自ら首都圏を出奔し、いまだ蛮族の領域であった楚国の地にまで旅に出る。


なお、周公旦は成王との権力的な相克で立ち去ったわけだが、さすがに長年政務を総覧しただけあって、周朝内部には周公旦のシンパも大勢いた。
彼らの説得や抗議、それに周公旦には二心のなかったことを受けて、成王も周公旦に謝罪し、帰参を請うことになる。

ただ、彼らの対立は権力の必然がもたらすものであったため、その後もギクシャクしたようだ。
しかし、周公旦は成王から嫌われながらも、ついに反抗することはなかった。
自分が意地を張ったら、今度は自分と成王のあいだで、ふたたび周が割れると思っていたのだろう。
そんな彼の、どこまでも大人な態度のおかげで、周はこれ以上大きな分裂に見舞われることなく推移した。



周公旦がいつ亡くなったのかは不明である。
しかし、成王が危篤に陥り、まだ幼かった太子を重臣に託す場面では、召公奭はいるのに周公旦の名前がない。
この頃には太公望とともに亡くなっていたと思われる。

彼の封土のうち、魯国は長男の伯禽が引き続き運営し、衰退の一途をたどりつつも春秋戦国時代まで続く。
首都における「旗本」としての周公家も、次男の明保がつつがなく継承。彼はのちに「平公」と呼ばれた。
以後、周朝には「周公」を世襲する人物がたびたび登場し、春秋戦国時代にも「周公黒肩」という人物が活躍するが、彼らが周公の子孫なのか、断絶したあと新しく封じられた家なのかは不明。


【評価】

周公旦の歴史評価は非常に高い。

一つには、儒教の開祖である孔子が「毎日夢で見る」ほどに周公旦を尊敬したため、彼の弟子たち=儒教徒も周公旦を崇めることになり、中国人エリート層の強い支持を受けたと言うのが大きい。
……ただ、当の孔子は周公旦に関して言及することは少なかったらしい。

また、孔子が周公旦を尊敬したのは「周公旦こそ、我らが尊ぶ周の礼制を作った偉大な開祖」ということからだが、周公旦から五百年後の孔子は「周の礼制」を知らなかったようである。
考古学資料(≠儒教の文献)に出てくる「周の礼制」と、孔子たちが記録する(=儒教の文献の)「周の礼制」は大きく食い違っているからだ。

……そもそも孔子は「周の礼制が忘れられている」ことに憤慨したうえで「周の礼制を調べて復興させた!」といっているのだが、忘れられた=消滅した礼制を調べられるはずがない。
「孔子が正しいと信じた礼制」について「周公旦もこうした!」と、箔付けしただけだろう。
こうしたやり方は、中国史にはよくある論文の書き方なので、だからどうと言うわけではない*8



ただ、孔子の私淑・持ち上げを別にしても、当時の周朝を支えた偉大な大黒柱であったことは間違いない

殷周易姓革命に勝利した直後に武王が死に、新旧の王族を巻き込んだ大乱が起きるという、戦後の展開としてはおそらく最悪の事態に直面して、
主導権を握って内部の混乱を鎮め、広域の反乱を短期間のうちに鎮圧するというのは只事ではない。
しかも殷周革命時代には目立った活躍がない。いきなり元帥をやりながら見事にやってのけたとは、彼が持つ天才的な軍事センスを感じさせる。
酒見賢一の小説「周公旦」では、周公旦の活躍を知った太公望が「あいつにあんな才能があったとは……」と驚いているが、実際の太公望も同じ感覚だったかも知れない。

軍事能力に加えて政治手腕も高く、乱後の難しい封建を見事に立て直し、以後の周の長期安定を築いたのは間違いなく彼である。
しかも、臣下でありながら国王なみの権力を握るという粛清フラグまで立てながら、ついにそれを回避しきり、あまつさえ子孫まで末長く続かせると言うのも、驚くべき点である。


実際、周公旦が王権を簒奪していたとする資料も多い。例えば竹書紀年では「周公旦は謀反を起こして成王を幽閉して自ら王を名乗って即位した。しかし成王が脱出したため、周公は逃亡した」とされる。

しかし、もし周公旦が王座を乗っ取ったと言うなら、帰参した周公旦やその子孫が生きていけるはずがない*9
また、周公旦は首都の「周公」家のほか、外部に「魯侯」家がある。この魯国には周朝に反乱を起こしたとか周朝から討伐されたとかいう話はなく、春秋戦国時代まで生き残っている。

中国では、権力を握りすぎた臣下は粛清されるのが常である。殺されないでも、共存はしがたい。現に太公望は追放された。
しかし周公旦は、都に戻っても君主と共存できたという点で特別である。

成王は周公旦を疎んでいた記録が多いため、ここは周公旦の政治センス、権力の扱い方がうまかったと考えるべきだろう。
また、王に匹敵する権力を握りながら、成王を殺して即位するなどという「世の乱れる」方法を選択せず、国家安定を優先して「権力を手放す」ことを選んだ、無欲・恬淡な気性と、大所高所に立った視野も、評価されるべきだろう。

封建に関しても、この約800年後に封建を行った項羽は、数年も持たずに崩壊し覇権を失っている。
少なくとも300年ほどは周朝を中華の中心でいさせた周公旦らの仕事ぶりが改めて素晴らしいものだと分かる。


内は国家を安んじ、外は戦乱を鎮め、歴史の流れを定め、我が身も守り抜いた周公旦は、確かに周朝随一の偉人であったといえる。


【周公旦のエピソード】

  • 「夢」
どういうわけだか、周公旦は夢と縁が深いらしい。
孔子が「最近、夢に周公旦が現れなくなった」と言い出し「私も老いてしまったということだ」と意気消沈した話は有名だが、民間伝説にも「周公旦の夢分析」などの話が伝わっているらしい。
最終的に「夢の神様」みたいな扱いになったとか。


  • 「来客対応」
周公旦は、賢者が訪れるとすぐに応対し、決して待たせようとしなかったという。おかげで「賢者の扱い方を知っている」と評判になったそうだ。
食事中に訪ねられれば「食べ物を口に含んだまま」駆けつけ、湯浴み中であれば「髪を絞りながら」やってきたという。
……現代の価値観ではあまり「お行儀がいい」とは言えないのだが、これが広く膾炙されるからにはいいんだろう……
ちなみに、あの曹操赤壁の戦いで歌った短歌の末尾も「周公吐哺、天下帰心」で結ばれている。


【現代日本の創作】

おそらく現代日本人にとっては、藤崎竜のマンガ版「封神演義」に登場した周公旦のイメージが強いだろう。
厳格な内政官である。
太公望のことを尊敬しており、いかつい風貌に見合わず、彼のいうことは積極的に理解しようと努めていた。
ただし場合によっては容赦なくハリセンで殴りまくる。ガチ切れした際には無言で血が出るまでしばき倒した

ただし上述した通り、封神演義には本来周公旦はモブキャラである。
原作および安能務版の封神演義で登場する文官は散宜生であるが、彼は逆にフジリュー版には登場しない。


歴史小説では酒見賢一の作品「周公旦」がある。

陳舜臣の『小説十八史略』では、有蘇氏の美女が生んだ娘を養子として紂王好みの、そして欲深い美女に育て
自分の名「旦」に女偏を加えた「妲」と名付け、有蘇氏が紂王に睨まれた時に献上する
という妲己の黒幕という設定となっている。
歴史書『十八史略』を独自解釈した小説なのだが知名度が高く、
一部サイトや書籍では「史実」と扱われていることがあるので注意。




追記・修正を行なうにあたって食べ物を口に含みながらやるのはやめましょう。現代ではマナー違反です。


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最終更新:2023年01月23日 01:21

*1 殷代には「十干諡号」といい、諡号に十干の文字を選ぶ風習があった。例えば紂王も「帝辛」である。このことからすると、「武庚禄父」のうち「庚」は称号で、「父」は尊称とすると、彼の本名は「禄」かも知れない。甲骨文字では「彔子聖」とある。

*2 文王姫昌の三男で、武王の弟、周公旦の兄になる。名前は「鮮」で、「管叔」とは管の地を与えられたことから。

*3 文王の五男。やはり名前は「度」、蔡の国に報じられたから「蔡叔」。

*4 文王の八男。名は「処」。霍の地を与えられたから「霍叔」。

*5 資料によっては「産着に包まれる赤子」だったともある。ただ、遠くない時期に自ら兵を率いて出生したという話もあるため、赤子ではなかっただろう。十代半ばぐらいか?

*6 この時代の女性は、「姓・名」ではなく「名・姓」で表記した。つまり、邑姜は「姓が姜、名前が邑」となる。このことから、彼女は太公望の血族と推定される。

*7 もともと「康」の君主だったが、この一件で衛に転封になったとも、最初は殷の遺民を率いて康に国を与えられ、のちに衛の地に移ったともされる。

*8 例えば同世代の太公望や、古代の尭や舜、はたまた黄帝と言った面々も、「論文の箔付け」として頻繁に利用されている。

*9 同じく「竹書紀年」では、伊尹について「君主を幽閉して王を名乗ったが、その王に逃げられた」としたあと、「復権した王に殺された」とする。