ふたば系ゆっくりいじめSS@ WIKIミラー
anko1861 サルビアの花(後編)
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ankoss
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『サルビアの花(後編)』
*独自設定あり
*希少種虐待
四、
雷鳴が轟く。その音に反応したゆうかが目を覚ます。覚ましたつもりだった。起き上がることはおろか、満足に瞼を開けるこ
ともできない。あんよからは冷たく無機質な感覚が伝わってくる。
(ゆうか……どうしちゃったのかしら……?)
未体験の感覚が。自らの意思で目を開くことのできない違和感が。ゆうかの心を徐々にすり減らして行く。ゆうかが唇を噛み
締めた。そのままの勢いで力強く重い瞼を開く。すぐに光は入って来なかった。体全体を動かすことができないので、視点だけ
を動かして周囲の把握を試みる。それでも真っ暗で何も見えなかった。
雷光。
カーテンの隙間から差し込んだのであろう稲妻の閃光が一瞬だけゆうかの周りを照らした。
(ここは……どこ……?)
僅かの間に飛び込んできた情報では総合的な判断を下すことはできない。結局、ゆうかはここがどこかわからないままに再び
目を閉じた。目を開けているのも億劫なほどに疲弊しているのだろう。あんよを動かしてみようという気にすらならなかった。
その時、後方から何やら扉を開くような音が聞こえてきた。そちらの方に目を向けようとするが、一度閉じた瞼を開けるのは辛
い。何より体を動かすことができないのだから目を開けたとしても意味を成さないだろう。
足音が近づいてくる。動かぬ我が身を更に固くして警戒を示す。瞼を閉じているのではっきりとはわからないが、部屋に光が
満ちたのだろう。瞼の裏に広がる闇の世界が少しだけ白けた。他者の気配だけは感じることができる。しかし、それが誰かまで
はわからない。
「起きろ」
軽く息を乱すゆうかに対して命令口調で声がかけられた。ゆうかはその声を覚えている。先ほどまで重く閉ざされていた瞼が
反射的に開いた。飛び込んでくる光に目が眩んだのか一瞬だけぎゅっと目を閉じ、恐る恐る目を開く。ゆうかの視界には男が映
し出されている。痛みを忘れたかのようにあんよを引きずるゆうか。男の元に駆け寄りたかった。しかし、その動きは見えない
何かによって遮られる。
「……っ? …………ぅ?」
「……透明な、箱だよ」
「ゆ……?」
ゆうかに言っても理解することはできないだろうと男も分かってはいたが、かける言葉が思いつかなかったのでつい口に出し
てしまった。男の手には銅製のバッジが握られている。男はゆうかの目の前にどっかりと腰を下ろした。溜め息気味に一呼吸置
く。そして、ゆうかに見せつけるように銅バッジを載せた掌を差し出した。小刻みに震えながらもゆうかがその銅バッジを注視
する。小首を傾げるような動作。男はそのゆうかの仕草に苛立ちを覚えた。
「これが何かわかるか?」
「ゆうか……しら、ないわ……」
男と時間を共にすることで気持ちが少しずつ回復しているのか、口調が徐々に安定してきた。男は静かな、押し殺したような
声でゆうかに説明を始めた。
「これはな。 銅バッジと言って、人間に飼われているゆっくりがつける物だ」
「ばっじ……、さん?」
「そうだ。 ……この銅バッジの持ち主が分かるか?」
「…………」
顔を左右に振る。男がゆうかに悟られないように拳を握りしめた。男が冷ややかな口調で続ける。
「思い出せ。 お前が街関わったゆっくりなんて何匹かしかいないだろう」
“お前”。そう呼ばれてから初めてゆうかは男の雰囲気がいつも違うことに気がついた。しかし、思い出すことはできない。
思い出せるのは最後に自分を襲った強い衝撃だけだ。そこから映像が巻き戻されるかのように少し前のシーンを捉えた。足。そ
れがゆうかの目の前に凄まじい速度で迫る。一直線に歩いてくる誰か。
(……だれ……か? ……お、にぃ……さん……?)
不意に顔の中心に激痛が走った。思わず身を捩る。それから冷汗がだらだらと流れ落ちた。呼吸が速くなっていく。男が座り
込んでいた場所。そこに何があったか。れいむの残骸だ。れいむはゆうかの育てたサルビアを引き千切った。
「れい……む……?」
男が唇を噛み締める。ゆうかはそれでもまだ男の変貌の理由には気がついていないようだ。
「あいつは……れいむはな。 僕の飼いゆっくりだ」
「かい……ゆっくり? なんなの……? それは……」
ゆうかがピンと来ないのも無理は無い。ゆうかは元々自然の中で暮らしていた生粋の野生ゆである。街や人間の事は野良とし
て生きた数カ月で理解することができても、バッジや飼いゆの事など知る由もなかった。男が淡々と言葉をつなぐ。
「飼いゆっくり、って言うのはな。 人間と一緒に、人間の家で暮らすゆっくりの事だ」
「にんげんさんと……いっしょに……? あの、れいむが……?」
「そうだ。 僕と一緒に暮らしていたれいむ。 僕にとっては大切な存在だった」
「おにいさんの……たいせつな……れいむ?」
「でも、もう、そのれいむはいない」
「…………っ」
「殺されたんだ。 ゆうか。 お前にな」
男の刺すような視線がゆうかを射抜く。ゆうかの顔が青ざめていった。一時的に失くしていた記憶が完全に蘇る。ゆうかはれ
いむを殺したのだ。サルビアを荒らされたから。一つ一つ糸がほどけていくように、男の意図するところが見えてくる。ゆうか
はサルビアを永遠にゆっくりさせたれいむを殺して制裁した。男はれいむを永遠にゆっくりさせたゆうかを制裁しようとしてい
る。その方法は想像に難くない。利口なゆうかだからこそ、いち早く気付いてしまった。これがそこらのゆっくりであれば、痛
めつけられ尽くして初めて何かに気付くかどうかのレベルであろう。
「少し、昔話を聞かせてやるよ」
固唾を飲むゆうか。男はゆっくりと自分の身の上話を始めた。
「僕はゆっくりを苛め殺して遊ぶのが趣味だった。 我ながら酷い趣味だと思う。 毎日毎日ゆっくりを潰したよ。 わざわざ
ペットショップで安いゆっくりを買ってでも潰していた。 お前らみたいな貧弱で無力な連中が泣き叫ぶ顔を見るのが楽しくて
仕方がなかったんだ。 いろんなことをした。 殴ったり、蹴ったり、床に叩きつけられたり。 目玉を抉ったり、舌を引きち
ぎったり、髪の毛を一本残らずむしり取ったり、火で炙ったり、切ったり、刺したり……。 ゆっくりを苦しめる事だけを考え
て生きてた。 どう思う? 頭のネジが二、三本……いや、そもそもネジ穴すら無いんじゃないかと思わないかい? 僕は、ゆ
っくりを何匹潰してきたか分からない。 いちいち数えるような事はしなかったからね。 僕にとってゆっくりの命なんて本当
に価値のない物だったんだ。 何匹、何十匹潰れて死んでも……それを嘆くのは結局後から潰されて死ぬ残りの連中だけだ。
どうせ全部潰れて死ぬんだから、悲しい思いをするゆっくりなんていない。 ゆっくりの死に心を痛める奴なんてこの世にいな
いんだ。 それぐらい、お前らゆっくりは脆くて儚い。 いてもいなくても誰も困らない、無意味な連中なんだよ」
男が何を言っているのかゆうかは半分も理解することができない。
「……じゃあ、どうして……あのれいむといっしょにくらしていたの……?」
「あのれいむはな。 僕が最後に殺したゆっくりの子供なんだ」
「……どういう、こと?」
「道路に飛び出してきた野良のれいむを僕は原付で轢き殺してしまった。 その野良れいむの頭には茎が伸びていてね。 まだ
ピンポン玉にも満たないくらいの赤ゆがぶら下がっていた。 親の野良れいむは即死。 弾き飛ばされた野良れいむの茎は電柱
に勢いよく叩きつけられた。 そのとき、三匹実っていた赤ゆのうちの二匹が潰れて死んだ。 残りの一匹はその時の衝撃で茎
から離れて生まれた」
男は時折目を細めては掌を額に当て少し息苦しそうに続けた。
「最初の挨拶を返してくれるはずの親も姉妹もこの世にいない。 それに気付いた赤ゆはぴーぴー泣き出した。それからようや
く親である野良れいむと姉妹が死んでる事に気づいたんだ。 赤ゆは僕に助けを求めてきた。 こんなちっこい体で、何度も何
度も頭を下げたんだ。 親と、姉妹の命を奪ったのが……僕だという事も知らずに。 罪悪感があったのかも知れないな。 僕
は既に死んでいる野良れいむと茎に実ったまま潰れた二匹の赤ゆ、それから生き残った赤ゆを連れてここに帰ってきた。 そこ
で、僕はその赤ゆにどうやっても母親と姉妹を助けてあげることはできないと伝えた。 そして、その原因が僕であるという事
も。 そうしたら、その赤ゆは泣きながら僕に“それでもお母さんとお姉ちゃんたちを助けようとしてくれてありがとう”とだ
け言った。 何故か僕はその赤ゆだけは潰すことができなかったんだ。 多分、僕はその赤ゆを尊敬したんだと思う」
「にんげんさんが……? ゆっくりを……そんけい、するの……?」
「……僕が家族をゆっくりに殺されたら……。 きっと僕は目に映る全てのゆっくりを殺して回ったと思う。 裏を返せば、赤
ゆは僕を殺したいぐらい憎んだとしても仕方のないことだったはずだ。 いや、実際僕が憎くてたまらなかっただろうな。 そ
んな相手に対して、ガキのくせに……いや、そもそも、ゆっくりのくせに全てを受け入れ許して……“ありがとう”なんて言え
る奴は……ほとんどいないはずさ。 少なくとも僕には言えない。 気がついたら僕はその赤ゆと一緒に暮らし始めていた。
いつのまにか餌を与えていたんだ。 小さな口を動かしてもそもそと食べる姿を見て、僕は生まれて初めてゆっくりが可愛いと
思った」
真顔で話し続ける男。それを神妙な顔で聞き続けるゆうか。一人と一匹の間に重苦しい空気が漂う。
「僕は赤ゆ……、れいむにバッジ試験を受けさせようとした。 でも、生粋の野良である赤れいむに試験を受ける資格は無かっ
た。 バッジ試験担当者には、室内飼いをすれば飼いゆっくりとして何の問題もないと説明を受けた。 それでも僕はれいむに
バッジを与えてやりたかったんだ。 銅バッジの有無。 それはそのまま、そのゆっくりがこの世界で生きる価値があるかない
かに通じる。 僕は、れいむがこの世界で生きる価値を与えてやりたかった。 笑えるだろ? 僕は今でもれいむ以外のゆっく
りが生きる意味なんてないと思ってる。 ゆうか。 お前だって例外じゃない」
ゆうかがびくっとその身を震わせた。上目遣いで男を見上げる。
「……必死で頼み込んでれいむは特別に試験を受けさせてもらった。 ……その試験にれいむは合格したんだ。 ようやく、僕
はれいむに生きる価値を与えてやることができた。 分かるか……? お前がサルビアを死に物狂いで育てたように……僕はれ
いむを育ててきたんだ」
ゆうかが歯をカチカチと鳴らし始めた。言わんとすることは既に理解できている。サルビアを千切られた時の自分自身の激昂
を思い出す。その時の自分と同じ感覚を男は覚えているのだろう。 その憎悪の対象はゆうかに向けられていた。 自分よりも
遥かに強い人間である男が、壮絶なまでの怒りを剥き出しにしているのだ。
「ゆうか。 僕はお前を殺す。 絶対に殺してやる」
「お、おにいさ……」
「その呼び方はやめてくれ。 虫唾が走る。 僕をそう呼んでいいのは、お前が殺した僕のれいむだけだ」
「お、おにいさん……。 ゆうかは……」
「ゆっくりと関わるのはお前を最後にしようと思う」
「おねがい……っ! ゆうかのはなしも……っ」
透明な箱に凄まじい衝撃が走った。その中にいるゆうかにまでその振動が伝わる。ゆうかの目の前にあるのは男の握り拳だっ
た。男が透明な箱に正拳を撃ち込んだのだ。強化ガラスに触れている部分から細く血液が垂れる。ぶるぶると震える男の血管の
浮き出た腕に恐怖を覚えるゆうか。ガタガタ震えながらも決して涙を流そうとはしない。目尻に涙をいっぱいに溜めながら唇を
噛み締めていた。
「……お前の話? ……れいむを交えてなら聞いてやらない事もないけど……お前一匹の言い分なんて、聞くつもりはないよ」
「れ、れいむは……っ!!」
「うるさい。 お前如きがれいむを語るな。 反吐が出る」
「ゆぐ……っ!!」
男の言うことは正論だった。ゆうかの弁解は意味を成さない。死人に口なし。ゆうかの言葉に対して、もう一匹の当事者であ
るれいむの意見は聞くことができないのだ。今更ゆうかの話を聞いてやる必要はない。既に男にとってゆうかは憎悪の対象とし
か映っていなかった。無言のまま男がその場を去る。部屋の電気を消すとゆうかの視界は再び闇に染まった。恐怖と悲しみと寂
しさ、不安と焦燥感が入り混じりゆうかの心を蝕む。
「おにいさん……っ! おにいさん!! …………おにぃ……さん……」
ゆうかの口から発せられた言葉が闇に溶けて消える。誰にも届くことのない声を絞り出すように呟く。
「…………ゆうかは、あきらめないわ…………。 いつか……おにいさんもゆうかのおはなしをきいてくれるはずよ……っ!」
涙声。男に向けられた言葉ではない。ゆうか自身に向けた言葉でもない。ゆうかは既に確信していた。恐らく男はゆうかが何
を言っても聞いてはくれないだろう。それが怖くて怖くて堪らなかった。
朝方まで激しい雨が降り続いた。アスファルトに叩きつけられる機関銃のような雨音。落雷のたびに爆音が唸りを上げた。眠
りにつくことができなかったゆうかは、一晩中その音を聞きながら過ごしていたのだ。音と光が唯一、自分の存在を確認する手
段であったような気がする。音も光も届かぬ世界であればゆうかは虚無の彼方で打ちひしがれていただろう。
不意にゆうかの牢獄の扉が開く。ずりずりとあんよを動かして音の方向に顔を向けた。隣の部屋の光が一条暗闇に刺し込む。
その同一線上に男がいた。
「お……にぃさ……っ」
わずか一夜にして精神をすり減らしてしまったゆうかが消えてしまいそうな声を男にかける。男は無言のままだ。無言のまま、
ゆうかの入った透明な箱の前にやってきた。透明な箱の蓋に手をかける。
(……え?)
その蓋が開けられた。ゆうかは一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。飛び跳ねることはできないため、箱の中から脱出す
ることは不可能であるがそれでも一条の光が刺したような錯覚を起こしたのだ。しかし、男の行動はゆうかの繊細な心を再び強
く打ち付ける。
「や……やめて! くさくてゆっくりできないわ……っ!!」
男はゆうかの入った透明な箱に生ゴミを投げ入れた。真っ当な餌を与えるつもりは無い。それでも餓死させてしまうわけには
いかないので昨日までに溜まった生ゴミをゆうかの餌代わりにしたのだ。生ゴミとは言ってもそんなに日が経っているわけでは
ない。野菜の切れっぱしや魚の骨など、まだ食材が何であるかを把握することは十分にできる。だが、ゆうかに対して男がただ
一言目の前の生ゴミを“食べろ”と言われたときは思わず目眩がした。
「この……くさいのを……たべろ、っていうの?!」
当然プライドが許さない。舌が肥えているわけでもないゆっくりにとって、生ゴミを食べることはそれほど苦になることはな
かった。しかし、ゆうかは違う。目の前に置かれた臭い物に対して口をつけることはどうしてもできなかった。雑草とそれにつ
いた水滴。それさえあれば良いのにそれすらも許されないと言うのだろうか。男はゆうかの言葉に対して何一つ返事を返さずに
部屋を出て行った。
透明な箱の中でゆうかは生ゴミの悪臭に顔をしかめながら箱の隅に身を寄せていた。呼吸をするのも困難である。息を吸い込
むたびに生ゴミの悪臭が体内に入ってくるのだ。街に下りてきても野生と変わらぬ暮らしを送ってきたゆうかにとってそれは未
だかつて嗅いだことのない匂いだった。もしも、ゆうかが多くの野良ゆっくり同様ゴミ箱を漁って生きていたのならば、それほ
ど苦に思うこともなかったかも知れない。他の野良ゆと一線を隔てた生活をしていたからこそ、この仕打ちは耐え難いものであ
ったと言える。
希少種として優遇され、気位の高いゆうかがコンポストにされた例はどれくらいあるだろうか。ゆうかは生ゴミをずっと睨み
続けていた。気持ち悪さに冷汗が流れてくる。それはゆうかの体力を更に奪って行った。激しく降り続く雨の音だけがゆうかに
とっての気晴らしである。無音の空間であれば気が狂ってしまいそうだった。
その日一日。ゆうかは透明な箱の中で生ゴミと過ごした。感覚も麻痺してきているのか、箱の中に生ゴミを入れられた直後に
比べれば気分の悪さは薄れてきている。しかし、既に次の問題がゆうかを襲っていた。空腹である。なまじ食料に困るような生
活を送っていなかっただけに、食事を一日抜かれるということは想像を絶する苦痛であった。せめて水でもあれば話が違うのだ
ろうが箱の中にあるのは残飯のみ。この生ゴミにも若干の水分が含まれているだろう。しかし、それを口に入れることはできな
かった。どうしてもできなかった。
(こんなの……たべものなんかじゃないわ……っ)
思考を巡らすことにも疲弊してきた。乾いた喉と舌がゆうかを更に追い詰めて行く。泣き叫んだり暴れまわったりしない分だ
け中身の消費は抑えられてはいるが、それが限界を迎えるのも時間の問題だろう。再び陽が落ち、部屋が闇に呑まれてもゆうか
は強く目を閉じ悪臭と空腹に耐えていた。眠りにつこうと思っても空腹がそれを許さない。何度も何度も吐きそうになった。し
かし、この状態で中身を吐いてしまうことは死期を早めるのと同義だ。箱の中の湿気も徐々にゆうかを蝕み始めていた。
季節は梅雨だ。雨は数日の間降り続くだろう。場合によってはゆうかにカビが生えてもおかしくない。そうなればますますゆ
っくりできなくなってしまう。真夜中になってもゆうかは固く口を閉ざしていた。虚脱感と疲労感が全身を襲っているにも関わ
らずどうしても眠ることができない。乾き切った口をパクパクと開いたり閉じたりを繰り返した。額のあたりが痛かった。目の
奥にも違和感を感じ始める。疲労と空腹による影響がゆうかの体に現れ始めたのだ。
(……おに……さ……。 たすけ……て……。 ゆ、うか……くるしい、わ……)
呼吸がおぼつかなくなってきた。ゆうかの中身が底を尽きようとしているのだろう。意識を失う手前まで陥っているゆうかに
すがる物は何一つとしてなかった。無機質な透明の壁に乾いた舌を這わせる。味もしない。喉の渇きも癒されない。ゆうかはガ
タガタと震え始めた。梅雨の湿気に一日中晒された生ゴミは少しずつ腐り始めている。ゆうかがチラリと生ゴミの置いてある場
所を覗き見た。
(……なにか、たべないと……しんじゃう……)
ずりずりとあんよを這わせた。暗闇の中、悪臭の源を頼りに移動する。あんよに嫌な感触を感じた。ぬめりを帯びた冷たい汁
のようなものがゆうかのあんよに付着したのだ。それだけで思わず吐きそうになってしまう。ゆうかはあんよを箱の床に懸命に
こすりつけた。しかしガラスとあんよの間で腐った何かは広がるだけだ。思わず叫びそうになった。しかしそれだけの力も残さ
れてはいない。
(…………っ!!!)
ゆうかが生ゴミに舌を這わせた。舐め取ったぬめりを口の中に無理矢理誘導する。口の中で咀嚼をしようとする前に形の崩れ
た生ゴミがゆうかの舌一杯に広がった。瞬間、おぞましい味がゆうかの口の中を襲った。冷や汗がだらだらと流れる。涙目にな
った。体内から中身が逆流しようと暴れ回っている。ゆうかの本能が告げているのだ。これを飲み込んではいけないと。それで
も飲み込まなければゆうかは死んでしまう。それも本能で理解しているため、ゆうかはそれを無理矢理喉の奥に流し込んだ。そ
れもつかの間、ゆうかは中身の蜂蜜と一緒に生ごみを吐き出してしまった。
「……ゅげぇ……、ぅ……ぇ……」
一度口の中に広がったぬるぬるした不快な液体と味が記憶から離れない。その味を思い出しては喉の奥から中身が溢れてきた。
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ……」
ゆうかの表情が崩れて行く。少しでも体内から腐臭を逃そうと伸ばした舌がだらりと垂れていた。涎を垂らすほどの水分はな
い。ゆうかが目を閉じる。それから気が狂ったかのように生ゴミを口の中に次々と入れた。ぐちゃぐちゃと嫌な感触が舌の上を
這いずりまわる。何度も何度も吐きそうになった。気持ちが悪い。意識せずとも体がぶるぶると震えていた。涙が両の頬をボロ
ボロと伝う。生ゴミを飲み込むたびにゆうかの中の何かが音を立てて崩れて行った。歯をカチカチと鳴らしながら“食事”を終
えたゆうかが呟く。
「……ふしあわせ……」
ゆうか自身の吐き出した息さえも腐臭を帯びていた。それが嫌で嫌で堪らない。ゆうかは泣いた。真っ暗闇の中で、誰にも見
られることなく涙を流し続けた。あまりの不快感で嗚咽を漏らす度にそのまま中身を吐きそうになってしまう。苦しかった。そ
れでもゆうかは生きるために生ゴミを口の中に入れていく。ゆうかの口周りに腐ってドロドロになった食べ物の残骸が付着して
いく。それを舐め取るのも苦行であった。緑色の前髪に魚の皮がこびりついている。それが視界に入るのが辛かった。顔を箱の
壁に押し付けて何度も何度も顔を振った。
何度も何度も唾を吐いた。それでも舌に絡まる粘性の液は離れない。ゆうかの視線が虚ろになっていく。暗闇の舞台。その中
央で悪臭と踊らされる。永遠とも言える観客なき輪舞にゆうかの心は憔悴しきっていた。心が蝕まれていく。声をかける相手も
触れる相手もいない絶望。奪われたわけでもないのに閉ざされた視界に心を枯らす。確実に、少しずつ。ゆうかの心は朽ち始め
ていた。ゆうかは孤高ではあっても孤独ではなかった。自分の傍には常に草花が揺れていたのだ。他のゆっくりにそれらは餌と
しか映らないであろうが、ゆうかにとっては大切な友であり家族である。男と透明な箱に監禁され、ゆうかは初めて孤独という
名の恐怖を味わうことになったのだ。枯れ果てたと思っていた涙があふれ出す。
生きるためだ。生き残る、ただそれだけのため。ゆうかがぐちゃぐちゃという音を立てながら目の前の生ゴミを口に運んだ。
舌の裏側に。歯と歯の間に。喉の奥に。腐りかけた食材が悪臭を伴いまとわりつく。緋色の瞳が濁っていった。涙で滲んでいる
わけではない。ゆうかは自ら、自分という型枠を壊したのだ。
コンポストとしての日々はそれからも続いた。男が部屋に入ってきてもゆうかはそちらに視線を向けようとしない。惨めな姿
を見られたくなかった。相手は想い人だ。生ゴミまみれの唇を。汁まみれの顔を。絶対に、絶対に見られたくない。透明な箱の
中でゆうかの後ろ姿だけが小刻みに震えていた。男もゆうかの顔を覗き込もうとはしない。箱の中。ゆうかから少し離れた位置
に新しい生ゴミを放り込む事を繰り返す。男はゆうかに選択肢を与えていたのだ。自らの意思で腐りかけた食材を食らうこと。
それが男がゆうかに課した贖罪の一つである。男はゆうかという存在をゆうか自身に否定させてやりたかった。自分がいかに価
値のない存在であるかをその身に刻み込んでやりたかったのだ。れいむを殺しておいて、れいむを語ろうなどというふざけた存
在そのものを消し去ってしまいたかった。しかし、それではれいむの味わった苦痛を与えてやることはできない。男の心は憎悪
に支配されていたのだ。
雨は強弱をつけながらなおも降り続いていた。陽の光は久しく見ていない。多湿の環境に放り込まれた生ゴミが痛んでいくの
は早かった。男はわざと生ゴミを腐らせてから透明な箱の中に供給していたのである。もはや形を成さないゲル状の“何か”を
口に入れたときは身も凍る思いがした。舌の上で溶けて広がる異臭とぬめりを帯びた食感。それを口の中まで吐き出した自分の
中身と一緒に飲み込む苦行。その姿と表情にかつての利発的な面影はない。
「……むーしゃ、むーしゃ、しあわせー…………」
いつしかゆうかは壊れたレコードのように生ゴミを口に入れてはこの言葉を呟いた。そこに表情はない。ストレスのせいか張
りを失ったゆうかの肌は完全に死ぬ間際の野良ゆのそれである。色褪せた瞳は宙に向けられ虚空を彷徨っていた。
何日かぶりに厚い雲から太陽が顔を覗かせた。カーテン越しに入ってくる淡い光がうっすらと部屋の中を照らし出す。思えば
ゆうかはこの部屋の中を初めて見たのかも知れない。視線だけを動かしながら疲れ切った表情で辺りを見回した。ゆうかの視界
に最初に入ってきたのは小さな小屋である。ゆうかに読むことはできなかったが、小屋の“表札”にはれいむという文字が書か
れていた。それから少し浅めの餌皿。高い戸棚の上には開封済みのゆっくりフードが乗っている。なんとなく理解することがで
きた。ここはれいむの部屋なのだろう。
ゆうかが辛そうに目を閉じた。そして想いを馳せる。ここであの時のれいむはどれだけ幸せな時を過ごしたのだろう。外敵に
も自然にも襲われることなく、あの優しい男と一人と一匹で。どれほど長い時間を過ごしたのだろうか。床に転がる陰陽玉のぬ
いぐるみの周囲ではしゃぐれいむとそれを見守る男の幻覚が視界をよぎる。ゆうかが激しく顔を横に振りその幻覚を払う。その
とき隣の部屋から声が聞こえてきた。
男の声なのか。他の誰かの声なのか。それさえも分からないほどにか細い声がゆうかの監禁された部屋まで届く。どうやら男
以外にもう一人、この家の中にいるようだ。男は会話をしているようである。ゆうかはますます孤独の寂しさに苛まれた。自分
以外の相手とはちゃんと話をしてくれるのだ。たったそれだけの事実が重く重くゆうかの壊れかけた心にのし掛かる。今すぐこ
の場を逃げ出したかった。悲しくて悲しくて仕方がないのだ。
自分に向けてはくれない笑顔を。
自分にかけてはくれない言葉を。
男と会話をしている誰かには当たり前のように繰り返しているのだ。その相手が自分ではないことにゆうかはただひたすらに
涙した。
(ゆうかも……ゆうかも、おにいさんといっしょに、おはなししたい……)
サルビア畑での男との思い出がまるで走馬燈のように蘇る。男は思い出の中でしか微笑まない。あんなに優しい言葉をかけて
くれたのに。あんなに慰めてくれたのに。逢いたくて逢いたくてたまらなかったのに。それなのに、全てが音を立てて壊れてし
まった。流れ落ちる涙が透明な箱に小さな小さな水たまりを作っていく。声を押し殺して泣いた。大きな声で泣いたとしても、
男は駆け寄ってきてはくれないだろう。それならばいっそ。誰にも悟られずに静かに泣き崩れたい。そんな思いを巡らせるうち
に隣の部屋から男ともう一人の声が聞こえなくなった。ゆうかの心が雀の涙ほど晴れる。大好きな男の声。それでも自分に向け
られたものでないのであれば、聞こえないほうが幸せであると言える。
「……ん……、……ぁ……」
再び隣の部屋から声が聞こえてきた。ゆうかが落胆の表情を浮かべる。一言も隣の声を聞くまいと目を強く閉じるゆうか。そ
の声は先ほどとは少し様子の違うものだった。互いの声のテンポが合わない。男以外のもう一人の声のみがうっすらと聞こえて
くるだけである。
「……?」
ゆうかが閉ざされた扉の向こう側に神経を集中させる。切ない吐息。甘い睦言。それが何を意味しているか、ゆうかには理解
することができない。時折少し高い声が小さく響く。押し殺したようなくぐもった声。
(なに……かしら……。 ゆっくりできないわ……)
男の声ともう一人の声。二つの声が混じり合って溶ける。溶け入った甘美な声はゆうかの元まで届いた。隣の部屋で行われて
いるであろう秘め事の光景を思い描くことはできないはずなのに、ゆうかの心には不快感だけが渦巻いていた。折り重なる二つ
の声を聞いているのが辛くて堪らない。自然と涙が溢れ出す。妖艶な声が強弱を繰り返しゆうかの元へと届く。ゆうかにはなぜ
自分が涙を流しているのかさえも分からなかった。
(おねがい……やめて……。 いや……)
誰へともなく向けられる懇願。その願いを受け入れる者は誰もいない。強く目を閉じる。唇を噛み締める。どうして今、雨が
降っていないのだろうかと天を呪った。聞きたくない声をかき消してくれるであろう雨は今日に限って降らない。
陽の光が入っても入らなくても。
雨が降っても降らなくても。
男の声が聞こえても聞こえなくても。
ゆっくりすることなどもうできないのだと、ゆうかは悟った。ゆうかは、既に自分という存在を見失っていたのだ。
六、
叩きつける雨。その凄まじい音のせいで男が扉を開けたことも、箱に近寄って来たことにも気づかなかった。不意に透明な箱
が持ち上げられる。その中で眠っていたゆうかは床をごろごろと転がり食べ残していた生ゴミへ顔から突っ込んだ。ゆうかの顔
中を腐った野菜の汁が垂れる。突然の出来事に混乱気味のゆうかだがそれでも言葉を発することができない。いつの頃からかゆ
うかはほとんど喋らなくなってしまった。男はゆうかを透明な箱に入れたまま隣の部屋へと移動していく。蛍光灯に照らされた
部屋のあまりの眩しさに目が眩みそうになった。男がテーブルの上に透明な箱を置く。その中でゆうかは覇気を失った顔できょ
ろきょろと周囲を見渡していた。不意に透明な箱の蓋が開けられる。逃げだそうと思えば逃げ出せたはずだ。極度の疲労とスト
レスがそれを許さなかった。
ゆうかは静かに目を伏せ男と視線を合わせようとしない。ボロ雑巾のような自分の醜い姿を見せたくなかった。今の自分には
男と視線を合わせる資格もない。憔悴しきっているにも関わらず、男を目の前にするとゆうかの想いがくすぶられる。本来なら
気にしなくてもいいはずのことまで気にしてしまう。
「……ゆうか」
「…………ッ!!」
男に声をかけられた。緋色の瞳を点にして男を睨みつけるように見上げる。少しだけ開いた口が塞がらない。その表情はゆう
からしからぬ、愛らしい……少し間抜けなものだった。男が箱の中に手を入れる。ゆうかは夢を見ているのではないかと我が事
を疑った。男の掌が両頬に触れる。それだけでゆうかの両の瞳からぽろぽろと涙が溢れ始めた。そのまま抱き締めて欲しかった。
いや、我儘は言わない。少しの間だけでもこのまま自分に触れていて欲しかった。しかし、素直になることはできない。
「やめて……おにいさんっ! ゆうかはきたないから、さわったらだめよ……っ!」
生ゴミまみれの顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら必死に言葉を紡ぐ。その訴えは本音半分、嘘半分。男はゆうかの訴えを
聞き入れなかった。そのまま、台所へと足を運ぶ。ゆうかは嗚咽混じりで必死に平静を保とうとしている。ゆうかは冷たい床の
上に載せられた。
「……ゆ?」
男の大きな手がゆうかの緑色の髪の毛に触れた。そのまま左手を下ろす。カチリという音が聞こえた。それから男は両手でゆ
うかの頭を押さえた。もともと疲労困憊のゆうかである。抵抗することは叶わない。また、抵抗する必要もなかった。男の手に
触れてもらえるというこ……
「ゆ゛う゛ぅ゛ぅ゛ッ??!!!」
思考が飛ぶ。思わず目を見開いた。あんよが押し付けられている冷たい床がどんどん熱くなってきているのだ。最初は温かい
と感じていたぬくもりが突如としてゆうかのあんよに牙を剥いた。サラダ油も敷かれていない冷たい床……フライパンの上でゆ
うかが顔をぶんぶんと振って抵抗を試みる。
「ゆ゛あ゛っ……ッ! あ゛づぃ……ッ!!! だずげで!!! おにぃ゛ざんっ!!!! あ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」
幸せは一転。地獄へと変貌した。ジュウジュウと音を立てながらゆうかのあんよが焼き焦がされていく。ゆうかは気が狂いそ
うなほどに暴れ叫んだ。どんなに冷静であっても、どんなに自分を律することができても。自分の体の一部を生きながらにして
焼かれるという苦痛は想像を絶するものだ。どんな生き物でもあっても耐えることはできないだろう。ゆうかの流した涙や涎が
フライパンに触れるたびに蒸発していく。ゆうかの絶叫は瀑布の如く振り続く雨音に混じり部屋の中に長らく響いた。
「が……ひっ…………ゆ゛……ぎぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッ!!!!!」
歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべる姿に希少種としての品格はなかった。男がこれまで遊びでいたぶり殺してきたゆっくり
たちと何一つ大差ない。炭化し始めたゆうかのあんよからは黒い煙が数条に渡り上がっている。フライパンに触れていた緑色の
髪の一部がちりぢりになって焼け焦げている。ゆうかのあんよを中心とした底部は全てフライパンで焼き尽くされてしまった。
「……痛いか?」
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ…………」
「れいむも同じ思いをしたんだ」
「…………っ」
「お前はれいむを動けなくした。 だから足を焼いてやった。 お前はもう一生動けない」
「あ……っ……、あぁああぁああ……っ」
あんよを動かそうとすると激痛が走る。フライパンにこびりついた焼け焦げたあんよがそこから離れようとしないのだ。無理
に動かそうとすれば皮が引き裂かれてしまう。ピクリとも動かすことのできないあんよを見てゆうかが顔面蒼白になって涙を流
した。
「ゆうかの……あんよさん……おねがい、うごいて……っ!!」
決して好きではない自分のあんよ。他のゆっくりよりも速く動くことはできず、獲物を使えるのにも一苦労だ。まだゆうかが
幼かった頃は狩りが上手くいかなくて何度も一人で泣いた。ゆうかは自分のあんよの遅さに少なからずコンプレックスを抱いて
いたのだ。だからこそ、速く走るどころか一歩たりとも動く事ができないにも関わらず悠然と佇む色とりどりの花はゆうかに尊
敬の念を抱かせた。花を見ていると自分の悩みが詰まらない事なんだと言い聞かせることができた。
「ゆぁぁ……っ!!! いやあぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
もう二度と。自分の意思で動くことはできない。大好きな花に駆け寄ることも、大好きな花の世話をすることもできない。そ
れだけではなかった。炭化してガサガサと崩れ落ちるあんよの醜いこと。この醜いあんよを晒して生きることはプライドの高い
ゆうかにとって死に値する屈辱だ。
ゆうかには飾りがない。あるいは、ゆうかにとってはプライドこそが命の次に大事な“お飾り”と言えるかも分からない。
「ゆ゛ぎゃああっ?!」
不意にあんよに走る激痛。視線を下に向ける。ゆうかのあんよをフライパンから無理矢理引き剥がそうとする道具が映った。
男がフライ返しを使ってゆうかのあんよとフライパンの間に押し込んでいるのだ。力任せに差し込むため、ゆうかのあんよの皮
がブチブチという音を立ててところどころ裂けていく。体内を抉るような痛みにゆうかは中身の蜂蜜をぱたぱたと吐き出した。
「ゆっ……ゆ、ゆ゛があ゛あ゛ッ!!!」
呼吸を整える暇もない。ついにゆうかは炭化したあんよの一部を引き千切られる形でフライパンから離れる事に成功した。前
髪を掴まれたゆうかがブラブラと揺れる。半分意識を失いかけていた。コンロに火をつける。男はゆうかの顔面をその火の中に
入れた。
「ぎゃああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!」
再び絶叫が上がる。空中で顔面を炙られているにも関わらず身動きはおろか抵抗すらできない。ただひたすらに無防備なゆう
かの顔が焼かれていく。目や口を開くと炎がその中に侵入して更なる苦痛を与えた。そのうちゆうかは言葉を発さなくなってし
まった。頃合いと見た男がゆうかを炎から離す。コンロの火を止めると、ゆうかをテーブルの上に仰向けに寝かせた。そこには
顔中が炭化寸前のゆうかの姿があった。唇は焼けただれ、歯茎が浮き出している。水分を失った舌。瞼の一部も焼け落ち、目玉
の一部が皮から覗いている。恐ろしい形相だった。あんよ焼きと顔面焼きを受けたこのゆっくりをゆうか種だと判別できる者は
いないかも知れない。
「俺はれいむの死に目に逢えなかった。 お前が、れいむをれいむだと分からなくなるまで踏みつけて殺したから。 だから、
俺もお前がお前だと分からないようにしてやった」
「かひっ……こひゅっ……」
切れ切れの呼吸。ゆうかは既に死を覚悟していた。このまま男に殺される。永遠にゆっくりさせられる。それでも、この痛み
と苦しみから解放させてもらえるのならば願いの範疇である。もはや涙も流れなかった。引きつったような表情のままでゆうか
が痙攣を起こしている。無表情の男の顔だけが視界に入った。
「…………ッ!!」
それから男の右手が視界に移る。その手には菜箸が握られていた。ゆうかは、もう悪い予感しかしないのか焼け焦げた顔でガ
タガタ震えている。涙が感情の表現の仕方を忘れたゆうかの顔を流れ落ちていく。泣くことも叶わなかった。命乞いの言葉すら
思いつかなかった。ゆうかの視線と男の持つ菜箸が同一線上に重なる。目の前にその残酷なまでの一点が迫る事に怯えたゆうか
が微かに顔を横に振る。ゆうかの右目に菜箸の先端が触れた。ゆうかが体全体をビクンと震わせる。そのままグリグリと眼球の
中心へと菜箸がねじ込まれた。
「ゆ゛っぎぃぃあぁぁ!!!」
「まだ叫ぶ元気残ってるじゃないか。 お前はれいむから光を奪った。 だから俺もお前から光を奪ってやる」
「あ゛ぁ゛あ゛ぁぁあ゛あ……ッ!!! ああぁ……い゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!」
ぶちゅぶちゅとゆうかの目玉から蜂蜜混じりの液体が噴き出す。深々と差し込まれた菜箸を何度も何度も回転させた。その度
にゆうかが歯をガリガリとこすり合わせてボタボタト涎を垂らした。寒気がする。もはや歯をカチカチと打ち鳴らすことさえで
きなかった。痛みと恐怖と絶望と。様々な思いと想いが交錯しゆうかの体と心の奥の奥をバラバラに破壊していく。ぐちゃぐち
ゃにかき混ぜられたゆうかの右目が形を成さない状態で涙と共に頬を垂れた。どうしてだろうか。ゆうかには理解できてしまう。
ゆうかの目玉はあと一つ、残っているのだ。また先ほどと同じ激痛がこれから自分を襲うと思うと怖くて怖くて堪らなかった。
「ゆ゛ぎゃああああああああ!!!!」
男は身動きの取れないゆうかの左目に何度も何度も菜箸を突き立てた。何回かに一回の割合で手元が狂うのかゆうかの顔を菜
箸が突き破る。既にゆうかの世界はその光を閉ざしていた。それに気付いているのか、気づいていないのか、男は狂ったように
ゆうかに菜箸を突き立てた。ゆうかの顔面の至るところに穴が開き、そこから蜂蜜が漏れ出す。
ゆうかはぐったりとして動く気配がない。男もゆうかをテーブルの上に放置し離れて行ってしまった。
(おにぃ……さん……どうして…………ゆうかのおはなしを、きいて……くれないの……? ゆう、か……は。 おに……さ、
に……さるびあ……さんをみて、ほしかった……だけ、なのに……)
ゆうかの眼球のあった場所から涙がぽろぽろとこぼれ続けた。これだけ泣いても涙は枯れないのだろうか。抉り出された二つ
の目玉の残骸がテーブルの上に転がる。
(ゆうか……しぬ、のかしら……。 しぬ、のよね……。 おにいさんに……“すき”っていいたかったな……。 おねぇさん
に……さるびあさんを……みせ、て……あげ、たか……)
口の中に柔らかい物が入れられた。ゆうかが一瞬だけ反応を示す。ゆうかには見えないがゆうかの目の前には男が立っていた。
男が持っている物をゆうかの口に少しずつ入れて行く。それから一言、呟いた。
「……食え」
「………………」
少しずつ。動かすことさえ億劫なはずの口を動かす。ゆうかにとって、男の言う事は絶対だった。従う必要などないはずなの
に、自ら張り巡らせた呪縛に捕えられ逃れられない。もそもそ、もそもそと乾いた舌の上で与えられた食事を咀嚼する。柔らか
なそれはゆうかの口の中に甘い世界を描き出した。
「むーしゃ、むーしゃ……しあわせー……」
飲み込む。少しだけ元気が湧いてきた気がした。男は更にゆうかの口の中に粒のような物を流しこんだ。ゆうかがそれも口の
中に入れて行く。
「美味いか?」
「……おい、し……。 おにいさ……ありが、とう……」
「そうか。 美味いか」
「…………?」
「れいむは、お前が育てたサルビアを食べようとしたから、殺されたんだっけか……?」
「なに……を……」
「れいむはな。 僕にサルビアを取って来てくれようとしていたんだ」
「……どう、いう……」
「僕はサルビアの花が好きでね。 れいむもその事を知っていた。 僕とれいむはお前が育てたサルビアを散歩の途中に見てい
るのが好きだった。 少しずつ花を咲かせていくのを見て、お前が頑張っているんだなということもわかった。 雨が続いたか
らな……。 僕とれいむの散歩の時間は少しずつ減って行った。 れいむは僕に“サルビアの花をプレゼントしてあげる”と言
っていたんだ。 れいむはサルビアをお前が育てたなんてことは知らない。 僕はれいむと一緒にお前の元にサルビアを分けて
貰いに行くつもりだった。 でも、れいむは一匹だけで家を飛び出してしまった。 僕の監督不行き届きだと罵ってくれても構
わない。 僕はれいむから目を離してしまった。 しばらくれいむを探して……」
「………………」
「サルビア畑に行ってしまったなら、お前と喧嘩をしているかも知れないと思っていた。 それが、な……。 まさか、殺され
るなんてことになるとは……一体誰が想像できるッ?! お前らゆっくりの間では同族殺しは禁忌じゃなかったのかッ?!」
「おねがい……っ!! ゆうかの、はなしも……ッ!!!」
「さっきお前に食べさせてやったもの……なんだかわかるか?」
「……え?」
真っ暗闇の世界でゆうかがピタリとその動きを止めた。男はゆうかの崩れた顔にギリギリまで自分の顔を近づけて囁いた。
「お前が育てたサルビアだよ。 “むーしゃ、むーしゃ、しあわせー”って言いながら食べたのは、お前が育てたサルビアなん
だよ」
「ゆ……? ゆゆ…………?」
ゆうかが小刻みに震え始める。それからゆうかは何かを言おうとした。男はそれを遮るようにゆうかを床に叩きつけて執拗に
踏みつけた。ゆうかの顔がぐしゃぐしゃに潰れて行く。中身の蜂蜜が何度も何度も飛び出した。男はゆうかを滅茶苦茶に踏みつ
けながら涙を流す。
ゆうかの残骸を見つめながら男が呟いた。
「……お前を……れいむと一緒に飼ってやろうと思ってた……」
床にばら撒かれた粒と袋。袋には“サルビアの種”と明記されている。男がゆうかに与えたサルビアの種は、男がゆうかに渡
そうとしていたものだった。男が立ちあがり窓へと歩み寄る。閉め切られたカーテンを開く。雨は小雨になっていた。そこには
まだ種を植えていない小さな花壇が作られている。小さな如雨露。小さな園芸用のスコップ。それぞれ二つずつ。
「…………。 もう、ゆっくりには関わらない…………」
男がゆうかの亡骸を花壇に埋めた。れいむのリボンも花壇に埋めている。男が部屋へと戻りカーテンを閉める。静かだった。
昨夜から降り続いた激しい雨が上がり、遠くの空に虹をかけている。
七、
「僕との結婚のこと……考えてくれたかい?」
ムードも何もあったものではない街のレストラン。その隅の席に向かい合わせで座っている男と女。男は真剣な目つきで女に
質問をした。女が目を伏せる。男が膝の上に置いていた拳をにぎりしめた。それから一呼吸置いて女が静かに語り出す。
「あなたから……初めてサルビアの花をプレゼントしてもらった時、私は有頂天だったわ」
「……どういうことだい?」
「赤いサルビアの花言葉……」
「花言葉?」
「そう。 赤いサルビアの花言葉はね。 “あなたの事ばかり想う”」
男が気恥ずかしさのあまりに思わず目を逸らした。女は慌てた様子の男を見てクスリと笑う。
「だからね。 私、一人で勘違いして小躍りして……。 あなたが意味深な態度であの花を私にプレゼントするものだからもの
すごく期待しちゃった」
「……はは」
「それからあなたに告白されて……付き合い始めて。 もし、あなたからプロポーズされたら私も花を渡して答えようと思って
た」
「それは……つまり……」
テーブルの一点を見つめて黙っていた男が顔を上げる。
女が座席に置いていた紙袋の中に片手を突っ込む。男は女の行動の一つ一つを目で追っては鼓動が速くなっていくの
を感じた。慈しむような目つきで取り出したそれをそっとテーブルの上に置く。
「…………サルビア……?」
幅広の葉が美しく巡り長めの茎が背筋を伸ばしている。その先端に咲き誇る花の色は青。情熱的な赤いサルビアとは対照的に
青いサルビアは涼しげに佇んでいるかのようだ。まるで高貴な深窓の姫君でも見ているかのような錯覚に男はしばし目を奪われ
ていた。女が嬉しそうに微笑む。
「……綺麗でしょう?」
「ああ。 僕は赤いサルビアしか見たことがなかったから……」
女が再び青いサルビアを手にとり、花を唇に当てた。それから顔を真っ赤にして男に差し向ける。男がそれを手にした。
「青いサルビアの花言葉は……」
「…………」
「“永遠にあなたのもの”」
時間が止まったかのように見つめ合う二人。どちらからともなく目を逸らし窓へと視線を移す。雨が降っていた。飲まずに放
置していたアイスコーヒーのコップが汗をかいている。
女は遠くを見つめていた。
(ゆうか……早くあなたに会いたいな……私があげたサルビアの種……。 ゆうかならきっと満開にできるはずだものね)
外ではすすり泣くかのような静かな雨がいつまでも降り続いていた。
いつまでも。
いつまでも降り続いていた。
おわり
日常起こりうるゆっくりたちの悲劇をこよなく愛する余白あきでした。
*独自設定あり
*希少種虐待
四、
雷鳴が轟く。その音に反応したゆうかが目を覚ます。覚ましたつもりだった。起き上がることはおろか、満足に瞼を開けるこ
ともできない。あんよからは冷たく無機質な感覚が伝わってくる。
(ゆうか……どうしちゃったのかしら……?)
未体験の感覚が。自らの意思で目を開くことのできない違和感が。ゆうかの心を徐々にすり減らして行く。ゆうかが唇を噛み
締めた。そのままの勢いで力強く重い瞼を開く。すぐに光は入って来なかった。体全体を動かすことができないので、視点だけ
を動かして周囲の把握を試みる。それでも真っ暗で何も見えなかった。
雷光。
カーテンの隙間から差し込んだのであろう稲妻の閃光が一瞬だけゆうかの周りを照らした。
(ここは……どこ……?)
僅かの間に飛び込んできた情報では総合的な判断を下すことはできない。結局、ゆうかはここがどこかわからないままに再び
目を閉じた。目を開けているのも億劫なほどに疲弊しているのだろう。あんよを動かしてみようという気にすらならなかった。
その時、後方から何やら扉を開くような音が聞こえてきた。そちらの方に目を向けようとするが、一度閉じた瞼を開けるのは辛
い。何より体を動かすことができないのだから目を開けたとしても意味を成さないだろう。
足音が近づいてくる。動かぬ我が身を更に固くして警戒を示す。瞼を閉じているのではっきりとはわからないが、部屋に光が
満ちたのだろう。瞼の裏に広がる闇の世界が少しだけ白けた。他者の気配だけは感じることができる。しかし、それが誰かまで
はわからない。
「起きろ」
軽く息を乱すゆうかに対して命令口調で声がかけられた。ゆうかはその声を覚えている。先ほどまで重く閉ざされていた瞼が
反射的に開いた。飛び込んでくる光に目が眩んだのか一瞬だけぎゅっと目を閉じ、恐る恐る目を開く。ゆうかの視界には男が映
し出されている。痛みを忘れたかのようにあんよを引きずるゆうか。男の元に駆け寄りたかった。しかし、その動きは見えない
何かによって遮られる。
「……っ? …………ぅ?」
「……透明な、箱だよ」
「ゆ……?」
ゆうかに言っても理解することはできないだろうと男も分かってはいたが、かける言葉が思いつかなかったのでつい口に出し
てしまった。男の手には銅製のバッジが握られている。男はゆうかの目の前にどっかりと腰を下ろした。溜め息気味に一呼吸置
く。そして、ゆうかに見せつけるように銅バッジを載せた掌を差し出した。小刻みに震えながらもゆうかがその銅バッジを注視
する。小首を傾げるような動作。男はそのゆうかの仕草に苛立ちを覚えた。
「これが何かわかるか?」
「ゆうか……しら、ないわ……」
男と時間を共にすることで気持ちが少しずつ回復しているのか、口調が徐々に安定してきた。男は静かな、押し殺したような
声でゆうかに説明を始めた。
「これはな。 銅バッジと言って、人間に飼われているゆっくりがつける物だ」
「ばっじ……、さん?」
「そうだ。 ……この銅バッジの持ち主が分かるか?」
「…………」
顔を左右に振る。男がゆうかに悟られないように拳を握りしめた。男が冷ややかな口調で続ける。
「思い出せ。 お前が街関わったゆっくりなんて何匹かしかいないだろう」
“お前”。そう呼ばれてから初めてゆうかは男の雰囲気がいつも違うことに気がついた。しかし、思い出すことはできない。
思い出せるのは最後に自分を襲った強い衝撃だけだ。そこから映像が巻き戻されるかのように少し前のシーンを捉えた。足。そ
れがゆうかの目の前に凄まじい速度で迫る。一直線に歩いてくる誰か。
(……だれ……か? ……お、にぃ……さん……?)
不意に顔の中心に激痛が走った。思わず身を捩る。それから冷汗がだらだらと流れ落ちた。呼吸が速くなっていく。男が座り
込んでいた場所。そこに何があったか。れいむの残骸だ。れいむはゆうかの育てたサルビアを引き千切った。
「れい……む……?」
男が唇を噛み締める。ゆうかはそれでもまだ男の変貌の理由には気がついていないようだ。
「あいつは……れいむはな。 僕の飼いゆっくりだ」
「かい……ゆっくり? なんなの……? それは……」
ゆうかがピンと来ないのも無理は無い。ゆうかは元々自然の中で暮らしていた生粋の野生ゆである。街や人間の事は野良とし
て生きた数カ月で理解することができても、バッジや飼いゆの事など知る由もなかった。男が淡々と言葉をつなぐ。
「飼いゆっくり、って言うのはな。 人間と一緒に、人間の家で暮らすゆっくりの事だ」
「にんげんさんと……いっしょに……? あの、れいむが……?」
「そうだ。 僕と一緒に暮らしていたれいむ。 僕にとっては大切な存在だった」
「おにいさんの……たいせつな……れいむ?」
「でも、もう、そのれいむはいない」
「…………っ」
「殺されたんだ。 ゆうか。 お前にな」
男の刺すような視線がゆうかを射抜く。ゆうかの顔が青ざめていった。一時的に失くしていた記憶が完全に蘇る。ゆうかはれ
いむを殺したのだ。サルビアを荒らされたから。一つ一つ糸がほどけていくように、男の意図するところが見えてくる。ゆうか
はサルビアを永遠にゆっくりさせたれいむを殺して制裁した。男はれいむを永遠にゆっくりさせたゆうかを制裁しようとしてい
る。その方法は想像に難くない。利口なゆうかだからこそ、いち早く気付いてしまった。これがそこらのゆっくりであれば、痛
めつけられ尽くして初めて何かに気付くかどうかのレベルであろう。
「少し、昔話を聞かせてやるよ」
固唾を飲むゆうか。男はゆっくりと自分の身の上話を始めた。
「僕はゆっくりを苛め殺して遊ぶのが趣味だった。 我ながら酷い趣味だと思う。 毎日毎日ゆっくりを潰したよ。 わざわざ
ペットショップで安いゆっくりを買ってでも潰していた。 お前らみたいな貧弱で無力な連中が泣き叫ぶ顔を見るのが楽しくて
仕方がなかったんだ。 いろんなことをした。 殴ったり、蹴ったり、床に叩きつけられたり。 目玉を抉ったり、舌を引きち
ぎったり、髪の毛を一本残らずむしり取ったり、火で炙ったり、切ったり、刺したり……。 ゆっくりを苦しめる事だけを考え
て生きてた。 どう思う? 頭のネジが二、三本……いや、そもそもネジ穴すら無いんじゃないかと思わないかい? 僕は、ゆ
っくりを何匹潰してきたか分からない。 いちいち数えるような事はしなかったからね。 僕にとってゆっくりの命なんて本当
に価値のない物だったんだ。 何匹、何十匹潰れて死んでも……それを嘆くのは結局後から潰されて死ぬ残りの連中だけだ。
どうせ全部潰れて死ぬんだから、悲しい思いをするゆっくりなんていない。 ゆっくりの死に心を痛める奴なんてこの世にいな
いんだ。 それぐらい、お前らゆっくりは脆くて儚い。 いてもいなくても誰も困らない、無意味な連中なんだよ」
男が何を言っているのかゆうかは半分も理解することができない。
「……じゃあ、どうして……あのれいむといっしょにくらしていたの……?」
「あのれいむはな。 僕が最後に殺したゆっくりの子供なんだ」
「……どういう、こと?」
「道路に飛び出してきた野良のれいむを僕は原付で轢き殺してしまった。 その野良れいむの頭には茎が伸びていてね。 まだ
ピンポン玉にも満たないくらいの赤ゆがぶら下がっていた。 親の野良れいむは即死。 弾き飛ばされた野良れいむの茎は電柱
に勢いよく叩きつけられた。 そのとき、三匹実っていた赤ゆのうちの二匹が潰れて死んだ。 残りの一匹はその時の衝撃で茎
から離れて生まれた」
男は時折目を細めては掌を額に当て少し息苦しそうに続けた。
「最初の挨拶を返してくれるはずの親も姉妹もこの世にいない。 それに気付いた赤ゆはぴーぴー泣き出した。それからようや
く親である野良れいむと姉妹が死んでる事に気づいたんだ。 赤ゆは僕に助けを求めてきた。 こんなちっこい体で、何度も何
度も頭を下げたんだ。 親と、姉妹の命を奪ったのが……僕だという事も知らずに。 罪悪感があったのかも知れないな。 僕
は既に死んでいる野良れいむと茎に実ったまま潰れた二匹の赤ゆ、それから生き残った赤ゆを連れてここに帰ってきた。 そこ
で、僕はその赤ゆにどうやっても母親と姉妹を助けてあげることはできないと伝えた。 そして、その原因が僕であるという事
も。 そうしたら、その赤ゆは泣きながら僕に“それでもお母さんとお姉ちゃんたちを助けようとしてくれてありがとう”とだ
け言った。 何故か僕はその赤ゆだけは潰すことができなかったんだ。 多分、僕はその赤ゆを尊敬したんだと思う」
「にんげんさんが……? ゆっくりを……そんけい、するの……?」
「……僕が家族をゆっくりに殺されたら……。 きっと僕は目に映る全てのゆっくりを殺して回ったと思う。 裏を返せば、赤
ゆは僕を殺したいぐらい憎んだとしても仕方のないことだったはずだ。 いや、実際僕が憎くてたまらなかっただろうな。 そ
んな相手に対して、ガキのくせに……いや、そもそも、ゆっくりのくせに全てを受け入れ許して……“ありがとう”なんて言え
る奴は……ほとんどいないはずさ。 少なくとも僕には言えない。 気がついたら僕はその赤ゆと一緒に暮らし始めていた。
いつのまにか餌を与えていたんだ。 小さな口を動かしてもそもそと食べる姿を見て、僕は生まれて初めてゆっくりが可愛いと
思った」
真顔で話し続ける男。それを神妙な顔で聞き続けるゆうか。一人と一匹の間に重苦しい空気が漂う。
「僕は赤ゆ……、れいむにバッジ試験を受けさせようとした。 でも、生粋の野良である赤れいむに試験を受ける資格は無かっ
た。 バッジ試験担当者には、室内飼いをすれば飼いゆっくりとして何の問題もないと説明を受けた。 それでも僕はれいむに
バッジを与えてやりたかったんだ。 銅バッジの有無。 それはそのまま、そのゆっくりがこの世界で生きる価値があるかない
かに通じる。 僕は、れいむがこの世界で生きる価値を与えてやりたかった。 笑えるだろ? 僕は今でもれいむ以外のゆっく
りが生きる意味なんてないと思ってる。 ゆうか。 お前だって例外じゃない」
ゆうかがびくっとその身を震わせた。上目遣いで男を見上げる。
「……必死で頼み込んでれいむは特別に試験を受けさせてもらった。 ……その試験にれいむは合格したんだ。 ようやく、僕
はれいむに生きる価値を与えてやることができた。 分かるか……? お前がサルビアを死に物狂いで育てたように……僕はれ
いむを育ててきたんだ」
ゆうかが歯をカチカチと鳴らし始めた。言わんとすることは既に理解できている。サルビアを千切られた時の自分自身の激昂
を思い出す。その時の自分と同じ感覚を男は覚えているのだろう。 その憎悪の対象はゆうかに向けられていた。 自分よりも
遥かに強い人間である男が、壮絶なまでの怒りを剥き出しにしているのだ。
「ゆうか。 僕はお前を殺す。 絶対に殺してやる」
「お、おにいさ……」
「その呼び方はやめてくれ。 虫唾が走る。 僕をそう呼んでいいのは、お前が殺した僕のれいむだけだ」
「お、おにいさん……。 ゆうかは……」
「ゆっくりと関わるのはお前を最後にしようと思う」
「おねがい……っ! ゆうかのはなしも……っ」
透明な箱に凄まじい衝撃が走った。その中にいるゆうかにまでその振動が伝わる。ゆうかの目の前にあるのは男の握り拳だっ
た。男が透明な箱に正拳を撃ち込んだのだ。強化ガラスに触れている部分から細く血液が垂れる。ぶるぶると震える男の血管の
浮き出た腕に恐怖を覚えるゆうか。ガタガタ震えながらも決して涙を流そうとはしない。目尻に涙をいっぱいに溜めながら唇を
噛み締めていた。
「……お前の話? ……れいむを交えてなら聞いてやらない事もないけど……お前一匹の言い分なんて、聞くつもりはないよ」
「れ、れいむは……っ!!」
「うるさい。 お前如きがれいむを語るな。 反吐が出る」
「ゆぐ……っ!!」
男の言うことは正論だった。ゆうかの弁解は意味を成さない。死人に口なし。ゆうかの言葉に対して、もう一匹の当事者であ
るれいむの意見は聞くことができないのだ。今更ゆうかの話を聞いてやる必要はない。既に男にとってゆうかは憎悪の対象とし
か映っていなかった。無言のまま男がその場を去る。部屋の電気を消すとゆうかの視界は再び闇に染まった。恐怖と悲しみと寂
しさ、不安と焦燥感が入り混じりゆうかの心を蝕む。
「おにいさん……っ! おにいさん!! …………おにぃ……さん……」
ゆうかの口から発せられた言葉が闇に溶けて消える。誰にも届くことのない声を絞り出すように呟く。
「…………ゆうかは、あきらめないわ…………。 いつか……おにいさんもゆうかのおはなしをきいてくれるはずよ……っ!」
涙声。男に向けられた言葉ではない。ゆうか自身に向けた言葉でもない。ゆうかは既に確信していた。恐らく男はゆうかが何
を言っても聞いてはくれないだろう。それが怖くて怖くて堪らなかった。
朝方まで激しい雨が降り続いた。アスファルトに叩きつけられる機関銃のような雨音。落雷のたびに爆音が唸りを上げた。眠
りにつくことができなかったゆうかは、一晩中その音を聞きながら過ごしていたのだ。音と光が唯一、自分の存在を確認する手
段であったような気がする。音も光も届かぬ世界であればゆうかは虚無の彼方で打ちひしがれていただろう。
不意にゆうかの牢獄の扉が開く。ずりずりとあんよを動かして音の方向に顔を向けた。隣の部屋の光が一条暗闇に刺し込む。
その同一線上に男がいた。
「お……にぃさ……っ」
わずか一夜にして精神をすり減らしてしまったゆうかが消えてしまいそうな声を男にかける。男は無言のままだ。無言のまま、
ゆうかの入った透明な箱の前にやってきた。透明な箱の蓋に手をかける。
(……え?)
その蓋が開けられた。ゆうかは一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。飛び跳ねることはできないため、箱の中から脱出す
ることは不可能であるがそれでも一条の光が刺したような錯覚を起こしたのだ。しかし、男の行動はゆうかの繊細な心を再び強
く打ち付ける。
「や……やめて! くさくてゆっくりできないわ……っ!!」
男はゆうかの入った透明な箱に生ゴミを投げ入れた。真っ当な餌を与えるつもりは無い。それでも餓死させてしまうわけには
いかないので昨日までに溜まった生ゴミをゆうかの餌代わりにしたのだ。生ゴミとは言ってもそんなに日が経っているわけでは
ない。野菜の切れっぱしや魚の骨など、まだ食材が何であるかを把握することは十分にできる。だが、ゆうかに対して男がただ
一言目の前の生ゴミを“食べろ”と言われたときは思わず目眩がした。
「この……くさいのを……たべろ、っていうの?!」
当然プライドが許さない。舌が肥えているわけでもないゆっくりにとって、生ゴミを食べることはそれほど苦になることはな
かった。しかし、ゆうかは違う。目の前に置かれた臭い物に対して口をつけることはどうしてもできなかった。雑草とそれにつ
いた水滴。それさえあれば良いのにそれすらも許されないと言うのだろうか。男はゆうかの言葉に対して何一つ返事を返さずに
部屋を出て行った。
透明な箱の中でゆうかは生ゴミの悪臭に顔をしかめながら箱の隅に身を寄せていた。呼吸をするのも困難である。息を吸い込
むたびに生ゴミの悪臭が体内に入ってくるのだ。街に下りてきても野生と変わらぬ暮らしを送ってきたゆうかにとってそれは未
だかつて嗅いだことのない匂いだった。もしも、ゆうかが多くの野良ゆっくり同様ゴミ箱を漁って生きていたのならば、それほ
ど苦に思うこともなかったかも知れない。他の野良ゆと一線を隔てた生活をしていたからこそ、この仕打ちは耐え難いものであ
ったと言える。
希少種として優遇され、気位の高いゆうかがコンポストにされた例はどれくらいあるだろうか。ゆうかは生ゴミをずっと睨み
続けていた。気持ち悪さに冷汗が流れてくる。それはゆうかの体力を更に奪って行った。激しく降り続く雨の音だけがゆうかに
とっての気晴らしである。無音の空間であれば気が狂ってしまいそうだった。
その日一日。ゆうかは透明な箱の中で生ゴミと過ごした。感覚も麻痺してきているのか、箱の中に生ゴミを入れられた直後に
比べれば気分の悪さは薄れてきている。しかし、既に次の問題がゆうかを襲っていた。空腹である。なまじ食料に困るような生
活を送っていなかっただけに、食事を一日抜かれるということは想像を絶する苦痛であった。せめて水でもあれば話が違うのだ
ろうが箱の中にあるのは残飯のみ。この生ゴミにも若干の水分が含まれているだろう。しかし、それを口に入れることはできな
かった。どうしてもできなかった。
(こんなの……たべものなんかじゃないわ……っ)
思考を巡らすことにも疲弊してきた。乾いた喉と舌がゆうかを更に追い詰めて行く。泣き叫んだり暴れまわったりしない分だ
け中身の消費は抑えられてはいるが、それが限界を迎えるのも時間の問題だろう。再び陽が落ち、部屋が闇に呑まれてもゆうか
は強く目を閉じ悪臭と空腹に耐えていた。眠りにつこうと思っても空腹がそれを許さない。何度も何度も吐きそうになった。し
かし、この状態で中身を吐いてしまうことは死期を早めるのと同義だ。箱の中の湿気も徐々にゆうかを蝕み始めていた。
季節は梅雨だ。雨は数日の間降り続くだろう。場合によってはゆうかにカビが生えてもおかしくない。そうなればますますゆ
っくりできなくなってしまう。真夜中になってもゆうかは固く口を閉ざしていた。虚脱感と疲労感が全身を襲っているにも関わ
らずどうしても眠ることができない。乾き切った口をパクパクと開いたり閉じたりを繰り返した。額のあたりが痛かった。目の
奥にも違和感を感じ始める。疲労と空腹による影響がゆうかの体に現れ始めたのだ。
(……おに……さ……。 たすけ……て……。 ゆ、うか……くるしい、わ……)
呼吸がおぼつかなくなってきた。ゆうかの中身が底を尽きようとしているのだろう。意識を失う手前まで陥っているゆうかに
すがる物は何一つとしてなかった。無機質な透明の壁に乾いた舌を這わせる。味もしない。喉の渇きも癒されない。ゆうかはガ
タガタと震え始めた。梅雨の湿気に一日中晒された生ゴミは少しずつ腐り始めている。ゆうかがチラリと生ゴミの置いてある場
所を覗き見た。
(……なにか、たべないと……しんじゃう……)
ずりずりとあんよを這わせた。暗闇の中、悪臭の源を頼りに移動する。あんよに嫌な感触を感じた。ぬめりを帯びた冷たい汁
のようなものがゆうかのあんよに付着したのだ。それだけで思わず吐きそうになってしまう。ゆうかはあんよを箱の床に懸命に
こすりつけた。しかしガラスとあんよの間で腐った何かは広がるだけだ。思わず叫びそうになった。しかしそれだけの力も残さ
れてはいない。
(…………っ!!!)
ゆうかが生ゴミに舌を這わせた。舐め取ったぬめりを口の中に無理矢理誘導する。口の中で咀嚼をしようとする前に形の崩れ
た生ゴミがゆうかの舌一杯に広がった。瞬間、おぞましい味がゆうかの口の中を襲った。冷や汗がだらだらと流れる。涙目にな
った。体内から中身が逆流しようと暴れ回っている。ゆうかの本能が告げているのだ。これを飲み込んではいけないと。それで
も飲み込まなければゆうかは死んでしまう。それも本能で理解しているため、ゆうかはそれを無理矢理喉の奥に流し込んだ。そ
れもつかの間、ゆうかは中身の蜂蜜と一緒に生ごみを吐き出してしまった。
「……ゅげぇ……、ぅ……ぇ……」
一度口の中に広がったぬるぬるした不快な液体と味が記憶から離れない。その味を思い出しては喉の奥から中身が溢れてきた。
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ……」
ゆうかの表情が崩れて行く。少しでも体内から腐臭を逃そうと伸ばした舌がだらりと垂れていた。涎を垂らすほどの水分はな
い。ゆうかが目を閉じる。それから気が狂ったかのように生ゴミを口の中に次々と入れた。ぐちゃぐちゃと嫌な感触が舌の上を
這いずりまわる。何度も何度も吐きそうになった。気持ちが悪い。意識せずとも体がぶるぶると震えていた。涙が両の頬をボロ
ボロと伝う。生ゴミを飲み込むたびにゆうかの中の何かが音を立てて崩れて行った。歯をカチカチと鳴らしながら“食事”を終
えたゆうかが呟く。
「……ふしあわせ……」
ゆうか自身の吐き出した息さえも腐臭を帯びていた。それが嫌で嫌で堪らない。ゆうかは泣いた。真っ暗闇の中で、誰にも見
られることなく涙を流し続けた。あまりの不快感で嗚咽を漏らす度にそのまま中身を吐きそうになってしまう。苦しかった。そ
れでもゆうかは生きるために生ゴミを口の中に入れていく。ゆうかの口周りに腐ってドロドロになった食べ物の残骸が付着して
いく。それを舐め取るのも苦行であった。緑色の前髪に魚の皮がこびりついている。それが視界に入るのが辛かった。顔を箱の
壁に押し付けて何度も何度も顔を振った。
何度も何度も唾を吐いた。それでも舌に絡まる粘性の液は離れない。ゆうかの視線が虚ろになっていく。暗闇の舞台。その中
央で悪臭と踊らされる。永遠とも言える観客なき輪舞にゆうかの心は憔悴しきっていた。心が蝕まれていく。声をかける相手も
触れる相手もいない絶望。奪われたわけでもないのに閉ざされた視界に心を枯らす。確実に、少しずつ。ゆうかの心は朽ち始め
ていた。ゆうかは孤高ではあっても孤独ではなかった。自分の傍には常に草花が揺れていたのだ。他のゆっくりにそれらは餌と
しか映らないであろうが、ゆうかにとっては大切な友であり家族である。男と透明な箱に監禁され、ゆうかは初めて孤独という
名の恐怖を味わうことになったのだ。枯れ果てたと思っていた涙があふれ出す。
生きるためだ。生き残る、ただそれだけのため。ゆうかがぐちゃぐちゃという音を立てながら目の前の生ゴミを口に運んだ。
舌の裏側に。歯と歯の間に。喉の奥に。腐りかけた食材が悪臭を伴いまとわりつく。緋色の瞳が濁っていった。涙で滲んでいる
わけではない。ゆうかは自ら、自分という型枠を壊したのだ。
コンポストとしての日々はそれからも続いた。男が部屋に入ってきてもゆうかはそちらに視線を向けようとしない。惨めな姿
を見られたくなかった。相手は想い人だ。生ゴミまみれの唇を。汁まみれの顔を。絶対に、絶対に見られたくない。透明な箱の
中でゆうかの後ろ姿だけが小刻みに震えていた。男もゆうかの顔を覗き込もうとはしない。箱の中。ゆうかから少し離れた位置
に新しい生ゴミを放り込む事を繰り返す。男はゆうかに選択肢を与えていたのだ。自らの意思で腐りかけた食材を食らうこと。
それが男がゆうかに課した贖罪の一つである。男はゆうかという存在をゆうか自身に否定させてやりたかった。自分がいかに価
値のない存在であるかをその身に刻み込んでやりたかったのだ。れいむを殺しておいて、れいむを語ろうなどというふざけた存
在そのものを消し去ってしまいたかった。しかし、それではれいむの味わった苦痛を与えてやることはできない。男の心は憎悪
に支配されていたのだ。
雨は強弱をつけながらなおも降り続いていた。陽の光は久しく見ていない。多湿の環境に放り込まれた生ゴミが痛んでいくの
は早かった。男はわざと生ゴミを腐らせてから透明な箱の中に供給していたのである。もはや形を成さないゲル状の“何か”を
口に入れたときは身も凍る思いがした。舌の上で溶けて広がる異臭とぬめりを帯びた食感。それを口の中まで吐き出した自分の
中身と一緒に飲み込む苦行。その姿と表情にかつての利発的な面影はない。
「……むーしゃ、むーしゃ、しあわせー…………」
いつしかゆうかは壊れたレコードのように生ゴミを口に入れてはこの言葉を呟いた。そこに表情はない。ストレスのせいか張
りを失ったゆうかの肌は完全に死ぬ間際の野良ゆのそれである。色褪せた瞳は宙に向けられ虚空を彷徨っていた。
何日かぶりに厚い雲から太陽が顔を覗かせた。カーテン越しに入ってくる淡い光がうっすらと部屋の中を照らし出す。思えば
ゆうかはこの部屋の中を初めて見たのかも知れない。視線だけを動かしながら疲れ切った表情で辺りを見回した。ゆうかの視界
に最初に入ってきたのは小さな小屋である。ゆうかに読むことはできなかったが、小屋の“表札”にはれいむという文字が書か
れていた。それから少し浅めの餌皿。高い戸棚の上には開封済みのゆっくりフードが乗っている。なんとなく理解することがで
きた。ここはれいむの部屋なのだろう。
ゆうかが辛そうに目を閉じた。そして想いを馳せる。ここであの時のれいむはどれだけ幸せな時を過ごしたのだろう。外敵に
も自然にも襲われることなく、あの優しい男と一人と一匹で。どれほど長い時間を過ごしたのだろうか。床に転がる陰陽玉のぬ
いぐるみの周囲ではしゃぐれいむとそれを見守る男の幻覚が視界をよぎる。ゆうかが激しく顔を横に振りその幻覚を払う。その
とき隣の部屋から声が聞こえてきた。
男の声なのか。他の誰かの声なのか。それさえも分からないほどにか細い声がゆうかの監禁された部屋まで届く。どうやら男
以外にもう一人、この家の中にいるようだ。男は会話をしているようである。ゆうかはますます孤独の寂しさに苛まれた。自分
以外の相手とはちゃんと話をしてくれるのだ。たったそれだけの事実が重く重くゆうかの壊れかけた心にのし掛かる。今すぐこ
の場を逃げ出したかった。悲しくて悲しくて仕方がないのだ。
自分に向けてはくれない笑顔を。
自分にかけてはくれない言葉を。
男と会話をしている誰かには当たり前のように繰り返しているのだ。その相手が自分ではないことにゆうかはただひたすらに
涙した。
(ゆうかも……ゆうかも、おにいさんといっしょに、おはなししたい……)
サルビア畑での男との思い出がまるで走馬燈のように蘇る。男は思い出の中でしか微笑まない。あんなに優しい言葉をかけて
くれたのに。あんなに慰めてくれたのに。逢いたくて逢いたくてたまらなかったのに。それなのに、全てが音を立てて壊れてし
まった。流れ落ちる涙が透明な箱に小さな小さな水たまりを作っていく。声を押し殺して泣いた。大きな声で泣いたとしても、
男は駆け寄ってきてはくれないだろう。それならばいっそ。誰にも悟られずに静かに泣き崩れたい。そんな思いを巡らせるうち
に隣の部屋から男ともう一人の声が聞こえなくなった。ゆうかの心が雀の涙ほど晴れる。大好きな男の声。それでも自分に向け
られたものでないのであれば、聞こえないほうが幸せであると言える。
「……ん……、……ぁ……」
再び隣の部屋から声が聞こえてきた。ゆうかが落胆の表情を浮かべる。一言も隣の声を聞くまいと目を強く閉じるゆうか。そ
の声は先ほどとは少し様子の違うものだった。互いの声のテンポが合わない。男以外のもう一人の声のみがうっすらと聞こえて
くるだけである。
「……?」
ゆうかが閉ざされた扉の向こう側に神経を集中させる。切ない吐息。甘い睦言。それが何を意味しているか、ゆうかには理解
することができない。時折少し高い声が小さく響く。押し殺したようなくぐもった声。
(なに……かしら……。 ゆっくりできないわ……)
男の声ともう一人の声。二つの声が混じり合って溶ける。溶け入った甘美な声はゆうかの元まで届いた。隣の部屋で行われて
いるであろう秘め事の光景を思い描くことはできないはずなのに、ゆうかの心には不快感だけが渦巻いていた。折り重なる二つ
の声を聞いているのが辛くて堪らない。自然と涙が溢れ出す。妖艶な声が強弱を繰り返しゆうかの元へと届く。ゆうかにはなぜ
自分が涙を流しているのかさえも分からなかった。
(おねがい……やめて……。 いや……)
誰へともなく向けられる懇願。その願いを受け入れる者は誰もいない。強く目を閉じる。唇を噛み締める。どうして今、雨が
降っていないのだろうかと天を呪った。聞きたくない声をかき消してくれるであろう雨は今日に限って降らない。
陽の光が入っても入らなくても。
雨が降っても降らなくても。
男の声が聞こえても聞こえなくても。
ゆっくりすることなどもうできないのだと、ゆうかは悟った。ゆうかは、既に自分という存在を見失っていたのだ。
六、
叩きつける雨。その凄まじい音のせいで男が扉を開けたことも、箱に近寄って来たことにも気づかなかった。不意に透明な箱
が持ち上げられる。その中で眠っていたゆうかは床をごろごろと転がり食べ残していた生ゴミへ顔から突っ込んだ。ゆうかの顔
中を腐った野菜の汁が垂れる。突然の出来事に混乱気味のゆうかだがそれでも言葉を発することができない。いつの頃からかゆ
うかはほとんど喋らなくなってしまった。男はゆうかを透明な箱に入れたまま隣の部屋へと移動していく。蛍光灯に照らされた
部屋のあまりの眩しさに目が眩みそうになった。男がテーブルの上に透明な箱を置く。その中でゆうかは覇気を失った顔できょ
ろきょろと周囲を見渡していた。不意に透明な箱の蓋が開けられる。逃げだそうと思えば逃げ出せたはずだ。極度の疲労とスト
レスがそれを許さなかった。
ゆうかは静かに目を伏せ男と視線を合わせようとしない。ボロ雑巾のような自分の醜い姿を見せたくなかった。今の自分には
男と視線を合わせる資格もない。憔悴しきっているにも関わらず、男を目の前にするとゆうかの想いがくすぶられる。本来なら
気にしなくてもいいはずのことまで気にしてしまう。
「……ゆうか」
「…………ッ!!」
男に声をかけられた。緋色の瞳を点にして男を睨みつけるように見上げる。少しだけ開いた口が塞がらない。その表情はゆう
からしからぬ、愛らしい……少し間抜けなものだった。男が箱の中に手を入れる。ゆうかは夢を見ているのではないかと我が事
を疑った。男の掌が両頬に触れる。それだけでゆうかの両の瞳からぽろぽろと涙が溢れ始めた。そのまま抱き締めて欲しかった。
いや、我儘は言わない。少しの間だけでもこのまま自分に触れていて欲しかった。しかし、素直になることはできない。
「やめて……おにいさんっ! ゆうかはきたないから、さわったらだめよ……っ!」
生ゴミまみれの顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら必死に言葉を紡ぐ。その訴えは本音半分、嘘半分。男はゆうかの訴えを
聞き入れなかった。そのまま、台所へと足を運ぶ。ゆうかは嗚咽混じりで必死に平静を保とうとしている。ゆうかは冷たい床の
上に載せられた。
「……ゆ?」
男の大きな手がゆうかの緑色の髪の毛に触れた。そのまま左手を下ろす。カチリという音が聞こえた。それから男は両手でゆ
うかの頭を押さえた。もともと疲労困憊のゆうかである。抵抗することは叶わない。また、抵抗する必要もなかった。男の手に
触れてもらえるというこ……
「ゆ゛う゛ぅ゛ぅ゛ッ??!!!」
思考が飛ぶ。思わず目を見開いた。あんよが押し付けられている冷たい床がどんどん熱くなってきているのだ。最初は温かい
と感じていたぬくもりが突如としてゆうかのあんよに牙を剥いた。サラダ油も敷かれていない冷たい床……フライパンの上でゆ
うかが顔をぶんぶんと振って抵抗を試みる。
「ゆ゛あ゛っ……ッ! あ゛づぃ……ッ!!! だずげで!!! おにぃ゛ざんっ!!!! あ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」
幸せは一転。地獄へと変貌した。ジュウジュウと音を立てながらゆうかのあんよが焼き焦がされていく。ゆうかは気が狂いそ
うなほどに暴れ叫んだ。どんなに冷静であっても、どんなに自分を律することができても。自分の体の一部を生きながらにして
焼かれるという苦痛は想像を絶するものだ。どんな生き物でもあっても耐えることはできないだろう。ゆうかの流した涙や涎が
フライパンに触れるたびに蒸発していく。ゆうかの絶叫は瀑布の如く振り続く雨音に混じり部屋の中に長らく響いた。
「が……ひっ…………ゆ゛……ぎぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッ!!!!!」
歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべる姿に希少種としての品格はなかった。男がこれまで遊びでいたぶり殺してきたゆっくり
たちと何一つ大差ない。炭化し始めたゆうかのあんよからは黒い煙が数条に渡り上がっている。フライパンに触れていた緑色の
髪の一部がちりぢりになって焼け焦げている。ゆうかのあんよを中心とした底部は全てフライパンで焼き尽くされてしまった。
「……痛いか?」
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ…………」
「れいむも同じ思いをしたんだ」
「…………っ」
「お前はれいむを動けなくした。 だから足を焼いてやった。 お前はもう一生動けない」
「あ……っ……、あぁああぁああ……っ」
あんよを動かそうとすると激痛が走る。フライパンにこびりついた焼け焦げたあんよがそこから離れようとしないのだ。無理
に動かそうとすれば皮が引き裂かれてしまう。ピクリとも動かすことのできないあんよを見てゆうかが顔面蒼白になって涙を流
した。
「ゆうかの……あんよさん……おねがい、うごいて……っ!!」
決して好きではない自分のあんよ。他のゆっくりよりも速く動くことはできず、獲物を使えるのにも一苦労だ。まだゆうかが
幼かった頃は狩りが上手くいかなくて何度も一人で泣いた。ゆうかは自分のあんよの遅さに少なからずコンプレックスを抱いて
いたのだ。だからこそ、速く走るどころか一歩たりとも動く事ができないにも関わらず悠然と佇む色とりどりの花はゆうかに尊
敬の念を抱かせた。花を見ていると自分の悩みが詰まらない事なんだと言い聞かせることができた。
「ゆぁぁ……っ!!! いやあぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
もう二度と。自分の意思で動くことはできない。大好きな花に駆け寄ることも、大好きな花の世話をすることもできない。そ
れだけではなかった。炭化してガサガサと崩れ落ちるあんよの醜いこと。この醜いあんよを晒して生きることはプライドの高い
ゆうかにとって死に値する屈辱だ。
ゆうかには飾りがない。あるいは、ゆうかにとってはプライドこそが命の次に大事な“お飾り”と言えるかも分からない。
「ゆ゛ぎゃああっ?!」
不意にあんよに走る激痛。視線を下に向ける。ゆうかのあんよをフライパンから無理矢理引き剥がそうとする道具が映った。
男がフライ返しを使ってゆうかのあんよとフライパンの間に押し込んでいるのだ。力任せに差し込むため、ゆうかのあんよの皮
がブチブチという音を立ててところどころ裂けていく。体内を抉るような痛みにゆうかは中身の蜂蜜をぱたぱたと吐き出した。
「ゆっ……ゆ、ゆ゛があ゛あ゛ッ!!!」
呼吸を整える暇もない。ついにゆうかは炭化したあんよの一部を引き千切られる形でフライパンから離れる事に成功した。前
髪を掴まれたゆうかがブラブラと揺れる。半分意識を失いかけていた。コンロに火をつける。男はゆうかの顔面をその火の中に
入れた。
「ぎゃああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!」
再び絶叫が上がる。空中で顔面を炙られているにも関わらず身動きはおろか抵抗すらできない。ただひたすらに無防備なゆう
かの顔が焼かれていく。目や口を開くと炎がその中に侵入して更なる苦痛を与えた。そのうちゆうかは言葉を発さなくなってし
まった。頃合いと見た男がゆうかを炎から離す。コンロの火を止めると、ゆうかをテーブルの上に仰向けに寝かせた。そこには
顔中が炭化寸前のゆうかの姿があった。唇は焼けただれ、歯茎が浮き出している。水分を失った舌。瞼の一部も焼け落ち、目玉
の一部が皮から覗いている。恐ろしい形相だった。あんよ焼きと顔面焼きを受けたこのゆっくりをゆうか種だと判別できる者は
いないかも知れない。
「俺はれいむの死に目に逢えなかった。 お前が、れいむをれいむだと分からなくなるまで踏みつけて殺したから。 だから、
俺もお前がお前だと分からないようにしてやった」
「かひっ……こひゅっ……」
切れ切れの呼吸。ゆうかは既に死を覚悟していた。このまま男に殺される。永遠にゆっくりさせられる。それでも、この痛み
と苦しみから解放させてもらえるのならば願いの範疇である。もはや涙も流れなかった。引きつったような表情のままでゆうか
が痙攣を起こしている。無表情の男の顔だけが視界に入った。
「…………ッ!!」
それから男の右手が視界に移る。その手には菜箸が握られていた。ゆうかは、もう悪い予感しかしないのか焼け焦げた顔でガ
タガタ震えている。涙が感情の表現の仕方を忘れたゆうかの顔を流れ落ちていく。泣くことも叶わなかった。命乞いの言葉すら
思いつかなかった。ゆうかの視線と男の持つ菜箸が同一線上に重なる。目の前にその残酷なまでの一点が迫る事に怯えたゆうか
が微かに顔を横に振る。ゆうかの右目に菜箸の先端が触れた。ゆうかが体全体をビクンと震わせる。そのままグリグリと眼球の
中心へと菜箸がねじ込まれた。
「ゆ゛っぎぃぃあぁぁ!!!」
「まだ叫ぶ元気残ってるじゃないか。 お前はれいむから光を奪った。 だから俺もお前から光を奪ってやる」
「あ゛ぁ゛あ゛ぁぁあ゛あ……ッ!!! ああぁ……い゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!」
ぶちゅぶちゅとゆうかの目玉から蜂蜜混じりの液体が噴き出す。深々と差し込まれた菜箸を何度も何度も回転させた。その度
にゆうかが歯をガリガリとこすり合わせてボタボタト涎を垂らした。寒気がする。もはや歯をカチカチと打ち鳴らすことさえで
きなかった。痛みと恐怖と絶望と。様々な思いと想いが交錯しゆうかの体と心の奥の奥をバラバラに破壊していく。ぐちゃぐち
ゃにかき混ぜられたゆうかの右目が形を成さない状態で涙と共に頬を垂れた。どうしてだろうか。ゆうかには理解できてしまう。
ゆうかの目玉はあと一つ、残っているのだ。また先ほどと同じ激痛がこれから自分を襲うと思うと怖くて怖くて堪らなかった。
「ゆ゛ぎゃああああああああ!!!!」
男は身動きの取れないゆうかの左目に何度も何度も菜箸を突き立てた。何回かに一回の割合で手元が狂うのかゆうかの顔を菜
箸が突き破る。既にゆうかの世界はその光を閉ざしていた。それに気付いているのか、気づいていないのか、男は狂ったように
ゆうかに菜箸を突き立てた。ゆうかの顔面の至るところに穴が開き、そこから蜂蜜が漏れ出す。
ゆうかはぐったりとして動く気配がない。男もゆうかをテーブルの上に放置し離れて行ってしまった。
(おにぃ……さん……どうして…………ゆうかのおはなしを、きいて……くれないの……? ゆう、か……は。 おに……さ、
に……さるびあ……さんをみて、ほしかった……だけ、なのに……)
ゆうかの眼球のあった場所から涙がぽろぽろとこぼれ続けた。これだけ泣いても涙は枯れないのだろうか。抉り出された二つ
の目玉の残骸がテーブルの上に転がる。
(ゆうか……しぬ、のかしら……。 しぬ、のよね……。 おにいさんに……“すき”っていいたかったな……。 おねぇさん
に……さるびあさんを……みせ、て……あげ、たか……)
口の中に柔らかい物が入れられた。ゆうかが一瞬だけ反応を示す。ゆうかには見えないがゆうかの目の前には男が立っていた。
男が持っている物をゆうかの口に少しずつ入れて行く。それから一言、呟いた。
「……食え」
「………………」
少しずつ。動かすことさえ億劫なはずの口を動かす。ゆうかにとって、男の言う事は絶対だった。従う必要などないはずなの
に、自ら張り巡らせた呪縛に捕えられ逃れられない。もそもそ、もそもそと乾いた舌の上で与えられた食事を咀嚼する。柔らか
なそれはゆうかの口の中に甘い世界を描き出した。
「むーしゃ、むーしゃ……しあわせー……」
飲み込む。少しだけ元気が湧いてきた気がした。男は更にゆうかの口の中に粒のような物を流しこんだ。ゆうかがそれも口の
中に入れて行く。
「美味いか?」
「……おい、し……。 おにいさ……ありが、とう……」
「そうか。 美味いか」
「…………?」
「れいむは、お前が育てたサルビアを食べようとしたから、殺されたんだっけか……?」
「なに……を……」
「れいむはな。 僕にサルビアを取って来てくれようとしていたんだ」
「……どう、いう……」
「僕はサルビアの花が好きでね。 れいむもその事を知っていた。 僕とれいむはお前が育てたサルビアを散歩の途中に見てい
るのが好きだった。 少しずつ花を咲かせていくのを見て、お前が頑張っているんだなということもわかった。 雨が続いたか
らな……。 僕とれいむの散歩の時間は少しずつ減って行った。 れいむは僕に“サルビアの花をプレゼントしてあげる”と言
っていたんだ。 れいむはサルビアをお前が育てたなんてことは知らない。 僕はれいむと一緒にお前の元にサルビアを分けて
貰いに行くつもりだった。 でも、れいむは一匹だけで家を飛び出してしまった。 僕の監督不行き届きだと罵ってくれても構
わない。 僕はれいむから目を離してしまった。 しばらくれいむを探して……」
「………………」
「サルビア畑に行ってしまったなら、お前と喧嘩をしているかも知れないと思っていた。 それが、な……。 まさか、殺され
るなんてことになるとは……一体誰が想像できるッ?! お前らゆっくりの間では同族殺しは禁忌じゃなかったのかッ?!」
「おねがい……っ!! ゆうかの、はなしも……ッ!!!」
「さっきお前に食べさせてやったもの……なんだかわかるか?」
「……え?」
真っ暗闇の世界でゆうかがピタリとその動きを止めた。男はゆうかの崩れた顔にギリギリまで自分の顔を近づけて囁いた。
「お前が育てたサルビアだよ。 “むーしゃ、むーしゃ、しあわせー”って言いながら食べたのは、お前が育てたサルビアなん
だよ」
「ゆ……? ゆゆ…………?」
ゆうかが小刻みに震え始める。それからゆうかは何かを言おうとした。男はそれを遮るようにゆうかを床に叩きつけて執拗に
踏みつけた。ゆうかの顔がぐしゃぐしゃに潰れて行く。中身の蜂蜜が何度も何度も飛び出した。男はゆうかを滅茶苦茶に踏みつ
けながら涙を流す。
ゆうかの残骸を見つめながら男が呟いた。
「……お前を……れいむと一緒に飼ってやろうと思ってた……」
床にばら撒かれた粒と袋。袋には“サルビアの種”と明記されている。男がゆうかに与えたサルビアの種は、男がゆうかに渡
そうとしていたものだった。男が立ちあがり窓へと歩み寄る。閉め切られたカーテンを開く。雨は小雨になっていた。そこには
まだ種を植えていない小さな花壇が作られている。小さな如雨露。小さな園芸用のスコップ。それぞれ二つずつ。
「…………。 もう、ゆっくりには関わらない…………」
男がゆうかの亡骸を花壇に埋めた。れいむのリボンも花壇に埋めている。男が部屋へと戻りカーテンを閉める。静かだった。
昨夜から降り続いた激しい雨が上がり、遠くの空に虹をかけている。
七、
「僕との結婚のこと……考えてくれたかい?」
ムードも何もあったものではない街のレストラン。その隅の席に向かい合わせで座っている男と女。男は真剣な目つきで女に
質問をした。女が目を伏せる。男が膝の上に置いていた拳をにぎりしめた。それから一呼吸置いて女が静かに語り出す。
「あなたから……初めてサルビアの花をプレゼントしてもらった時、私は有頂天だったわ」
「……どういうことだい?」
「赤いサルビアの花言葉……」
「花言葉?」
「そう。 赤いサルビアの花言葉はね。 “あなたの事ばかり想う”」
男が気恥ずかしさのあまりに思わず目を逸らした。女は慌てた様子の男を見てクスリと笑う。
「だからね。 私、一人で勘違いして小躍りして……。 あなたが意味深な態度であの花を私にプレゼントするものだからもの
すごく期待しちゃった」
「……はは」
「それからあなたに告白されて……付き合い始めて。 もし、あなたからプロポーズされたら私も花を渡して答えようと思って
た」
「それは……つまり……」
テーブルの一点を見つめて黙っていた男が顔を上げる。
女が座席に置いていた紙袋の中に片手を突っ込む。男は女の行動の一つ一つを目で追っては鼓動が速くなっていくの
を感じた。慈しむような目つきで取り出したそれをそっとテーブルの上に置く。
「…………サルビア……?」
幅広の葉が美しく巡り長めの茎が背筋を伸ばしている。その先端に咲き誇る花の色は青。情熱的な赤いサルビアとは対照的に
青いサルビアは涼しげに佇んでいるかのようだ。まるで高貴な深窓の姫君でも見ているかのような錯覚に男はしばし目を奪われ
ていた。女が嬉しそうに微笑む。
「……綺麗でしょう?」
「ああ。 僕は赤いサルビアしか見たことがなかったから……」
女が再び青いサルビアを手にとり、花を唇に当てた。それから顔を真っ赤にして男に差し向ける。男がそれを手にした。
「青いサルビアの花言葉は……」
「…………」
「“永遠にあなたのもの”」
時間が止まったかのように見つめ合う二人。どちらからともなく目を逸らし窓へと視線を移す。雨が降っていた。飲まずに放
置していたアイスコーヒーのコップが汗をかいている。
女は遠くを見つめていた。
(ゆうか……早くあなたに会いたいな……私があげたサルビアの種……。 ゆうかならきっと満開にできるはずだものね)
外ではすすり泣くかのような静かな雨がいつまでも降り続いていた。
いつまでも。
いつまでも降り続いていた。
おわり
日常起こりうるゆっくりたちの悲劇をこよなく愛する余白あきでした。