EthnoGraphic @ ウィキ内検索 / 「九州年号-皇紀対照表」で検索した結果

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  • 九州年号-皇紀対照表
    二中歴による九州年号総覧から作成 西暦 干支 皇紀 九州年号 異表記 517 丁酉 継体11 継体 1 518 戊戌 継体12 継体 2 519 己亥 継体13 継体 3 520 庚子 継体14 継体 4 521 辛丑 継体15 継体 5 522 壬寅 継体16 善記 1 善化・善紀・善喜 523 癸卯 継体17 善記 2 524 甲辰 継体18 善記 3 525 乙巳 継体19 善記 4 526 丙午 継体20 正和 1 正知・正治・正智 527 丁未 継体21 正和 2 528 戊申 継体22 正和 3 529 己酉 継体23 正和 4 530 庚戌 継体24 正和 5 531 辛亥 継体25 教倒 1 教到・殷到・發倒・発倒 532 壬子 安閑 1 教倒 2 533 癸丑 安閑 2 教倒 3 534 甲寅 安閑 3 教倒 4 535 乙卯 安閑 4...
  • 仮説/九州年号に基づく日本書紀記事年代の造作
    概要 日本書紀の信頼性 記事年代の造作九州年号から皇紀への振替白雉1=朱鳥1=皇紀朱鳥1(34年) 命長1=白雉1=皇紀白雉3(12年) 文武1=孝徳1=皇紀大化1(32年遡上) 九州年号による日本紀の復元 考察 概要 日本書紀は信頼性の乏しい記事がある 日本書紀は記事年代が造作されているからである しかし、具体的な造作の基準・法則はわかっていない 逸年号のうちの九州年号と日本書紀暦(皇紀)とで記事の整合性を調べ、日本書紀の原典「日本紀」への復元を試みる 日本書紀の信頼性 日本書紀の記述を次表の6つに分類できる。各分類の代表的な記事を挙げる。 一致 記述内容が他史料と一致するもの 矛盾 記述内容が他史料と一致しないもの 不備 日本書紀に記述がないが、他史料には現われるもの 非一貫性 日本書紀そのものの内で記述内容の意味が通らないもの 難波宮造営[1] 白雉班田[2] 重出 特に...
  • 日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)
    九州年号に基く編纂 天武紀持統紀には34年遡上で適切な記事がある持統吉野行幸(697→663) 天武の二重葬儀(688→654) 蝦夷朝貢(688-689→654-655) 僧尼献上(686→652) 34年遡上の規則性から何らかの編纂方針があったとみられる九州年号における「朱鳥・大化期」と「白雉・白鳳期」の記事へ置き換え朱鳥・白雉はいずれも9年 九州年号における「僧要・命長期」と「常色・白雉期」の記事へ置き換え僧要・常色はいずれも5年 九州年号を元に記事の移動をした持統・文武期を皇極・孝徳期へ置き換え女帝から男帝への皇位継承に合致 皇紀大化の改新の詔や諸制度改革の内容には、養老令や大宝令はじめ孝徳期では存在しない諸制度がある裏付けとなる 皇紀大化が二年ずれる裏付けとなる白雉改元記事は2月であり、2年後の正月条の直後に位置すれば整合する[1] 西暦 干支 皇紀 九州年号 原西暦 原干支 ...
  • 昔九州は独立国にて年号あり
    今泉定介  熊襲を果して呉の夫差の後にして夫差孝照帝の三年直に我国に来りしとすれは其養老四年 亡ふる迄千百九十三年なり此間日本王と称して支那と交通せしと明なり且独立の体面を装 はんが為年号を建てたるが如し蓋し支那にては独立国は必年号ある者とするを以て也今の 九州年号は熊襲の当時建てしものならん此年号百七十年間続けり其年号の挙けある書は麗 気記初抄・海東諸国記・如是院年代記・九州年号なり而れども各多少の差異あり今左に 九州年号によりて之を列示す 善記 我継体帝十六年より四年間(海東諸国記にハ善化とあり) 正和 同廿年より五年間 (我花園帝の時の正和に非ず) 殷到 同廿五年より四年間(海東にハ発例とあり) 僧聴 宣化帝元年より四年 明要 欽明二年より十二年(海東には同要とあり) 貴楽 同十三年より二年 法清 同十五年より五年 (海東には結海とあり) 兄弟 同廿年より二年 蔵和...
  • 白雉改元の史料批判:盗用された改元記事
    九州年号白雉元年壬子と改元記事の2年遡上 芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡白雉「三壬子年」なら白雉元年庚戌(650)に相当し日本書紀の記述が正しい 白雉「元壬子年」なら九州年号白雉元年(652)に相当し「二中歴」「海東諸国紀」が正しい[1] 皇紀白雉元年2月条の白雉改元記事も実際は(652)に相当する可能性がある 皇紀白雉元年2月条は、皇紀白雉3年正月条の次にくることで整合する正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明 復元三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。 本来の白雉改元記事 正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束 考察白雉改元記事直後の班田記事も同様ではないか、改新の詔との関係は 白雉改元記事が652年なら前期難波宮は造営済み...
  • 逸年号史料集成
    日本書紀等正史に記述がなく、他文献や金石文によって言及される元号のこと 一次資料日本書紀 続日本紀 九州年号(古写本n.d.) 二次資料二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考 茅窓漫録 三次資料 未分類 一次資料 日本書紀 元号 期間 開始 大化 6年 巻第廿五孝徳天皇 天豐財重日足姫天皇四年(645) 六月乙卯(19日) 白雉 5年 巻第廿五孝徳天皇 白雉元年(650) 二月甲申(15日) 朱鳥 1年 巻第廿九天武天皇 朱鳥元年(650) 七月戌午(20日) 続日本紀 大宝 4年 文武天皇 慶雲 5年 和銅 8年 元明天皇 九州年号(古写本n.d.) 二次資料 二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考 茅窓漫録 三次資料 未分類
  • 九州年号で見直す斉明紀: 安倍比羅夫の蝦夷討伐と有間皇子の謀反事件
    斉明紀の重出記事は九州年号と書紀年号の混同が原因 重出記事3年ズレ記事斉明4年是歳条の西海使伐還報告は、三国史記等で「斉明元年」 2年ズレ記事斉明4年、6年の安倍比羅夫の粛慎討伐 1年ズレ記事安倍比羅夫の蝦夷討伐○「四年夏四月」と×「五年三月是月」 福信の唐捕虜献上「斉明6年」と×「斉明7年」 斉明紀の重出記事は白雉年号と斉明年号および書紀白雉と白雉年号の混同構造3年 斉明元年は白雉4年で、斉明4年は白雉7年 2年 書紀白雉7年は斉明2年 1年 元の斉明元年の記事が斉明2年に現れる 安部比羅夫の蝦夷征伐と軍事基地吉野での蝦夷討伐軍の激励の行幸と宴斉明4年四月戊寅二六日伊勢行幸・肆宴(元記事は斉明5年3月) 四月庚辰二八日平浦行幸 有間皇子謀反 3年5月 「皇孫建王」が死。斉明陽狂 元斉明三年五月条 有間皇子はこの機を捉え、牟婁津でのクーデターを企画 同斉明三年一一月条「或本」 9...
  • 白雉年間の難波副都建設と評制の創設について
    天武紀・持統紀における、前期難波宮改造および伊勢王恩賞下賜と白雉年間為政の一貫性 天武紀・持統紀における非合理記事前期難波宮改造孝徳朝に遷都した前期難波宮に羅城を築こうとする 天武8年12月に癸卯の日はなく暦日の不存在がみられる 伊勢王恩賞下賜唐突に出てくる境界画定記事 恩賞下賜の必然性 前期難波宮造営や伊勢王関係の記事が孝徳朝白雉年間にも見られる 前期難波宮改造や伊勢王恩賞下賜の記事を34年遡上(649~651)させる天武紀・持統紀には34年遡上できる記事がある天武の重複葬儀 蝦夷朝貢 吉野行幸 遡上した場合の白雉年間の為政白雉年間の難波宮に関する記事と整合 白雉年間の伊勢王改元記事と整合 東国経営拠点整備の一環として白雉年間の信濃関連記事が伊勢王の行動と整合 斉明朝の蝦夷朝貢・征伐に一貫性が生じる 西暦 干支 書紀年号 九州年号 元記事 前期難波宮・藤原宮 伊勢王・蝦夷 645 乙巳...
  • 参考文献
    論文飯田武郷 今泉定介 古賀達也 中村幸雄 西村秀己 正木裕 古田武彦 図書通史 紀事 天文 逸年号史料 金石文 論文 飯田武郷 飯田武郷.``倭と日本は昔二国たり 卑弥呼は神功皇后に非す . 日本史学新説 広池千九郎編. 1892(明治25年), pp.10-12. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー全国書誌番号 40012659. 今泉定介 今泉定介.``昔九州は独立国にて年号あり . 日本史学新説 広池千九郎編. 1892(明治25年), pp.6-10. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー全国書誌番号40012659. [部分編集] 古賀達也 古賀達也. “百済武寧王陵碑「改刻説」補論”. 古田史学会報. 1999, 31号. http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou31/koga31.html . 古賀達也. “木簡...
  • 未分類
    未分類 新撰姓氏録によると、諸蕃のうち、大半が百済で、高句麗・任那、漢呉と続き新羅は1%程度 最後の古代年号(九州年号)の大長9(712=続日本紀の和銅5)年に、九州王朝滅亡と考えられる。   翌年4月、日向国を分け大隅国を置く。7月、隼賊討つ将軍士卒たち1280余人を授勲。(続日本紀※) ↓  このときは、元明女帝。 68 九州王朝畿内出張所は、九州王朝系の天武に滅ぼされました。 ※この授勲に対応すべき戦闘記事がない(←例によって九州王朝かくし)。前年で九州年号終了が傍証と考える。 古賀達也さんが 古代に真実を求めて第11集(2008)に書いている。(←好き嫌い関係なく読むべし) なお、こののちの熊襲の反乱は、後九州王朝の抵抗と見る。 例えば、大伴旅人の活躍(日本書紀成立720前後)    ~ジョーダンないし軽蔑のつもりかも知れぬ...
  • 制作進行
    お知らせ 現在、主に8世紀以前の日本の歴史の復元に取り組んでいます。 国家「日本」のはじまりは天智天皇から始まるという説があるようです。 日本の正史は日本書紀からはじまりますが、日本書紀には重出記事があったり、考古資料や他の文献と矛盾したり、明らかに作為的な年代引き伸ばしがみられたりと、記述の信頼性にかなり難点があることがわかっています。まず、日本書紀の信頼性について調べてみています。 日本書紀 また、日本書紀の記事年代が他史料と整合性がとれる形で復元できれば、より正確な時期がわかる でしょう。復元手法としては紀年論と逸年号という話があるようです。 日本書紀の紀年論 逸年号 万葉集では、ヤマトの表記として「日本」が文武朝から現れます。 万葉集「ヤマト」考 古事記序文に現れる稗田阿礼への暗誦の詔勅は文武朝という説があるようです。 どうも、日本の成立...
  • 誤読されていた日本書紀: 天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察
    天皇の神格性通説皇室の祖先である天照大神は最高神である 最高神の子孫である天皇も同様に神である 最高神の子孫全てが神であるわけではなく、天皇位を継承したものが神と呼ばれる 天皇位を継承した者のみと限定される理由があるはずである古代国家における祭政一致の政治体制を確立することで天皇号が成立し、天皇=神の定型が完成した(鳥越憲三郎説)古代国家の政治体制の基本は祭政分離の兄弟統治であった 壬申の乱に勝利した後の天武朝で祭政一致を見る したがって、天皇および天皇=神の成立時期は天武朝である 記紀の記述では常に兄弟統治をしているわけではなく、むしろ、兄弟統治の方が稀。 天皇は天命を受けた高祖から天命を継承するから神なのである中国における王朝の開始は、天帝-天命-天子-高祖を構成して説明がなされる 日本書紀神代紀では、天照大神-天壌無窮の神勅-天孫-皇祖=ニニギ命という構成である神武即位前紀“ 神日本...
  • 壬申の乱の大道
    郡評論争 大化の改新の詔の矛盾 日本書紀の大化の改新(645)から「郡」制を開始のはずが、各地出土木簡は「評」こおりである7世紀後半7世紀末まで「評」こほり、8世紀から「郡」こおり 奈良県藤原宮の木簡「評」 静岡県浜松市の伊場の木簡「評」 地方行政単位の変遷国縣制「国主(クニヌシ)」- 国(クニ)「縣主(アガタヌシ)」- 縣(アガタ)「稲置(イナキ)」- 県(コホリ) 大化以降 国は廃止- 世襲の祭祀職として存続、国造の人員は、「評」の役人となる「評造」「評督」「助督」 律令導入大宝まで 国評里制「国」の設置、下部組織としての「評」、50戸を単位とする「里」 大宝以降 国郡制 「評」の代わりに「郡」を設置し、「評造」「評督」「助督」から「郡司」に任命される 養老以降 郷里制- 里の代わりに「郷」を置き、「郷」の下に「里」を置く 天平期に里を廃止 国郡は近代まで存続 「評」は南朝の制...
  • 仮説/「日本」ひのもとクサカ由来説
    「日本」ひのもとクサカ由来説とは、国家「日本」の国号が「ひのもとクサカ」地名命名譚に由来とする仮説。次の2者の説がある。 ニギハヤヒ命名「日下・日の出」谷川説 ニギハヤヒ命名「日下」Isshun説 概要 天神の子孫であるニギハヤヒが河内のクサカに天下った時に、日の下の国を見てひのもとと名付け、日の出にあたって葦原中国をひのもとのクニと呼んだ クサカの地からをひのもとと称しそれが大和一国へと拡大し、最終的にはヒノモトヤマトと表記する場合も、大和一国ではなく日本国を指すようになった 神武が河内、大和に進出する以前にニギハヤヒを奉載する人々がいた 大和朝廷の東方進出とそれにともなう蝦夷勢力の後退で、ひのもとは奥州の蝦夷地へと移動していき、日高見国も大和国から常陸国そして奥羽国の北上川の流域へと移っていった ニギハヤヒ命名「日下・日の出」谷川説[1] 日本という国号の由来は日下クサカである河内...
  • 倭と日本は昔二国たり 卑弥呼は神功皇后に非す
    飯田武郷 後漢書・魏志・北史・隋書・三国史記に倭女王卑弥呼(ヤマトノジョウオウヒミコ)とある人を 神功皇后なりと本居宣長の云ひしより後全く定説となりたれとも是大なる誤なり」先上代に彼国 にて倭国と云ひしハ我日本全国のことにハあらすして西偏の一地方をさすもの也其ハ前漢書地理誌 楽浪海中有二倭人一分為二百余国一以二歳時一来献見とあるを始め北史に倭国在百済新羅東南水陸 三千里於二大海中一依二山島一而魏時譯通二中国一三十余国皆自称レ王云々なとあり之は今の九州 地方のことにて日本全国に非す尚証を上くれバ彼国にて九州の内南は日向大隈の域ハ筑前国 (今王那珂郡)辺迄を倭国と云ひしなり其は旧唐書に倭と日本を別になし又日本国倭国之別種也 ともあり其は後漢書に倭奴国と云が始て見へて倭国の極南界とあり之は北史に引ける奴国の上に 倭の字を置きたるにて(之を彼委奴国王印とある委奴とするハ非也)倭の...
  • 削偽定実の真相: 古事記序文の史料批判
    古事記序文中の「帝紀・旧辞暗誦」詔勅は、天武ではなく文武の発布 古事記序文の非合理性事実「削偽定実」のために、天武から稗田阿礼へ帝紀・旧辞暗誦の詔勅より元明から太安麻呂へ撰録を命じるまで25年 神武・仁徳・天武を称揚するも直系祖先の継体は見えず 構造詔勅中の酉年二月に清原の大宮で天位に就いたのは、従来、癸酉年即位で飛鳥浄御原宮で執政した、天武天皇とみなされてきた 帝紀・旧辞暗誦の詔勅は従来天武と考えられたが、文武である主張文武は丁酉年697年即位 従来、文武天皇即位前の694年に藤原京に遷都しており、697年の即位は当然藤原宮とみなされてきたが、十年後の慶雲元年(704)十一月二十日条に「始めて藤原宮の地を定む」とある したがって、704年まで藤原宮の前宮、飛鳥浄御原宮にいたともみなせる 適用詔勅拝命時28歳だった稗田阿礼は、撰録時の元明天皇和銅4年(711)時には42歳以下 また、序文に...
  • 日本書紀
    日本書紀は、日本の歴史書。伝存最古の正史で神代から持統天皇の治世までを記述する。舎人親王らの撰で養老4年(720)に完成。構成は、漢文・編年体で全30巻・系図1巻。系図は失われている。 概要 構成文体・用語 紀年・暦年 依拠史料 記述の信頼性考古資料・文献資料との一致 非一貫性 矛盾 不備 非合理性 概要 誰が、誰のために、どういう目的で、どのように作られたか どれくらい信頼できて、どんなことがわかるか 構成 文体・用語 各巻によって語彙・語法の奇用や使用されている音韻の違いがみられ、大まかにα群とβ群に分けたうち奇用のないα群を中国人が、そうでないβ群を日本人が編纂を担当したと推定されている。 森博達.“日本書紀成立論小結 併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず”. 国語学. 54(3), 日本語学会, 2003, pp.1-15. 紀年・暦年 日本書紀では、...
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