Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1793a」で検索した結果

検索 :
  • H1793a
    1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着 1727年、吉郎次、牡鹿郡小竹浜(石巻市小竹浜)で生まれる。 1744年、津太夫、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)で生まれる。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 宝暦11(1761)年、儀兵衛、陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)で生まれる。姓は奥田、源三郎倅。儀平とも。宗旨禅宗。 1762年、左平(太兵衛とも)、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢出身。長九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 1764/04/08、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれる。 1770、太十郎(太十、太平とも)、陸奥国桃生郡深谷室浜で生まれる。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。 1770、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン|Ivan...
  • H1783a
    ...ツクで若宮丸儀兵衛(H1793a)と同居する。 1796年夏、庄蔵、イルクーツクで死亡。享年45歳。若宮丸儀兵衛(H1793a)に見とられる。 1796/07/20、ラジシチェフ、イルムスクにてヴォロンツォーフ宛て書簡。ラスクマンの死を確認し、深い哀悼の念にみちている。 寛政9年(1797)、大黒屋光太夫に嗣子、大黒梅陰が生まれる。 寛政10年(1798)10~11月、磯吉、故郷に帰り1ヶ月滞在する。 寛政11年3月13日~4月2日(1799/04/17~05/06)、京都の伏見桃山で小市遺品が展観される。 1802年、ラジシチェフ、自殺。 享和2年4月22日(1802/05/24)、大黒屋光太夫、帰郷を許され、亀山代官所に到着する。 享和2年4月23日(1802/05/25)、大黒屋光太夫、村役人や親類の者たちと同道して若松村に帰る。 享和2年6月、大黒屋光太夫、...
  • 荒川秀俊, 1962
    ...陸奥国の者4人口書 H1793a 能州羽咋郡塵浜村清兵衛異国漂流口書写 H1830b 呂宋国漂流記 H1841c 漂客談奇 H1841a 漂流奇談 H1841a 栄寿丸漂流口書 H1841b 漂流記 H1850a 無人嶋ヨリ帰国之者御調書上留 H1719a, H1739a, H1785a 無人嶋漂流記 H1785a
  • 年表
    ...ーシャン諸島に漂着 H1793a 1804年 陸奥慶祥丸、北千島に漂着 H1804a 1807年 文化魯寇 R1807a 1808年 通州の船頭ら薩摩防津に漂着 H1808a 1810年 摂津歓喜丸、カムチャツカに漂着 H1810a 1812年 高田屋嘉兵衛、ロシア兵に拉致される R1812a 1832年 宝順丸遭難。3名がアメリカへ漂着 H1831a 1841年 中浜万次郎(ジョン万次郎)、鳥島へ漂着 H1841a 2005年 津軽海峡で外国人6人漂流 H2005c 2005年 NZで漂流の邦人女性救助 ダイビング中にはぐれる H2005d 2005年 香港を出発した船沈没し乗員2名、ベトナム沖で救助される H2005e What s New 取得中です。
  • H1293a
    高麗国に漂着した日本人8人が捕らえられる 1293年(H1293a) 永仁元(1293)年、高麗国に漂着した日本人8人が捕らえられる。元寇による緊張関係により帰国できなかった。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • O0793a
    四天王深草が隠岐国へ配流 793年 延暦12年10月6日(793/11/13)、四天王深草が父を殴る。律によれば斬刑とすべきであるが、勅により死刑を減じて隠岐国へ配流した。 森田悌, 2006. 日本後紀 上. 講談社.
  • O1790a
    1790年 ラジシチェフ、シベリアに流刑 1749年、ラジシチェフ|Aleksandr Nikolaevich Radishchev(ラジーシチェフとも表記)、モスクワの貴族の家に生まれる。 1766年、ドイツのライプチヒ大学に留学(~1771)。 1771年、帰国して元老院に勤務。 1773年、軍法会議の法務官に転じた。 1777年、商務省に勤務。 1780年、ペテルブルグ税関の副長。 1783年、頌詩 (しようし)《自由》 を著す。ロシア最初の革命詩。 1788年、自伝的小説《 F.V.ウシャコーフの生涯》を著す。 1790年5月、奴制を激しく批判した「ペテルブルグからモスクワへの旅」を自宅の印刷所で印刷,出版したが,ただちに発禁となり,彼も逮捕され,死刑を宣告された。「ペテルブルグからモスクワへの旅」は、一旅行者の手記の形で,農奴制下の農民の...
  • H1786a
    1786年 サポジニコフ、アムチトカ島で座礁 1769年、イヴァン・プロトジャコノフ(イワン・ホロシヒチ・テカノフ, ヤクーツクの商人)、水夫長ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフら39名のロシア人を率いてウルップ島に渡来。 1770~1771年、択捉島アイヌと衝突 1771/9月、プロトジャコノフ、サポジニコフら生き残った18人がカムチャツカに帰着 1786年7月、サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。アムチトカ島に上陸し大黒屋光太夫(H1783a)らと会う。 1787年春、アムチトカ島で船の建造にとりかかる。 1787/07/29、作った船キリル・アレクサンドロスキー号で大黒屋光太夫らとアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウ...
  • R1807a
    ...次、 若宮丸漂流民(H1793a)についての評議を命じられる。 文化2年6月6日(1805/07/02)、中川五郎次、若宮丸漂流民(H1793a)の領主引渡しを答申。 1805/07/30、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ(津太夫ら(H1793a)を帰国させた人)、7月18日(ユリウス暦)付けでウナラスカ島から「武力による対日通商関係樹立」のことをアレクサンドル1世に上申。上申後、アラスカのノヴォアルハンゲリスクに赴き、部下のニコライ・アレクサンドロヴィチ・フヴォストフ中尉、ガヴリイル・イヴァノヴィチ・ダヴィドフ士官候補生を指揮者とし、ユノナ号・アヴォス号からなる樺太・千島の日本基地攻撃隊を組織する 文化2年12月(1806)、源七、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化3年5月(1806)、大村治五平、択捉島シャナ詰。 1806/10/06、ニコライ・ベト...
  • H1804a
    ...門文内ら6名、善六(H1793a)、ピョートル・ステファノヴィチと会い、善六方に止宿。 1805/07月中旬、継右衛門文内ら6名、カムチャツカから脱走。脱走後1ヵ月後にポロムシリ島に到着。 1805/09月中旬、継右衛門文内ら6名、ポロムシリ島からラショワ島アイヌのマキセンの船で南下しこのころラショワ島につく。越冬する。ここでズヴェズドチョトフの部下男9名、女2名、女児2名と出会う 1806/04/01(文化3年2月13日)、継右衛門文内ら6名、マキセンらとラショワ島を出発。 1806/06/01(文化3年4月25日)、継右衛門文内ら6名、マカンルル島に到着、マキセン・ケレコウリツら一行15名と会う。 継右衛門文内ら6名、レブンチリホイ島に渡る。 1806/07/01(文化3年5月26日)、継右衛門文内ら6名、レブンチリホイ島を出発。 1806/08/0...
  • H1741a
    1741年 ベーリング、ベーリング島へ漂着 1681年、ベーリング|Vitus Jonassen Bering、デンマークで生まれる。 1703年、ベーリング、ピョートル 1 世治下のロシア艦隊に勤務。 1724年、ベーリング、シベリアとアメリカ大陸間の海域探検隊の隊長に任命された。 1725年、ベーリング、第1回北太平洋探検(~30) この探検に、ヤコフ・マクシモフ(H1713a)が参加していたとも言われる。 1726年、マルティン・ペトロヴィチ・スパンベルグ、スパンベルグ支隊を率い、13艘の平底舟でヤクーツクを出発。レナ川、アルダン川、マイー川を経てユドマ川へ。 1726年8月末、ベーリング、ヤクーツクを出発。663頭の馬を動員。 1726年10月中旬、ベーリング、オホーツク着。267頭の馬を失う。 1726年11月初旬、スパンベルグ、ユドマ川で氷に閉じ込め...
  • H1712a
    1712年 亘理郡荒浜船、広東へ漂流 1712年、亘理郡荒浜船、漂流する。 1713年、広東から帰還。 1739年、1713年に広東から帰還していた漂流民をスパンベルグ船(H1741a)の見極めに当たらせる。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1765c
    1765年ごろ 陸奥住吉丸漂流 1765年ごろ、陸奥住吉丸(6人乗り)小名浜から漂流した。うち3名は姫宮丸(H1765b)の6名合流。姫宮丸の2人が死亡。残った2組7人が1767年長崎に帰国。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1765b
    1765年 常陸姫宮丸、安南(ベトナム)に漂着 明和2(1765)年11月、常陸の船姫宮丸(6人乗組み)銚子沖で遭難。安南(ベトナム)に漂着。漂着先で働き、賃金を得て生活。その後、会安(フェフェ)に送られ、そこで小名浜から漂着した陸奥住吉丸(6人乗り)(H1765c)の3人と合流。姫宮丸の2人が死亡。残った2組7人が長崎に帰国。 1767年、4人が、住吉丸の3人と長崎に帰国。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1708a
    1708年 日本人がカムチャツカに漂着? 1708年、日本人( 4人?)がカムチャツカに漂着(?) 1710年、カムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行かれ、代官のピョートル・チリコフに引き渡された4人の日本人は、一般にはサニマ(H1710a)らとされるが、この日本人とする見方もある。
  • H1713b
    1713年 キスチ(日本人?)、ポロムシリ島に漂着? キスチ 日本人漂流民か?喜助? シャノタイ:アイヌ キスチ、シャノタイの2名が、ポロムシリ島で、サニマ(H1710a)を連れ千島探検中のコジレフスキーに引き渡される。1713年5月にカムチャツカに到着。
  • H1739a
    1739年 江戸宮本善八船、鳥島に漂着 元文4年3月29日(1739/05/06)、江戸宮本善八船、本船破船ではしけで漂流し鳥島に17人漂着。遠州鹿丸(H1719a)の生存者3名と出会う。 元文4年4月27日(1739/06/03)、遠州鹿丸の3人と20人ではしけに乗り、鳥島を出帆。 元文4年5月1日(1739/06/06)、八丈島にたどりつく。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社.
  • H1693a
    1693年 安南国王、漂流民送還を謝す 元禄6(1693)年5月、安南国王、書を長崎鎮臺に寄せ前年広南の漂民18人を送還するを謝す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1710a
    1710年 サニマ(日本人)、カムチャツカに漂着 宝永6年11月(?)(1709/12月)、サニマ、日本を離れる。紀州出身説もあるが、東北地方南部の出身説も。 1710年4月(?)、サニマ、カムチャツカの太平洋岸、ペテロパウロフスクの北方のカリギル湾ボブロヴォエ海岸に漂着。10人の仲間とともに上陸するが、カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕虜になる。間もなく、カムチャダール人とロシアのコサック兵との戦闘が起こり、その戦闘でさらに日本人2名が死に、残るサマニら4名がロシア人の捕虜となる。ロシア人はサマニらをカムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行き、代官のピョートル・チリコフに引き渡した。 ピョートル・チリコフに引き渡された4名の日本人は、1708年にカムチャツカに漂着した別の日本人(H1708a)で、サマニらは4人がカムチャダール人に殺され、6人がコサックの...
  • H1719a
    1720年 遠州鹿丸、鳥島に漂着 享保3年(1718)11月、鹿丸(大鹿丸とも)、遠江国敷知郡新居湊(静岡県浜名郡新居町)を出帆。船頭左太夫をはじめ9人が乗船。 乗船者 左太夫 鹿丸船頭 新居町出身 甚八 楫取 新居町出身 46歳 仁三郎 水主 新居町出身 40歳 平三郎 水主 新居町出身 21歳 善三郎 水主 新居町出身 八太夫 水主 新居町出身 権五郎 水主 新居町出身 善右衛門 炊 新居町出身 享保3年(1718)12月、鹿丸、江戸に到着。ここで増水主2名を得る(都合11名)。まもなく江戸を出帆。岩地の湊(静岡県賀茂郡松崎町岩地)に入り新年を迎える。 享保41月か2月、鹿丸、岩地出帆。三河国鷲塚湊(愛知県碧南市鷲塚)に投錨。14~15日逗留。 享保4年(1719)秋、鹿丸、遠江国新居の船。このころ仙台荒浜で御城米を積み込んで、上乗り1人を交え、12人乗りこみで出帆。銚...
  • H1813a
    文化10(1813)年10月初め。重吉ら14名督乗丸に乗り込む。 重吉、督乗丸船頭。乗船時29歳。長右衛門、金兵衛とも。尾張国知多郡半田村荒古(半田市半田)出身の百姓。同国幡豆郡一色村佐久島(一色町佐久島)の善三郎次男で、半田村荒古の庄兵衛養子。15歳より船に乗り、文化10年伯父長右衛門に代わって督乗丸船頭。宗旨浄土真宗。菩提寺半田市中村の雲観寺。のち小栗姓を与えられる。叔父の長右衛門は、督乗丸の本来の船頭。この時、船頭は支障があり、重吉が仮の船頭を頼まれた。箱館での文書には長右衛門として差し出している。 音吉、水主。出帆時27歳。伊豆国加茂郡子浦中野町(静岡県賀茂郡南伊豆町)出身。甚太郎次男で伝蔵の弟。18歳頃より船乗渡世。宗旨浄土宗。 要吉、水主。尾張国名古屋矢場(名古屋市中区矢場)出身。 七兵衛、水主。七蔵とも。半田村出身。 藤助、楫取。半田村荒古出身。藤七倅。宗旨浄土真宗。菩提...
  • R1693a
    1693年 安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される 元禄6年3月17日(1693/04/11)、大谷家の船が鬱陵島へ上陸すると、再び大勢の朝鮮人がアワビを採る姿に遭遇した。話を聞こうと思ったが言葉が通じず、別の浦へ船を回すとそこにも10人ほどの朝鮮人がいた。なかに日本語を話す者がおり、もう一人の朝鮮人とともに船に乗せ、事情を聞きだした。男の話によると、「自分の名前はアヒチャンでもう一人はトラヘ」とのこと。「官命によってアワビ採りに出たが、昨年、この島に漂着したものがたくさんのアワビやコンブを持ち帰ったことから、鬱陵島へやってきた」と来島の経緯を語った。大谷家の船頭たちは2人をそのまま米子へ連れ帰る。 元禄6年4月20日(1693/05/13)、隠岐島福浦へ到着。隠岐島在番の松江藩役人によって2人への尋問が行われた。朝鮮側の記録では安龍福は「朝鮮人が自分の領土に入っただけなの...
  • H1713a
    1713年ごろ ヤコフ・マクシモフ(日本人)、カムチャツカに漂着 1713年または1714年、ヤコフ・マクシモフ(日本人)、カムチャツカに漂着。 1724年、ベーリングの探検隊の一員に任命される。 1725-30年、ベーリングの第1回探検に参加したと考えられている。
  • H1773a
    1773年 薩摩藩士ら舟山諸島に漂着する 安永2(1773)6月、薩摩藩士、池山喜三右衛門、中原仲左衛門ら17人、永良部島に在番し、この月、名覇を出帆して帰ろうとした。大風に遭い、1ヶ月ていど漂流する。 安永2(1773)8月、浙江舟山において破船し、小舟に乗り上陸す。 安永3(1774)3月、清船で長崎に護送される。 「永良部島」は沖永良部島か口永良部島のいずれか、「名覇」は那覇と思われる。薩摩藩士らが所用で那覇に赴き、「永良部島」に帰ろうとして遭難したと解しているがどうだろうか。もしそうならば、位置関係からいって、「永良部島」は沖永良部島が妥当と思われる。 Map 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1728a
    1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) 享保13年11月上旬(1728/12月上旬)、17人の日本人を乗せた御用船「若潮丸」が薩摩から大坂に向けて出帆。積荷は大坂の薩摩屋敷への御用米のほか紙・絹織物・紫檀など。 ゴンザ 若潮丸の楫取の子で、出帆時10歳(一説11歳)の少年。水主見習の炊役。 ソウザ 商人の子。父の死後跡を継ぐ。出帆時35歳(1693年生まれ)。上乗役。 ほか15名乗船 享保13年11月8日(1728/12/08)、嵐に遭遇 8日間も悪天候の中、風波にもまれる。 享保14年6月7日(1729/07/02)、6ヶ月と8日の漂流の末、カムチャツカ半島の南端ロパトカ岬付近の東海岸に漂着。一行は小船で上陸して仮小屋で過ごしたが、そのうち親船は嵐のため流出してしまう。 1729/07/05頃、コサック50人長アンドレイ・シュティン...
  • H1243a
    高麗の漂流民を送還 1243年(H1243a) 寛元元(1243)年9月、高麗の漂流民を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1553a
    リチャード・チャンセラー白海に漂着 1553年(H1553a) イギリス人船長リチャード・チャンセラーは1553 年白海に漂着して西ヨーロッパとロシアの北方交易路を開いた。
  • H1183a
    邦人73名、宋に漂着(H1183a) 寿永2(1183)年、邦人(姓名不詳)73名、宋の秀州華亭県に漂着す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1403a
    明船、相模三崎浦に漂着 1403年(H1403a) 応永10(1403)年8月、明船1隻、相模三崎浦に漂着す。鎌倉管領足利利満は伊藤貞次、梶原影貞に命じて、之を検せしむ。船中載する所の宝物を収め、糧食を与えて帰らしむ(北条五代記) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1752c
    1752年 春日丸、中国舟山に漂着 宝暦2年(1752)、陸奥国本吉郡気仙沼村の船、春日丸、漂流し、中国浙江省寧波府定海県舟山に漂着。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1752b
    1752年 十三夜丸、台湾に漂着 宝暦2年(1752)、陸奥国相馬の船十三夜丸、漂流し台湾に漂着。歓待される。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1757a
    1757年 志摩若市丸、台湾に漂着 宝暦7年9月(1757)、志摩の船、若市丸(6人乗り込み)、大王埼沖で遭難。台湾に漂着。150日間の漂流中、2人が死亡。台湾で1人死亡。厚遇される。3人が福州、南京、乍浦に送られ、宝暦9年(1759)長崎に帰国。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1756a
    1756年 陸奥国津軽郡石崎村治右衛門船朝鮮に漂着 宝暦6年(1756)、陸奥国津軽郡石崎村治右衛門船、朝鮮に漂着。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1727a
    1727年 小笠原貞頼、小笠原渡航を目指すが帰らず 文禄2(1593)年、小笠原民部大輔貞頼、小笠原諸島を発見(伝説)。 享保12(1727)年、小笠原貞任、小笠原貞頼の子孫と称し、幕府に小笠原渡航を願い出て許され、一族の者を行かせたが、それらはついに帰らずじまいであった。
  • H1764a
    1764年 伊勢丸、ミンダナオ島に漂着 1764/11/10(明和元年10月17日)、筑前国唐泊浦(福岡市)の直乗り船頭十右衛門、楫取仁兵衛、金七をはじめ、20人の船員が仙台領箒の浦を伊勢丸で出帆して江戸に向かう 1764/11/12(明和元年10月19日)、夜九ツ(午後12時)ころから大西風が吹く。 1764/11/14(明和元年10月21日)、かじが折れ、帆柱を切り倒し、跳ね荷もする。船板でかじを作る。 1764/11/16(明和元年10月23日)、作ったかじも折れ、漂流する。 1764/12月中旬(明和元年11月下旬)、北東貿易風帯に入り、東風に変わる。ミンダナオ島に漂着。掠奪に遭う。奴隷にされ、その後、転売される。孫太郎はパンジェルマシンで中国商人の奴隷となったが、主人の善意で帰国。 1771/07/27(明和8年6月16日)、孫太郎、孫太郎一人だけオランダ船に乗りボル...
  • H1765a
    1765年 トルストゥイフ、カムチャツカで暴風に遭い死亡 1746年、アンドレヤン・トルストゥイフ、カムチャツカに出現。船員としても毛皮採集の組織者としてもすでに経験を積み、数人と共同で会社を作っていた。 1747年、トルストゥイフ、彼の会社は聖イオアン号をカムチャツカ川で進水させ、アレウト列島西端のコマンドルスキー諸島で越冬した。 1749年、トルストゥイフ、出帆。 1752年、トルストゥイフ、ラッコ1700頭、キツネ7000頭を捕獲。 1757年7月(ユリウス暦)、トルストゥイフ、新船を建造してアッツ島に上陸。 1759年、トルストゥイフ。カムチャツカに帰る。 1760/10/08、トルストゥイフ、アンドレヤン・ナタリヤ号の船主となり、この日ニジネ・カムチャツクを出帆、北東に向かう。 1761年、トルストゥイフ、アンドレヤノフスキエ諸島を発...
  • H1643a
    オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けて...
  • H1079a
    高麗人40人を送還 1079年(H1079a) 承暦3(1079)年9月、高麗人安光ら40人を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1171a
    伊豆国奥島に太平洋諸島民(?)漂着 1171年(H1171a) 承安元(1171)年、伊豆国奥島に色が赤黒く裸体で腰蓑をまとい入墨をした人々が漂着。 太平洋諸島民か? 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1744a
    1744年 南部多賀丸、北千島に漂着 延享元年11月14日(1744/12/17)、陸奥国南部領北郡佐井(青森県下北郡佐井村佐井)を出発(17人乗り組み)。 大湊港(青森県下北郡大畑町)に立ち寄り、大豆・昆布・鰯糟などを積み江戸に向かう。 竹内徳兵衛 船主・船頭 佐井出身 磯次 八兵衛または七五郎 勝右衛門 竹内徳兵衛親族 伊兵衛 陸奥国閉伊郡宮古浦(岩手県宮古市)出身 久太郎または喜十郎 佐井村出身 三之助または佐之助または佐五兵衛 利八郎または利八(=イガチ?) 久助または長助、長松、長作、長之助 陸奥国宮古浦出身 長助または久助、長松、長八 陸奥国北郡大間村出身 利助 水主 ほか6名 延享1年11月28日(1744/12/31)、嵐で遭難。漂流中6名が死亡。 延享2年4月13日(1745/05/14)、残る11人は本船が使えなくなったので小船に乗り移る。 ...
  • H1788a
    1788年 ペルーズ、バニコロ島に漂着 1741年、ジャン・ラ・ペルーズ、フランスで生まれる。 1756年、ペルーズ、海軍に入る。 1775年、ペルーズ、アジア東北沿岸探検のためフランスを出発。 1776年、ペルーズ、アメリカ独立革命に遠征した(~78)。 1785年、ペルーズ、ルイ 16 世に太平洋側からの北西航路の発見と太平洋調査を命ぜられ,フランスのブレスト港を出帆した。南アメリカ大陸を周航し,ハワイからアラスカまで北上後,北米沿岸をカリフォルニアまで南下し,ついで太平洋を横断。 1787年、ペルーズ、マカオに入った。再び北上して対馬海峡,日本海,間宮海峡まで行ったのち, ラ・ペルーズ海峡 (宗谷海峡) を通過。 1787年8月下旬ペルーズ、カムチャツカのペトロバウトフスクに寄港。 1787/09/29、ペルーズ、ペトロバウトフスク出港。それ...
  • H1752a
    1753年 福聚丸、フィリピンに漂着 宝暦2年12月末(1753)、福聚丸、船頭善右衛門はじめ筑前・伊豆・陸奥などの水主15人を乗せ奥州磐城の沖合いで遭難。全員フィリピンに漂着。 宝暦3年1月末(1753)、 島を見つけ端舟に乗って上陸(フィリピン イロコ) 宝暦5年5月(1755)、三之助、一人でアモイへ渡り、中国から長崎に送還。ほかの水主は全員死亡と証言。 宝暦6年2月(1756)、4名の生存者が三之助とは別にアモイへ行き、中国船で長崎に送還される。マニラに残った10人はキリスト教の洗礼を受け現地で結婚する。 宝暦6年5月(1756)、三之助、再び白洲に呼び出され、「急度叱り置」を申し渡される。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 小林郁, 1998. 嘉永無人島漂流記. 三一書房.
  • H1701a
    1701年 ダンピア、アスンシオン島付近で難破 1652年、ウィリアム・ダンピア William Dampier、イギリス南部の農民の子として生まれる。少年時代に父母を失い、貿易船に乗って働き、東インド会社の社員となるがイギリスとオランダが戦争を始めていたので海軍に入り戦うが負傷。のちメキシコ湾で浅瀬を測量する仕事に従事。帰国し結婚するがすぐに離婚。カリブ海で海賊の一味となる。 1680年、パナマ地峡でチャグレ川(位置不明)を太平洋を目指しさかのぼる。海賊の副長としてパナマ地峡一帯をあらしまわり、チリのアリカの町をおそうが守備隊に撃退される 1685年、海賊スワン船長の部下として太平洋を横断することとなる 1688年、大西洋でスペイン船の攻撃に失敗し、東インドに向う。この年、ジャバ(位置不明)に到着しスマトラ島の北にあるクリスマス島に上陸。 1691年12年ぶ...
  • H1720a
    1720年 摂州大阪大津屋利三郎が八丈島へ漂着 1720/12/01(享保4年10月20日)、摂州大阪大津屋利三郎(14人乗り)が遠州灘で漂流。 1720/12/04(享保4年10月23日、八丈島に漂着。 ろっきい氏の教示による。 参考文献 川合彦充, 2004. 日本人漂流記. 文元社
  • H1704a
    1704年 アレクサンダー・セルカーク、無人島に漂着 アレクサンダー・セルカーク(1676-1723):ロビンソン・クルーソーのモデル。1704-1709年までの4年4ヶ月を無人島で暮らす。 1657年、ジョン・セルクレイグ(アレクサンダー・セルカークの父)、この年、ユーファン・マッキーと結婚 1661年、ダニエル・デフォー(ロビンソン・クルーソーの著者)、生まれる。 1676年、アレクサンダー・セルカーク(ロビンソン・クルーソーのモデル)、スコットランド、ラルゴで生まれる。 1695年、アレクサンダー・セルカーク、教会内で暴力をふるう 1695/08/25、アレクサンダー・セルカークの暴力事件について、長老会は本人の召還を決定。出頭を命じた。 1695/08/27、アレクサンダー・セルカーク、長老会の召還に対して出頭せず。船乗りとなる。 参考文...
  • H1711a
    1711年 久留米藩船、フィリピンに漂着 岡野三左衛門:筑後国久留米(福岡県久留米市)の人で、久留米藩に仕える船頭。 正徳元年(1711) 、5人の部下と遭難。途中2名死亡した。 正徳3年(1713)、岡野ほか3名の生存者は中国船によって長崎に送還される。岡野らは、フィリピンのカタンズアネス島に漂着、その後ディラオに送られ、さらに中国に渡っていた。
  • H1770a
    1770年 朝鮮人駿河興津に漂着する 明和7(1770)年5月、朝鮮人14名駿河興津に漂着する。 Map 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1728b
    1728年 唐人が宮古島に漂着 享保13年(1728)、唐人が宮古島に漂着 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • H1729a
    1729年 藤曲(宇部市)の船、出羽沖で難破 享保14年(1729年)、越後国の年貢米を運送中の藤曲(宇部市)の船が出羽国の沖で難破、乗組員14人のうち5人が溺死 参考文献 小林郁, 1998. 嘉永無人島漂流記. 三一書房.
  • H1750a
    1750年 唐人が宮古島に漂着 1750年、唐人が宮古島に漂着 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • @wiki全体から「H1793a」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索