ハルヒと親父 @ wiki

そのとき親父書きは何を思ったか(その17)?

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haruhioyaji

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「彼女は赤面した」はなぜNGなのか?/「描写」について


今日はものすごく細かい話です。

(例文1)ハルヒは赤面した。

(例文2)顔をトマトにように真っ赤にしてうろたえるハルヒ……

(例文3)
「(略)あんたにじっと見られると副交感神経が刺激されて顔面特有の神経血管反射が起こって血管が拡張して……」
「いや、もういい。おまえの顔見てたら、何が起こってるか、俺にもわかる」
「……顔が……真っ赤になるんだからね……」


 描写というのは、近代に入ってから(二葉亭四迷がツルゲーネフの「あいびき」を訳したのが画期だとされてます)日本の文芸に輸入された技法で、親父書きにとっては「天敵」です。
 未だに、これといった工夫をしてない描写(いまだに小説の地の文の大部分を占めるものです)を読むのはつらいです。私が会話ばかりをお話を多く書くのは、実はこういう理由です。ばれたらしょうがない、ですね。

 TTTさんの同人誌をみていたら、ハルヒやキョンがやたら赤面してうつむいてます。ああ、これを文章でやろうとおもったんですが、「ハルヒは赤面した」なんてと書いたら、それこそ元も子もない訳です。それを読んでも、なんだかものすごくよそごとな感じが(少なくとも私は)してしまいます。

 これは表現が貧しいとか、そういったレベルの話でないのは、次の例を見るとわかります。
 例文2はほんの少しだけレトリカル(修辞的)ですが、元も子もないのは、相変わらずです。
 というよりも、レイコフが言ってますが、比喩というのは物事のある側面には光を当ててくれますが、それ以外の部分が背景に退く副作用をも持っているのです。「トマト」という比喩は、ハルヒの顔の赤さや、赤くなったハルヒの顔(の愛らしさ)に光を当てているのかもしれませんが、今の場合、表現したいのはそういうことではない。いや、勝手に引用しておいて言いすぎました。ここは通りすぎるべき表現であって、ここで足を止めて欲しい箇所じゃないので、これでいいのです。むしろ定型句的な使い方がよい箇所です。

 で、散々言った後に出す貧しい作例ですが、親父書きが考え採用したのは例文3です。ちょっと行数が多いので、ずるいのですが、ズルの理由は後述します。この例文が登場するのは、この掌編の結末、最後の最後の箇所である、とだけ言っておきましょう。
 つまり、ここですべると、失敗です。元のもくあみです。ここは足を止めて欲しいどころか、できたらスタンディング・オベーションが欲しいくらいの大切な箇所です。
 例文に帰ります。ハルヒ、いきなり壊れてます(笑)。赤面について、生理学的叙述をつらつら並べるなんてことは、普通はやりません。親父書きですら、やったことはないです。明らかに冗長ですし、日常語ですらないのです。分かる人は分かるかもしれませんが、あえて分かりにくい表現を選んでいるとかんぐりたくなります。

 ハルヒの叙述が、自分の現在の状態を直接にはインデクスしていないことにも注目です。
 人が自分の現状であるにもかかわらず、それをあたかも物理法則や客観的事実のように語っているとしたら、ある種の解離が生じてます。言葉を話すことは随意的な行動ですが、赤面は不随意的な反応です。赤面は随意的でないからこそ、つまり自由に意思によってコントロールできないからこそ、人間関係においての信用度はかなりのものがあります。赤面は口よりもものを言うのです。
 ハルヒは、デレデレ(随意的行動と不随意的反応の一致)を拒否しながらも、過剰な言葉を、しかも今の状態に反しない(内容としては一致する)言葉を、語りつづけます。言うなれば、違う射角から同じものを撃ち抜いているのです。

 しかし相手のキョンが、もういい、わかった、とストップをかけているにも、かかわらず(というか、ここまででハルヒが赤面していることは火を見るように明らかなのに)、暴走ハルヒはとまりません。

 もしキョンが
「おまえ、顔赤いぞ」
とでも無粋なことを言えば、ハルヒは即座に
「赤くなんかないわよ!」
と切り返していたでしょう。キョンも読者も真っ赤な顔して何言ってんだ、ハルヒ、と思うところでしょう。

 キョンは、もういい、わかったから、といったようなことを述べています。賢明な読者ならば、これだけでわかるところですが、ハルヒはキョンに分かるほど、すでに赤面しています。まだ、どこにもそうは書いてないですが、「赤面」に関するキーワードが、あちこちにばらまかれているのですから、分からない方がおかしいです(笑)。だから、キョンが止める時点で、ハルヒの言葉はもはや不要なのです。

 しかしハルヒはなおも語りつづけ、ここに彼女の言葉は、彼女の顔を表現できるところまで追いつきかけます。しかも、ここでハルヒが使う表現は、なんと仮定法です。つまり「もし、〜だったら、私の顔は真っ赤になるだろう」。まるで「でも、いまはしてない」と小さい声で言い添えたくなるような。この期に及んで、まだ言うか。というか、そんなかわし方がまだあったのか(全然かわせてないけれど)。

 言葉が、ある場面の状況を伝達するだけのものであるならば、この箇所は、ものすごく冗長です。なにしろ

「ハルヒは赤面した」


で、情報としては必要十分であるかに見えるからです。
 けれども親父書きが書きたいのは、ハルヒの顔色が赤いか青いかということではありません。

 情報伝達としては過剰でも、叙述が過剰であるそのことこそが、何よりも過剰に語ってしまうハルヒの心理状態と、それに対応する生理状態(すなわち赤面)を、示してしまっています。そして、それを止めるに止められない、あるいは制止できないが受けとめざるを得ないキョンの(表情を含んだ)リアクションがどういうものか、敷いては二人の関係はどのようなものかを浮かび上がらせたいわけです。これはSS書きなら、誰だってそうでしょう。
 情景描写で済むところを、二人の言葉と言葉によるインタラクション(やりとり)によって、わざわざ書いているのは、そういうことです。このためには、静止画のごとき描写では足りないのです。

 同棲までして、やることやって、互いに見つめあうと赤面する。

 爛れたカップルでない、バカップルですね。



 ああ、こんなに長く、何かいてんだが(笑)。
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