ハルヒと親父 @ wiki
そのとき親父-書きは何を思ったか(その20)?
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haruhioyaji
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一番シビアな評価をするのは自分でしょう。ですから他人のシビアな評価なんて、本当は必要ないんですね。ウソでもいいから、持ち上げた評価が欲しいんです。それでなくても倒れようとしているところですから、シビアな評価されたら、本当に倒れちゃう。 -----井上陽水『ラインダンス』(新潮文庫)
いやもう、陽水のこのコトバをメモしておくためだけに、このページを立てたようなものです。
「的外れだけれど辛辣な批評」というのは、どうでもいい、というか、どうしようもないのですが、同じくらいヘタな場合、より辛辣な方が批評っぽく見えるらしいんです。でも、これはまったく誰の役にも立たない。人は、悪意や敵意を満たすためなら、もう少しましな手を選べるはずなんです。その努力をすべきです。
ドゥルーズ&ガタリという、哲学のサーカス団みたいなコンビがいるのですが、いつも、いくつかの涙がこぼれるようなことを書いてよこす困った奴らです。『カフカーマイナー文学のために』という、タイトルからして涙腺ゆるませそうな本の中で極めつけは、
墓の中でカフカが涙を流すようなことは、一行だって書きたくない。
というフレーズでした。私はカフカじゃないので、思わずほろりと来ましたよ。それが人の手に可能な技かどうかは別として。
もう最初から泣いちゃってるコトバでは、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の第3次稿(最終稿からは削られちゃってるんです)にある次のを。言ってる趣旨は、要するに「人それぞれ」ということなんですが、その続き(引用文中では「けれども」以降)が問題であり、大切なことであるのだと、思います。
みんながめいめい自分の神様がほんたうの神さまだといふだろう。 けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。 それから僕たちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。 そして勝負がつかないだろう。
うたれ弱い私を励ましてくれたすべての人たちに感謝を、そして挨拶を。