作品サンプル2

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hengue

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『いぬがみ』/黒木あるじ
                                                                            お題妖怪:狗神(いぬがみ)

  「川畑君、イヌガミの正体を発見したぞ」

  嬉しそうに呟いたセンセイが拾いあげたのは、小さな獣だった。鼻先が妙に長い。眺めていると、何だか不安になる生き物だ。

「ジネズミだよ。日本全国、いま僕らが居るような山野に生息する。ネズミに似ているが、むしろモグラに近い生き物だ。そして、ボルナ病という病気のウイルスを媒介する生物でもある」

  はしゃいだ口調でセンセイは話し続ける。強い風が木立の間を抜けてゆく。山の匂いが、心地よかった。

「ボルナ病は、もともと馬のみが発症すると思われていたが、最近の研究で他の動物はもとより、ヒトにもウイルス感染する事がわかった。感染した生物は異常な攻撃性を持ち、その後、虚脱状態になる。これはまさしく、君が教えてくれたイヌガミ憑きそのものじゃないか」

  興奮するセンセイの姿を、心のどこかで小さく喜んでいる自分に驚く。私はまだ、この人を好きなのか。あんな目に遭ったというのに。

「はるか昔、ボルナ病ウイルスをもったジネズミを持ち歩き、旅をしている人間がいたと仮定する。彼は立ち寄る村々で、竹筒から頭だけを覗かせたジネズミを見せて、狗神だと脅し、金品をねだったり、村に居座ったりする。抗えば謎の病、いわゆるイヌガミが憑いてしまうから誰も逆らえない。そうやって忌み嫌われながらも、狗神筋はある種の権力を手にしていく」

  ぼんやり聞きながら、私は思う。たぶんセンセイの理論は間違っている。否、理論ではない。綻びだらけの単なる小理屈だ。論文の盗作疑惑をかけられて大学を追われたセンセイの、もう一度返り咲きたいという見苦しい思いが生んだ、こじつけだ。

「日本に近似のウイルスがあったと仮定しての、そう、あくまで仮定の話だがね」

  センセイの口癖。いつだって彼の話は仮定だ。私がセンセイの子供を身篭ったと泣きながら打ち明けた時だって、彼は「あくまで仮定だが、堕胎できる時期というのは超過してしまったのかい」と尋ねてきた。

  かつて私の家が狗神憑きと呼ばれていた事をセンセイに話したのは、この人なら受け入れてくれると思っていたからだ。けれど、それは間違いだった。ならば、いっそ。でも。考えがまとまらない。体の奥で何かが動く。蠢く。口から言葉が漏れる。

「せんせ、違うよ。イヌガミはね、こんな生き物じゃない」

  彼の子供を堕ろした時、ひとつの命と引き換えに私の中で生まれたモノ。否、目覚めたと言うべきか。おのれの子供を贄にする事で、狗神使いは本物になる。代々、言い伝えられてきた教え。祖母の代で絶やしたはずの、禁忌。

「本当の狗神を、見せてあげる」

  私の呼びかけも、彼の耳には届かない。センセイは、まだ気づいていない。私の影が、人の形をしていない事に。大きな口を開けて、牙をむき出した獣に変わっている事に。

  唸り声をあげながら、彼の背中めざして影が走る。さよならの代わりに、私はそっと目を瞑る。嗚呼、山の匂いが、心地よい。
  
『へんぐえ ~茜~』収録(2010年12月)
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