青葉

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青葉」を以下のとおり復元します。
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*CV
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洲崎綾

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*史実情報
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 改装前の姿

 青葉型1番艦で、昭和2年9月に三菱長崎造船所で竣工。青葉型が改古鷹型であることから、古鷹型3番艦とする資料もある。
 ワシントン海軍軍縮条約の締結を受け、古鷹型を拡大強化した形で設計・建造、当時としては珍しい、連装砲塔を持つ重巡として誕生した。
 攻撃面では優れた性能を有したが、一方で防御面には不安な点が多かった。とはいえ、この当時は砲戦が最重要されており、重巡の雷撃戦は想定外だったともいえる。
 昭和12年からは大改装を実施。艦橋設備などを新型に改め、外見も一気に近代化した。

 太平洋戦争では[[古鷹]]、[[加古]]、同型艦の[[衣笠]]と共に第6戦隊を編成。主に南洋海域での活動に従事した。
 1942年8月7日、青葉は第一次ソロモン海海戦に参加。この戦いで青葉は魚雷発射管に被弾し、あわや大爆発の危機を迎えるも、なんとか生き延びた。が、カビエン基地への帰投中、対潜警戒を怠った結果、僚艦である[[加古]]が潜水艦に撃沈されてしまう。

 2か月後の10月11日、青葉を旗艦とした第6戦隊は、飛行場砲撃と揚陸隊支援の為、ガダルカナル方面へ出撃する。
 この際、同方面に進出していた米巡洋艦隊と遭遇。戦隊司令・五藤存知(ありとも)少将は米艦隊を揚陸隊の護衛艦隊と誤認。「ワレアオバ」と発光信号を送信する
 直後に見張り員が異変に気づき、艦長が総員戦闘配置を令するも時遅く、青葉は米艦隊の集中砲火を受ける。双方の陣形は完全な丁字状態であり、日本艦隊は行く手を完全に抑えられていた。
 米軍の初弾は艦橋を直撃。炸薬は不発だったものの、正面から貫通した砲弾が艦橋内を跳ね回り、五藤司令は左足切断の重傷。その他司令部員も死傷した。米艦隊は射撃管制レーダーを用いた砲撃を行っており、青葉には続けざまに多数の敵弾が叩き込まれることとなった。
 青葉は滅茶苦茶に破壊され、射撃方位盤や通信設備も使用不能に陥り、砲撃はおろか、対空戦闘も出来ない状態となる。艦長は即座に脱出行動を開始、面舵一杯で右回頭を始める。この回頭中に敵弾が三番砲塔に命中。装填中の砲弾に命中し、第三砲塔が大爆発を起こす。
 上部構造が大破した青葉だが、船体と機関は無事なため、煙幕を展開し全力で退避することが出来た。
 青葉の後方に位置した[[古鷹]]は、青葉の退避を援護すべく敵艦に向けて前進。青葉と敵艦隊の間に割って入り、盾となった。
 [[古鷹]]は奮戦するも、命中弾を多数受け行動不能となってしまう。[[古鷹]]は修理の見込みなく、深夜総員退去の後に沈没した。
 この他、駆逐艦[[吹雪]]が敵弾の集中砲火を受け轟沈している。
 この戦いを「サヴォ島沖海戦」という。
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 1942年(昭和17年)10月13日 サヴォ島沖海戦直後の写真。艦後部の第3砲塔が大破している。

 大被害を負った青葉は、すぐに呉へと帰投、修理を受ける。この間に、同型艦[[衣笠]]が撃沈されており、第6戦隊はついに青葉のみになってしまう。
 修理は1943年2月に終了。青葉は再び南洋へと出撃する。
(このときの修理において、旧式であった対空機銃が25mm三連装機銃に換装されている。また、爆散した第三砲塔を埋め合わせるための部品が足らず、暫くこの部分を対空機銃に置き換えている)

 しかし、ニューアイルランド島のメウエパッセージ港で敵の空襲に遭い艦後部に被弾。爆弾は魚雷に誘爆し、青葉の後ろ半分は火の海となる。
 艦長は意を決して浅瀬に乗り上げ、どうにか擱座して沈没を免れる。
 青葉救出の為サルベージ船が派遣され、1か月に及ぶ作業の末に復旧。軽巡[[川内]]に曳航されて、トラックへ帰投した。
 青葉はさらに二か月の応急修理の後、呉へ帰投。
 4か月に及ぶ本格的修理と、電探の装備、先のサヴォ島沖で吹き飛んだ第三砲塔の復旧を行う。
 修理の終わった青葉は、南洋海域での輸送作戦に従事することになった。
 何度やられても蘇る青葉は、ソロモンの狼の異名で呼ばれるようになった――諸説ある――、とも言われている。

 1944年10月。レイテでの決戦に合わせ、青葉はフィリピンのマニラから陸軍兵を輸送する作戦に就く。
 しかし、この道中敵潜水艦の雷撃を受け損傷。僚艦[[鬼怒]]に曳航されマニラに向かう。発揮できる速力は、わずかに5ノットだった。
 結局青葉は作戦に参加できず、応急修理を続けていた。戦況は日に日に悪化しており、青葉も空襲を避けるため、レイテより帰投した重巡[[熊野]]と共に、台湾への退避を決める。しかし、損傷しながらも24ノットを発揮する[[熊野]]と、5ノットしか出せない青葉ではどうしようもないので、輸送船や護衛の船をつけて船団で行動することになった。
 11月7日、船団はマニラを出発するが、敵潜水艦に襲われる。青葉は5ノットの速力で、懸命に回避運動を行い魚雷を回避。計7本全てをなんとか避け切ったものの、先を行く[[熊野]]は被雷し航行不能になった。
 青葉は[[熊野]]のと別れ、単独で台湾へと向かった。なお、[[熊野]]は修理のため現地に留まり、同月下旬空襲で撃沈されている。
 台湾へたどり着いた青葉は、応急修理と補給を受け、12月ようやく呉に帰投した。 

 日本に戻った青葉だったが、母国の情勢は厳しく修理を受けることも出来ず、呉工廠近くに繋留放置されることになる。
 そして、他の残存艦艇の例に漏れることなく、対空砲台として利用されることになった。
 1945年7月24日の呉空襲では、至近弾、命中弾ともに1発ずつ、続く28日では4発の命中弾を受け、艦尾を切断。浸水により大破着底した。
 青葉はそのままの状態で終戦を迎え、翌年解体された。
 現在、海上自衛隊第一術科学校に艦首菊花紋章が、大和ミュージアムに青葉の主砲砲身の尾部が展示されている。

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 呉で大破着底した青葉。木が生えているのは、偽装の為。

 なお、1941年に当時主計中尉であった中曽根康弘(後に第71・72・73代内閣総理大臣)が、1942年には作家海野十三が従軍作家として乗り込んでいる。
 中曽根氏の自宅には、青葉の模型が飾られているのが確認されている。
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*台詞一覧
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|状況    |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|ども、恐縮です、青葉ですぅ! 一言お願いします!|「恐縮です」は芸能リポーター故梨元勝氏の決め台詞|
|秘書クリック会話①|なになに?なんの話ですか?||
|秘書クリック会話②|司令官、青葉、見ちゃいました!||
|秘書クリック会話③|気になるんですか?いい情報ありますよ?||
|戦績表示時|連絡みたい、なんだろーなんだろー!||
|編成選択時|青葉取材・・・あ、いえ出撃しまーす!|作家・海野十三が乗艦していた|
|装備時①|これでとっても取材、あ、いえ、戦闘がしやすくなりました。||
|装備時②|恐縮です!||
|装備時③|よーし、もっと働けます。||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|青葉、じっとしてられないな。||
|ドック入り(重傷)|ちょぉっと深入りし過ぎたようです||
|建造時|情報によると、新しい船が進水したみたいですよ?||
|艦隊帰投時|艦隊が帰投しますね、インタビューする?||
|出撃時|第一遊撃部隊、出撃ですね||
|戦闘開始時|よく見えますねぇ|見えてない|
|攻撃時|敵はまだこちらに気付いてないよ||
|夜戦開始時|よーし、青葉も追撃しちゃうぞ!||
|夜戦攻撃時|索敵も砲撃も雷撃も青葉にお任せ!||
|MVP時|お役に立てて嬉しいです、また青葉をよろしくね。||
|被弾小破①|しまった!||
|被弾小破②|くぅっ!||
|被弾カットイン|火力が・・・火力がちょっと足りないのかしら・・・|古鷹型・青葉型は20cm主砲6門と後発の重巡(8~10門装備)に比べると火力が低い|
|撃沈時(反転)|COLOR(white): 沈むなら・・・呉軍港で沈みたかったな・・・|COLOR(white):上記の通り、終戦は呉で迎えた。また呉は開戦前より姉妹艦で過ごした故郷とも言うべき港である|

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*コメント
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*外部リンク
-[[Wikipedia:青葉(重巡)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%91%89_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]]
//-[[ニコニコ大百科>>青葉]]
//-&link_atpedia(扶桑){@PEDIA:青葉}

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