隼鷹

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隼鷹 - (2013/10/26 (土) 22:43:55) の編集履歴(バックアップ)


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CV


大坪由佳


史実情報


隼鷹は、大型客船橿原丸が戦時以降により航空母艦に改造されることで誕生した。
工事は1942年5月3日に完成。日本の空母では、他に先駆けて電探などが本格的に装備されていた。
飛鷹よりも先に誕生したため、本艦型は「隼鷹型」と呼ばれることもある。
他の商船改造空母と異なり大型で(改造空母としては)高速力、二段式格納庫により蒼龍飛龍に次ぐ艦載機搭載能力を誇り、
主力級空母として重宝された。
ただし装甲は薄く、わずかに機関室外板に25ミリ特殊鋼板を二枚張りにしたのみで、
内火艇がうっかり衝突した際、内火艇は壊れず逆に隼鷹の外板が凹んでしまって乗員が唖然としたという話も残る。


隼鷹は同型艦「飛鷹」の完成を待たず第四航空戦隊に編入され、ミッドウェー作戦の一環であるアリューシャン攻略作戦に参加。ダッチハーバー攻撃で初陣を迎え、攻略作戦の成功を支援した。
同作戦から帰還した隼鷹は、飛鷹龍驤と共に新生第二航空戦隊を編成、10月にガダルカナル攻撃支援に出撃した。
トラック進出後、飛鷹が主機関室の火災事故で機関損傷、離脱したため、隼鷹は飛鷹から艦載機を預かり、南太平洋海戦に参加する。
この戦いで、隼鷹は翔鶴瑞鶴瑞鳳と共に空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、巡洋艦サンジュアンに傷を負わせ、空母ホーネットを撃沈した。
ホーネットにとどめを刺したのは、隼鷹の艦載機であった。

1943年には、沖ノ鳥島近海で米潜水艦の攻撃を受け損傷している。
1944年6月20日、マリアナ沖海戦に参加。仲間の大鳳、翔鶴を潜水艦の魚雷で失い、続く空襲で姉妹の飛鷹も被弾炎上し隼鷹の目の前で沈んでいった。
隼鷹は的確な回避運動で爆撃を避け続けたものの、ついに煙突に爆弾2発が直撃。大煙突は跡形なく吹き飛び、周囲に集まっていた信号員、機銃員など53名が一瞬で戦死。
しかし煙突が盾になった形で、その真下の艦橋の幹部たちはほとんど無傷で助かることとなった。
また無装甲の軽空母の悲しさ、周囲に落ちた無数の至近弾の断片が飛行甲板を下から突き破ったため飛行甲板はささくれ立ち、制動装置も破壊され発着艦不能となる。
そのため帰還してきた搭載機は着艦できず周囲に不時着水する羽目となり、搭乗員は助かったが搭載機の殆どを失うこととなった。

海戦後ただちに修理が行われ艦載機も補充されたが、直後発生した台湾沖航空戦に全機が引きぬかれて投入され、艦載機が皆無となってしまった。
直衛戦闘機すら無くなった隼鷹は出撃部隊から外され、レイテ沖海戦に参加できなかった。

その後はもはや空母として活動する場面もなく、格納庫を利用しての輸送任務に従事することになった。
マニラへ弾薬輸送を行った帰路、隼鷹は佐世保近くで米潜2隻の雷撃を受け、1本は護衛の駆逐艦 槇が咄嗟に体当りして防いだものの、残る魚雷2本が右舷に命中。
艦首と機関を損傷しながら、13ノットの片肺運転でどうにか佐世保へと帰投した。
翌1945年3月には修理を終えるも、直ったのは船体のみで、機関は修復されなかった。
この時期には燃料も艦載機もなく、隼鷹は佐世保の岸壁に横付けされた。その後、米軍の大空襲に遭うも、隼鷹は船に見えぬよう偽装をしたかいあって、
爆撃を受けず無傷のまま終戦を迎えた。

戦後、機関が直っておらず外洋航行が出来ないため、復員任務に就くことは出来なかった。
商船への復旧も一応は検討されたが、海水に浸ったまま放置された右舷機械はひどい状態でとても修理できず、
何より空母から客船への再度の大改造は手間と金がかかりすぎ、たとえ元に戻ったところで敗戦国日本に豪華客船の活躍の場はなかった。
結局そのまま、隼鷹は一度も客船として活躍できぬまま解体され、生涯を閉じた。
なお、2006年まで日本郵船が保有したクルーズ客船『飛鳥』は橿原丸型貨客船をリスペクトして建造された船というのは有名な話で、総トン数もほぼ似通っている。

商船改造空母ながら、正規空母に劣らぬ働きをした殊勲艦であった。

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橿原丸竣工予想図。

艦歴
発注 日本郵船橿原丸級貨客船一番船“橿原丸”
起工 1939年03月20日 於三菱重工長崎造船所
1940年10月 航空母艦への改造を決定
発注 買収第1002番艦
1940年11月08日 第1002番艦へ名称変更
1940年11月30日 空母化改造工事に着手
1941年01月21日 海軍、橿原丸級2隻の買収を決定
1941年02月10日 買収第1002番艦として海軍が購入
進水 1941年06月26日
竣工 1942年05月03日 飛鷹型航空母艦二番艦“隼鷹”と命名。第二機動部隊第四航空戦隊に編入
1942年05月26日 アリューシャン作戦に参加
1942年06月03日 ダッチハーバー空襲を実施
1942年07月31日 第三艦隊第二航空戦隊に編入
1942年08月12日 第三艦隊第二航空戦隊旗艦となる
1942年09月23日 火災事故に伴いトラック島へ帰還した“飛鷹”より第二航空戦隊旗艦を継承
1942年10月24日 南太平洋海戦に参加
1943年01月31日 ケ号作戦(ガダルカナル撤退作戦)に参加
1943年11月05日 トラック島より内地へ帰投中、米潜の雷撃を受け艦尾を大破する
1944年06月19日 マリアナ沖海戦に参加。以降、艦載機は搭載せず輸送任務に従事することになる
1944年07月10日 第四航空戦隊に編入
1944年11月15日 第一航空戦隊に編入
1944年12月09日 長崎県女島付近にて米潜の魚雷が艦首及び右舷機関室に命中、大破するも片舷航行で佐世保に帰投
1945年02月11日 第一航空戦隊より呉鎮守府予備艦へ種別変更
1945年04月20日 機関部以外の修理が完了し出渠する。第四予備艦へ種別変更
1945年06月20日 特殊警備艦へ艦種変更
1945年08月15日 外洋航行不能のまま終戦を迎える
除籍 1945年11月30日
解体 1946年06月01日 於佐世保船舶工業(旧佐世保海軍工廠)


台詞一覧


状況 台詞 関連する史実や元ネタ、解説など
自己紹介 商船改装空母、隼鷹でーすっ!ひゃっはぁー! 魚雷により5000トンの浸水を受けるもなんとか帰還。汚物の消毒(流出)には定評がある
元ネタは恐らく海軍中将「角田覚治」の南太平洋海戦での猛将ぶりに基づく
秘書クリック会話① あぁ!提督!お疲れさん!!…えぇ?の、飲んでなんかないよぉ。シラフだよぉ 隼鷹の「長井満」艦長の逸話が元ネタ
彼は料亭で後に直属の部下となる兵士達と酒を飲み、宴を共にしたという
秘書クリック会話② 提督ぅ。暇なら手伝ってよ。飛鷹も私も、艦載機結構あるんだよねぇ。 蒼龍とほぼ同等の48機もの艦載機を搭載できた。
秘書クリック会話③ ちょっとまった!いやぁ~な音が聞こえるぜ…敵の偵察機じゃねぇ? 佐世保大空襲にちなむブラックジョーク。襲撃する前に頻繁に偵察機が上空を飛んでいた
また約1ヶ月後には「ボックスカー」が飛来し長崎市に原爆を投下している
戦績表示時 提督に通信だって。なんだって?
編成選択時 行くぜ!隼鷹出撃する!
装備時① いいねぇ~。意外とあたし、やるからねぇ 南太平洋海戦にて、米空母ホーネットにとどめを刺し、同エンタープライズや戦艦サウスダコタに傷を負わせる大活躍をし、終戦まで生き残る等武勲艦
装備時② かぁ~、カッコいいなぁ!自分に惚れそうだよぉ!
装備時③ いけるいける!
(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)
ドック入り 大したことないけどさぁ。ま、一応、ね。
ドック入り(重傷) まぁー装甲だきゃー薄いからなぁー。
あたしと飛鷹ってば。しかたないねぇー。
その装甲の薄さは、アリューシャン作戦の直前に内火艇が隼鷹に衝突して、隼鷹の外舷が凹んでしまったという実話が有る程である
建造時 新しい仲間が来るよ。歓迎会しよう。
艦隊帰投時 艦隊が帰ってきたよ。お疲れさん。
出撃時 あたしと飛鷹がいりゃぁ、まぁ機動部隊といえるっしょ。な? 南太平洋海戦直前まで、2艦そろって、ガダルカナル島への攻撃任務に当たっていた。
戦闘開始時 ぱぁーっと行こうぜ、ぱぁーっとな!
航空戦開始時 攻撃隊、発艦しちゃって!
攻撃時 へへぇん。ここで全力で叩くのさ!いっけぇ! 南太平洋海戦では隼鷹を含む艦隊の全艦載機を投入、隼鷹艦載機が米空母ホーネットにとどめを刺した
夜戦開始時 そうだねぇ。天山とか流星とか欲しいよねぇ。 レイテ沖海戦後の時点で艦載機が残っていなかった
MVP時 なぁー?結構いけてんだろ、あたし。
艦載機運用能力も結構高いしさぁ、へへぇん。
艦載機運用能力は蒼龍並み
被弾小破① やっべぇ…!
被弾小破② だぁから装甲薄いんだって!!マジで!
被弾カットイン あぁん。こんな格好嫌だァ~!
撃沈時(反転) あれ、あれあれ、あたし沈むの? マジで?


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