人外と人間

人外アパート 大学生×人魚「人魚と魔術師見習い」

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ヌルいですが流血描写があるので、苦手な方はご注意。

人魚と魔術師見習い 1 859 ◆93FwBoL6s.様

 期待が膨らみすぎたのかもしれない。
 不動産屋からもらったコピー用紙の地図を頼りにアパートに辿り着いた途端、弾みすぎて爆ぜてしまいそうだった心が一気に萎んだ。不動産屋の事前の説明でも解っていたことだし、自分でもそれを納得した上でこのアパートを選んだのだが、いざ現物を目の当たりにすると鋭気が削げる。道中の書店で購入してきた大学の教科書が詰まった重たいバッグを背負い直し、岩波広海は鼻からずり落ち掛けたメガネを上げた。だが、元より贅沢は言えない身の上だ。生活費のある程度はこれから始めるアルバイトの給料で補うつもりではあるが、それが溜まるまでは親からの仕送りを当てにしている。大学受験だけでもかなりの負担を掛けてしまったのに、これ以上負担を掛けてしまうのは子供心に心苦しい。こんなことなら勉強しながらバイトしておくべきだったかな、と今更ながら後悔してしまった。
 広海が大学一年生として新生活を始めるアパートもえぎのは、世間に胸を張って自慢出来るほど見事な安普請だった。妙な言い回しだが、そうとしか思えない。錆の浮いたトタン屋根、薄い板の塀、風雨に曝されて色褪せた木造二階建て、乱暴に昇ったら抜け落ちてしまいそうな鉄製の階段。広海に割り当てられた部屋は102号室で、一階の真ん中だった。不動産屋からもらった鍵を取り出そうとショルダーバッグを探っていると、アパートの敷地内から声を掛けられた。

「あら?」

 その声に顔を上げると、銀色の女性型全身鎧が箒を片手に立っていた。

「もしかして、新しく越してこられた方ですか?」
「え、あ、はい、そうです」

 取り出した鍵を握り締め、広海は生返事をしてしまった。大学に行く前から本物の魔法の産物を目の当たりにしたことで、訳もなく興奮して胸が高鳴った。広海が受験した大学は国立魔術大学であり、学科も将来的には職業魔術師になれる学科を選択していた。物質文明が発達した現代社会においては魔術師はそれほど重要な職業ではなく、画家や作家などとほぼ同等の認識である。だが、その奥深さたるや計り知れないものがある。リビングメイルなど正にそうだ。過去の戦乱で失われた技術を惜しみなく使われた、人間の記憶と意識を封じ込めた金属塊。まさか、本物に出会えるとは思わなかった。

「私、202号室に住まわせて頂いているアビゲイルと申します。よろしくお願いします」

 リビングメイル、アビゲイルに丁寧に礼をされ、広海も慌てて名乗った。

「えっと、僕は岩波広海といいます、102号室に越してきました。こちらこそ、よろしくお願いします」
「そう、ヒロミさんね。解らないことや困ったことがあったら、なんでも仰ってね。お役に立てるかもしれませんから」

 柔らかな仕草でマスクを押さえたアビゲイルは、広海が知るリビングメイルからは懸け離れていた。リビングメイルと言えば、全身鎧であることとバラバラにされても死なないという利点のために戦闘用に造られ、素体となる人間の魂も兵士や騎士といった闘志に溢れた者ばかりなので、素体の魂が女性であるだけでも充分すぎるほど珍しいことだった。魔術師を志す者としてはそれが少しどころかかなり引っ掛かったが、彼女の身の上を探るのは一人前の魔術師になってからでも遅すぎないだろう、と思い、広海はアビゲイルの前を過ぎ、自室のドアの古びた錠前に鍵を差し込んで回した。
 玄関に入ると、引っ越し業者によって運び込まれていた荷物が待ち受けていた。履き古したスニーカーを脱ぎ、板張りの廊下を通って八畳間の居間に入り、隣接した六畳間の襖を開き、狭い庭に面した掃き出し窓を開いた。地元よりも心なしか乾いた空気が滑り込み、埃っぽく湿った室内を通り抜けた。教科書の詰まったバッグを下ろしてから、広海はまず最初に浴室に向かった。スイッチを押して明かりを付けると、タイルの壁に囲まれた若干手狭だが綺麗に清掃された浴槽が現れた。蛇口を捻ってしばらく水を流してから、栓を入れて溜め始めた。浴槽の前に立った広海は深呼吸してから、一息に叫んだ。


「出でよ、血の盟約の元に!」

 浴槽に三分の一ほど溜まった冷水がうねりながら立ち上がると、爆ぜ、大量の水飛沫を散らした。冷水をくまなく浴びた広海の前に、艶やかな青いウロコに覆われた下半身をくねらせながら人魚が落下してきた。彼女はぬるりと下半身を曲げて浴槽に収まると、ウロコよりも若干濃い色合いの藍色の長い髪を払ってから、不愉快極まる顔で広海を見上げてきた。

「何なの、これ」
「ごめん。今し方到着したばかりで、荷解きが出来てないんだ。だから、ミチルが入るビニールプールもまだ…」
「言い訳はいらない。この私を人間の寸法に合わせた器に落とした時点で、あんたは私の機嫌を大いに損ねたわ。だから、顔も見たくないし声も聞きたくないわ」

 若い女の人魚、ミチルは浴槽の縁に肘を掛けて顔を背けた。眉を吊り上げていても、唇を歪めていても、その美しさは欠片も損なわれていなかった。水位が上昇しつつある水面に広がる髪は海草のようにゆらゆらと漂い、ウロコは一枚一枚が宝石から切り出されたかのように華やかで、胸の大きさと腰の細さは反比例していて、上半身は人間であれば誰しもが美しいと思うであろう外見で、下半身は南洋の海に生息している魚にも似た青さだった。人間で言うところの肋骨に当たる部分が水面に没すると、柔らかな乳房の下にあるエラが開閉して水から酸素を吸収し始めた。人間のように肺を使った呼吸も出来るのだが、そこはやはり魚類なので、水を通じて酸素を取り込む方が効率的なのだ。

「ほら、早くしなさいよ」

 ミチルに急かされ、広海は渋々浴室を出た。風呂を使うためにはビニールプールを早く出さないといけないが、その前に荷物で一杯の部屋の片付けが終わるかどうか解らなかった。それが終わらなければ、近所に銭湯があるかどうかをアビゲイル銭湯の場所を聞く必要がある。広海の地元とは違ってこの近辺には海がないし、広海はミチルを大気中でも活動させられるような魔法を使えるほどの腕もなければ魔力もない。だから、素直に風呂を明け渡すしかなく、前々から覚悟していたことではあったが、それでもなんだか悔しくなった。それでなくても、ミチルは主であるはずの広海を使役してくる。本当なら、広海がミチルを使役する立場にいるのだが、彼女の女王様然とした態度と広海の生来の気の弱さが原因でいいように扱われている。段ボール箱を手当たり次第に開けてビニールプールを入れた箱を探しながら、広海は浴室を窺ったが、ミチルは静かだった。
 上手く御機嫌取りが出来ればいいのだが。


 広海とミチルが出会ったのは、広海が中学生の頃だった。
 海に面した田舎の港町で生まれ育った広海は、メガネを掛けた貧弱な体格の少年に相応しく、運動部には入らずに文芸部とは名ばかりの帰宅部に所属していた。学校の図書室に入り浸っては手当たり次第に本を読むうちに、おのずと魔術に魅せられ、自分も魔法が使えるような気になった。言ってしまえば、いわゆる中二病である。だが、本の中では簡単そうな魔法もいざ自分で使うとなると別物で、なんとなく読めた気でいた魔法文字もろくに読めないことが判明したので、広海は本来の学業はそっちのけで魔術に傾倒した。そのおかげで現代魔術の基礎読解力は身に付いたが、大学受験に不可欠な基礎学力がガタ落ちしてしまい、受験勉強を始めてから苦労したのは言うまでもない。
 完全な魔法とは言い難いが、魔法のようなものが使えるようになった広海は、今日も今日とて人目に付かない入り江に向かった。図書室の蔵書だけでは飽き足らずに小遣いを貯めて買った初級魔術書を片手に、浜辺を歩き、岩場を乗り越え、港からも街からも目に付かない小さな入り江に辿り着いたが、その日は珍しく先客がいた。

 浅瀬から迫り上がってきた薄い波が寄せては返す狭い砂浜に、裸身の少女が倒れ伏していた。が、すぐにそれが人間ではないことに気付いた。砂浜から下に没している下半身は青いウロコに覆われた魚のもので、尾ビレの端が千切れて裂けたウロコから血が滲んで海水に溶けていた。広海はしばらく彼女を凝視していたが、人魚は砂まみれの髪を引き摺って上体を持ち上げた。

「ぼんやり見てるぐらいなら、助けたらどう」
「…え、僕?」
「他に誰がいると思うの」

 乱れ髪の隙間から広海を見据えた人魚の視線は、苛立ちを通り越して怒りが漲っていた。広海は逆らえるわけもなく、岩場を下りて砂浜に来たはいいが、何をしたらいいのかが解らなかった。人間相手ならともかく、相手が人魚では手当のしようがない。魔法が使えればなんとかなるかもしれないが、生憎、広海は初歩の初歩につま先を掛けた程度でしかない。かといって、この場から逃げるのは無責任だ。広海は宝物の魔術書を岩場の高い位置に置いてから、恐る恐る人魚に近付いた。
 傷を負った人魚は、広海とあまり歳が離れていないようだった。顔形も幼く、上半身も小柄で下半身も短い。人魚は人間とは老化速度に差があるので、さすがに同い年ではないだろうが。人魚は両肘を砂浜に突き立てて匍匐し、出血している下半身を陸地に引き上げた。顔色は青ざめていて、痛みと苛立ちで凶相と化していたが、彼女は間違いなく美少女だった。その容姿は獲物である人間を捕食しやすくするために美しく発達したものだ、と書かれた魔術書もあったが、広海は警戒心よりも先に彼女に見入ってしまった。息を荒げすぎて歪んだ唇の隙間から見える尖った歯も、薄い乳房の下で開閉するエラすらも魅力的だった。

「君、どうしてケガしたの」

 好奇心と興奮に煽られた広海が話し掛けると、人魚は裂けた尾ビレで海面を荒々しく叩いた。

「船よ、船! 私が海底で昼寝してたら近付いてきやがって、船底と梶で擦りやがったのよ! 岩の上で寝てたもんだから、その岩の表面でウロコも肉も切っちゃって、もう最悪! 人間なんて滅べばいい!」
「それは…災難だったね」

 肉食魚のような歯を剥いて喚く人魚に広海はちょっと臆したが、尋ねた。

「ところで、どの辺で寝ていたの?」
「あっち」

 と、人魚が示したのは、港の入り口に程近い海域だった。頻繁に漁船が出入りする場所で、今もまた新たな漁船が漁を終えて入港するところだった。自業自得じゃないか、と広海は言いかけたが、人魚の鋭利な歯に噛まれたら大変なので黙っておいた。人魚は不愉快げにまた海面を叩いたので、広海は更に近付いた。人魚の傷口から滴る血液はやはり魚のそれで、人間の血液とは匂いも違っていて、港町に住む子供にとっては慣れ親しんだ遊び、釣りで捕獲した魚を捌く時に感じた匂いと酷似していた。

「傷が痛むなら、陸に上がらない方が」

 広海は人魚を制するが、苦痛に顔を歪めた人魚はずりずりと這いずってきた。

「手っ取り早く治すには、これが一番なのよ」
「何が?」
「あんたの血と肉、寄越しなさい」

 人魚は唇の端を吊り上げ、尖った歯の隙間から薄い舌を覗かせた。広海は青ざめ、後退った。

「どうしてそうなるんだよ! 人魚って、そんな生き物だったっけ!?」
「私達は元々肉食よ。陸の生き物なんて喰っても大して旨くはないけど、憂さ晴らしには丁度良いわ」
「ストレス解消に僕を捕食しないでくれよ!」
「あんた達は、充分すぎるほど海の連中を横取りしてんじゃない。人間の一匹ぐらい、どうってことないわ」
「ある、ある、僕にはすっごいどうってことある!」

 広海は今し方まで人魚に感じていた好奇心や淡い憧れなど一瞬で吹っ飛び、背中に嫌な汗を掻いた。考えてみなくても、人魚は人間とは別の生き物だ。一部が似た外見で、言葉が通じるからといって、全く同じというわけでもない。人魚は本気らしく、水色の瞳を動かして広海の体を睨め回している。その目付きは冷ややかで、怒りに歪んでいた顔付きも捕食対象を捕らえようとする表情に変わっていた。広海が大型の魚に目を付けられた小魚の心境を嫌と言うほど味わっていると、人魚の視線が上がり、岩の上に置いた魔術書で視線が止まった。


「あんた、魔法使えるの?」
「いや全然」

 広海は、謙遜ではなく保身のために言い切った。下手に使えると言ってしまえば、その魔法でどうにかしろと言われてしまうかもしれない。だが、本当に何も出来ないのだ。魔法にすら至らない魔力の揺らぎ程度しか起こせない身の上では、人魚の傷など治せるわけもない。人魚は値踏みをするように広海を眺めていたが、砂の付いた頬を水掻きが付いた手の甲で拭ってから上半身を起こした。

「あんたの魔力なんて当てにするわけないじゃない。あんたにどうにかしてもらおうなんて、元から考えちゃいないわ」

 傷口に砂がめり込むのも構わずに這いずってきた人魚は、更に後退りかけた広海の足首を掴んだ。

「私を、陸に上がらせなさい」
「でも、もう陸に…」
「そういう意味じゃない。私は陸に上がりたいの、上がらなきゃ、いけないの」

 冷たく濡れた手で広海の足首を握る人魚の握力は骨が軋むほど強く、広海は痛みに呻いた。

「な、なんで?」
「そんなこと、あんたに説明する義理があると思う?」

 人魚は広海の脛を掴み、股に爪を立て、腰を押さえ、ついに肩に手が届くほどの高さまで這い上がってきた。目を剥いて唇を歪めて歯を覗かせた恐ろしい形相に睨み付けられながらも、藍色の髪の間から立ち上る潮の香りを吸い込み、広海はよろけた。人魚に体重を掛けられたせいだったのだが、精神的な原因も大きかった。上半身は人間ではあるが魚らしさの方が強い彼女に、参ってしまったからだ。相手はただの魚だ、人みたいだけど魚だ、と思おうとしても、一度認識してしまった感覚はそう簡単に拭えなかった。広海は人魚としばらく見つめ合う格好になったが、おずおずとその肩に手を触れた。

「解った。でも、僕はどうしたら」
「私をあんたの使い魔にしなさい。但し、私があんたを利用するの。私はあんたなんかに使役されたりしないわ、あんたを利用して陸に這い上がりたいだけ」
「…解った」

 同じ言葉を繰り返した広海は、人魚の傷口から粘り気の少なめな血を掬い取った。使い魔とその主の契約方法には様々な魔法があり、魔法陣を組んだり長々と呪詛を与える方法もあるが、手っ取り早いのはお互いの血を与え合うことだった。単純ではあるが、単純すぎて弊害も大きい。契約を解除しようとしたら、自分の体の中に入った相手の血と相手の体の中に入った自分の血を完全に排除しなければならないのだが、それがまた過酷なのだ。魔法を使うとはいえ、自分の内に流れる血を一滴残らず洗って異物を取り除くのだから、心身の負担は並大抵のものではない。広海はそれを考えたが、野生らしい凶暴さとを隠そうともせずに迫る人魚を見下ろすと、恐怖よりも芽生えたばかりの恋心が勝った。広海は指に付いた人魚の血を嚥下し、その手を人魚に差し出した。人魚は広海の手を躊躇いもなく囓り、皮膚を破った鋭い歯がめり込み、激痛が走った。人魚の顎と首を伝って滴った赤黒い血液が、彼女の膨らみかけの乳房と砂浜を汚し、人魚の血液とはまた違った生臭みが立ち上った。
 あまりの痛みの声も上げられなかった広海が脂汗をだらだら流していると、人魚は唐突に広海の手から歯を引っこ抜き、舌でぬるりと汚れた口元を舐め取った。広海が手持ちのハンカチで傷口を押さえながら人魚を窺うと、人魚は顔を強張らせていた。人の血肉を喰いたい、と言っていた割には表情が暗かった。だが、広海はそんなことを気にする余裕を失い、自分の血を見過ぎて貧血を起こして砂浜に倒れ、気を失ってしまった。
 実に情けない契約だった。


 右手に残る傷跡に触れ、広海は荷物を整理する手を止めた。
 あれから五年も過ぎたが、ミチルは陸に上がりがった理由はおろか自分のことを話してくれない。乱暴な契約をした翌日、右手に包帯を厚く巻き付けた広海はあの入り江で彼女に会ったが、教えてくれたのは彼女自身の名だけだった。他はさっぱりで、聞き出そうとすると海に引き摺り込まれそうになった。何も話してくれない彼女に苛立ちもしたが、それまでは女っ気がまるでなかった広海はミチルと接するだけで充分だと思うようになった。主従関係がイコールで恋愛関係になるわけではないし、広海がその気でもミチルは愛想すらないが、主従関係に縛られている限りは傍にいられる。きっと片思いで終わるだろうが、それならそれでいい。ミチルには広海は単なる足掛かりに過ぎないだろうが、それすらも嬉しいと思えるのだから重症だ。

 浴槽から出たミチルは、居間のほとんどを占めているビニールプールに身を沈めていた。外に出しては両隣の部屋の邪魔になってしまうし、何よりミチルが文句を言う。エラが詰まるからと上半身を隠す服を着ようとしないくせに、他人に素肌を見られるのは嫌がるのだ。だから、ビニールプールは居間に固定することになるだろう。一応、畳の上にはビニールシートを敷いてあるが、たまには剥がして干さないとカビが生えるのは間違いない。問題はその時だな、と思いつつ、広海はぼんやりとテレビを眺めるミチルの横顔を見やった。昨日まで住んでいた地元とは放送局も周波数も違うのに、片付け追われてろくにチューニングしていないせいで画面はノイズまみれだが、ミチルは気にしていないようだった。というより、やることがないから目を向けているだけだった。

「ミチル」

 広海が声を掛けるが、ミチルは振り向きもしなかった。返事代わりに、尾ビレの先で水面を叩いた。

「一通り片付けが終わったら、ここに住んでる人達に挨拶しに行くよ」
「だから?」

 ようやく返事をしたが、ミチルの態度は相変わらず素っ気なかった。

「行くなら勝手に行ってくればいいじゃない。私にはどうでもいいことだわ」
「うん、そうだね」
「でも、何か食べるものだけは出しておいて」
「解ったよ」

 広海は頷き、腰を上げた。ミチルは一度も振り返ることはなく、広海が部屋を出ていこうとも反応しなかった。それもまた、いつものことだった。玄関から出て鍵を掛け、まずは隣室からだと振り返ると、アパートを訪ねてきたらしい黒衣の少女とその背後に控える金色の全身鎧と目が合った。少女の顔にはどこかで見覚えがあり、広海が誰だったかと思い出そうとしていると、黒衣の少女は広海が思い出しきる前に近寄ってきた。

「新しく引っ越してこられた方ですか?」
「ああ、はい、そうです」

 広海は当たり障りのない返事をしてから、黒衣の少女の正体を思い出し、自室のドアに背中をぶつけた。

「そうだ、マーリン綾繁の!」
「娘ですわ」

 黒のシンプルなワンピースを着た少女、綾繁真夜が微笑むと、その背後の全身鎧、アーサーが彼女に問うた。

「真夜、知り合いか」
「いいえ。でも、私の顔を御存知なら、それはきっとこちら側の方ね。私もたまに魔術雑誌に魔法陣の解析式を投稿しているし、本当にたまにだけどちょっとした文章を載せてもらっているし、写真も載ったことはあるもの。でも、その呼び方は恥ずかしいわね。お父さんってば、いつまで手品師みたいな芸名を使うつもりかしら。大魔術師にあやかりたいのは解るけど、センスが古いのよ。お母さんもお母さんで、お父さんがマーリンなら自分は湖の乙女だーとかなんとか言っちゃって、ニミュエ・レイクだとか…」

 真夜が複雑な表情になると、アーサーがまた問うた。

「では、御両親の本名は何なのだ?」
「綾繁和夫と綾繁のり子よ」
「純和風だな」
「だから、余計に恥ずかしいのよ」

 真夜は両親のことを愚痴りそうになったが、広海の存在を思い出して仕切り直した。

「それはそれとして、私、ここの住人の友達なんです。綾繁真夜です、よろしくお願いします」
「我が名は聖騎士アーサー。真夜の盾であり剣であり、聖剣エクスカリバーに選ばれし者だ」

 アーサーは真夜に続いて名乗り、右手を差し出した。広海は手を差し伸べ、アーサーと握手を交わした。

「岩波広海です。国立魔術大学に進学したんで上京してきたんです」
「それはおめでとうございます。頑張って下さいね」

 それでは、と真夜は一礼し、アーサーを引き連れて二階に向かった。二人を見送ってから、広海は今度はアーサーの名に驚くも、首を捻った。アーサーとエクスカリバーといえば、思い出されるのはアーサー・ペンドラゴンだけである。歴史が正しければ、アーサー・ペンドラゴンは中世時代に魔剣との戦いで自らの命と引き替えに魔剣とその操り手を封印し、それ以降はもちろん生き返ってもいなければリビングメイルと化したとのニュースもない。しかし、アーサーの腰に下がっていたのは間違いなく聖剣だ。文献や絵画に記されている聖剣と全く同じ形状だ。引っ掛かりが好奇心に変わった広海は、階段を昇り終えたアーサーに声を掛けた。

「もしかして、あなたはペンドラゴン卿ですか?」
「それは旧き名だ。今の私に必要なのは真夜を守る力だけであり、時と共に流れ去った過去ではない」

 アーサーは二階から少し上半身を出し、広海を見下ろした。

「若き学徒よ。我らが時代は紙の上に残るだけとなり、剣と魔法からは世の理を作る力が失われて久しい。故に、私は聖騎士として果たすべき使命を終え、真夜の恋人として現代に生きると神に誓ったのだ。そして、エクスカリバーにもな」
「色々とお詳しいのは解りましたけど、ね」

 アーサーの隣から顔を出した真夜は、明らかに困り顔だった。言い過ぎた、と広海は後悔して謝った。

「すみません」
「解れば良いのだ」

 アーサーは軽く頷き、真夜も身を引き、201号室のアラームを押した。程なくして快活な少女の声が返ってきて、二人はその部屋に上がっていった。これじゃちょっと挨拶に行きづらいな、と思ったが、今更自室に引き返してもミチルから刺々しく言われそうなので、広海は近所を出歩くことにした。時間潰しと商店の探索も兼ねている。自室の鍵と携帯電話と財布がポケットに入っていることを確認してから、広海はアパートもえぎのを後にした。ミチルの様子が気になったが、彼女なら一人でも平気だろう。
 細々と構い過ぎると、もっと機嫌を損ねてしまうだろうから。


 狭苦しく、酸素の薄い、淡水の海。
 エラから吸い込んだ水を吐き出し、ビニールプールの中に戻した。滑らかなウロコに覆われた下半身を円形の内壁に添って曲げ、尾ビレを意味もなく揺らした。潮の匂いが一切しない空気に慣れるために肺を使って呼吸してみるが、酸素が思うように吸収出来なかった。板張りの天井は薄暗く、二階からは騒ぎ立てる少女達の声が聞こえてくる。耳障りではあるが、悪いものではない。むしろ、羨ましかった。思いのままに話せることは、充分すぎるほど素晴らしい。
 ミチルは長い髪をビニールシートの外に垂らしながら、指の間に付いた水掻きを噛んだ。皮膚が薄いが痛覚はちゃんとあり、鋭利な歯が刺さりかけたが引っ込めてしまった。水掻きを一つ噛み千切ったところで、何が変わるわけでもないと解っている。忌まわしい下半身を切り落として二本の足にすげ替え、エラを塞ぎ、歯を削り、髪を切らなければ、人間に近付くことも出来ない。
 人間に思いを告げれば、人魚は泡と化して死ぬ。海中で同族達と暮らしていた頃、大人達から何度も聞かされた話だった。危険な陸に上がるなとの注意喚起であり、人魚族の繁栄の妨げとなる異種間婚姻を防ぐための作り話だとばかり思っていた。だが、ある日、幼馴染みの人魚の少女が泡になって死んだ。以前から陸への憧れていた彼女は、人魚や魚人から聞きかじった陸の話を目を輝かせながら話してくれたものだった。その中で特に熱が入るのは、海辺で見つけた人間の男性のことだった。だから、幼馴染みが消えた時、ミチルは彼女が無事に陸に上がれたのだと思い、口にはしなかったが心の内では喜んでいた。もしかしたら、陸に上がった幼馴染みは憧れていた人間の男性と素敵な恋に落ちているかもしれない、とも。

 それから数日後、幼馴染みが死んだとの報せがあった。彼女が死んだ海域には数枚のウロコが散らばり、泡が漂っていたそうだ。ウロコを見つけた人魚は嘘を吐くような性格ではなかったし、泡を目にした魚人族や魚類もいた。だから、幼馴染みは本当に泡になって消えてしまったのだろう。ミチルは幼馴染みの死に方を信じたくはなかったが、大人達の話が嘘ではないのだと痛感し、陸には上がるまいと胸に誓った。それなのに、成長すると陸の魅力に抗えなくなり、大人達の目を盗んでは浅瀬を目指して泳ぎ、夜に隠れて人界を望んだ。そんなことを繰り返していると、いつも決まって同じ入り江にやってくる少年が目に付いた。歳も近かったし、下手くそな魔法を使おうとする姿が微笑ましく思え、眺めてしまった。そして、言葉を交わしたい、近付きたい、と思うようになったが、幼馴染みの死に様が過ぎって見つめるだけの日々が続いた。少年がいずれ大人になり、旅立つ日には終わるはずだ、と自分に何度となく言い訳しながら陸に近付いた。気付いた頃には、ミチルは少年に心を奪われていた。
 そして、広海と接触したあの日、ミチルは港に近付きすぎて漁船に轢かれた。広海が来るよりも先に行こう、と思うあまりに気が急いてしまったせいだった。幸か不幸か広海が訪れる入り江に打ち上げられたが、泡になりたくない一心で意地を張った挙げ句に強引な契約を交わした。使い魔となったことで傍にいることは出来るかもしれないが、広海には嫌われているだろう。使い魔がいれば魔術師としての箔が付くから、契約を継続してくれているだけだ。そうに違いない。

「広海」

 彼の名を呟き、ミチルは顔を覆った。

「ごめんなさい」

 せっかくの新生活に、文字通り水を差している。魔術大学に進学することは彼の悲願であり、この機会に独り立ちさせてやるべきだったのに、入り江で待つミチルに合格報告をしてくれた彼に連れて行けと頼んでしまった。海を離れた人魚を生かすのは容易なことではないと自分でも理解しているのに、離れてしまうのが耐えられなかった。束縛してしまいたかった。
 けれど、後悔が怒濤のように襲い掛かる。好きで好きでたまらないのなら、離れておくのが彼のためだ。泡になるのが怖いからと、本心を隠すために天の邪鬼になる自分が嫌いだ。だが、泡になって死ぬのは嫌だ。どうせ死ぬのなら、陸で、広海の腕の中で果てたい。かつて味わった彼の血の味を思い起こし、ミチルは唇を舐めた。
 塩素の効いた、人界の味がした。






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