渡辺恒夫


渡辺恒夫は1946年生まれ。東邦大学理学部教授。専門は心理学。京都大学文学部で哲学を、同大学院文学研究科で心理学を専攻した。

自我体験、独我論的体験、意識の超難問の体験を心理学の立場から統計的に調査研究している。そして意識の超難問の解答として梵我一如思想を背景にした「遍在転生観」を提唱している。

遍在転生観

遍在転生観とは、渡辺恒夫が考える輪廻転生のあり方。全ての個人がそれぞれ所有しているように見える自己・自我というものは、実は唯一存在するだけであり、それが各個人に現れているのだと考える。

「なぜ〈私〉は21世紀の〈今〉というときに、〈ここ〉地球星の日本という島に生きているのか?」という意識の超難問的な問いに対しては、過去・未来・同時代のあらゆる知的生命体は、唯一の私が輪廻転生を繰り返す姿に他ならなず、私は今地球にいる全ての人間だったし、全ての人間になるだろうという考えである。

渡辺の思想は梵我一如の世界観を背景にし、永井均の独在性思想の対極にある。ただし、渡辺は独在性を否定しているのではなく、独在性が真性の問題であることを一旦認め、その解答として遍在転生観を提唱しているのである。

以下の図は渡辺の分類による転生観の種類である。
(太線が〈私〉であり、点線が心を持っていると想像しうる〈他者〉である)
(出典:『輪廻転生を考える』p.175)

図の c の遍在転生観のみが、〈私〉がこの人間として生まれたという偶然の「神秘」を「必然」に転化しうると考える。

科学者のエルヴィン・シュレーディンガーヴェーダーンタ哲学の影響を受け、著書『わが世界観』で遍在転生観と類似の考えを主張している。以下引用。
なぜ君は君の兄ではなく、君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い――君と誰か他の者との違い――をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。(p.99)

通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。(中略)――周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat twam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。(p.100)
※上記の「Tat twam asi」は「Tat Tvam Asi」とも表記される。
また『精神と物質』では、「一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです」と述べている。

永井均に対する批判

無限の昔から、世界は〈私〉なしに存続してきた。わずか数十年(長くてせいぜい百年)の例外期間を過ぎて、世界はまた〈私〉なしに存続していくであろう。(永井均著『私の同一性と〈私〉の同一性』)
この永井の文章の「であろう」という部分について渡辺は、〈私〉の出現が一回きりである理由(未来に出現しない可能性)が彼にも思いつけなかったのだろうと指摘する。そして永井の転生観を上記の図の b であり、穴だらけ転生観の特殊ケースに他ならないと指摘する。

遍在転生観の問題

同時代の誰かに転生する――今現在いる多数の他人たちも〈私〉であるというのは合理的に考え難いことを渡辺も認めている。この点について渡辺は、時間を空間の第四次元に扱うアインシュタインを援用し、時間の第二次元(二次元時間)を想定して、問題の解消を試みている。

三浦俊彦は渡辺を批判し、意識の超難問を遍在転生観で絶対に解決できない理由は、なぜ今この瞬間に「私」は三浦俊彦なのか ? という疑問が解決できないからであり、最小瞬間ごとの転生を考えようとも、時間の第二次元を導入しようとも、「他ならぬこの瞬間になぜ……」という疑問が決して解決できないとしている。

渡辺は、人物Aと同時に人物Bであることはできないという問題について、以下のような可能性を考える。
①刹那転生
輪廻転生の単位を生物学的な一生とするのでなく、一秒よりはるかに微小な時間、一刹那とし、〈私〉は一刹那のうちに次々と異なる人物――光のような速さで全世界のあらゆる人間に転生してまわる可能性である。これは仏教哲学の「刹那生滅説」に近い。自我を含む全世界が、一刹那ごとに消滅して、また新たに生じると考えるものである。
②遍在転生輪廻
同時代人であるそれぞれの人物も、実は何らかの意味で「時を異にする」と解釈するものである。(この考えでは「時間の第二次元」は否定される)

観念論的アプローチ

(以下は管理者の見解)

心の哲学において心身問題が解決困難である理由は、「一つの肉体には一つの心が宿っている」と、肉体と精神の関係を一対一の「所有関係」と考えることにある。実はその考え方は論理的とはいえない。自然科学の知見を前提したとしても、物理的な肉体と異なって精神は空間的にその位置を規定できないのだから、精神と肉体には「対応関係」があるということだけが事実として認められるのである。個人の肉体の中の脳という部分に精神が存在しているという素朴実在論的な見方は根拠が欠けている。(渡辺を批判する三浦も、心身関係を所有関係であることを前提にしている)

人格の同一性意識の超難問においても、肉体と精神の関係を一対一とする限り解決困難なアポリアが生じることを、私は論じた。

アポリアを生じさせる原因は実在論、特に時間と空間の実在性を前提にしていることだと私は考える。もし時間と空間が実在しないと仮定すれば、遍在転生観の問題や、心の哲学における意識のハードプロブレムは解消されるだろう。従って私は、梵我一如の世界観を背景にした渡辺の思想とは異なり、時間と空間そのものの実在性を否定した古代ギリシャのエレア派の一元論によって独在性の問題を考えている。(この問題についてはエレア派の一元論の合理性として考究しているので参照されたい)

感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である――このパルメニデスの指摘は鋭く、シンプルである。理論はシンプルなほど論破するのが困難である。事実このパルメニデスのロジックを論破した者を私は知らない。

クオリアとは、まさに「在るものが無いものになり、無いものが在るものになる」という矛盾したものである。それは〈私〉についても同様である。机やりんごなどの物質は燃えたり砕けたりして無くなった様に見えても、じつは元素や原子に分解されるだけである。しかし、クオリアは先ほどまであったと思えば次には完全になくなったように思われるし、〈私〉もまたいつか死ねば無くなるように思える。しかし、これは不合理である。

渡辺が意識の超難問に関心を抱いて遍在転生観を主張した背景には、おそらく「在る」ものであった〈私〉が「無い」ものになるということに不合理性を感じたからのはずである。ならば、変化――時間の実在性を問わなければならないはずである。しかし渡辺は遍在転生観を、時空の実在を前提とした科学的実在論と調和させようとしている。これは問題の本質が間違った方向にスライドされていると考える。

そもそも私がパルメニデス的な一元論に惹かれたのは、宇宙における物理法則の普遍性(後に自然の斉一性原理という言葉を知ることになる)がきっかけだった。宇宙には電磁力や重力など、さまざまな法則があるが、それらの法則は宇宙のどこでも遍く通用し、変化しないらしい。地球ではE=mc2だけど火星ではE=mc3であってもいいのではないか? なぜ、そうではないのか? 子供の頃、そんな素朴な疑問に悩んだものだった。そんな疑問が解消したのは、ずっと後年のことである。パルメニデスとエレア派の思想に接し、この宇宙が空間によって断絶しておらず存在は「一」であるとしたなら、物理法則が普遍的であることは何の不思議もなくなったのである。そして、これはスピノザの影響であるが、さまざまに存在する物や人々はその唯一の存在の属性として考えるようになった。

私なりの遍在転生観(この思想を抱くようになった時はまだ渡辺恒夫を知らず、遍在転生観という言葉も知らなかったが)を持つようになったのは、そのような世界観が背景にあったためでもあるし、当時心の哲学において流行の言葉であったクオリア問題の解消の試みとして辿り着いた結論でもあった。

他我問題

(以下は管理者の見解)

「他我」の問題は、一元論の立場では存在しない。そもそも他者の定義じたいが「自分と異なる肉体と、その肉体にあるかもしれない精神」なのだから、空間の実在性を否定するエレア派的な一元論の立場では、「異なる肉体」という他者の定義の一つが消去されることになる。もちろん空間が実在しないとしても、精神の在り方は純粋に非空間的なものだから、空間的広がりのない世界に複数の精神・自我が在るということは論理的に可能であると思う。しかし空間の実在性を否定するなら、自我が複数在る必要はないように思われる。多数の知覚が存在していることは事実であろうが、その多数の知覚が唯一の自我に現れているとしても論理的に間違ってはいないだろう。

この場合、自我が唯一であるというのは、他我の存在を否定するものではない。他我も自我であるというのが、遍在転生観の核心なのである。広い世界に多数の人々が存在し、それぞれが〈私〉であるというのは考え難いかもしれないが、空間的広がりのない、たとえば数学的な意味での唯一の「点」の世界に多数の人々(として認識されるなにか)が存在し、そこに唯一の〈私〉がおり、その唯一の〈私〉が様々な視点から、様々な認識をしているとイメージすれば考え易いかもしれない。

他者もおそらく〈私〉であろう。ただ〈この私〉とは見ているものが違うということだ。この場合、「同時に別のものを見ている」ということを意味しない。「同時に」という言葉が意味を持つのは時間が実在していると仮定した場合だけだ。


  • 参考文献
渡辺恒夫『輪廻転生を考える』講談社現代新書 1996年
渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』ナカニシヤ出版 2002年
三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」『科学哲学 35-2』 2002年
西田幾多郎/著 , 竹田篤司/〔ほか〕編『西田幾多郎全集 第一巻』岩波書店 2003年
エルヴィン・シュレーディンガー『わが世界観』 橋本芳契監修 中村量空・早川博信・橋本契訳 ちくま学芸文庫 2002年
  • 参考サイト


最終更新:2013年02月04日 23:09