15年戦争資料 @wiki

第二章 満洲事変への道

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
統合幕僚学校・高級幹部課程講義案
「『昭和の戦争』について」
福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)

第二章 満洲事変への道



第一節 対華二十一箇条要求問題


 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。

 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。

 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。

 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。

 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。


第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐


 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。

 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。

 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。


第三節 ワシントン会議の歴史的意義


 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。

 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。


第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現


 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。

 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。

 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。


第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入


 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。

 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた)


第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月)


 さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。

 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。

 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。

第七節 ソ連の満蒙工作


 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。

 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。


第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」


 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。

 蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。 

 丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。


第九節 幣原外交の空回り


 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。

 幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。

 善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。


第十節 田中外交の挫折


 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。

 若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。

 そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。

 内容は、(1)支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、(2)「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、(3)「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。

 かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。

 五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号)

 田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。

 なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。


目安箱バナー