15年戦争資料 @wiki

rabe9月21日

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pipopipo555jp

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九月二十一日


裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輸で防空壕が作られた。とはいっても、十九、二十日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。

アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻ってきたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいないし、いうはずもない。第一、私自身、会社や自分の財産のために命をかける気などこれっぼっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルク商人である私にとって、どうしても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、三十人はいるその家族にとっても、頼みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届けている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりとする。

アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。

「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるなら、私も参ります!」

うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだというわけで、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。

こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でもいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。

それに、結局のところ、私の心の奥底にはここに残り、ここで耐えぬくべきだ、という強い思いがある。私はナチ党の党員だ。しかも、支部長代理さえつとめたことがあるのだ。わが社の得意先は中国の役所だが、仕事で訪れるたびに、ドイツという国、それからナチ党や政府について尋ねられた。そういうとき、私はいつもこう答えてきた。

いいですか&&
ひとつ、我々は労働者のために闘います
ひとつ、我々は労働者のための政府です
ひとつ、我々は労働者の友です
我々は労働者を、貧しき者を、見捨てはしません!

私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は三十年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてがないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか? かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも? しかも、それがほかでもない自分と関わりのある人間、使用人だったら?


私はついに肚(はら)を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。

そこへわが家の薬箱をそっくり持ちこんだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた。毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。

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(註)上下線部分について、中国語版をお持ちの熊猫さんから次のような指摘がありました。

> 「中国語版は、こう書かれているんだ。」程度の解釈をしていただければよいかと思います。 9月21日の日記を比較してみます。随分と省略された記述があり、誤訳と言うよりは違う文章と言ったほうが早いかもしれません。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=3454;id=sikousakugo#3454

下線部分の熊猫さん訳はつぎのとおりです。

そこで、私たちは汚い防空壕の整理に行い、新しく配置しなおした:堅固な梁木を加え、床板を敷き、砂袋を積み上げた(今日は空袋1つの値段が1元だった)、もちろん右側に入り口と出口がある。私達は梁木の1本が折れてる危険を発見した時も、私達は落胆することなく、骨折りながらもやはり別の1本と交換した。わずか一晩でこの中の直ぐに3分の2が終わってしまった。

 爆弾の爆発による爆風に対処するため、私達はまだ2つの入り口の穴に砂袋を積み始めた。私は全ての家庭用薬品とすでにこの期間に閉鎖している学校の全ての薬品を防空壕の中に運び入れた。そして毒ガスにそなえて酢をしみこませた包帯を準備した。

 午前11時から、事前に篭と魔法瓶の中に食品と飲み物を準備して置いてるのだが、しかし今はもう午後3時30分だ、日本野郎共はまだ空に姿を現していない。全く信用できない連中だ!既に彼らは厳しい警告を出してるのに、来ないのはどういうことだろう?きっと彼らは私が堅固な防空壕を掘るところを見たので、来ることが出来ないんだろう。

 私はラジオニュースからこの情報を得た:「上海は雨である!」

 これが日本人が来ない原因か?これが好いのではないか?私は何故、気をもんでいるのか!むしろ私の面子なんかどうでもよいし、日本人に来て欲しくない。さすがに一回の出来事で把握することは出来ない。

>中国語の『拉貝日記』には日本鬼子(日本野郎と訳しました)と書かれていますが、ドイツ語版では如何なる表現だったのか気になるところです。

とのことです。


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