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第七章 いかにして戦闘は始まったか

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シナ大陸の真相―1931‐1938
K.カール カワカミ (著), 福井 雄三 (翻訳)
展転社 (2001/01)

〔小見出し(***)は引用者による〕

第七章 いかにして戦闘は始まったか

(戦争を望んだ中国)

一九三七年という年は中国にとって不吉な場面で始まった。全ての批判的な観察者から見て、中国がただ漫然と流されているのではなく、日本との戦争に向けて意識的に動いているのは明らかであった。蒋介石総統が共産軍と手を結んだのでその結果、南京は最左派の軍人と政治家に支配された。青シャツ隊と共産主義者、学生とC・C・は戦争を要求していた。計画的で組織化されたそして公然と煽動された十年間に及ぶ反日運動は一般大衆の心を激しく燃え立たせ、その結果公私を問わず罪の無い一般の日本人、更には日本の陸海軍将校さえをも標的にした殺人や暴行が、中国のあちこちでますます頻繁に報じられるようになってきた。あらゆる様子から判断して、「賽は投げられた」と中国が決断したのは間違いない。一九三六年二月に東京で僅か一握りの兵士たちが短期間で終結した反乱を起こしたが、この日本で起きた事件の意義を中国は過大評価し、「日本軍は土台がぼろぼろになってしまっている」という早とちりの結論を出してしまった。中国は、日本との戦争に勝ち満洲国の失われた領土を取り返す少なくとも互角のチャンスがある、と信じこんだ。

そしてこの中国の白信は決して根拠の無いものではなかった。中国は二二五万人の将校と兵士から成る一九八師団を擁していた。この巨大な軍隊は共産軍の二〇万人の兵士を加えて更に強化された。それに比べて日本軍はちっぽけなものであり、平時体制の三〇万人の将校と兵士から成る僅か一七師団を擁するに過ぎなかった。

その上中国は飛行機や機関銃や戦車など膨大な数の近代兵器を獲得しており、外国の指導教官が中国人にその使用方法を教えていた。その数多くの師団の幾つかを外国人の将校が訓練していた。中国の軍事指導者が戦争に打って出ようと決心したのも少しも不思議ではなかった。

一九三七年の春までに事態はあまりにも緊急を要するものとなり、極東情勢に関する著名なアメリカの評論家でかつ中国の誠実な友人であるナザニエル・ペッファー氏は昨年四月、ニューヨークの「アジア・マガジン」に載せる原稿を上海で書きながら、次のような警告を発した程である。

「現在の中国に関して最も警告を要する事柄は、中国人がバランスを失うぎりぎりの崖っぷちの所まで来ている、ということである。もしも彼らがここで踏み止まらなければ、約十年前にしでかしたのと同じ誤りを彼らは再び繰り返すことになり、同じ様な災厄の結果をもたらすだろう。実際、次のどちらを中国はより一層恐れねばならぬのか、現時点で断言するのは難しい。すなわち日本か、それとも中国か。日本軍の野望か、それとも中国国民の精神状態か。私としては後者の方を恐れねばならぬと考えている。何故ならばそれは、如何なる場合でも防ぐのは容易ではないけれど現時点ではまだ発生させないで済ませられる戦争を発生させてしまう可能性があるからである。ここ中国に僅か四八時間だけでよいから滞在してみ給え。そうすれば学生だけでなく成熟した影響力のある中国人までもが戦争のことを語り、考えている無謀さに衝撃を受けるだろう」

全く同様の意見が、上海で発行されているあの権威あるイギリスの雑誌「北支デイリーニュース」の一九三七年五月二二日付の社説の中で述べられた。それは次のように言っている。

「日本の政治家たちが中国問題を新たな概念で眺めたいという希望をはっきりと表明しているまさにその時に、日中関係についての最近の中国側の発言の中にある種の厳しさが出てきていることは不幸なことだ。相手の手札よりも高く競ることの危険は、トランプのブリツジ遊びをしている人ばかりでなく外交官にもよく分かっている。蒋介石が中国を統一した結果として中国の対等な立場を世界に認めさせるのに成功したことは、もしそれが事実の裏付けの無い軍事力または政治力の手段を中国のために要求する目的で使われるならば、ただ偏見の目で見られるだけだろう。森の外に出る前に泣き叫ぶ人間は不快な衝撃を受けやすい。さらにまた、強さなるが故に生じる忍耐をあまりにも積みすぎる人は、それを弱さの徴であると周りに誤解されてしまう」

この社説の中で言及されたこの「新たな日本の概念」は、一九三七年二月林銑十郎大将の組閣した日本の内閤が、彼の先任者が行ったよりももっと自由な線に沿って日中関係を再調整したいという希望を表明したことを、明らかに意味していた。外相の佐藤尚武は大臣の地位を拝命する前に多くの軍事指導者と相談し、対中国宥和政策を実施した場合に軍部から何の反対も受けない、という了解を得ていた。それから間もなくこの新外相は議会で演説した時に、もしも南京と東京が対等の立場に立って協力すれば、北支の自治体は日本にとって全く無意味である、とはっきり公表した。蔵相の結城豊太郎は佐藤に同調して「日本の経済政策は中国を無視しては成り立たない。軍も今ではこのことを理解しており、中国での経済協力が最も大切であることに同意している」と述べた。

しかし東京で公言されたこの「新たな概念」は南京に何の感興も与えなかった。それどころか逆にそれは中国によって日本の側の弱体化の徴侯であると受け取られ、それは中国の潮笑的な態度を以前よりも一層顕著なものにさえした。中国は日本と妥協しようなどと毫も考えていなかった。日本の河越茂大使は南京で事実上行き詰まってしまい、外相佐藤尚武及び日本の全閣僚の地位を守りきれないものにしてしまった。一九三七年五月に林内閣が倒壊した原因の一部はその中国政策の失敗によるものである。

それから近衛公の内閣が登場した。その最初の任務は前内閣と同様に中国問題の解決であった。しかしこの新内閣がその責務に取り組んでいる時でさえ、北支の中国軍は事件を起こそうと画策していた。

(七月七日マルコ・ポーロ橋、軍事演習)

一九三七年七月七日夕方、約一五〇名の日本兵はマルコ・ポーロ橋の近くのいつもの練兵場でいつも通りの軍事演習を行っていた。いつもと同じように中国側当局は日本側から前もって連絡を受けていた。日本兵は実弾は携行していなかった。いつも通り彼らは空砲を撃った。

ところが全く予期せぬことに同日夜一一時四〇分、これらの日本兵は二九路軍第三七師の中国軍部隊によって銃撃された。彼らはマルコ・ポーロ橋の方角から撃ってきた。この日中間に生じた戦闘の最初の局面に詳細に立ち入る前に我々は、北京・天津地域に軍隊を駐留させている国は日本だけではない、ということに留意せねばならぬ。日本軍の派遣部隊が中国軍によって銃撃された当時、この地域の諸外国の守備部隊の内訳は次の通りであった。
兵士 機関銃 カノン砲 戦車と装甲車
日本 四、○八〇 一七三 三八
アメリカ 一、二二七 一ニ一 一三
イギリス 九九九 六四 一〇
フランス 一、八三九 一三五 二六 一〇
イタリア 三八四 六二

この地域には一万七千人の日本人住民が居てそれを四〇八○人の日本兵が守らねばならなかったが、これは兵士一人につき住民四人強の割合である。同地域のアメリカ人とヨーロツパ人住民の合計は一万三三八人で彼らは四四四九人の軍隊の保護に頼っていたが、これは兵士一人につき住民二人強の割合である。

これらの外国の守備隊はいわゆる義和団議定書に従ってそこに駐留しているのである。というのはその議定書は、拳匪の乱として知られる大規模な排外暴動の直後に外国人の安全を守る目的で締結されたからである。この拳匪の乱は当時の中国政府の暗黙の承認の下に、中国の全ての外国人を絶滅しようとしたものであった。この乱から三七年たった今日、列強諸国はその各々の国民の生命と財産を中国警察及び中国軍のあやふやな保護に委ねることに、いまだに安心感を持てないでいる。

北京付近でイギリス、アメリカ、日本の守備隊は、各自にそれぞれ割り当てられた場所で定期的な軍事演習を行っている。アメリカ軍は「幸福の谷」という名のついた場所を使用し、イギリス及びその他の国の軍はアメリカの演習場の北にある場所を使っている。日本軍の演習場はマルコ・ポーロ橋の近くの平坦な土地である。

(銃撃と休戦)

ここでマルコ.ポーロ橋事件に話題を戻すと、一五〇名の日本軍は七月七日の夜中国軍に銃撃された時、実弾を携行していなかったので反撃の火蓋を切らなかったし切れなかった。彼らは軍事演習をいったん中止し、少しばかり退却して、約ニマイルほど離れた場所にある豊台のかつてイギリス軍兵営だった所に置かれた日本軍本部に通報した。深夜○時を少し過ぎた頃に援軍部隊が到着した。それから中国軍の銃撃に対する日本軍の応戦が始まった。

そうしている間に北京の中国軍と日本軍の地方当局はこの事件の報告を受けた。直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。その結果、七月八日午前六時に戦闘は止んだ。

しかし同日午後三時及び再び午後六時に、中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。

翌朝七月九日、中国二九路軍の代表責任者と日本軍の松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。

七月一〇日午後五時から午後八時の問に、二〇〇名以上の中国兵が迫撃砲を持ち出してきて新たな攻撃を再開した。これは休戦協定を完全に無視したものであった。日本軍は当然のことながら応戦して銃撃した。しかしながら休戦協定は再び結ばれた。というのは日本軍はこの事件を地域的なものに限定して、一刻も早く清算したいと熱望していたからである。

(最初の協定)

七月一一日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。

同日午後四時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び股雲(北京の位置している河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。その協定の条文は次の通りである。
  1. 中国第二九路軍の代表による謝罪と直接責任者の処罰。
  2. 中国軍は、彼らが日本軍に銃撃してきた盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)から撤退すること。そしてその代わりに、中国軍と日本軍が接触しないよう十分に隔離する意図でもって平和維持部隊を配置すること。
  3. 反日的な青シャツ隊と共産党の活動を抑制するための適切な処置をとること。

この条文の中にはおかしな所は一つも無かった。それらは容易に応じられるべき性質のものであった。第三項目の「青シャツ隊と共産党の抑制のための」の部分は、この事件が起きるよりもずっと前にもう既に合意されていたことなのである。もっとも南京政府はこれまでの章で我々が見てきたように、その合意を守ったことは一度も無かったのであるが。青シャツ隊と共産党は最も危険で厄介な要素であり、中国の民間人及び兵士の間で言語道断の暴力的な反日運動を行ってきた。日中間の正常な交流を回復するためには、彼らの活動を抑制することが絶対必要であった。

七月一三日、第二九路軍の司令官であり河北・チャハル政治会議(これは前記のような事件を処理するのに十分な力を持っていた)議長である宋哲元将軍は天津へ赴き、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。

孫将軍は前記の条項を事実上受け入れ、七月一八日葛城将軍にマルコ・ポーロ橋事件についての遺憾の意を表明した。このようにして第一段階は事件収束の方向に向けてスタートしたのである。

(南京政府の動員令)

ところがその間に南京の蒋介石総統政府は、この事件を交渉によってではなく武力の行使によって解決する決定を下したのである。マルコ・ボーロ橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始した。七月九日、南京政府は四個師団と戦闘機を北部へ派遣した。これらはもちろん、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。

七月一九日までに三〇個師団(約二〇万人)もの中国軍が北支に集結した。この内約八万人が北京の周辺に配置された。同日南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、東京は直接南京と交渉しなければならない、ときっばり日本に通報してきた。これはもちろん、河北・チャハル政治会議議長と日本軍守備隊司令官との間に結ばれた協定の条文を南京政府が拒否するつもりであることを意味していた。

河北・チャハル政治会議は一九三五年、南京政府の明確な承認の下に組織された。それは次のような多くの大切な地域問題を解決してきた。例えば満洲国と北支間の郵政及び鉄道連絡網の回復や、満洲国.中国国境沿いの税関の設立などの。それはさらにまた、反日的な青シャツ隊が日本に友好的な三人の中国人新聞業者を殺害した事件や、ルアンチョウの日本贔屓の平和維持部隊司令官を殺害した事件などから生じてくる微妙な問題を平和的に解決してきた。

この間ずっと南京政府は、この様な地域レベルでの解決に対して異議を唱えたことは一度も無かった。ところが今や中国の軍事指導者は、日本と戦場で対決する準備が整ったのでその結果地域レベルで平和的に解決しようという日本の申し出をきっばり拒否出来るようになった、と明らかに確信してしまった。

(日本は地域レベルでの平和的解決にこだわった)

日本はあくまでもこの事件の地域レベルでの平和的解決にこだわった。その理由としては第一に、河北・チャハル政治会議で明言した地方自治権の維持は、北支と満洲国と日本の間の平和で正常な関係を保つのに必要不可欠と考えられたからであり、第二に、北支での国民党の影響力のさらなる拡大は共産主義と青シャツ隊の侵入を意味していたからであり、第三に、そのような状況が続けば、これらの厄介な要素と外モンゴル共産政権との力の結合が生じるであろうからである。

七月二二日までに蒋介石総統自身の率いる師団が河北省に入った。これは一九三五年の協定の違反であり、この協定によれば南京政府は河北省に一兵たりとも進駐させない、と自ら誓っているのである。ついでながらこの協定は何応欽将軍(南京政府の国防大臣でありかつ南京軍事会議の北京支部議長)と北支日本軍守備隊司令官梅津将軍が調印したものである。このような大規模な兵力の集結は、南京政府が武力の行使によって問題を解決しようと決意したことと照らし合わせた時にのみ理解可能なのである。そしてこのことは前章で触れたように、有能な外国人観察者も認めたことなのである。マルコ・ポーロ橋事件を引き起こした第三七師の将校と兵士が挑戦的で反抗的な態度をとり続けたのも少しも不思議ではない。この第三七師が二九路軍に属しており、その総司令官は平和的な地域レベルでの解決に同意していた宋哲元自身であったにもかかわらず、そうなってしまったのである。他の師団もまた、同様に挑戦的であった。

(七月二〇日の攻撃)

七月二〇日、宋哲元の誓約にもかかわらず、第三七師の部隊はマルコ・ポーロ橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。

宋哲元将軍は、七月二一日正午までに第三七師の撤退を行う、と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。

同日七月二一日午前一一時蒋介石総統は南京で戦争会議を開き、日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。七月二三日、蒋介石の右腕とうたわれた南京副幕僚長の孫浜将軍は飛行機で北京と保定(河北省の省都で北京の南方九〇マイル)に赴き、その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面での南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。

このようにして、第三七師を撤退させるという宋哲元将軍の度重なる誓約にもかかわらず、この軍隊は日本軍と対時している同じ場所に事実上留まり続けた。

それにもかかわらず七月二五日、葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明した。彼がこのような楽観的な意見を述べている時でさえも、中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。この両都市の丁度真ん中の廊坊で電話線が切断されているのが発見された。

(廊坊事件)

七月二五日午後四時二〇分、歩兵一個中隊に護衛された日本軍の工兵隊が廊坊に赴いたが、これは同地域を支配していた第三八師司令官の張治中将軍の明確な了解を得た上でのことであった。

同日午後一一時までに修理工事は完了し、日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。その時突然、これらの日本軍がまだ食事をしている最中に中国軍が攻撃をかけてきた。彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲さえをも使用していた。

日本軍は夜の暗闇に紛れて、圧倒的に多数の敵の前で陣地を固守した。たった今修理したばかりの野外電話線を使いながら、彼らは天津の日本軍本部に通報した。

廊坊は天津から約四〇マイルの所にあり、包囲攻撃された部隊が差し迫った全滅の危機に曝されているまさにこの瞬間に、通常の手段で救援軍を現地に派遣するにはあまりにも遠すぎて不可能であった。

そういうわけで翌日(七月二六日)午前七時、数機の日本軍戦闘機が廊坊に到着し、中国軍の陣地を爆撃して日本軍を救った。

この中国軍の師団の司令官は日本軍が電話線を修理するのを許可しておきながら、彼の部下達は(司令官が見て見ぬふりをしたのかどうかそれはわからぬけれど)日本軍を虐殺しようとしたのである。

(七月二五日の最後通告)

ことここに至ってようやく日本軍司令官の葛城将軍も、中国軍の司令官達は信頼出来ない、という結論を渋々ながら認めざるを得なかった。何故ならば彼らの命令は部下によって無視されたからであり、あるいは彼ら自身が背信的だったからであり、あるいは南京政府の督促の下で彼らは嘘をつかざるを得なかったからである。

その結果として七月二五日、日本軍司令官は宋哲元将軍に最後通告となる覚書を送った。この覚書は新たな軍事衝突が起こったことにっいて遺憾の念を述べており、それはひとえに二九路軍が日本と締結した協定の条項を守らなかったためであり、さらにまた二九路軍が挑発的な態度をとり続けたためであるとして非難した。

もしも二九路軍が事態の悪化を防ごうとする意図がまだあるならば、北京の全地域からの第三七師の完全な撤退を速やかに決行することによって誠意を示して欲しい、とその覚書は要求していた。

この覚書は次の諸点をはっきり指定していた。第一に盧溝橋及び八宝山付近の第三七師の部隊は翌日七月二六日正午までに盧溝橋の南の長辛店まで撤退すること。第二に同師の全部隊は直ちに北京を出て行くこと。第三にこれらの部隊は、北京のほんの少し北西部のシーユアンに駐留している第三七師の部隊と共に北京・漢口鉄道の北側の地域からユンチン河の西岸へ、七月二八日水曜日の正午までに撤退すること。

さらにまたこれらの全部隊は速やかに保定(北京から南へ九〇マイルで、北京・漢口鉄道線上に位置している)まで撤退すること、とはっきり指定しながら、葛城将軍は次のように警告した。もしも中国軍がこの要求に応じなければ日本軍は、二九路軍は誠意に欠けているという結論を出さざるを得ず、日本
軍が適切と考える何らかの行動をとらざるを得ないであろう。この点において二九路軍は起こり得る如何なる結果に対しても全責任を負わねばならない、と。

(七月二八日日本軍の進撃開始)

中国軍がこれらの条項に応じなかったのは言うまでもない。そういうわけで七月二八日午前五時、日本軍の部隊は中国軍の前線に向けて進撃を開始した。

七月二七日、日本政府は平和的解決の望を捨てて中国への援軍派遣を決定した。日付に注意して欲しい。本国の軍隊を紛争地へ派遣する命令を出すまでに三週間が経過しているのに対して、南京政府は七月九日にもう既に動員令を出しているのである。二〇日間もの問、日本は何とかしてこの軍事衝突を最小限に抑え、地域的な紛争に限定し、平和的な解決に導こうと必死の努力をしたのである。だが中国は戦争を熱望していたのであった。

奇妙なことに七月二七日午後一一時南京政府は、北支行政当局と日本軍守備隊司令官との問で結ばれた協定に基づいて交渉しよう、という内容の暖味に表現された申し出を携えて日本に歩み寄ってきているのである。しかしもう時既に遅し、であった。南京政府が自ら賽を投げてしまったのである。中国は事実上日本に対して「来るなら来い。戦争したければしようではないか」と言っているのも同然であった。この午後一一時の申込が、中国が平和を望んでいるという見せかけの姿勢にもっともらしさをただ与えるためだけの目的で、外国の目を意識しながらなされたのは明らかであった。それを実行に移すにはもう時既に遅しであることを十分承知の上でその申込はなされた。

さらにまたこれまで我々が見てきたように、これに先行する三週間の間の出来事が、中国人の約束は当てにならないということを完全に裏付けていた。もしも南京政府が心底交渉を望んでいるのであれば、彼らは戦争の準備を中止し、北支の幾っかの地域から軍隊を撤退すべきであった。南京政府はこれをするのを拒否した。南京政府は相手の手札よりも自分の手札を高く競り、一般大衆のみならず兵士達の間にも反日感情を煽り立てた。

月二九日、二九路軍の三千人以上の兵士が北京の北の通州で二百人の日本の民間人を虐殺した。

同日の殆ど同時刻に二九路軍の兵士が天津の日本租界区域に攻撃を仕掛けてきた。そこには一万人以上の日本の民間人が居住していた。
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