『新唐書』wiki内検索 / 「契苾何力」で検索した結果

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  • 契苾何力
    契苾何力 ?-677 唐の名将。鉄勒の契苾部の人。哥論易勿施莫賀可汗の孫。契苾葛の子。幼くして父を失い、契苾部千人を引き連れて唐に帰順、以後軍功をあげ、薛延陀、西突厥、高昌、亀茲、高麗と戦い、唐の拡大の一翼を担った。 列伝 『新唐書』巻一百一十 列伝第三十五 諸夷蕃将 契苾何力伝 参考文献 蔡智慧「唐前期の羈縻支配の一類型-契苾何力一族の例を手がかりとして」(『歴史文化社会論講座紀要』2018) https //repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/230222/1/rek15_02.pdf 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 契苾何力(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%A5%91%E8%8B%BE%E4%BD%95%E5%8A%9B 契...
  • 契苾明
    契苾明 649-695 唐代の貴族。契苾何力の子。字は若水。麟徳年間に賀蘭州都督となり、吐蕃との戦功で柏海道経略使、左威衛大将軍となる。改めて燕然道鎮守大使・検校九姓及契苾部落となる。さらに鶏田道大総管となり、烏徳鞬山にいたり、誘って二万帳を帰順させた。武后の時、左鷹揚衛大将軍となり、さらに朔方道総管・兼涼甘粛爪沙五州経略使を授けられ、証聖元年(695)十二月二十三日に涼州の姑蔵県の私邸で病死した。 列伝・史料 『新唐書』巻一百一十 列伝第三十五 諸夷蕃将 契苾何力伝 「契苾明碑」 参考文献 蔡智慧「唐前期の羈縻支配の一類型-契苾何力一族の例を手がかりとして」(『歴史文化社会論講座紀要』2018) https //repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/230222/1/rek15_02.pdf ...
  • 契苾通
    ...唐の武将。字は周物。契苾何力の五代の孫。賀蘭都督、東受降城使、勝・蔚・儀・丹の四郡太守、左金吾衛大将軍、振武軍節度使を歴任した。 史料 「契苾通墓誌」
  • 新興公主
    ...十五皇女。生母不明。契苾何力が薛延陀の捕虜となると、真珠毘伽可汗(夷男)が公主の降嫁を求めたため、契苾何力との交換のため新興公主を嫁がせることとしたが、契苾何力が薛延陀との和平は不要であるとの意見を述べ、また送聘途中に暴風雪のため薛延陀の家畜の大半が失われたこともあり、太宗は新興公主の降嫁を取りやめとした。その後長孫曦に嫁いだ。『新唐書』にかなり短い伝があるが、薛延陀との降嫁中止事情は回鶻伝下の薛延陀附伝に詳しい。 列伝 『新唐書』巻八十三 列伝第八 諸帝公主 太宗二十一女 新興公主 『新唐書』巻二百一十七下 列伝第一百四十二下 回鶻下 薛延陀 外部リンク 维基百科,自由的百科全书 新興公主 (唐太宗)(中文) https //zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%88%88%E5%85%AC%E4%B8%BB_(%E5%94...
  • 梁建方
    ...庭州に侵入したため、契苾何力とともに打ち破った。永徽三年(652)正月には処月部落の朱邪孤注と牢山で戦い、潰滅させると五百里にわたり追跡して朱邪孤注を斬り、首級九千を上り、その首領六十人を虜にした。この時、兵力が足りていながら追跡しなかったといい弾劾されたが、高宗は功績があることから不問に処した。顕慶四年(659)、薛仁貴・契苾何力とともに高麗の大将温沙多門と横山で戦い、打ち破った。 本紀・列伝・史料 『新唐書』巻二 本紀第二 太宗 貞観二十二年四月丁巳条 『新唐書』巻三 本紀第三 高宗 永徽二年七月丁未条、永徽三年正月癸亥条 『新唐書』巻八十九 列伝第十四 尉遅敬徳伝 『新唐書』巻一百一十一 列伝第三十六 薛仁貴 『新唐書』巻二百一十五下 列伝第一百四十下 突厥下 『新唐書』巻二百一十八 列伝第一百四十三 沙陀 『新唐書』巻二百二十二下 列伝第一百四十七下 南蛮...
  • 任雅相
    ...が即位すると蘇定方・契苾何力とともに高麗を攻撃したが、功なく撤退した。燕然都護となり、顕慶年間(656-661)の初頭に蘇定方とともに突厥の阿史那賀魯を攻撃した。顕慶四年(659)、同中書門下三品に任じられ、宰相職に就任した。龍朔元年(661)、高麗攻撃のため浿江道行軍総管に任じられたが、翌年軍中で病没した。 本紀・表・列伝・史料 『新唐書』巻三 本紀第三 高宗 顕慶四年五月丙申条、龍朔元年四月庚辰条 『新唐書』巻六十一 表第一 宰相上 『新唐書』巻二百一十五下 列伝第一百四十下 突厥下 『旧唐書』巻一百九十九上 列伝第一百四十九上 東夷 高麗 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 任雅相(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%BB%BB%E9%9B%85%E7%9B%B8
  • 巻一百一十 列伝第三十五
    ...社尒 忠 執失思力 契苾何力 明 黒歯常之 李謹行 泉男生 獻誠 李多祚 李湛 論弓仁 惟貞 尉遅勝 尚可孤 裴玢   史大柰、本西突厥特勒也、與処羅可汗入隋、事煬帝。從伐遼、積勞為金紫光禄大夫。後分其部於樓煩。   高祖興太原、大柰提其衆隸麾下。桑顕和戰飲馬泉、諸軍、大柰以勁騎数百背撃顕和、破之、軍遂振。授光禄大夫。從平長安、以多、賞帛五千匹、賜姓史。從秦王平薛挙・王世充・竇建徳・劉黒闥、功殊等、積前後賜侍女三・雜綵万段。貞観初、擢累右武衛大将軍、検校豊州都督、封竇国公、食封戸三百。卒、贈輔国大将軍。   馮盎字明達、高州良徳人、本北燕馮弘裔孫。弘不能以国下魏、亡奔高麗、遣子業以三百人浮海歸晋。弘已滅、業留番禺、至孫融、事梁為羅州刺史。子宝、聘越大姓洗氏女為妻、遂為首領、授本郡太守、至盎三世矣。   隋仁寿初、盎為宋康令、潮・成等五州獠叛、盎馳至京師...
  • 巻三 本紀第三
    ...建方と右驍衛大将軍の契苾何力が弓月道行軍総管となってこれを討伐した。   八月己巳、高季輔が侍中となった。于志寧が尚書左僕射となり、張行成が右僕射となり、ともに同中書門下三品となった。己卯、白水蛮が辺境を寇し、左領軍将軍の趙孝祖が郎州道行軍総管となってこれを討伐した。   九月癸卯、同州の苦泉牧地を貧民に賜った。   十月辛卯、晋州で地震があった。   十一月辛酉、有事于南郊。癸酉、禁進犬馬鷹鶻。戊寅、忻州で地震があった。甲申、雨木冰。この月、竇州・義州の蛮が辺境を寇し、桂州都督の劉伯英がこれを破った。趙孝祖が白水蛮と羅仵候山で戦い、これを破った。   十二月乙未、太白(金星)が昼に見えた。壬子、処月の朱邪孤注が招慰使の単道恵を殺して、叛いて阿史那賀魯についた。   この冬、雪がなかった。   三年(652)正月癸亥、梁建方が処月と牢山で戦い、これを破った。甲子、...
  • 巻九十四 列伝第十九
    ...虜遣兵万餘來援、将軍契苾何力以八百騎苦戦、中槊創甚、為賊所窘、万備単馬進救、何力獲免。仕至左衛将軍。   在武徳・貞観時、又有盛彦師・盧祖尚・劉世讓・劉蘭・李君羨等、頗以功力顯、而皆不終、附于左。   盛彦師者、宋州虞城人。少任侠。隋大業末、為澄城長。高祖兵至汾陰、彦師率賓客上謁、授行軍総管、從平京師、與史万宝鎮宜陽。李密叛、謀出山南、万宝懼、謂彦師曰:「密、驍賊也、以王伯當輔之、挾思東歸之士、非計出万全不為也、殆不可當。」彦師笑曰:「請以数千兵為公梟其首。」万宝問計、答曰:「兵詭道也、難豫言。」即引衆踰洛水、入熊耳山、命士持滿夾道、伏短兵溪谷間、令曰:「賊半度乃撃。」所部皆笑曰:「賊趨洛州、何為備此?」彦師曰:「密聲言入洛、其實走襄城就張善相、我據其要、必禽之。」密果至、彦師橫撃、首尾不相救、遂斬密及伯當。以功封葛国公、授武衛将軍、鎮熊州。   討王世充...
  • 巻二百二十 列伝第一百四十五
    ...貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那彌射・姜徳本・麴智盛・呉黒闥を行軍総管として、それに従わせ、騎士六万を率いて遼東に向かわせた。詔して言った。「朕が通過する屯営には、常に食を慎ませ、労費するなかれ。川で渡ることができるものには、橋梁を作ることなかれ。行在所では、近くの州県からでなければ、学生・老人に迎えて謁見させることを認めない。朕は昔、武器をとって乱を治めた。ひと月の蓄えにも充たなかったが、それでも向かうところは風も靡いたものだ。今は幸いに家ごとに人足を給し、ただ兵糧を転送するのに苦労するのではないかと恐れる。だから牛・羊にむちうって軍に食糧を給せ。また朕が必ず勝つとする根拠は五つある。我が大軍で彼の小軍を撃つからであり、順正が彼の悪虐を討つ。平安が彼の乱に乗ずるからであり、勢いに乗じた唐が、疲労を討つからである。喜び勇んでいる唐が、怨痛にあたるからである。どうして勝てないと憂え...
  • 巻二百一十六上 列伝第一百四十一上
    ...姜恪・閻立本、将軍の契苾何力たちと議して、まず吐蕃を討とうとした。閻立本は言った。「民は飢えていますから、まだ軍隊を動かすことはできません」と。契苾何力は言った。「吐蕃は西の果てに小さく存在しております。臣が恐れるのは、軍隊が引きますと獣のようにかくれひそみ、山に伏しかくれ、捕え討っても、なにも得るところがないことです。春になればまた吐谷渾を侵すでありましょうが、臣はこのさい救援しないことをお願いいたします。わが方の力が弱っているのを疑わせ、これを驕りたかぶらせて、いっきょに滅ぼすべきであります」と。姜恪が言った。「そうではありません。吐谷渾はただいま衰弱しており、吐蕃は勝利に気負うております。衰弱した精神で強力な軍隊を拒ぐのです。戦えば、ぜったい対抗できるはずがありません。いま救わなければ吐谷渾は滅びるでしょう。臣は、天子の軍隊が速やかにこれを助けて、吐谷渾をうまく存続させ、あとで...
  • 巻二百一十七下 列伝第一百四十二下
    ...勒が死ぬと、その子の契苾何力・契苾尚紐は、その部民を率いてきて、唐に帰順した。ときに貞観六年(632)であった。詔して、これを甘州と涼州とのあいだに居らせ、その本土を楡渓州とした。永徽四年(653)に、唐はその契苾部を賀蘭都督府となし、燕然都護府に隷属させた。契苾何力は戦功があり、忠節の臣であった。太和年間(827-835)に、その契苾種族の幕帳は振武軍に付従したという。   多覧葛(テレンギュトゥ)はまた多濫ともいい、薛延陀の東におり、同羅水のほとりに住む。兵力は一万人である。薛延陀が滅ぶと、その多覧葛の酋長の俟斤多濫葛末は回紇とともにみな朝貢したので、唐はその地方を燕然都督府となし、多濫葛末に右衛大将軍の職を授け、すなわち府都督となした。多濫葛末が死ぬと、唐は多濫葛塞匐を大俟利発となし、都督の職を継がせた。   阿跌(エディス)はまた訶咥ともいい、𨁂跌とも呼ば...
  • 巻一百六 列伝第三十一
    ...河北、虜不楽遷、将軍契苾何力為言、乃止。知温固請、疏十五報、卒徙河北、自是人得就耕。渾・斛薩至徙地、顧善水草、亦忘遷。後入朝、過州、謝曰:「初徙且怨公、今地膏腴、衆孳夥、更荷公恩。」皆再拜。   四遷蘭州刺史。党項羌三万入寇、州兵寡、衆懼、莫知所出。知温披闔不設備、羌怪之、不敢進。俄會将軍權善才率兵至、大破其衆。善才欲遂窮追取之、知温曰:「古善戦弗逆奔、且谿谷複深、草木荒延、万分一有變、不可悔。」善才曰:「善。」分降口五百贈知温、辭曰:「我議公事、圖私利邪?」   累遷尚書左丞、轉黄門侍郎、脩国史。永隆初、以秩卑、特詔同門下三品、兼脩国史。遷中書令。卒、年五十七、贈幽州大都督、謚曰忠。子泰之、開元時、為工部尚書。諤之、為将作少匠、與誅二張功、封博陵県侯、實封戸二百、終少府監。   兄知悌、亦至中書侍郎。與戴至徳・郝処俊・李敬玄等同賜飛白書賛、而知悌・敬玄以忠...
  • 巻二百二十一上 列伝第一百四十六上
    ...をその副官に任命し、契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、...
  • 巻一百 列伝第二十五
    ...敦勸生徙、繇是大化。契苾何力討高麗、次灤水、會暴漲、師留三日。弘機輸給資糧、軍無飢、高宗善之、擢司農少卿、主東都営田苑。宦者犯法、杖乃奏、帝嗟賞、賜絹五十匹、曰:「後有犯、治之、毋奏。」遷司農卿。   太子弘薨、詔蒲州刺史李沖寂治陵、成而玄堂、不容終具、将更為之。役者過期不遣、衆怨、夜燒営去。帝詔弘機嗣作、弘機令開程左右為四便房、撙制礼物、裁工程、不多改作、如期而辦。帝嘗言:「兩都、我東西宅、然因隋宮室日仆不完、朕将更作、奈財用何?」弘機即言:「臣任司農十年、省惜常費、積三十万緡、以治宮室、可不勞而成。」帝大悅、詔兼将作・少府二官、督営繕。初作宿羽・高山等宮。徙洛中橋於長夏門、廢利渉橋、人便之。天子乃登洛北絶岸、延眺良久、歎其美、詔即其地営宮、所謂上陽者。尚書左僕射劉仁軌謂侍御史狄仁傑曰:「古天子陂池臺榭皆深宮複禁、不欲百姓見之、恐傷其心。而今列岸謻廊亙王城外、豈愛君哉?」...
  • 巻二 本紀第二
    ...戊寅、左驍衛大将軍の契苾何力が崑丘道行軍大総管となり、三総管の兵を率いて亀茲を討伐した。   二十二年(648)正月庚寅、馬周が薨去した。戊戌、温湯に幸した。己亥、中書舍人の崔仁師が中書侍郎となり、参知機務。丙午、左武衛大将軍の薛万徹が青丘道行軍大総管となり、高麗を討伐した。長孫无忌が中書令を検校し、知尚書・門下省事をつとめた。戊申、温湯から到着した。   二月、褚遂良起復。乙卯、見京城父老、勞之、蠲今歳半租、畿県三之一。丁卯、詔度遼水有功未酬勲而犯罪者與成官同。乙亥、玉華宮に幸した。己卯、華原で狩猟した。崔仁師を連州に流した。   三月丁亥、赦宜君、給復県人自玉華宮苑中遷者三年。   四月丁巳、松州蛮が叛き、右武候将軍梁建方がこれを破った。   六月丙寅、張行成存問河北従軍者家、令州県為営農。丙子、薛万徹が高麗と泊灼城で戦い、これを破った。   七月甲申、太白(金...
  • 巻一百一十一 列伝第三十六
    ...級。明年、與梁建方・契苾何力遇高麗大将溫沙多門、戰橫山、仁貴獨馳入、所射皆應弦仆。又戰石城、有善射者、殺官軍十餘人、仁貴怒、單騎突撃、賊弓矢倶廢、遂生禽之。俄與辛文陵破契丹於黒山、執其王阿卜固獻東都。拜左武衛将軍、封河東県男。   詔副鄭仁泰為鉄勒道行軍総管。将行、宴内殿、帝曰:「古善射有穿七札者、卿試以五甲射焉。」仁貴一發洞貫、帝大驚、更取堅甲賜之。時九姓衆十餘万、令驍騎数十來挑戰、仁貴發三矢、輒殺三人、於是虜氣懾、皆降。仁貴慮為後患、悉坑之、轉討磧北餘衆、擒偽葉護兄弟三人以歸。軍中歌曰:「将軍三箭定天山、壯士長歌入漢關。」九姓遂衰。   鉄勒有思結・多覽葛等部、先保天山、及仁泰至、懼而降、仁泰不納、虜其家以賞軍、賊相率遁去。有候騎言:「虜輜重畜牧被野、可往取。」仁泰選騎万四千巻甲馳、絶大漠、至仙萼河、不見虜、糧盡還。人飢相食、比入塞、餘兵纔二十之一。仁貴亦取所部為...
  • 巻二百一十七上 列伝第一百四十二上
    ...閏は五万騎を率いて、契苾何力らを助けて、阿史那賀魯を破り、北廷を占領し、また伊麗道行軍総管任雅相らに従って、ふたたび阿史那賀魯を金山において破った。婆閏右衛大将軍の地位にうつり、唐の高麗征伐に従って功績をたてた。   婆閏が死んで、その子の比栗が嗣いだ。竜朔の年間(661-663)に、唐は燕然都督府をもって回紇を統治し、さらに瀚海都護府と号し、砂漠をもって境界となし、砂漠の北にいる諸族はことごとくこれ(瀚海都護府)に隷属した。比栗(比粟毒)が死んで、その子の独解支が嗣いだ。武后(690-705)の時代に、突厥の黙啜はまさに強力となり、鉄勒のもといた地方を取ったので、回紇は契苾・思結・渾の三部とともに砂漠を渡って甘州と涼州との間に移動した。しかし、唐はつねにその回紇の強い騎兵を徴発して、赤水軍を助けさせたという。独解支が死んで、その子の伏帝匐が立った。明くる年に、伏帝匐は唐を助...
  • 巻二百二十三上 列伝第一百四十八上
    ...れた者に阿史那社尒・契苾何力のような者がいて、みな忠誠で力を奮ったが、それでもなお上将とはならず、すべで大臣が統制していた。そのため上は他の権があって、下を制したのである。先天・開元年間(712-741)、大臣で薛訥・郭元振・張嘉貞・王晙・張説・蕭嵩・杜暹・李適之らのような者は、節度使から入って天子の宰相となった。林甫は儒臣が方略によって辺境で功績を積んで大任を任じられるのを憎み、その元を塞いで、自分の権力を長く保とうと思い、そこで帝に説いて、「陛下は雄材を用いて国家を富国強兵にしました。しかし夷狄はいまだ滅びておらず、文吏から将を任命すれば、矢石を憚って、自身は先頭に立つことはありません。蕃将を用いるのにこしたことはなく、彼らは生まれてから雄であり、馬上で養い、長く行陣し、天性のものなのです。もし陛下が感じてこれを用いられましたら、必死にならしめ、夷狄は図に足らないものになります」...
  • 巻二百一十八 列伝第一百四十三
    ...弓月道総管の梁建方、契苾何力は、兵をひきいて朱邪孤注を斬り、九千人を俘虜とした。また翌年(653)、瑤池都督府を廃したが、これはすなわち処月の故地であった。ここに金満・沙陀の二州をおき、いずれも都督の支配下においた。阿史那賀魯がなくなって、安撫大使の阿史那弥射は、伊麗水に駐屯したが、処月が帰付したので、崑陵都護府をおいて咄陸可汗の部族を統べさせ、弥射を都護に任じた。   竜湖のはじめ(661)、処月の酋長の沙陀金山が、武衛将軍の薛仁貴に従って鉄勒を討ったので、墨離軍討撃使に任ぜられた。さらに長安二年(702)には金満州都督に昇進せられ、累進して張郡公に封ぜられた。金山が死んで、その子の輔国が後をついだが、先天のはじめ(712)、吐蕃の圧力を避けて部族を北廷に従し、その部衆をひきいて入朝した。開元二年(714)、かれもまた金満州都督に任ぜられ、その母の鼠尼施は鄯国夫人に封ぜられ...
  • 巻一百一十九 列伝第四十四
    ...ながら謀略にすぐれ、契苾何力の性格は冷静沈着で、前線を嫌うとはいえ、統率の才があります。しかしながら一日中心を細やかにして、身を忘れて国を憂いるのは、李勣に及ぶ者はおりません」と答え、帝はそうだと思って認め、多くの者も知見のある話だと思った。吏部員外郎に累進した。李敬玄が尚書を兼任すると、賈言忠は気概があり、選部をつかさどるにおよんで、部下となることはできず、邵州司馬に左遷された。武懿宗に嫌われると、獄に下されてほとんど死ぬ所であったが、建州司戸参軍に左遷されて、卒した。   賈曾は若い頃から有名で、景雲年間(710-712)、吏部員外郎となった。玄宗が皇太子となると、宮僚に選ばれ、賈曾を舎人とした。太子はしばしば使者を派遣して采女楽を、率更寺につかせて練習させたが、賈曾は諫めて、「楽をつくって徳を崇ぶことは、人と神が和することにあります。韶・夏の音楽には容があり、咸・英の音...
  • 巻二百一十五下 列伝第一百四十下
    ...建方、右驍衛大将軍の契苾何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍の高徳逸、右武衛将軍の薩孤呉仁をその副官として、府兵三万人を遣わし、回紇の騎兵五万人と合わせ協力して、賀魯を攻撃させた。駱弘義は計略を上奏してつぎのように言った。「中国を安んずるには信義により、夷狄をとりしまるには計略による、というふうに、臨機応変でなければなりません。賀魯は一城を保有し、今ちょうど寒くて雪が積もっているので、「唐軍はきっと来ない」と言っているということです。この機に乗じて一挙にこれを滅ぼすべきであります。もしぐずぐずして春になってしまえば、事態に変化がおこるでありましょう。たとえ賀魯が諸国を連合させないにしても、必ずや行く手はるかに逃げ去ってしまうにちがいありません。のみならず、わが軍隊がほんらい目ざすのは、賀魯を誅殺することであります。そして処蜜・処木昆などの部族もまた、それぞれこの災厄からみずからぬけ出...
  • 巻一百八十二 列伝第一百七
    唐書巻一百八十二 列伝第一百七 二李崔蕭二鄭二盧韋周二裴劉趙王   李固言、字仲樞、其先趙人。擢進士甲科、江西裴堪、劍南王播皆表署幕府。累官戸部郎中。温造為御史中丞、表知雜事、進給事中。將作監王堪坐治太廟不謹、改太子賓客、   固言上還制書曰:「陛下當以名臣左右太子、堪以慢官斥、處調護地非所宜。」詔改它王傅。固言再遷尚書右丞。   李德裕輔政、出固言華州刺史。俄而李宗閔復用、召為吏部侍郎。州大豪何延慶橫猾、嘩衆遮道、使不得去、固言怒、捕取杖殺之、尸諸道。既領選、按籍自擬、先收寒素、柅吏奸。進御史大夫。   太和九年、宗閔得罪、李訓、鄭注用事、訓欲自取宰相、乃先以固言為門下侍郎、同中書門下平章事。旋坐黨人、出為山南西道節度使、訓自代其處。訓敗、文宗頗思之、復召為平章事、仍判戸部。 群臣請上徽號、帝曰:「今治道猶鬱、群臣之請謂何?比州縣多不治、信乎?」固言因白鄧州...
  • 巻二百二十一下 列伝第一百四十六下
    唐書巻二百二十一下 列伝第一百四十六下 西域下 康 寧遠 大勃律 吐火羅 謝 識匿 箇失密 骨咄 蘇毘 師子 波斯 拂菻 大食   康国(サマルカンド)は薩末鞬とも颯秣建ともいう。北魏の時の悉万斤である。その南百五十里のところに史国(キッシュ)、西北百余里のところに西曹、東南百里のところは米国(マイムルグ)に属し、北五十里のところに中曹がある。康国は、那密水(ザラフシャン川)の南にあり、大きな城を三十、小さな砦を三百それぞれ有していた。君主の姓は温で、もともとは月氏人であった。初めは祁連山脈の北にある昭武城に住んでいたが、突厥に敗れ、次第に南に移住してパミールにより、その地に住むようになった。庶子が枝分かれし分家して、安国(ブハラ)、曹国(カブーダーン)、石国(タシュケント)、米国(マイムルグ)、何国(クシャーニーヤ)、火尋(フワーリズム)、戊地(ベティク)、史国(キッシュ)に分かれ...
  • 巻九 本紀第九
    唐書巻九 本紀第九 懿宗 僖宗   懿宗昭聖恭恵孝皇帝は、諱を漼といい、宣宗の長子である。母は元昭皇太后鼂氏といった。始め鄆王に封ぜられた。宣宗は夔王李滋を愛し、皇太子に立てたがっていたが、鄆王のほうが年長であったので、長いあいだ決まらなかった。   大中十三年(859)八月、宣宗の病は重くなり、夔王を枢密使王帰長・馬公儒・宣徽南院使王居方らに委嘱した。しかし左神策護軍中尉の王宗実・副使の丌元実は詔を偽って鄆王を立てて皇太子とした。癸巳、柩の前で皇帝位についた。王宗実が王帰長・馬公儒・王居方を殺した。庚子、聴政を始めた。癸卯、令狐綯が司空となった。皇太后を尊んで太皇太后といった。   九月庚申、母を追尊して皇太后とした。   十月辛卯、大赦をおこなった。文武の官に階・勲・爵を、耆老に粟帛を賜った。   十一月戊午、蕭鄴が宰相を退いた。   十二月甲申、翰林学士承旨・兵部...
  • 巻一百六十五 列伝第九十
    唐書巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 澣 処誨 従讜 鄭珣瑜 覃 裔綽 朗 高郢 定 鄭絪 顥 権徳輿 璩 崔群   鄭余慶は、字は居業で、鄭州滎陽県の人であり、三代にわたって全員が顕官となった。鄭余慶は若い頃から文章をよくし、進士に及第した。厳震が山南西道節度使となると、奏上して幕府に置いた。貞元年間(785-805)初頭、朝廷に戻り、庫部郎中に抜擢され、翰林学士となり、工部侍郎知吏部選となった。僧侶の法湊が罪科によって民によって朝廷に訴えられ、御史中丞の宇文邈・刑部侍郎の張彧・大理卿の鄭雲逵に詔して三司とし、功徳判官の諸葛述とともに取り調べさせた。諸葛述は、もとは御史であったから、鄭余慶は諸葛述が卑賎の身でありながら、三司とともに職務にあたることはよくないと弾劾し、世間はその発言に同意した。   貞元十四年(798)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。奏上するたび...
  • 巻二百一十五上 列伝第一百四十上
    唐書巻二百一十五上 列伝第一百四十上 突厥上   夷狄の中国の外患となることは長い期間に及んだ。前時代については史家の類がよく述べてきたことである。唐が興ると、蛮夷はさらに盛衰があり、かつて中国と匹敵するものは四つ、突厥・吐蕃・回鶻・雲南がそうである。まさにその時に群臣の献議は朝廷にあふれ、あるものは裁可され、あるものは捨て置かれ、明確に見るべきものがある。   劉貺がおもうに、厳尤は弁じたが詳細ではなく、班固は詳細ではあるが意を尽くしていない。そのいたるところを示せば、周は上策を得て、秦は中策を得て、漢は無策であった。何をもってそう述べたのか?服飾が整わない塞外の地では、声教はおよばず、それが叛いたときに対策を実施しなければ軍を出動させることになり、それが降ったときに対策を実施しなければ備えをとくことになり、厳しき防御を守り、要害に急ぎ集まれば、それが寇したところでできること...
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