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*戦艦大和or武蔵 ---- *総アクセス数→&counter()人 X000人の時にコメント欄に書いてくれるとうれしいです。 コメント欄 #comment_num2 *今日来た→&counter(today)人 *昨日来た→&counter(yesterday)人 **大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。しばしば**大艦巨砲主義の象徴とされる。 太平洋戦争開戦直後に竣工・就役した。その後、連合艦隊旗艦任務を務め、これは司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役するまで継続された。 *建造 「大和(計画名A140F5)」は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の第4ドック(造船船渠)で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、それは秘密裏に建造され、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。 **そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より「大和」と発表される(なお艦首に菊の御紋章のある軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した2つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はドックにただ、注水するだけであった。しかも、機密保持からその進水式は公表されることもなく世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。 **なお、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」そのものを象徴する意味合いも含まれており、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。 *戦役 1942年2月12日連合艦隊旗艦となる。同5月29日柱島出航、ミッドウェー海戦に参加、同6月14日柱島帰投。1942年8月17日ソロモン方面の支援の為柱島出航、同8月28日トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を通信、旗艦設備が改良された「武蔵」に委譲。1943年5月8日トラック出航、柱島へ向かう。この頃、ソロモン諸島で激戦が繰り広げられている最中にも泊地から動かない様を揶揄して、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」と呼ばれた。 **1943年12月25日トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け3番砲塔右舷に1本被雷した。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の下端部が内側に押し込まれ、装甲鈑構造の支持ブラケットが内側に動いて弾片防御縦壁を突き破り、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。これは敵弾の命中の衝撃のみで浸水をきたす恐れがあるという致命的な欠陥であった。 **1944年6月15日、マリアナ沖海戦に参加。同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊旗艦として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。25日サマール島沖海戦にて主砲弾を104発発射。大和に突入しようとした駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により前甲板に4発の爆弾が命中、約4000トンもの浸水を受けるも、戦闘継続に支障は無かった。 **レイテ湾の入り口まで来たが、第二艦隊司令長官栗田健男中将は何故か反転し、突入することなく引き返している。 **レイテ湾口ではキンケード中将の率いる米第七艦隊が待ち伏せしており、その中には戦艦6隻が含まれていたから、もし栗田中将が突入を命じていれば、史上最後の戦艦部隊同士の艦隊決戦になっていた可能性が高い。 *最期 呉に帰港した後の翌1945年3月、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。目立った被害はなかった。 **同年4月6日、沖縄に向けて出撃する。「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神大佐の発案で唐突に実施された。大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐(中佐?)、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)に沖縄特攻の命令が下ったのは、4月5日、出撃の前日のことであった。 **第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)など)と共に山口県徳山湾沖より出撃(天一号作戦(菊水作戦))。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は豊後水道で呉に引き返させた。 **菊水作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億玉砕のさきがけであった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたいう。当初、米第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていたが「大和」が西進し続けたため日本海側に退避すると思い、航空攻撃を命じた。偽装進路をとらず、沖縄に直進していたら、世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていた可能性はあった。 **4月7日14時23分に、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の波状攻撃で猛攻を受ける。11本の魚雷と7発以上の直撃弾を受け、大火災をおこした大和は最後の魚雷が命中した3分後傾斜が6度から20度になり総員退艦命令が出された。しかし、艦内の大半のものにそれは知られず、総員退艦発令3分後大傾斜後横転(のちに転覆?)し海中で弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、船体は折れて海に沈んだ。そのときに発した火柱は、遙か鹿児島でも確認できたという。 **同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は30本以上を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。 **なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,000)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。また、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料なども必要とされるため、現金もかなりの額を持っていった(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。なお出撃に先立ち、傷病者とともに兵学校卒業直後の士官候補生数十名が退艦させられている。 **戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,498名、生存276名。 *現在 **現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に於いて、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向に、右舷を下にした艦首部より一番副砲までの原型をとどめた部分、転覆した状態の三番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部が約170メートルの間に、中央部の原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、それぞれ半分泥に埋まった状態で沈んでいる(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。 *戦艦大和を描いた映画 **『戦艦大和』(吉田満原作) **『連合艦隊』 **『男たちの大和/YAMATO』(辺見じゅん原作。2005年12月17日公開) *戦艦大和の登場する作品 **アニメ **『かみちゅ!』第9回「時の河を越えて」 **漫画・アニメ **『ジパング』 **昭和16年12月8日、日本海軍がハワイの太平洋艦隊を急襲の8日後、世界最大の主砲を備えた日本海軍最強の戦艦「大和」が竣工した。昨年東京で発見された設計図からは、当時最新の防護システムが施され、文字どおり不沈艦として設計されていた。 **明治37年、日露戦争が勃発。翌年ロシアは、戦艦8隻を主力とするバルチック艦隊を日本に派遣、決戦を挑む。迎え撃つ日本海軍連合艦隊の主力は、旗艦三笠をはじめ、戦艦4隻、史上初めて戦艦同士の決戦が行われた。新型戦艦を備えた日本海軍は、ロシア艦隊をほとんど全滅させる大戦果を上げた。ロシアは、日本と講和を結ばざるを得なくなる。日本海軍の勝利は、世界に報道され、戦艦こそが、近代戦争の勝利を決定づける主役であることを、世界に印象づけることとなった。 **明治39年には、イギりスは、30,5センチ砲10門を持つ戦艦を建造、アメリカは、大正12年、40,6センチ砲搭載の戦艦3隻を備え、日本より優位にたつ。昭和9年、日本は、46センチ砲を搭載する戦艦の建造を開始。その射程は、40,6センチ砲を3km上回る。この極秘新兵器大和は、未だ謎に包まれていた。 **去年(2000年)7月、大和の有力な手がかりが発見された。大和の心臓部分の設計図である。大和の防御力は、410ミリの分厚い鋼鉄の表面、たとえ46センチ砲に攻撃されても耐えられることを意味する。船体を無数に区切る防水区画。万一の浸水を最小限に食い止めるため造られたこの区画の数は、1,147にもおよぶ。当時最先端の技術、注排水システムである。大和は、絶対沈まない不沈艦として設計された。全長263メートル、排水量72,800トン、主砲46センチ砲九門搭載、大和は、最強最新の攻撃力と防衛力を詰め込んだ強力な戦艦だった。 **昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発、その8日後、大和は洋上に姿をあらわした。 12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、戦力で劣る日本は、あらかじめ、少しでも損害を与えておこうとした。結果は大戦果となった。アメリカ海軍は壊滅。それは、航空機は戦艦を沈めることはできないと言われた開戦前の常識を、根底から覆す衝撃的な出来事だった。 **「真珠湾を忘れるな」それがアメリカの合言葉になった。今後の戦争の主役は、航空戦力だと悟ったアメリカは、戦艦重視だったこれまでの戦略を完全に転換し、空母の大増産に乗り出した。大型、中型、小型を含め1週間に1隻空母が進水するという、空前絶後の生産速度だった。 真珠湾で、航空機の威力を実証したのにかかわらず、日本海軍は、戦艦こそが海の王者であると言う古い発想を捨てきれなかった。昭和17年、大和級の武蔵の建造も進められつつあった。 **昭和17年5月、大和は初めての出撃、ミッドウエー島攻略作戦である。日本軍機動部隊は、空母4隻、戦艦2隻、一方アメリカ軍は、空母3隻、戦艦は0.さらに日本軍は、機動部隊の後方に、大和以下の質量ともに、圧倒的優勢な戦力を要していた。しかし、日本軍の作戦は、暗号を解読され、アメリカ軍に筒抜けになっていた。6月5日午前4時、アメリカ軍空母から151機の攻撃機が発進、前方に突出していた日本軍機動部隊を狙う。不意打ちを受けた機動部隊は混乱に陥る。空母4隻が沈没、日本海軍は全滅に等しい損害を受けた。大和は、無力だった。戦場の遥か後方にあっては、46センチ砲を使うことなく、空母や航空機には追いつけず、敵と戦わずして引き返すしかなかった。日本海軍は、急きょ空母の増産に乗り出したが、当時の日本の生産能力は、アメリカの1/10に過ぎなかった。 **昭和19年6月、ついに大和に出撃のときがきた。マリアナ沖海戦である。日本軍の兵力は、空母9隻、戦艦5隻、艦載機439機、一方アメリカは、空母15隻、戦艦7隻、艦載機896機、両者の間には倍近い差がついていた。 さらにアメリカは、新式のレーダーや対空砲火を備え、質でも日本軍を凌駕していた。大和は、アメリカ軍航空機に対し、46センチ砲を放って応戦したが、ほとんど戦果をあげることができなかった。マリアナ沖海戦で、日本軍は空母3隻、艦載機400機余を喪失、航空部隊は二度と立ち上がれない打撃を受ける。大和は、またも空しく引き上げるしかなかった。 作家半藤さんは「艦隊と主砲を相手より大きくして、優勢を保つという考え方は、日露戦争の日本海海戦を想定したものだ。3番艦信濃を戦艦から空母に変えたが、遅きに失した」と。追い詰められた日本軍は、悲劇的ともいえる作戦を発令する。 **昭和19年10月、アメリカ軍は、フィリピンのレイテ島に上陸。陸軍部隊を支援する戦力は、艦船700隻、航空機1000機に及んだ。敵輸送船団を撃滅せよとの命を受けて、出撃した日本海軍の主力は、大和、武蔵を含む第2艦隊、その上空を護る航空機の姿はなかった。日本戦艦部隊の頭上に、アメリカ軍航空機部隊が襲いかかる。大和の同型艦武蔵は、魚雷20本を受けてついに沈没。艦長は、「申し訳なきは、対空射撃の威力を十分発揮しえざりしこと」と書き残して、武蔵と運命を共にした。大和は前進を続け、46センチ砲が火を噴いて、アメリカ空母1隻を撃沈する。第2艦隊は、出撃した艦船の半数以上を喪失、レイテ沖海戦で、日本海軍は事実上壊滅した。 **昭和20年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸、支援兵力は、艦船1,500隻以上、航空機1,700機あまり。4月5日、「天1号作戦」を発令、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下る。目的地は沖縄。作戦は、片道分の燃料を積んで特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するものだった。司令官は一応反対したものの、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけとなれ」の言葉で承諾、4月6日午後4時、戦艦大和は出撃した。その最期は、22時間後に迫っていた。 **沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。 当時の乗組員1「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、まもなく真っ赤に変わった。よしやるんだ。帰らないんだと、体に伝わったと思いますよ」 乗組員2「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、17歳で特攻にはいけないと思いますよ」。 **あくる4月7日早朝、大和を察知したアメリカ軍は、空母部隊に迎撃命令、その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800機、大和の護衛機はなかった。のこっている「大和戦闘詳報」と生存者の証言から、大和がいかに戦ったかを記す。 **「12時32分」 敵機100機が、雲の合間から出現、急降下爆撃を開始。 「12時45分」 アメリカ軍の魚雷が1本、左舷に命中。射撃を目測に頼る対空砲火は、厚い雲に阻まれて大和は主砲を使うことができなかった。 「13時34分」 アメリカ軍の雷撃機が、左50度から6本の魚雷を投下、3本命中。 「13時44分」 さらに2本がまた左舷に命中、大和は左に傾いたが、ここで注排水システムが作動、平衡を取り戻す。アメリカ軍は巧妙だった。魚雷はほとんど、大和の左舷ばかりを狙った。大和の注排水システムは、やがて限界に達した。その直後、3本の魚雷が大和に命中、再び傾いた大和は、バランスを取り戻すことはできなかった。 「14時17分」 またも魚雷が左舷中央部に命中、大和は傾斜が大きくなった。長官は、特攻作戦中止命令を下し、長官室に入って内側から鍵をかけた。 「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。 **大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。  **戦艦大和の性能、武装(新造時) 満載排水量 7万2809トン 公試排水量 6万9100トン 全長 263メートル、垂線間長244メートル、吃水線長256メートル 最大幅 38.9メートル、吃水線幅36.9メートル 吃水 前部10.4メートル、後部10.4メートル 最大速力 27.46ノット 航続距離 7200海里(16ノット) 主砲 46センチ3連装砲塔3基(9門)、45口径、最大仰角45度、最大射程4万メートル 副砲 15.5センチ3連装砲塔4基(12門)、55口径、最大仰角55度 高角砲 12.7センチ2連装6基(12門) 探照灯 150センチメートル8基(探照距離8000メートル) 機銃 25ミリ3連装8基(24門)、13ミリ連装2基(4門) 馬力 軸馬力前進15万馬力、後進4万5000馬力 カタパルト 2基、搭載航空機7機(水上偵察機3機、水上観測機4機) 測距儀 艦橋15メートル1基、主砲塔15メートル3基、後部指揮所10メートル1基、副砲塔8メートル4基 機関 艦政本部式蒸気タービン4基4軸、回転数225(毎分)、蒸気圧力25kg/平方センチメートル、蒸気温度325度 推進器 3枚翼、直径5メートル、21.7t 費用 当時1億4287万円(現在に換算すると約2604億762万円、大和一隻分の費用で東海道新幹線全線が完成できる) 燃料搭載量 満載搭載量6400トン(駆逐艦3隻分の重さ!) 内火艇 水雷艇2隻、将官艇1隻、11メートル内火艇1隻、12メートルランチ4隻、8メートルランチ1隻、9メートルカッター4隻 乗組員 2800~3000人 *戦艦「播磨」を知っていますか? **むかし、戦艦と戦闘機にはまっていました。特に戦艦は、その怖るべき攻撃力、驚くべ き防御能力とともに、単にその存在の巨大さに傾倒していました。単に破壊と殺戮のみ を目的として造られ、その目的にためにのみ特化した船、戦艦!目的に特化する事によ って得られた、殆んど神秘的とも言える美しさがあります。機能美の極致とも言えまし ょう。 **数多い戦艦の中でも、戦艦大和と戦艦武蔵!戦前の大日本帝国海軍が造り上げた未曽有 の巨大戦艦です!満載排水量73000トン、45口径18インチ砲9門搭載。当時の 全ての戦艦が16インチ砲を搭載し、かつアメリカが大和、武蔵に対抗するために建造 したアイオワ級戦艦ですら満載排水量58000トン16インチ砲9門搭載に過ぎなか った事を考えると、文字通り史上最大、最強の船と言えましょう。残念ながら、時代は 大艦巨砲の時代から航空主兵の時代にかわり、大和、武蔵ともに、敵戦艦と水上主砲決 戦を演ずる事なく、航空機による雷撃と爆撃によって撃沈されてしまいました。 **この事から大和、武蔵の建造を、単に時代の趨勢を読み間違えたオオバカヤロウ!とい う評価もあるようです。実際、大和級戦艦の第三番艦として建造されるはずだった戦艦 信濃は、航空主兵思想の台頭により、急拠空母に設計変更されました。空母としても、 当時としては未曽有の巨艦でした。もし今日的な意味での戦略空母的用兵が行われ、か つ、もし大和や武蔵すらが、最初から空母として建造されていれば、日米海上決戦の帰 趨は変わっていたかもしれない!という意見には私も部分的には賛同するものがありま す。 **しかし私にはもうひとつ、別の意見、見方があります。もし戦艦大和、戦艦武蔵の建造 に問題があったとすれば、それは   *大艦巨砲の程度が中途半端だった! **のではないか、という事です。当時、航空機によって撃沈された戦艦の被弾数を比較し てみると **プリンス・オブ・ウエールズ(英) 魚雷7、爆弾2 レパルス(英) 魚雷13、爆弾1 ビスマルク(独) 魚雷6、 武蔵 魚雷20以上 大和 魚雷10、爆弾6 **となります。大和をのぞけば、殆んどの戦艦は魚雷によって屠られたといえましょう。 しかし大和の場合、命中魚雷の殆んど全てが片舷に集中し、そのためにバランスを失っ た事、および前部弾薬庫の誘爆が沈没の主原因である事を考えると、武蔵の例から考え ても、大和級戦艦を撃沈するためには、恐らく20本以上の魚雷を命中させなくてはな らないと考えられます。当時の雷撃機の性能(命中率5%以下、一機あたり魚雷一発搭 載)を考えると、この20本の命中魚雷というものは、アメリカ空母艦隊が発艦させる ことの出来る全航空機を雷撃用に特化した場合(雷撃機と護衛戦闘機、および空母防衛 用の戦闘機)に、ひとつの会戦で命中させる事のできる最大数と同程度です(一空母あた り60機艦載、うち20機を雷撃機とする。6空母構成で120機、三波攻撃を実施)。 実はこれくらい大和や武蔵の対空防御力は強かったのです。ならば、対空防御力を命中 魚雷30ー40本程度にしておけば、文字通り「不沈」の戦艦が誕生した事でしょう。 **防水区画数と被弾可能魚雷数には、ある関係があり、ざっと計算してみると、 **総排水量12万トン程度の戦艦 **が建造されていれば、アメリカ航空艦隊の猛攻をしのぎ、主砲戦を挑める距離にまで敵 艦隊に肉薄する事ができたでしょう。12万トンの戦艦が搭載する主砲は、恐らく22 インチあたりですから、45口径としてもその射程距離は約5万メートル、完全に水平 線下の距離です。また12万トンと言えば、アメリカが最近建造した新鋭のニミッツ級 空母カール・ビンソンがこの程度です。カール・ビンソンは建艦・運用可能な最大の軍 艦といわれていますから、12万トンの戦艦も建造・運用が可能でしょう。 **実はこのような真の巨大戦艦の建造計画はありました。それが「播磨」級戦艦です。大 和級戦艦に次ぐ総排水量約9万トンの「紀伊」級戦艦の、そのなお後継艦として計画さ れました。当時の我国の国力から考えて、播磨級のみならず、紀伊級戦艦ですら建造す る事は不可能であったことでしょう。しかし現在、アメリカは12万トンのニミッツ級 (カール・ビンソン級)空母を5ー6隻調達する予定です。もし先の大戦が航空主兵では 無く、大艦巨砲思想を温存する形で終結していたら、戦後必ずや「播磨」級戦艦が建造 されていたにちがいありません。 **ずっと前に、日本に寄港したカール・ビンソンの巨体を見あげて、この巨大な船体の上 に22インチ3連装主砲塔を3つ搭載した超巨大戦艦を夢想し、戦艦播磨が建造されて いれば、この大きさかあ、と感動しました。戦艦「播磨」が戦争に使われる事など、け っして望みませんが、その巨体からの22インチ主砲9門の一斉砲撃を見てみたいもの だと思いました。 **注:砲の口径とは? 45口径18インチ砲、とは砲身の長さが45x18インチ=810インチ=約20m の大砲の事。砲身長を砲の内径で割った値の事を、口径と言います。口径が大きいほど 砲弾の初速が早く、有効射程も伸びます。ちなみにアイオワ級戦艦では16インチ砲な がら、50口径のものを搭載していましたから、その射程は大和級戦艦に匹敵していま した。もし複数のアイオワ級戦と大和一隻が対戦していたなら、いい勝負になった事で しょう。 **後注: 最近調べた資料によると、播磨級戦艦は紀伊級戦艦の次というよりは、紀伊級戦艦の改 造型あるいは増強型として企画されていた様です。その資料によると、紀伊級戦艦は基 準排水量約10万トン、20インチ45口径主砲九門装備の戦艦、つまり大和級戦艦の スタイルを踏襲し、容積が大和の約2倍の規模の戦艦として設計され、まず戦艦紀伊と 戦艦尾張の二隻を建造する予定だったようです。しかし、国力に勝る米国海軍が20イ ンチ主砲を搭載した戦艦を建造するのは時間の問題です。そこで紀伊級戦艦の20イン チ砲三連装主砲塔を22インチ砲二連装主砲塔に装換した「紀伊級改」として播磨級戦 艦が構想されました。どうして新たに設計するのではなく、「改造」する事になったか というと、やはり10万トンを越える戦艦の船体設計は容易ではないので、船体は紀伊 級の設計を流用し、設計のための手間と時間を節約する事にしたのです。なを22イン チ砲2連装主砲塔と、20インチ砲3連想主砲塔は、偶然ほぼ同じ重量となりますので 第一近似として装換は可能です。 **播磨級戦艦はネームシップである戦艦播磨と、もう一隻を建造する予定だったみたいで す。紀伊級の船体を改造する時に、船体を少し伸ばし、主砲塔数もひとつ増やして二連 装四砲塔とする案もあったようです。この場合には総排水量は約14万トンとなってい た事でしょう。しかし装甲の厚みを22インチ砲に対応したものに増強しなくてはなら ない事を考えあわせると、実は二連装三砲塔としても、すでに総排水量が14万トンあ たりになっていたはずです。もし大和型戦艦のように、22インチ砲三連装主砲塔三基 の「フルスペック設計」とすると、基準排水量は約16万トンに達していたはずです。 いずれにせよ、そろそろこれくらいの大きさが現実的に運用可能な最大値であるとの思 いは、当時の戦艦設計者達の中にすでに共通認識としてありました。まさに播磨級戦艦 は究極の戦艦と想定されていたわけです。ちなみに播磨級戦艦の二番艦の名前は日露戦 争の勝利艦である「三笠」になるはずでした。三笠の名前を用意するあたり、まさに不 沈の戦艦として紀伊級そして播磨級を建造しようとした戦艦設計者達の心意気が感じら れます。 **後注その2:上の後注で《22インチ砲三連装主砲塔三基の「フルスペック設計」とす ると、基準排水量は約16万トンに達していたはず》などと書きましたが、某架空戦記 作家の方が22インチ砲三連装主砲塔四基の「戦艦播磨」をその作品中に登場させてい ます。この事を本ページを御覧になられた方からメールで教えていただきました。この 怪物のような「戦艦播磨」の基準排水量は21万7千トンだそうです。これはどう考え ても大きすぎます。同じような巨大戦艦としては、ソ連海軍の「トハチェフスキー級」 というものが、別の架空戦記小説に出て来ているらしいですが、これだって運用可能と はとても思えません。せいぜい12万トンくらいまでが、まっとうに運用出来る軍艦の 限界ですよ。どー考えても。 **つけたし: 戦艦と巨大加速器は似ていると思いませんか?例えば **1、日常的な事には、何の役にもたたない。 **2、普通の人の、想像を絶する大きさである。 **3、技術の粋をつくして、単一目的のために特化した機能美を有する。 **というような点で。スバルのような望遠鏡もこの部類にはいるかもしれません。ただ、 戦艦とは違い、加速器の目的が、少なくとも殺戮と破壊が目的では無い事が救いです。 しかし私の心の中にある「物造りの心」というものが、実は「機能美を追求したい」と いう気持の表れであるとするならば、私はいつ悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれま せん。前例はあります。ナチスをスポンサーにつけ宇宙船開発のために殺人兵器V2号 を作ったフォン・ブラウン!彼は戦後、かつての敵国である米国に渡りロケット開発に 従事しました。そしてついに1969年、アポロを月に送ったのです。彼のやった事は 殆ど悪魔のワザと言えましょう! *主砲と砲弾 **主砲は戦艦の最重要装備。敵を圧倒するために大きな砲弾を遠くへ正確に発射する必要がある。大砲の大きさは一般に 発射する弾丸の直径と、砲身の長さで表される。直径はヤード・ポンド法(ただし、ドイツの戦艦はメートル法)で製造され、日本ではメートル法に基づきcmで表示される。カナ表記の場合はサンチ(フランス語)を使用する。砲身の長さの表示については、実際の砲身長を砲弾の直径で割った数字を採用し、口径と呼んでいる。アイオワ級の50口径40.6cm(16in=40.64cm)砲の砲身の長さは20.3mである。1890年代の戦艦は、40口径/24cm~34cmの主砲を連装砲塔に収め、艦の前後に1基ずつ(計4門)装備していた。その後主砲は逐次巨大化し、日本の大和型の45口径46cm(18in=45.72cm)砲(砲身長 20.7m)に達した。 **発射する砲弾は、敵の甲鉄を射抜く『徹甲弾』と呼ばれる特殊な砲弾で、弾体の大半が硬い特殊鋼でできており、火薬の分量は少ない。つまり敵の厚い甲鉄を貫く強度を持った鉄の塊の中に少しの火薬が入っている状態。徹甲弾の信管は一般の触発式(命中と同時に爆発する)ではなく、命中後しばらくたって砲弾が艦体の奥へ飛び込んでから爆発する遅発信管を装備する。砲弾重量は30.5cm砲で400kg程度、40.6cm砲で1t前後、大和級の46cm砲で1.5t程度ある。この砲弾を1門辺り毎分2発、速度800m/秒程度で発射し、2万~4万m先の敵艦を攻撃した。 #showrss(http://www.hatena.ne.jp/rss?c=d,recent,0,1,1,,) #showrss(http://www3.asahi.com/rss/index.rdf,recent,0,1,1,,) #showrss(http://nikkeibp.jp/jp/flash/index.rdf,recent,0,1,1,,) ---- *メニュー **-[[トップページ]] **-[[更新履歴]] 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*戦艦大和or武蔵 ---- *総アクセス数→&counter()人 X000人の時にコメント欄に書いてくれるとうれしいです。 コメント欄 #comment_num2 *今日来た→&counter(today)人 *昨日来た→&counter(yesterday)人 **大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。しばしば**大艦巨砲主義の象徴とされる。 太平洋戦争開戦直後に竣工・就役した。その後、連合艦隊旗艦任務を務め、これは司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役するまで継続された。 *建造 「大和(計画名A140F5)」は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の第4ドック(造船船渠)で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、それは秘密裏に建造され、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。 **そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より「大和」と発表される(なお艦首に菊の御紋章のある軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した2つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はドックにただ、注水するだけであった。しかも、機密保持からその進水式は公表されることもなく世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。 **なお、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」そのものを象徴する意味合いも含まれており、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。 *戦役 1942年2月12日連合艦隊旗艦となる。同5月29日柱島出航、ミッドウェー海戦に参加、同6月14日柱島帰投。1942年8月17日ソロモン方面の支援の為柱島出航、同8月28日トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を通信、旗艦設備が改良された「武蔵」に委譲。1943年5月8日トラック出航、柱島へ向かう。この頃、ソロモン諸島で激戦が繰り広げられている最中にも泊地から動かない様を揶揄して、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」と呼ばれた。 **1943年12月25日トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け3番砲塔右舷に1本被雷した。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の下端部が内側に押し込まれ、装甲鈑構造の支持ブラケットが内側に動いて弾片防御縦壁を突き破り、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。これは敵弾の命中の衝撃のみで浸水をきたす恐れがあるという致命的な欠陥であった。 **1944年6月15日、マリアナ沖海戦に参加。同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊旗艦として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。25日サマール島沖海戦にて主砲弾を104発発射。大和に突入しようとした駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により前甲板に4発の爆弾が命中、約4000トンもの浸水を受けるも、戦闘継続に支障は無かった。 **レイテ湾の入り口まで来たが、第二艦隊司令長官栗田健男中将は何故か反転し、突入することなく引き返している。 **レイテ湾口ではキンケード中将の率いる米第七艦隊が待ち伏せしており、その中には戦艦6隻が含まれていたから、もし栗田中将が突入を命じていれば、史上最後の戦艦部隊同士の艦隊決戦になっていた可能性が高い。 *最期 呉に帰港した後の翌1945年3月、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。目立った被害はなかった。 **同年4月6日、沖縄に向けて出撃する。「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神大佐の発案で唐突に実施された。大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐(中佐?)、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)に沖縄特攻の命令が下ったのは、4月5日、出撃の前日のことであった。 **第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)など)と共に山口県徳山湾沖より出撃(天一号作戦(菊水作戦))。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は豊後水道で呉に引き返させた。 **菊水作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億玉砕のさきがけであった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたいう。当初、米第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていたが「大和」が西進し続けたため日本海側に退避すると思い、航空攻撃を命じた。偽装進路をとらず、沖縄に直進していたら、世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていた可能性はあった。 **4月7日14時23分に、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の波状攻撃で猛攻を受ける。11本の魚雷と7発以上の直撃弾を受け、大火災をおこした大和は最後の魚雷が命中した3分後傾斜が6度から20度になり総員退艦命令が出された。しかし、艦内の大半のものにそれは知られず、総員退艦発令3分後大傾斜後横転(のちに転覆?)し海中で弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、船体は折れて海に沈んだ。そのときに発した火柱は、遙か鹿児島でも確認できたという。 **同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は30本以上を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。 **なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,000)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。また、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料なども必要とされるため、現金もかなりの額を持っていった(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。なお出撃に先立ち、傷病者とともに兵学校卒業直後の士官候補生数十名が退艦させられている。 **戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,498名、生存276名。 *現在 **現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に於いて、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向に、右舷を下にした艦首部より一番副砲までの原型をとどめた部分、転覆した状態の三番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部が約170メートルの間に、中央部の原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、それぞれ半分泥に埋まった状態で沈んでいる(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。 *戦艦大和を描いた映画 **『戦艦大和』(吉田満原作) **『連合艦隊』 **『男たちの大和/YAMATO』(辺見じゅん原作。2005年12月17日公開) *戦艦大和の登場する作品 **アニメ **『かみちゅ!』第9回「時の河を越えて」 **漫画・アニメ **『ジパング』 **昭和16年12月8日、日本海軍がハワイの太平洋艦隊を急襲の8日後、世界最大の主砲を備えた日本海軍最強の戦艦「大和」が竣工した。昨年東京で発見された設計図からは、当時最新の防護システムが施され、文字どおり不沈艦として設計されていた。 **明治37年、日露戦争が勃発。翌年ロシアは、戦艦8隻を主力とするバルチック艦隊を日本に派遣、決戦を挑む。迎え撃つ日本海軍連合艦隊の主力は、旗艦三笠をはじめ、戦艦4隻、史上初めて戦艦同士の決戦が行われた。新型戦艦を備えた日本海軍は、ロシア艦隊をほとんど全滅させる大戦果を上げた。ロシアは、日本と講和を結ばざるを得なくなる。日本海軍の勝利は、世界に報道され、戦艦こそが、近代戦争の勝利を決定づける主役であることを、世界に印象づけることとなった。 **明治39年には、イギりスは、30,5センチ砲10門を持つ戦艦を建造、アメリカは、大正12年、40,6センチ砲搭載の戦艦3隻を備え、日本より優位にたつ。昭和9年、日本は、46センチ砲を搭載する戦艦の建造を開始。その射程は、40,6センチ砲を3km上回る。この極秘新兵器大和は、未だ謎に包まれていた。 **去年(2000年)7月、大和の有力な手がかりが発見された。大和の心臓部分の設計図である。大和の防御力は、410ミリの分厚い鋼鉄の表面、たとえ46センチ砲に攻撃されても耐えられることを意味する。船体を無数に区切る防水区画。万一の浸水を最小限に食い止めるため造られたこの区画の数は、1,147にもおよぶ。当時最先端の技術、注排水システムである。大和は、絶対沈まない不沈艦として設計された。全長263メートル、排水量72,800トン、主砲46センチ砲九門搭載、大和は、最強最新の攻撃力と防衛力を詰め込んだ強力な戦艦だった。 **昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発、その8日後、大和は洋上に姿をあらわした。 12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、戦力で劣る日本は、あらかじめ、少しでも損害を与えておこうとした。結果は大戦果となった。アメリカ海軍は壊滅。それは、航空機は戦艦を沈めることはできないと言われた開戦前の常識を、根底から覆す衝撃的な出来事だった。 **「真珠湾を忘れるな」それがアメリカの合言葉になった。今後の戦争の主役は、航空戦力だと悟ったアメリカは、戦艦重視だったこれまでの戦略を完全に転換し、空母の大増産に乗り出した。大型、中型、小型を含め1週間に1隻空母が進水するという、空前絶後の生産速度だった。 真珠湾で、航空機の威力を実証したのにかかわらず、日本海軍は、戦艦こそが海の王者であると言う古い発想を捨てきれなかった。昭和17年、大和級の武蔵の建造も進められつつあった。 **昭和17年5月、大和は初めての出撃、ミッドウエー島攻略作戦である。日本軍機動部隊は、空母4隻、戦艦2隻、一方アメリカ軍は、空母3隻、戦艦は0.さらに日本軍は、機動部隊の後方に、大和以下の質量ともに、圧倒的優勢な戦力を要していた。しかし、日本軍の作戦は、暗号を解読され、アメリカ軍に筒抜けになっていた。6月5日午前4時、アメリカ軍空母から151機の攻撃機が発進、前方に突出していた日本軍機動部隊を狙う。不意打ちを受けた機動部隊は混乱に陥る。空母4隻が沈没、日本海軍は全滅に等しい損害を受けた。大和は、無力だった。戦場の遥か後方にあっては、46センチ砲を使うことなく、空母や航空機には追いつけず、敵と戦わずして引き返すしかなかった。日本海軍は、急きょ空母の増産に乗り出したが、当時の日本の生産能力は、アメリカの1/10に過ぎなかった。 **昭和19年6月、ついに大和に出撃のときがきた。マリアナ沖海戦である。日本軍の兵力は、空母9隻、戦艦5隻、艦載機439機、一方アメリカは、空母15隻、戦艦7隻、艦載機896機、両者の間には倍近い差がついていた。 さらにアメリカは、新式のレーダーや対空砲火を備え、質でも日本軍を凌駕していた。大和は、アメリカ軍航空機に対し、46センチ砲を放って応戦したが、ほとんど戦果をあげることができなかった。マリアナ沖海戦で、日本軍は空母3隻、艦載機400機余を喪失、航空部隊は二度と立ち上がれない打撃を受ける。大和は、またも空しく引き上げるしかなかった。 作家半藤さんは「艦隊と主砲を相手より大きくして、優勢を保つという考え方は、日露戦争の日本海海戦を想定したものだ。3番艦信濃を戦艦から空母に変えたが、遅きに失した」と。追い詰められた日本軍は、悲劇的ともいえる作戦を発令する。 **昭和19年10月、アメリカ軍は、フィリピンのレイテ島に上陸。陸軍部隊を支援する戦力は、艦船700隻、航空機1000機に及んだ。敵輸送船団を撃滅せよとの命を受けて、出撃した日本海軍の主力は、大和、武蔵を含む第2艦隊、その上空を護る航空機の姿はなかった。日本戦艦部隊の頭上に、アメリカ軍航空機部隊が襲いかかる。大和の同型艦武蔵は、魚雷20本を受けてついに沈没。艦長は、「申し訳なきは、対空射撃の威力を十分発揮しえざりしこと」と書き残して、武蔵と運命を共にした。大和は前進を続け、46センチ砲が火を噴いて、アメリカ空母1隻を撃沈する。第2艦隊は、出撃した艦船の半数以上を喪失、レイテ沖海戦で、日本海軍は事実上壊滅した。 **昭和20年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸、支援兵力は、艦船1,500隻以上、航空機1,700機あまり。4月5日、「天1号作戦」を発令、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下る。目的地は沖縄。作戦は、片道分の燃料を積んで特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するものだった。司令官は一応反対したものの、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけとなれ」の言葉で承諾、4月6日午後4時、戦艦大和は出撃した。その最期は、22時間後に迫っていた。 **沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。 当時の乗組員1「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、まもなく真っ赤に変わった。よしやるんだ。帰らないんだと、体に伝わったと思いますよ」 乗組員2「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、17歳で特攻にはいけないと思いますよ」。 **あくる4月7日早朝、大和を察知したアメリカ軍は、空母部隊に迎撃命令、その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800機、大和の護衛機はなかった。のこっている「大和戦闘詳報」と生存者の証言から、大和がいかに戦ったかを記す。 **「12時32分」 敵機100機が、雲の合間から出現、急降下爆撃を開始。 「12時45分」 アメリカ軍の魚雷が1本、左舷に命中。射撃を目測に頼る対空砲火は、厚い雲に阻まれて大和は主砲を使うことができなかった。 「13時34分」 アメリカ軍の雷撃機が、左50度から6本の魚雷を投下、3本命中。 「13時44分」 さらに2本がまた左舷に命中、大和は左に傾いたが、ここで注排水システムが作動、平衡を取り戻す。アメリカ軍は巧妙だった。魚雷はほとんど、大和の左舷ばかりを狙った。大和の注排水システムは、やがて限界に達した。その直後、3本の魚雷が大和に命中、再び傾いた大和は、バランスを取り戻すことはできなかった。 「14時17分」 またも魚雷が左舷中央部に命中、大和は傾斜が大きくなった。長官は、特攻作戦中止命令を下し、長官室に入って内側から鍵をかけた。 「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。 **大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。  **戦艦大和の性能、武装(新造時) 満載排水量 7万2809トン 公試排水量 6万9100トン 全長 263メートル、垂線間長244メートル、吃水線長256メートル 最大幅 38.9メートル、吃水線幅36.9メートル 吃水 前部10.4メートル、後部10.4メートル 最大速力 27.46ノット 航続距離 7200海里(16ノット) 主砲 46センチ3連装砲塔3基(9門)、45口径、最大仰角45度、最大射程4万メートル 副砲 15.5センチ3連装砲塔4基(12門)、55口径、最大仰角55度 高角砲 12.7センチ2連装6基(12門) 探照灯 150センチメートル8基(探照距離8000メートル) 機銃 25ミリ3連装8基(24門)、13ミリ連装2基(4門) 馬力 軸馬力前進15万馬力、後進4万5000馬力 カタパルト 2基、搭載航空機7機(水上偵察機3機、水上観測機4機) 測距儀 艦橋15メートル1基、主砲塔15メートル3基、後部指揮所10メートル1基、副砲塔8メートル4基 機関 艦政本部式蒸気タービン4基4軸、回転数225(毎分)、蒸気圧力25kg/平方センチメートル、蒸気温度325度 推進器 3枚翼、直径5メートル、21.7t 費用 当時1億4287万円(現在に換算すると約2604億762万円、大和一隻分の費用で東海道新幹線全線が完成できる) 燃料搭載量 満載搭載量6400トン(駆逐艦3隻分の重さ!) 内火艇 水雷艇2隻、将官艇1隻、11メートル内火艇1隻、12メートルランチ4隻、8メートルランチ1隻、9メートルカッター4隻 乗組員 2800~3000人 *戦艦「播磨」を知っていますか? **むかし、戦艦と戦闘機にはまっていました。特に戦艦は、その怖るべき攻撃力、驚くべ き防御能力とともに、単にその存在の巨大さに傾倒していました。単に破壊と殺戮のみ を目的として造られ、その目的にためにのみ特化した船、戦艦!目的に特化する事によ って得られた、殆んど神秘的とも言える美しさがあります。機能美の極致とも言えまし ょう。 **数多い戦艦の中でも、戦艦大和と戦艦武蔵!戦前の大日本帝国海軍が造り上げた未曽有 の巨大戦艦です!満載排水量73000トン、45口径18インチ砲9門搭載。当時の 全ての戦艦が16インチ砲を搭載し、かつアメリカが大和、武蔵に対抗するために建造 したアイオワ級戦艦ですら満載排水量58000トン16インチ砲9門搭載に過ぎなか った事を考えると、文字通り史上最大、最強の船と言えましょう。残念ながら、時代は 大艦巨砲の時代から航空主兵の時代にかわり、大和、武蔵ともに、敵戦艦と水上主砲決 戦を演ずる事なく、航空機による雷撃と爆撃によって撃沈されてしまいました。 **この事から大和、武蔵の建造を、単に時代の趨勢を読み間違えたオオバカヤロウ!とい う評価もあるようです。実際、大和級戦艦の第三番艦として建造されるはずだった戦艦 信濃は、航空主兵思想の台頭により、急拠空母に設計変更されました。空母としても、 当時としては未曽有の巨艦でした。もし今日的な意味での戦略空母的用兵が行われ、か つ、もし大和や武蔵すらが、最初から空母として建造されていれば、日米海上決戦の帰 趨は変わっていたかもしれない!という意見には私も部分的には賛同するものがありま す。 **しかし私にはもうひとつ、別の意見、見方があります。もし戦艦大和、戦艦武蔵の建造 に問題があったとすれば、それは   *大艦巨砲の程度が中途半端だった! **のではないか、という事です。当時、航空機によって撃沈された戦艦の被弾数を比較し てみると **プリンス・オブ・ウエールズ(英) 魚雷7、爆弾2 レパルス(英) 魚雷13、爆弾1 ビスマルク(独) 魚雷6、 武蔵 魚雷20以上 大和 魚雷10、爆弾6 **となります。大和をのぞけば、殆んどの戦艦は魚雷によって屠られたといえましょう。 しかし大和の場合、命中魚雷の殆んど全てが片舷に集中し、そのためにバランスを失っ た事、および前部弾薬庫の誘爆が沈没の主原因である事を考えると、武蔵の例から考え ても、大和級戦艦を撃沈するためには、恐らく20本以上の魚雷を命中させなくてはな らないと考えられます。当時の雷撃機の性能(命中率5%以下、一機あたり魚雷一発搭 載)を考えると、この20本の命中魚雷というものは、アメリカ空母艦隊が発艦させる ことの出来る全航空機を雷撃用に特化した場合(雷撃機と護衛戦闘機、および空母防衛 用の戦闘機)に、ひとつの会戦で命中させる事のできる最大数と同程度です(一空母あた り60機艦載、うち20機を雷撃機とする。6空母構成で120機、三波攻撃を実施)。 実はこれくらい大和や武蔵の対空防御力は強かったのです。ならば、対空防御力を命中 魚雷30ー40本程度にしておけば、文字通り「不沈」の戦艦が誕生した事でしょう。 **防水区画数と被弾可能魚雷数には、ある関係があり、ざっと計算してみると、 **総排水量12万トン程度の戦艦 **が建造されていれば、アメリカ航空艦隊の猛攻をしのぎ、主砲戦を挑める距離にまで敵 艦隊に肉薄する事ができたでしょう。12万トンの戦艦が搭載する主砲は、恐らく22 インチあたりですから、45口径としてもその射程距離は約5万メートル、完全に水平 線下の距離です。また12万トンと言えば、アメリカが最近建造した新鋭のニミッツ級 空母カール・ビンソンがこの程度です。カール・ビンソンは建艦・運用可能な最大の軍 艦といわれていますから、12万トンの戦艦も建造・運用が可能でしょう。 **実はこのような真の巨大戦艦の建造計画はありました。それが「播磨」級戦艦です。大 和級戦艦に次ぐ総排水量約9万トンの「紀伊」級戦艦の、そのなお後継艦として計画さ れました。当時の我国の国力から考えて、播磨級のみならず、紀伊級戦艦ですら建造す る事は不可能であったことでしょう。しかし現在、アメリカは12万トンのニミッツ級 (カール・ビンソン級)空母を5ー6隻調達する予定です。もし先の大戦が航空主兵では 無く、大艦巨砲思想を温存する形で終結していたら、戦後必ずや「播磨」級戦艦が建造 されていたにちがいありません。 **ずっと前に、日本に寄港したカール・ビンソンの巨体を見あげて、この巨大な船体の上 に22インチ3連装主砲塔を3つ搭載した超巨大戦艦を夢想し、戦艦播磨が建造されて いれば、この大きさかあ、と感動しました。戦艦「播磨」が戦争に使われる事など、け っして望みませんが、その巨体からの22インチ主砲9門の一斉砲撃を見てみたいもの だと思いました。 **注:砲の口径とは? 45口径18インチ砲、とは砲身の長さが45x18インチ=810インチ=約20m の大砲の事。砲身長を砲の内径で割った値の事を、口径と言います。口径が大きいほど 砲弾の初速が早く、有効射程も伸びます。ちなみにアイオワ級戦艦では16インチ砲な がら、50口径のものを搭載していましたから、その射程は大和級戦艦に匹敵していま した。もし複数のアイオワ級戦と大和一隻が対戦していたなら、いい勝負になった事で しょう。 **後注: 最近調べた資料によると、播磨級戦艦は紀伊級戦艦の次というよりは、紀伊級戦艦の改 造型あるいは増強型として企画されていた様です。その資料によると、紀伊級戦艦は基 準排水量約10万トン、20インチ45口径主砲九門装備の戦艦、つまり大和級戦艦の スタイルを踏襲し、容積が大和の約2倍の規模の戦艦として設計され、まず戦艦紀伊と 戦艦尾張の二隻を建造する予定だったようです。しかし、国力に勝る米国海軍が20イ ンチ主砲を搭載した戦艦を建造するのは時間の問題です。そこで紀伊級戦艦の20イン チ砲三連装主砲塔を22インチ砲二連装主砲塔に装換した「紀伊級改」として播磨級戦 艦が構想されました。どうして新たに設計するのではなく、「改造」する事になったか というと、やはり10万トンを越える戦艦の船体設計は容易ではないので、船体は紀伊 級の設計を流用し、設計のための手間と時間を節約する事にしたのです。なを22イン チ砲2連装主砲塔と、20インチ砲3連想主砲塔は、偶然ほぼ同じ重量となりますので 第一近似として装換は可能です。 **播磨級戦艦はネームシップである戦艦播磨と、もう一隻を建造する予定だったみたいで す。紀伊級の船体を改造する時に、船体を少し伸ばし、主砲塔数もひとつ増やして二連 装四砲塔とする案もあったようです。この場合には総排水量は約14万トンとなってい た事でしょう。しかし装甲の厚みを22インチ砲に対応したものに増強しなくてはなら ない事を考えあわせると、実は二連装三砲塔としても、すでに総排水量が14万トンあ たりになっていたはずです。もし大和型戦艦のように、22インチ砲三連装主砲塔三基 の「フルスペック設計」とすると、基準排水量は約16万トンに達していたはずです。 いずれにせよ、そろそろこれくらいの大きさが現実的に運用可能な最大値であるとの思 いは、当時の戦艦設計者達の中にすでに共通認識としてありました。まさに播磨級戦艦 は究極の戦艦と想定されていたわけです。ちなみに播磨級戦艦の二番艦の名前は日露戦 争の勝利艦である「三笠」になるはずでした。三笠の名前を用意するあたり、まさに不 沈の戦艦として紀伊級そして播磨級を建造しようとした戦艦設計者達の心意気が感じら れます。 **後注その2:上の後注で《22インチ砲三連装主砲塔三基の「フルスペック設計」とす ると、基準排水量は約16万トンに達していたはず》などと書きましたが、某架空戦記 作家の方が22インチ砲三連装主砲塔四基の「戦艦播磨」をその作品中に登場させてい ます。この事を本ページを御覧になられた方からメールで教えていただきました。この 怪物のような「戦艦播磨」の基準排水量は21万7千トンだそうです。これはどう考え ても大きすぎます。同じような巨大戦艦としては、ソ連海軍の「トハチェフスキー級」 というものが、別の架空戦記小説に出て来ているらしいですが、これだって運用可能と はとても思えません。せいぜい12万トンくらいまでが、まっとうに運用出来る軍艦の 限界ですよ。どー考えても。 **つけたし: 戦艦と巨大加速器は似ていると思いませんか?例えば **1、日常的な事には、何の役にもたたない。 **2、普通の人の、想像を絶する大きさである。 **3、技術の粋をつくして、単一目的のために特化した機能美を有する。 **というような点で。スバルのような望遠鏡もこの部類にはいるかもしれません。ただ、 戦艦とは違い、加速器の目的が、少なくとも殺戮と破壊が目的では無い事が救いです。 しかし私の心の中にある「物造りの心」というものが、実は「機能美を追求したい」と いう気持の表れであるとするならば、私はいつ悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれま せん。前例はあります。ナチスをスポンサーにつけ宇宙船開発のために殺人兵器V2号 を作ったフォン・ブラウン!彼は戦後、かつての敵国である米国に渡りロケット開発に 従事しました。そしてついに1969年、アポロを月に送ったのです。彼のやった事は 殆ど悪魔のワザと言えましょう! *主砲と砲弾 **主砲は戦艦の最重要装備。敵を圧倒するために大きな砲弾を遠くへ正確に発射する必要がある。大砲の大きさは一般に 発射する弾丸の直径と、砲身の長さで表される。直径はヤード・ポンド法(ただし、ドイツの戦艦はメートル法)で製造され、日本ではメートル法に基づきcmで表示される。カナ表記の場合はサンチ(フランス語)を使用する。砲身の長さの表示については、実際の砲身長を砲弾の直径で割った数字を採用し、口径と呼んでいる。アイオワ級の50口径40.6cm(16in=40.64cm)砲の砲身の長さは20.3mである。1890年代の戦艦は、40口径/24cm~34cmの主砲を連装砲塔に収め、艦の前後に1基ずつ(計4門)装備していた。その後主砲は逐次巨大化し、日本の大和型の45口径46cm(18in=45.72cm)砲(砲身長 20.7m)に達した。 **発射する砲弾は、敵の甲鉄を射抜く『徹甲弾』と呼ばれる特殊な砲弾で、弾体の大半が硬い特殊鋼でできており、火薬の分量は少ない。つまり敵の厚い甲鉄を貫く強度を持った鉄の塊の中に少しの火薬が入っている状態。徹甲弾の信管は一般の触発式(命中と同時に爆発する)ではなく、命中後しばらくたって砲弾が艦体の奥へ飛び込んでから爆発する遅発信管を装備する。砲弾重量は30.5cm砲で400kg程度、40.6cm砲で1t前後、大和級の46cm砲で1.5t程度ある。この砲弾を1門辺り毎分2発、速度800m/秒程度で発射し、2万~4万m先の敵艦を攻撃した。 #showrss(http://www.hatena.ne.jp/rss?c=d,recent,0,1,1,,) #showrss(http://www3.asahi.com/rss/index.rdf,recent,0,1,1,,) #showrss(http://nikkeibp.jp/jp/flash/index.rdf,recent,0,1,1,,) ---- *メニュー **-[[トップページ]] **-[[更新履歴]] 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