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英語二列」を以下のとおり復元します。
*英語二列 

**担当:波多野(仏)

**担当:市川(大仏)
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/happyman.html
「幸せな男」「THE HAPPY MAN」訳

**担当:堀田(仏)
とりあえず置いときます

p6.l14
そして18世紀には北アイルランドからの大規模な移民が最初はフィラデルフィア周辺の海岸地域へ向かっていたが、すぐに南方、西方へと移動した。
1776年の独立宣言後、多くの英国支持派(イギリス政府を支持していたイギリス開拓者)はカナダへと出発した。

一方、同様の出来事がオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカで起きた()
ジェームズクックは1770年にオーストラリアを発見し、今日のクイーンズランドに上陸し、ファーストフリートは1788年ニューサウスウェールズ(州)に上陸した。
そのころから1852年に移動が終わるときまで、16万人近くの囚人がイギリス、アイルランドからオーストラリアに運ばれ、1820年代から多くの自由開拓者が到着し始めた。
開拓者のほとんどはロンドンやイギリス南西部出身だが、囚人の場合は必ずしも、そこが出身地というわけではなかった。
他にもたとえば、南西イングランド、ランカシャー、スコットランド、アイルランドもの広い地域の出身の人々がいた。
結果として現地のアボリジニーの言葉により深く影響を受けた方言懇請という状況になった。
1840年にイギリス-マオリ間の条約ができるまで国による植民地化はなかったが、ニュージーランドは1790年代に初めてヨーロッパの貿易商人たちによって開拓された。移民は三段階にやってきた。1つ目は1840年代、1850年代にイギリスから、2つ目は1860年代にオーストラリアとアイルランドから、そして1870年から1885年にかけてイギリスからやってきた、3つ目のときにはその移民にはスコットランドのかなりの割合の人々が含まれていた。
オーストラリアでは方言の混成が起きた。このときにはマオリの氏の影響を受けていた。特に語彙において。

南アフリカは1650年代オランダ人によって、植民地化されたが、イギリスのケープを併合した1795年まではイギリス人はやってこなかった。また、1820年代まで大きな開拓は行われなかった。
かなり大きな集団がアイルランドやスコットランドからやってきたものの、ケープ開拓者の大多数は南イングランド出身だった。
更なる開拓は1850年代に出身地区で起こり、このときはミッドランド
、ヨークシャー、ランカシャーだった。
英語が公用語だと宣言された1822年から、英語は黒人やアフリカーン話者(その多くは混血人種だった)によって学ばれ、1860年代からはインディアン移民によって学ばれた。

●二番目の離散:アジア・アフリカへの移動
二番目の離散は18世紀、19世紀の間に様々な場所で最初の離散とは大きく異なる形でおき、最初の離散の結果とは大きく異なる結果を伴った。

植民地のアフリカの英語の歴史には、西アフリカか東アフリカのどちらを取り上げるかによって異なった2つの傾向が見られる。
西アフリカの英語は奴隷貿易とピジン、クレオール言語の発達とかかわりがある。
15世紀終わりごろからずっとイギリスの貿易商は西アフリカ沿岸部の様々な領地、主にギャンビア、シエラ、レオン、ガーナ、ナイジェリア、カメルーンと自国の間を何度も行き来した。しかしながら、その地域にはイギリスによる大きな開拓はなかったものの英語は現地の人々の間や現地の人々とイギリス商人との間での共通語として用いられた。
英語は後に上記の五つの国で公用語となり、クリオ(シエラ・レイン言語)とカメルーンのピジン英語といった英語との接触から発達したピジンやクレオールは現在、多くの人々によって話されている。それらは特に第二言語として話されている。

東アフリカの英語との関係は違った道をたどった。
ケニヤ、ウガンダ、タンザニア、マラウィ、ザンビア、ジンバブエといった国々は1850年代から開拓者によって激しく開拓され、多くの探検家がやってきた。特に有名なのがデービッドリビングストンの探検である。
これら6カ国は19世紀終わりから20世紀初め間での間に様々な地点でイギリスの保護領、植民地をなった。英語は政治、教育、法律といった主要な機関において重要な役割を果たした。
1960年代始めからこの6カ国は次々と独立を達成した。
英語はウガンダ・ザンビア・ジンバブエ(チェワ族とともに)マラウィにおいて公用のげんごであり、これらの地域は英語を第二言語として話す人々が多く居るが、ケニヤやタンザニアでも同様である。

マッククラムなどが指摘するように英国民は新しく東インド会社がマドラフ、カルカッタ後にボンベイに入植地を作った1600年代にインド亜大陸を愛馬としようとしていたが、18世紀後半に英語は南アジア亜大陸(インド、バングラデシュ、パキスタン、スリランカ、ネパール、ブータン)に導入された。
その会社の影響は、18世紀の間広がって行き、1765年から1947年までずっと'Raj(主権)'として知られる英国がインドで主権をもつ時代に最高点に達した。
重要な点は1835年の???、それはインドに英語教育システムを導入することを提案するものだった
そのときから英語はインドの教育システムで扱われる言語になった
ヒンディー語がインドの公式な言語である今日ですら、英語は中立的な共通語としてヒンディー語とともに用いられる公用語であり、アメリカ英語やオーストラリア英語の特徴に匹敵するほどの目立った国家の特徴を発達させるインド化の過程を引き起こした。

南東アジア、東アジア、南太平洋諸国における英国の影響はジェームズクックや他の人々の海を越えた冒険の結果、18世紀後半にあらわれ始めた。
領地に含まれる主な地域ははシンガポール、マレーシア、香港、フィリピンである。
パプアニューギニアも短い期間(1884年から1920年まで)イギリスの保護領であった。そこでは英語が基盤となったピジンに最も良い例の1つであるトックピジンを見ることができる。

スタンフォードラッフルズはイギリスの東南アジアでの植民地化ととても関係深い名前だ。
東インド会社の社長は1819年のイギリスの植民地帝国の一部としてのシンガポール発見で重要な役割を果たした。
ほかのイギリスの主な施設はほぼ同時期にマレーシアに作られ、香港は1842年に加えられた
スペイン・アメリカ戦争後、19世紀の終わりごろ、アメリカは1946年に独立することになるがアメリカ英語の影響を強く受けていたフィリピンの支配国とみなされていた。

近年、英語の使用がシンガポールでは増えてきていて、その地域の変種が出始めてきた。
一方で、マレーシアでは1950年独立を獲得したときその地域の言語であるバハサ・マレーシアを国家の言語、そして教育の媒体とした結果、英語の使用が減ってきた。
英語はまだ学校での教育科目として強制であり、英語は国際コミュニケーションのためにのみ有用であるとみなされた。
しかしながら近年になって、政策の変化があり、英語を媒体とした教育が2003年に再導入された。
この進歩の前ですら、例を出せばラジオ局がその地域の視聴者に届けるために英語とバハサを両方使うなど、状況は複雑だった。(セバ???、個人間の意思伝達)
近年、英語は近隣の他の国々によっても学ばれている。特に著しいのは台湾、日本、韓国で、日本、韓国の2国は近年英語を公式の第二言語としようかと議論している。

1750年から1900年の間、1番目と2番目の離散の英語会話の開拓は3つの似通った大きな変化を引き起こした。
1750年まではストリーヴンが指摘したように、イギリスの入植者は自分自身のことをただ海外に住んでいるだけのイギリスから来た英語話者であると思っていた。
この後、ストリーヴンは以下のように続けている。
   1番目は、海外の英語を母語とする開拓者の人口数は大きなものとなり、植民者の政府となったが、政府を伴った州を形成し、他とは別の個性の意識が高まっていた。
   2番目は、まずアメリカで、しかし後にオーストラリアや他の地域で植民地がイギリスから独立を始め、言語の違いの度合いが広がった。
   3番目は、財産が安定し成長するにつれて、多くの人々、つまり英語を母語としない人々は生き延びるため、即ち支配層に雇用を見つけるために、英語を、学ばなければならなかった。
これらの英語は共通した歴史やイギリスかアメリカ英語のどちらかに親近感を持っていることから、共通したものが多い。
しかしそれぞれの変種には独特なものも多く、特に発音の面ではそうであるが、語彙の慣用的な用い方、文法、談話の構造においてもそうである。

1945年以来、残っていた植民地のほとんどが独立国家となってきているが、大体の場合英語は国内での様々な機能を果たすためだったり、中立的な共通語として機能したりさせるために使われ続けた。


●ピジン言語とクレオール言語の起源
定義と発達
植民地時代の英語の発達について記述した記事の中で、レイスはイギリスの植民地を3種類に定義している。
   1番目の種類は、アメリカやオーストラリアで例示されるように、英語を第一言語とする人々による多くの入植者が植民地化される以前の人々と取って代わった。
   2番目はナイジェリアが典型例だが、1番目よりまばらな入植だったので、支配されている植民地化以前の人々の状態を保ち、その人々の一部が英語を第2言語や付加的言語として学ぶことの出来る状態にあった。
	さらに3番目が残されている。これはバルバドスとジャマイカののカリブ海諸島が例に挙げられる。
	ここでは植民地化される前から住んでいた人々が他の地域、主に、西アフリカからやってきた労働者によって取って代わられた。
最初の2種類の英語の植民地はA1の主題である。A2とstrand 2の残りでは3番目の種類に注目する。レイスが指摘するように3番目の種類は全部の中で最も複雑である。ピジンとクレオールである。

ごく最近まで、ピジンとクレオールはとくに非言語学者から劣った悪質な言語だとみなされた。(そしてしばしば、言語とはかけ離れたものだとみなされた。)
20世紀の後半、第2言語獲得の分野で働く言語学者はピジンとクレオールの発達の仕方から第1言語と第2言語の習得について何が発見できるかについて気づき始めている。一方、社会言語学の分野で働く言語学者はこういった言語が話者の生活様式を反映し、推進する範囲を正しく評価し始めている。

にもかかわらず、D2のカメルーンピジン英語に関する文章から明らかになることだが、これは今日でさえも決して普遍的なことでなく、また言語学者自身の間でもマッカーサーは心理言語学者???であるアッチソンが1996年に著した"話の種"の1996年3月11日付けの経済学者の講評から引用している。話の種でアッチソンはピジンは言語の進化の装飾であると主張している。以下は(匿名の)批判家の反応の様子だ
   アイッチソンが主張することには、パプアニューギニアで広く話されるピジン英語の変種であるトクピジンの例は言語の進化の一般的な話を照らす???。
   しかし、彼女の主張は(ほぼ確実に)間違っている。ピジンとクレオールはその過程を要約していない???ので、そのような話を明らかにするものではない。
その代わりにピジンとクレオールは違う過程、すでに進化した言語からのみ始まる過程の例である。

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