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晉書所記怪異 - (2007/01/27 (土) 14:46:19) のソース

**107.『晋書』の怪異を記すところ
-異聞を史伝に取り入れるところ、『晋書』『南史』『北史』に多い。なかでも『晋書』戴記にことのほか多い。劉聡のとき、流星が平陽に落ちたが、見たところ肉のようであり、南北三十歩、東西二十七歩、臭いは数里先までただよい、肉のそばでは泣き声が聞こえた。劉聡の皇后劉氏が一匹の蛇と一頭の虎を産み、蛇と虎は人を傷つけながら逃亡した。追いかけると蛇と虎は落ちた肉のそばまで行き、泣き声がそこで止まった。劉聡の子の劉約が死んだが、一本の指だけ暖かかったので、かりもがり(遺体の安置儀式)を行わなかった。そうしたところ劉約は蘇生して、臨死体験を語った。劉約が言うには、亡くなった祖父の劉淵に不周山で会い、諸王将相たちもおり、蒙珠離国と号していたという。劉淵は「東北に遮須夷国があるが、国主がいない。おまえの父を国主にしようと待っている。三年したら来るだろう。おまえは帰りなさい」といった。蒙珠離国を出て、途中で猗尼渠余国を通った。宮殿に召され、一枚の革袋を渡され、国主に「わたしから漢皇帝への贈り物だ。あとで劉郎が来たら、末娘を妻としてめあわせよう」といわれた。劉約が蘇生すると、机の上には革袋があり、中には白玉と「猗尼渠余国天王が遮須夷国天王に贈り物をいたします。ときが来たらお会いしましょう」と書かれたものが入っていた。劉聡はこれを聞いて、「こんなことであるなら、わたしは死を恐れないぞ」といった。劉聡は三年後にやはり死んだ。石虎のとき、太武殿に描かれた古賢像が忽然として胡人の姿に変わった。十日あまりして、頭が縮んで肩の間に入った。これらの怪異の記述は、みな劉氏と石氏の乱から出ている。劉氏と石氏の凶暴は常にあらざるものであったので、常にあらざる変異があって応じたのも、理の自然であろうか。ほかにも、干宝の父が死んだとき、干宝の母は嫉妬深く、父の寵愛した端女を墓の中に入れてしまった。十余年して干宝の母が亡くなり、合葬するために墓を開くと、かの端女が棺桶に伏して生きていた。幾日かして口が利けるようになり、彼女が言うには、干宝の父が飲食のものを与えてくれたので、地中でも無事だったのだという。この話はことのほか信じることができない。しかしこのことが干宝が『捜神記』を作る動機となったというのである。

-採異聞入史傳,惟晉書及南、北史最多,而晉書中僭僞諸國爲尤甚。劉聰時有星忽隕於平陽,視之則肉也,長三十歩,廣二十七歩,臭聞數里,肉旁有哭聲。聰后劉氏,適産一蛇一虎,各害人而走,尋之,乃在隕肉之旁,哭聲乃止。又豕與犬交於相國府門,豕著進賢冠,犬冠武冠帶綬。豕、犬並升御座,俄而鬥死。聰子約死,一指猶暖,遂不殯。及甦,言見劉淵於不周山,諸王將相皆在,號曰蒙珠離國。淵謂曰:「東北有遮須夷國,無主,待汝父爲之,三年當來,汝且歸。」既出,道過一國,曰猗尼渠餘國,引約入宮,與一皮囊,曰:「爲我寄漢皇帝劉郎,後來,當以小女相妻。」約歸,置皮囊於几。俄而甦,几上果有皮囊,中置白玉一方,題曰:「猗尼渠餘國天王敬寄遮須夷國天王,歲攝提,當相見。」聰聞之曰:「如此,吾不懼死也。」至期,聰果死。劉曜時,西明門風吹折大樹,一宿而變爲人形,髮長一尺,鬚眉長二寸,有斂手之状,亦有兩腳,惟無目、鼻。每夜有聲,十日而柯條遂成大樹。石虎時,太武殿所畫古賢像,忽變爲胡。旬餘,頭皆縮入肩中。此數事猶可駭異,而皆出於劉、石之亂,其實事耶?抑傳聞耶?劉、石之凶暴本非常,故有非常之變異以應之,理或然也。他如干寶父死,其母妒以父所寵婢推入墓中。後十餘年,寶母亡,開墓合葬,而婢伏棺如生,經日而甦,言「其父常取飲食與之,在地中亦不惡。」既而嫁之,生子。此事殊不可信,然寶因此作搜神記,自敘其事如此。若果非真,豈肯自訐其父之隱及母之妒耶?則天地之大,何所不有也。至晉書所載怪異尚多,固不必一一爲之辨矣。