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安南王居漢陽 - (2007/01/28 (日) 09:31:24) のソース

**463.安南王が漢陽にいた 
  至元二十二年(1285)、(元軍が)安南を征討し、その王の陳日烜は遁走した。陳日烜の弟の陳益稷は、その一族と妻子を引き連れて降伏し、詔により安南国王に封ぜられ、符印を賜り、漢陽に居住した。二十七年(1290)に入朝し、湖広行省平章政事に遙任された。仁宗の初年、陳益稷はまた入朝し、「臣は世祖のときに来帰してから、漢陽の田五百頃を賜り、余生を暮らそうとしてまいりました。いま臣の年は七十に届こうとしており、役人が臣の田を取り上げたため、食いしのいでいく方法がありません」といった。帝はその田を返還するよう命じた。天暦二年(1329)に亡くなり、文宗は忠懿という諡を賜った。 


  至元二十八年,征安南,其王陳日烜遁,日烜弟陳益稷率其本宗與妻子來降,詔封爲安南國王,賜符印,居於漢陽。二十七年入覲,遂遙授湖廣行省平章政事。仁宗初,益稷又入朝,謂:「臣自世祖時來歸,賜漢陽田五百頃,俾終餘年,今臣年垂七十,而有司拘臣田,就食無所。」帝亟命還其田。天暦二年卒,文宗賜諡忠懿。