『廿二史箚記』wiki内検索 / 「漢諸王荒亂」で検索した結果

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  • 漢諸王荒亂
    47.漢諸王荒亂   燕王劉定與父康王姫姦,生一子,又奪弟妻爲姫,並與子女三人姦,事發,自殺。衡山王孝與父侍婢姦。趙太子丹與同産姊及王後宮亂,爲江充所告。梁王立與姑園子姦。江都王建,父易王薨未葬,即召易王美人淖姫等與姦。又與女弟徴臣姦。建又欲令人與禽獸交而生子,令宮人裸而據地,與羝羊及狗交。齊王終古使所愛奴與妾八子(妾號)及諸御婢姦。或使白晝裸伏,與犬馬交接,終古臨視之。廣陵王胥子寶,與胥姫左修姦,事發,棄市皆見漢史各本傳)。此漢諸王荒亂之故事也。推原其始,總由於分封太早,無師友輔導之益,以至如此。觀文帝八歳即封代王,出居於代,其他諸王可知。故漢書傳贊,引魯哀公之言曰「寡人生深宮之中,長於婦人之手,未嘗知憂知懼。」因以明漢諸王率多驕淫失道。蓋沈溺放恣之中,居勢使然也。劉立姦事發,訊治,立對曰:「立少失父母,處深宮中,獨與宦者、婦妾居,漸漬小國之俗,加以性質下愚,輔相亦不以仁義相輔,遂至陷...
  • 巻三 史記漢書
    ...主不諱私夫 47.漢諸王荒亂 48.上尊養牛 49.兩漢多鳳凰? 50.漢多黄金? 51.先生或只稱一字 52.漢外戚輔政 53.兩漢外戚之禍 54.兩漢喪服無定制 55.長官喪服 56.王莽之敗 57.王莽時起兵者皆稱漢後 58.王莽自殺子孫 59.王莽引經義以文其奸    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二 史記漢書 廿二史箚記巻三 巻四 後漢書
  • 漢公主不諱私夫
    ...6.漢公主不諱私夫 漢諸王荒亂
  • 上尊養牛
    ...』巻三    次頁 漢諸王荒亂 48.上尊養牛 兩漢多鳳凰?
  • 漢時諸王國各自紀年
    30.漢時諸王國各自紀年   三代諸侯,各自紀年。孔子志在尊王,而修春秋亦以魯公編年。蓋成例相沿,雖聖人不能改也。至漢猶然。史記諸侯王世家,紀年不用帝年,而仍以諸侯王之年紀事。如楚元王傳,元王子戊二十一年,景帝之三年也。又梁孝王傳,十四年入朝,二十二年孝文帝崩,二十四年入朝,二十五年復朝。最後云,梁共王三年,景帝崩。是轉以侯國歳年記天子之事矣。漢書亦同。蓋當時雖已大一統,而列國紀載猶用古法也。按漢書齊悼惠傳,城陽景王章,孝文二年以朱虚侯與東平侯興居倶立,二年薨。子喜嗣,孝文十二年徙王淮南。是又以帝年紀侯國事。
  • 巻四 後漢書
    廿二史箚記巻四 60.後漢書編次訂正 61.後漢書間有疏漏處? 62.漢帝多自作詔 63.光武信讖書 64.光武多免奴婢☆ 65.東漢功臣多近儒 66.東漢四親廟別祭? 67.東漢諸帝多不永年? 68.東漢多母后臨朝外藩入繼? 69.外藩入繼追尊本生? 70.夫在稱太 71.東漢廢太子皆保全    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻三 史記漢書 廿二史箚記巻四 巻五 後漢書
  • 漢帝多自立廟
    21.漢の皇帝の多くは自ら廟を立てた   前漢の諸帝の多くは、生前に自ら廟を立てた。『漢書』本紀によると、文帝四年(前176)、顧成廟を作った。註によると、帝は自ら廟をつくったが、つくりは狭小で、あたかも顧み望んでいるうちにできあがったもののようであった。賈誼が、「顧成の廟を天下の太宗とさせよう」と策にいったのは、つまりここを指しているものである。景帝の廟は徳陽といい、武帝の廟は龍淵といい、昭帝の廟は徘徊といい、宣帝の廟は楽游といい、元帝の廟は長寿といい、成帝の廟は陽池というが、ともに『漢書』の註に見える。 21.漢帝多自立廟   西漢諸帝多生前自立廟。漢書本紀,文帝四年,作顧成廟。註:帝自爲廟,制度狹小,若可顧望而成者。賈誼策有云,使顧成之廟爲天下太宗,即指此也。景帝廟曰德陽,武帝廟曰龍淵,昭帝廟曰徘徊,宣帝廟曰樂游,元帝廟曰長壽,成帝廟曰陽池,倶見漢書註。
  • 異姓封王之濫自後魏始
    189.異姓封王の濫発は北魏に始まる   太武帝が即位すると、長孫嵩を封じて北平王とし、奚斤を封じて宜城王とし、長孫翰を封じて平陽王とし、叔孫建を封じて丹陽王とし、司馬楚之を封じて琅邪王とし、杜超を封じて湯平王とし、穆寿を封じて宜都王とし、長孫道生を封じて上党王とし、楼伏連を封じて広陵王とした。これより功臣で王でない者はいなくなった。文成帝は周忸を封じて楽陵王とし、杜遺・閭若文・劉尼・杜元宝・源賀・閭武皮・常英・閭毗・閭紇・尉眷・乙渾・李峻が爵位を進められて王となった。また陸麗を封じて平原王とすると、陸麗は爵位を父に譲りたいと請願したので、文成帝は「わたしがどうして卿ら父子を封じてふたりとも王にすることができないことがあろうか」といって、その父の陸俟を封じて東平王とした。後に陸麗の子の陸叡が献文帝に仕えて、また東郡王に封ぜられたので、一門のうちに三人の王を持つこととなった。献文帝はまた...
  • 僭僞諸君有文學
    111.僭僞諸君有文學   晉載記,諸僭僞之君,雖非中國人,亦多有文學。劉淵少好學,習毛詩、京氏易、馬氏尚書,尤好左氏春秋、孫呉兵法,史漢諸子無不綜覽。嘗鄙隋、陸無武,絳、灌無文,一物不知,以爲君子所恥。其子劉和亦好學,習毛詩、左氏春秋、鄭氏易。和弟宣師事孫炎,沈精積思,不舍晝夜。嘗讀漢書至蕭何、鄧禹傳,未嘗不反覆詠之。劉聰幼而聰悟,博士朱紀大奇之。年十四,究通經史,兼綜百家之言,工草、隸,善屬文。著述懷詩百餘篇,賦、頌五十餘篇。劉曜讀書,志於廣覽,不精思章句,亦善屬文,工草、隸。小時避難,從崔岳質通疑滯。既即位,立太學於長樂宮,立小學於未央宮,簡民閒俊秀千五百人,選朝廷宿儒教之。慕容皝尚經學,善天文。即位後立東庠於舊宮,賜大臣子弟爲官學生,親自臨考。自造太上章,以代急就。又著典誡十五篇,以教冑子。慕容雋亦博觀圖書。後慕容寶亦善屬文,崇儒學。苻堅八歳,向其祖洪請師就學,洪曰「汝氐人,乃求...
  • 一帝數后
    216.ひとりの皇帝に数人の皇后   ひとりの皇帝にひとりの皇后というのが、礼である。荒れ乱れた王朝では放漫で法や紀律がなく、同時に数人の皇后を立てる者がいた。孫皓の夫人の滕氏は寵愛がなく、長秋宮の官僚は定足数を備えているだけであった。しかし宮中の諸姫で皇后の璽綬を佩びる者がはなはだ多かった(『三国志』呉書妃嬪伝)。劉聡が皇帝を僭称すると、その妻の呼延氏を立てて皇后とした。呼延皇后が死去すると、劉殷の娘を納れて皇后とした。劉皇后が死去すると、さらに靳準の娘を納れて皇后とした。ほどなく靳皇后を進めて上皇后としたが、貴妃の劉氏を立てて左皇后とし、貴嬪の劉氏を立てて右皇后とし、さらに樊氏を立てて上皇后とした。四皇后のほかに、皇后の璽綬を佩びる者がさらに七人いた。後に宦官の王沈の養女を左皇后とし、宣懐の養女を中皇后とした(『晋書』劉聡載記)。北周の宣帝が初めて即位すると、妃の楊氏を立てて皇后とし...
  • 假官
    205.偽装された官   東魏の孝静帝のとき、吏部令史の張永和や崔闊らが偽って別人を官につけていた事案が発覚して、取り調べを受ける者が六万人あまりに達した(『魏書』孝静帝紀)。このように荒れ乱れた王朝において、官吏が不正をおこなうのは、もとより怪しむに足りない。隋の文帝のときにいたって、統治を鑑みて偽装者をなくすべきとされた。向道力という者があり、偽って高平郡守とされた。向道力が官に赴任しようとしたとき、薛冑が道中に遭遇して、これを疑い、主簿に審問させた。徐倶羅という者があり、先に海陵郡守となったが、向道力に郡守の仕事を代行させていた。任期を満了しても公私ともに気づかれなかった。徐倶羅はまた「道力はわたしに代わって一任を果たしただけです。使君はどうしてこれをお疑いなさるのか」といった。薛冑は聞き入れず、向道力を収監すると、向道力は罪に服した(『隋書』薛冑伝)。郡守は位の低い官ではないのに...
  • 北史全用隋書
    175.北史全用隋書   北史於魏、齊、周正史,間有改訂之處,惟於隋則全用隋書,略爲刪節,並無改正,且多有迴護之處。如隋文帝之簒,隋書本紀既循照歴代國史舊式敍九錫文、禪位詔,並帝三讓乃受,絶不見攘奪之迹矣。北史亦一一照本鈔謄,略無一語差異,祇刪去九錫文以省繁冗而已。文帝殺宇文諸王,周書謂諸王皆以謀執政被害,而北史則第書誅陳王純,誅代王達,誅滕王逌,一似有罪而伏法者。帝即位後,封靜帝爲介國公,年方九歳,開皇元年殂,周書謂隋志也,而北史但書介國公薨,上舉哀於朝堂,諡曰周靜帝,一似善終而加以恩禮者。其於文帝之崩,書帝疾甚,與百寮辭訣,握手欷歔,崩於大寶殿,又載遺詔一篇,有「惡子孫已爲百姓除去,今嗣位者乃好子孫」等語,一似憑几末命,壽考令終,並非遭害者。煬帝紀亦但書高祖崩,上即位於仁壽宮,而煬帝使張衡侍疾致斃,及矯詔即位之事,絶不見形迹。即張衡傳亦不著其弑逆,但載其賜死時,自言我爲人作何事,而望...
  • 王莽之敗
    56.王莽之敗   漢祚中衰,元后長壽,王莽藉其勢以輔政,援立幼弱,手握大權,詭託周公輔成王,由安漢公而宰衡,而居攝,而即真。權勢所劫,始則頌功德者八千餘人,繼則諸王公侯議加九錫者九百二人,又吏民上書者前後四十八萬七千五百七十二人。雖宗室有安衆侯劉崇、徐郷侯劉快等,臣僚有東郡太守翟義、期門郎張充等,先後起兵匡復,皆旋即敗滅。其威力所劫,亦已遍天下,靡然從風,使能逆取順守,沛大澤以結人心,則天下雖未忘前朝,而亦且安於新政,未必更有發大難之端起而相抗者。其敗也,一由收天下田名曰王田,禁之不得買賣,一夫田過一井者分與里族,敢有非議者投四裔。又禁積五銖錢,犯者亦投四裔。於是農商皆失業,以賣田、積錢坐罪者,不可勝數。繼又設六筦之令,令州縣酤酒、賣鹽、鑄造鐵器、諸采取名山大澤衆物者税之。此召怨于中國也。莽自以爲北化匈奴,東致海外,南懷黄支,惟西方未廓,乃遣人誘西羌獻地,置西海郡,而西羌以失地遂叛。又...
  • 梁書多載飾終之詔
    133.梁書多載飾終之詔   梁書諸王及功臣列傳,必載其沒後加恩飾終之詔,蓋本國史體例如是,至修入正史,自應刪除,以省繁複。乃王茂傳,詔曰:「旌德紀功,哲王令軌。念終追遠,前典明誥。」呂僧珍傳,詔曰:「思舊篤終,前王令典。追榮加等,列代通規。」南平王偉傳,詔曰:「旌德紀功,前王令典。慎終追遠,列代通規。」孔休源傳,詔曰:「慎終追遠,列代通規。褒德酬庸,先王令典。」篇篇如此,殊可嘔噦。其後作史者亦自知其蕪宂,至蔡道恭、范雲、馮道根、昌義之、周捨等傳,則去此冒語,但存詔中述其生平功績之處,斯較爲得之矣。
  • 巻二 史記漢書
    廿二史箚記巻二 15.漢書移置史記文 16.漢書多載有用之文 17.漢書增傳 18.漢書增事蹟? 19.漢書書恆山王 20.漢書武帝記贊不言武功? 21.漢帝多自立廟☆ 22.漢初布衣將相之局? 23.漢初諸侯王自置官屬? 24.武帝年號係元狩以後追建? 25.漢儒言災異? 26.漢重日食 27.漢詔多懼詞? 28.漢時以經義斷事? 29.賢良方正茂材直言多舉現任官? 30.漢時諸王國各自紀年 31.三老孝悌力田皆郷官名 32.漢三公官? 33.災異策免三公? 34.上書無忌諱 35.上書召見? 36.漢武用將? 37.武帝三大將皆由女寵 38.與蘇武同出使者    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻一 史記漢書 廿二史箚記巻二 巻三 史記漢書
  • 漢使立功絶域
    39.漢使立功絶域   自漢武撃匈奴,通西域,徼外諸國無不懾漢威。是時漢之兵力實強,鼂錯謂匈奴之長技三,中國之長技五,陳湯亦謂外夷兵刃朴鈍,胡兵五當漢兵一,今頗得漢巧,猶三當一,此可見兵威之足以讋服諸外夷也。而其時奉使者亦皆有膽決策略,往往以單車使者,斬名王定屬國於萬里之外。如傅介子使大宛還,知匈奴使者在龜茲,即率其從人誅匈奴使者,龜茲遂服。霍光以樓蘭王嘗遮殺漢使,遣介子齎金幣,揚言賞賜外國,樓蘭王不甚親附,介子引去,謂譯者曰:「漢有重賜,而王不來受,我去之西國矣。」王貪漢物,果來見。介子與飲酒酣,引入帳後,二壯士殺之,左右皆亂。介子諭以「王負漢罪,天子遣我誅之。漢兵方至,毋敢動,動則滅國矣。」遂持其首歸。關都尉文忠送罽賓使還其國,國王欲害忠,忠與容屈王子陰末赴合謀攻殺王,立陰末赴而還。小昆彌末振將殺大昆彌雌栗靡,有翎侯殺末振將,漢恨不自誅之,使段會宗往。會宗以三十弩至其國,召其太子番邱...
  • 史漢互有得失
    14.史漢互有得失   垓下之戰,史記高祖紀,敘韓信、孔將軍、費將軍等戰頗詳,漢書高紀,但撮敘數語。然殺項羽是漢王一大事。漢書略之,殊失輕重。   高祖紀末,史記但記其諸子。漢書獨總敘高祖之明達好謀,雖日不暇給,而規模宏遠。史記少此議論。又史記高紀,既敘高祖八男,而呂后紀内又敘之,殊複。漢書兩紀倶不敘,另立高五王傳。   孝文紀,史記於後六年,忽總敘帝之節儉寬厚,下方敘後七年六月帝崩,殊屬非法。總敘自應在帝崩後也。漢書取此語作贊。   呉王濞傳,史記晁錯議削諸王地。楚王戊以在薄太后服中有姦,削東海郡。因削呉之豫章、會稽二郡。及前二年,削趙王河閒郡、膠西王六縣。漢廷臣方議削呉,呉王恐削地無已,因此發謀。案是時廷臣所議削者,即豫章、會稽也。故下文云及削豫章、會稽,書至,呉王遂反。今先云削呉之豫章、會稽,下又云方議削呉,是又於二郡外,再議削矣。則下文所謂及削豫章、會稽,書至者,又何説耶?...
  • 六朝多以反語作讖
    165.六朝多以反語作讖   自反切之學興,遂有以反語作讖者。三國志,諸葛恪未被害時,民間謠曰:「諸葛恪,蘆葦單依篾鉤落,於何相逢成子閣。」「成子閣」,反語「石子岡」也。後恪爲孫峻所殺,投尸於石子岡。晉書孝武紀,帝爲清暑殿,識者謂「清暑」反語爲「楚聲」,哀楚之徴也。齊書,益州向無諸王作鎮,宋時有邵碩曰:「後有王勝來作此州。」及齊武帝以始興王鑑爲益州刺史,「勝憙」反語爲「始興」也,碩言果驗。又文惠太子啓武帝乞東田作小苑,「東田」反語爲「顛童」,後其子鬱林王即位,果以童昏見廢。梁書,武帝創同泰寺,後又創大通門以對寺之南,取反語以協「同泰」也,遂改年號爲大通,以符寺及門名。昭明太子時,有謠曰:「鹿子開城門,城門開鹿子。」「鹿子開」者,反語謂「來子哭」,時太子之長子歡爲南徐州刺史,太子薨,乃遣人追歡來臨喪,故曰「來子哭」也。
  • 兩漢喪服無定制
    54.兩漢喪服無定制   漢文帝臨崩詔曰:「令到吏民三日釋服。」(此詔到後,吏民哭喪三日,即除喪服)案天子之喪,吏民尚齊衰三月,今易以三日,故後世謂之「以日易月」。然此專指吏民而言,未嘗概之於臣子也。詔又曰:「殿中當臨(宮中舉行哭喪儀式)者,旦夕各十五舉音,以下(下棺),則服大紅十五日,小紅十四日,纖七日(紅即功,大功、小功、纖,皆爲喪服之制)。」以下者,下棺已葬也。自始崩至葬皆衰,既葬則大功、小功及纖,以次而殺(減省)也。劉攽謂「漢諸帝自崩至葬,皆有百餘日,未葬則服不除。既葬又有大功、小功及纖,以次而殺。」是文帝雖有短喪之詔,其實臣子尚有未葬以前之服。即既葬後,大功、小功、纖亦有三十六日,初非二十七日也。(案應劭謂「凡三十六日而釋服,此以日易月也」,顏師古謂「三年之喪,其實二十七月,豈有三十六月之文!纖又無七月也,應氏既失之於前,而近代學者因循謬説,未之思也」)且此專指國喪而言,非令天...
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 隋獨孤后妒及臣子
    218.隋獨孤后妒及臣子   古來宮闈之妒莫有過於隋獨孤后者,不惟妒在己,并子與臣之有妾者,亦代爲妒之。后傳謂後宮罕得進御,尉遲迥女沒入宮,帝私幸之,后伺帝聽朝,即陰殺之。凡諸王及朝臣有妾孕者,必勸帝斥之。皇太子勇多内寵,其妃元氏暴崩,疑太子寵妾雲氏而害之,由是諷帝廢太子。高熲妻死,后欲爲娶繼室,熲辭以老。後熲妾生子,后惡之,譖熲于帝,遂黜死。(隋書后妃傳)按太子勇傳,勇多内寵,昭訓雲氏尤嬖,禮匹於嫡。勇妃元氏無寵,嘗遇心疾,二日而卒,獨孤后意有他故,甚責望。後聽晉王廣之譖,后忿然曰:「睍地伐(勇小字)漸不可耐,我爲娶得元氏女,竟不聞作夫妻。專寵阿雲,使有如許豚犬。新婦本無病,忽爾暴亡,我亦不能窮治。毎思東宮竟無正嫡,至尊萬歳後,使汝等向阿雲再拜問訊,此是幾許大苦痛耶。」乃日媒孽勇之短於帝前,遂廢之。又高熲傳,熲妻死,后謂文帝曰:「高僕射老矣,而喪夫人,宜爲之娶。」帝以告熲,熲謝曰:「臣...
  • 東漢廢太子皆保全
    71.東漢廢太子皆保全   隋唐以後,太子被廢,未有善終者,惟東漢則皆保全。光武已立子彊爲皇太子,後其母郭后被廢,彊不自安,數因左右陳懇,願就藩國,乃立子莊爲皇太子,封彊爲東海王。帝以彊廢不以過,故優以大封,賜虎賁旄頭,擬於乘輿。彊就國後,數上書讓還東海,又因皇太子固辭,帝不許。太子即位,是爲明帝。彊尋病,明帝遣中常侍、太醫等視疾,並詔沛王輔(彊同母弟)等往視。及薨,贈以殊禮。章帝立子慶爲皇太子,以竇后妒,誣陷其母宋貴人,遂並廢慶爲清河王,立子肇爲皇太子。慶雖幼而知避嫌畏禍。章帝憐之,令衣服禮秩與太子同。太子亦極友愛,入則共室,出則同輿。太子即位,是爲和帝。待慶尤渥。慶小心恭孝,自被廢後,尤畏懼。毎朝謁陵廟,常夜分嚴裝待旦,約飭官屬不得與諸王車騎並馳。及和帝崩,慶號泣殿前,嘔血數升。既就國,飭官屬時加策戒,以免悔咎。後其子祜入繼統,是爲安帝。慶時尚存,及薨,追諡爲孝德皇。安帝已立子保爲皇...
  • 晉書所記怪異
    107.晋書に記された怪異  正史の中で異聞を多く採用しているのは、『晋書』『南史』『北史』である。その中でも『晋書』戴記には特に怪奇現象の記事が多い。  劉聡の時代に「平陽に隕石が落ちた。それは肉のような見た目であり、大きさは南北に三十歩、東西に二十七歩であった。その肉から臭いが数里先まで漂い、傍らまで近づくと哭き声が聞こえた。劉聡の后・劉氏は、たまたま蛇と虎を産んだ。蛇と虎は人を傷つけながら肉の傍らまで逃げた。蛇と虎が肉に近づくと哭き声はやんだ」という事件が起きたとある。  劉曜の時代に「西明門の傍らにある木が風によって吹き倒されると、人形になった。それは人間の形をしていたが、ただ眼と鼻だけがなかった。その後、その人形には枝葉が茂りに成長した」という事件が起きたとある。  劉聡の時代に「劉聡の息子・劉約が死去したが、指が一本だけ暖かいままだったので、葬儀を行わなかった。そうした...
  • 南朝多以寒人掌機要
    117.南朝多以寒人掌機要   魏正始、晉永熙以來,皆大臣當國。晉元帝忌王氏之盛,欲政自己出,用刁協、劉隗等爲私人,即召王敦之禍。自後非幼君即孱主,悉聽命於柄臣,八九十年,已成故事。(晉韋華謂姚興曰,晉主雖有南面之尊,無統馭之實,宰輔執政,權在臣下,遂成習俗。)至宋、齊、梁、陳諸君,則無論賢否,皆威福自己,不肯假權於大臣。而其時高門大族,門戸已成,令僕三司,可安流平進,不屑竭智盡心,以邀恩寵,且風流相尚,罕以物務關懷,人主遂不能藉以集事,於是不得不用寒人。人寒則希榮切而宣力勤,便於驅策,不覺倚之爲心膂。南史謂宋孝武不任大臣,而腹心耳目不能無所寄,於是戴法興、巣尚之等皆委任隆密。齊武帝亦曰:「學士輩但讀書耳,不堪經國,經國一劉係宗足矣!」此當時朝局相沿,位尊望重者,其任轉輕,而機要多任用此輩也。然地當清切,手持天憲,口銜詔命,則人雖寒而權自重,權重則勢利盡歸之。如法興威行内外,江夏王義恭雖...
  • 史漢不同處
    13.史漢不同處   一代修史,必備衆家記載,兼考互訂,而後筆之於書。觀各史藝文志,所載各朝文士著述,有關史事者,何啻數十百種。當修史時,自必盡取之。彼此校核,然後審定去取。其所不取者,必其記事本不確實,故棄之。而其書或間有流傳,好奇之士往往轉據以駁正史,此妄人之見也。即如班固作漢書,距司馬遷不過百餘年,其時著述家豈無別有記載?倘遷有錯誤,固自當據以改正。乃今以漢書比對,武帝以前,如高祖紀及諸王侯年表、諸臣列傳,多與史記同。並有全用史記文,一字不改者。然後知正史之未可輕議也。其間有不同者,張泌有漢書刊誤、朱子文有漢書辨正、劉巨容有漢書纂誤,今皆不傳。現存者惟劉攽漢書刊誤、呉仁傑兩漢刊誤補遺,皆不過就本書中穿穴訂正,非於此二書外,別有援據以資辨駁也。劉仁翁有班馬異同,蓋亦就史記、漢書岐互處分別指出,今少有其本。姑以此二書比對,摘其不同者列於後。   韓信撃魏豹。史記在漢三年,漢書在二年。...
  • 唐代宦官之禍
    東漢及前明宦官之禍烈矣,然猶竊主權,以肆虐天下。至唐則宦官之權反在人主之上,立君、弒君、廢君,有同兒戲,實古來未有之變也。推原禍始,總由於使之掌禁兵、管樞密,所謂倒持太阿而授之以柄,及其勢已成,雖有英君察相,亦無如之何矣! 身在禁闈,社鼠城狐,本易竊弄威福,此即不典兵、不承旨,而燕間深密之地,單詞片語,偶能移動主意,軒輊事端,天下已靡然趨之。 如高力士貴幸時,儌倖者願一見如天人,肅宗在東宮亦以兄事之,諸王公主呼為翁,戚里諸家尊曰,將相大臣皆由之以進。嘗建佛寺、道觀各一所,鐘成,宴公卿,一扣者,納禮錢十萬,有至二十扣者。李輔國貴幸時,人不敢斥其官,直呼為五郎。李揆當國,以子姓事之,嘗矯詔遷上皇於西內,至憂鬱以崩。他如魚朝恩忌郭子儀功高,譖罷其兵柄。程元振譖來瑱,賜死,李光弼遂不敢入朝。又譖裴冕罷相,貶施州,以致方鎮解體,吐蕃入寇,代宗倉皇出奔,徵諸道兵,無一至者。此猶是未掌兵權,未管樞要...
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