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律「ひかりひとつひらり」 7 - (2014/03/10 (月) 22:16:39) の1つ前との変更点
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&nowiki(){*}
響いている。
玄関のチャイムの音が響いている。
繰り返すループの中で二百度以上そうしたように、律はそのチャイムで目を覚ました。
手のひらで額に触れてみる。
律の額には一切の傷跡も残されてはいなかった。
まるで元々怪我などしていなかったかの如く。
分かり切っていた事だが、どうやら今回も繰り返す螺旋から脱却する事は出来なかったらしい。
だが、律は嘆息もしなければ、気鬱めいた感情に襲われもしなかった。
分かったのだ、体感時間で半年以上の八月三十一日を繰り返してようやく。
梓に幸せな思い出を残してやりたい。
その気持ちに嘘は無かったが、一種の大義名分でしかない事も確かだったのだと。
律は消したかった、自らの失敗を。
最悪と言って差し支えなかった初回の八月三十一日を。
それよりも先にするべき事があったというのに。
それだけは間違いなく律の過ちだった。
故に律はもう嘆息しない。
嘆息して、後悔と気鬱に肩を落としている暇など存在しない。
未来永劫続くと思わされるループ相手でも、立ち向かってみせる。
律が本当にするべき事を、九月一日の朝にしてみせるために。
「よっしゃあっ!」
201
手のひらに記して、叫ぶ。
布団の中から勢いよく起き上がり、携帯電話を掴んで玄関まで駆け出して行く。
玄関扉の先では梓が待っているだろう。
恐らくはこれまでのループ通り多少呆れた表情で。
だが今日一日の予定に心躍らせている事をその口元に隠し切れていない表情で。
可能ならば何度でも見続けたい、生意気で口が悪く、可愛くて大切な後輩の姿で。
しかし律は梓の別の表情も見てみせると決めたのだ。
律はこれから玄関を開いて梓を居間に招き入れる。
軽く朝食を取ってから、自分の体験して来た現象の全てを語る。
すぐには理解してもらえなくても構わない。
どれだけ時間が掛かろうと粘り強く説明して、必ず理解してもらう。
それから唯と澪、紬と和達も呼ぼう。
迷惑になるのは分かり切っているが、後日律の死を知らされるよりは些細な迷惑に違いない。
様々な知識に優れている和なら律の想像もしなかった助言をくれるはずだ。
澪と紬も親身に相談を聞いてくれるだろうし、唯の口から奇想天外なら的を射た発想を得られる可能性もある。
この無限の螺旋との戦いを律はこれからようやく始めるのだ。
本当に脱け出せるループなのかどうかは分からない。
もしかしたら律が死を選択するまで終わる事のない無間地獄なのかもしれない。
それでもやれるだけの事はやってみせる。
自殺など最後の最後の選択で十分なのだから。
そうして——
そうしてもし——
いつか九月一日を迎える事が出来たのなら——
——ちゃんとおまえに伝えるよ、梓。
胸の中だけで、しかし強く強く決心し、律は玄関扉を開いた。
これからも繰り返すであろう八月三十一日を、今度こそ正面から見据えて。
「よう、梓!
悪いな、待たせちゃって!」
&nowiki(){*}
眼前の梓には三つの違和感があった。
第一の違和感はこれまでのループで見た事がない梓の表情だった。
目の下に軽く隈を作っており、その表情には呆れも笑顔も見て取れなかった。
第二の違和感は梓の髪型だ。
普段のツインテールではなく、少し疲れたサイドテールに纏められている。
前回の八月三十一日に見せたサイドテールとも少し違っているように思えた。
第三の違和感は梓が両手持ちしているビニール袋の存在だ。
これまでの八月三十一日で梓が自前の鞄以外に何かを持っていた事は無かったはずだった。
「……」
「……」
律は言葉が出せない。
梓の口からも言葉が出てこない。
自分だけ空回りしてしまったような気まずさ。
それもこれまでの八月三十一日の中で感じた事が無いものだった。
「えーっと……、梓……?」
「はい」
「お、おはよう……?」
「おはようございます。
どうして疑問形なんですか」
「ど、どうしてだろうな……」
それだけ言って、律は口を閉じる。
非常に気まずく、空気も実に重たい。
一体何が起こってしまったというのだろう。
ループと相対するという律の決心が、繰り返すループに何らかの影響を与えてしまったのだろうか。
例えば梓の精神状態を重苦しいそれに変貌させてしまうとか。
変化自体は好ましい事であるはずだが、梓の様子を見ていると一概にそうは言えない気がした。
——あーっ、何が起こってるのか分っかんねー!
心の中だけで髪を掻き回す。
勿論現実にはそうしなかった。
律には他にしなければならない事がある。
梓の様子が変貌しているのは予想外だったが、とにもかくにもループの事を説明しなければならない。
この状態の梓が聞いてくれるとは思いにくいが、もう諦めるわけにはいかないのだから。
「あ……」
「律先輩」
『梓』と呼び掛けようとしたが、その声は梓自身に遮られた。
その表情は相変わらず不健康そうで重苦しい。
よく眠れていないのだろうか。
それを訊ねるより先に梓の言葉が続いた。
「どうして私が来るって分かったんですか?」
「えっ?
だって約束……」
「約束なんかしてないじゃないですか。
それにあんな楽しそうな顔で出て来るなんて、何だか私馬鹿みたいじゃないですか。
私、夜明け前まで、どうしようかずっと悩んでたのに……」
「いや……、何の話だよ……?
遊ぶ約束なら昨日ちゃんと私から……」
「律先輩、寝惚けてますね?
遊ぶ約束をしたのは一昨日じゃないですか。
昨日の事、もう忘れちゃったんですか……?」
話が噛み合わない。
約束をしたのが一昨日?
そして、昨日の事?
夜明けまでどうしようかずっと悩んでいた?
それでは——
それではまるで——
「ちょっとごめん!」
律は玄関扉を閉めて、握り締めていた携帯電話に視線を落とした。
今回の八月三十一日。
目を覚ましてから初めて目にする携帯電話の液晶に記されていた数字は——
9.1
&nowiki(){*}
居間のテーブルには、広告の裏を使った手紙が律儀に残されていた。
『ねぼすけ姉ちゃんへ!』と弟の字で書かれたそれには家族の外出が記されていた。
夏休み最後の日だから家族で買い物に行くそうだ。
それ自体は問題ない。
問題なのはその広告の表に記された文章であった。
近所のスーパーの特売の広告。
そこに記されていたのは『一日特売デー、本日のみ!』とある意味当たり前の文章。
母親が捲ったのか、壁に掛けられたカレンダーも九月を示していた。
——本当に九月一日なのか……?
梓を居間に招き入れた後も、律はその現実を受け止めきれずにいた。
立ち塞がるループを受け容れ、相対しようとした矢先がこれだ。
得体の知れない現実に不安感ばかり大きくなっていく。
解放感など存在しなかった。
まるで悪夢の続きを見ている様な感覚とも言えた。
何かの間違いなのか。
自らの願望が見せた妄想の世界なのか。
そんな気までしてくる。
だが。
「あっ……」
漏れた声と共に間抜けな音が居間に響いた。
律の腹の虫だった。
こんな時に、と律自身も思わなくもないが、元より空腹に弱い律だ。
空腹状態ではまともな思考をする事が出来ない事も経験からよく知っている。
とりあえずまずは朝食の用意でもしよう。
そう思って律が立ち上がった瞬間だった。
梓がおずおずと手に持っていたビニール袋をテーブルの上に差し出したのは。
「あの……、律先輩……」
「……何だ?」
「これを……」
「だから、何だ?」
「いいですから……」
テーブルに座り直し、律は差し出されたビニール袋を開いてみる。
中に入っていたのは、よく見慣れた特徴的な箱。
ドーナツ屋専用の箱だった。
あの日、最初の八月三十一日、二人で行ったドーナツ屋の箱だった。
静かに開いてみる。
色彩豊かなドーナツが所狭しと並べられていた。
律の好きなドーナツも。
あの日、律が誤って食べてしまった梓の好物のドーナツも。
「お腹が空いてるんなら食べて下さい、律先輩」
「いい……のか……?」
「……はい」
律が問うと梓が軽く目を逸らした。
その頬が若干赤く染まって見えたのは気のせいだろうか。
あの店のドーナツ。
最初の八月三十一日、喧嘩をするきっかけになった曰く付きの一品。
ああ、そうだったな、と律は思う。
——つい昨日、私達はそうして喧嘩したんだったな……。
不意に泣き出しそうになってしまった。
律はそれを隠して立ち上がり、冷蔵庫の中から紙パックの野菜ジュースを取り出した。
自分の場所と梓の前に置いてから、小さな声で続ける。
「梓も一緒に食べようぜ?」
「……いいんですか?」
「いいって、こんなに食べ切れないしさ。
それに梓、朝ごはん、ろくに食べてないんだろ?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「ごめん」
何の躊躇いもなく謝った。
普段の律とは違うと気付いたのだろう。
面食らった様子で梓が視線を律に向けた。
「そんな……、私こそドーナツであんなに怒っちゃって……」
「それでも、ごめん。
私が、悪かった。
あの時、私がちゃんと梓に謝ればよかったんだ。
ごめんな、先輩だからって何か意地張っちゃったみたいだ」
視線を向けて、目と目を合わせて、真っ直ぐに謝る。
心の底から、恥も外聞もなく、本音で。
そして思う。
これこそ私が本当にしなくちゃいけない事だったんだ、と。
律は最初の八月三十一日を無かった事にしてしまいたかった。
それ以上の思い出で上書きしてしまいたかった。
通常ならば叶うはずもない願い。
だが何の因果か律のその願いは叶えられてしまった。
神の悪戯か、律の強い想いの力の結果か、それとも単なる夢なのか。
ともあれ叶えられてしまった。
これ幸いと律は繰り返すループで過去をやり直そうと考えた。
最高の八月三十一日にするために、梓の最高の今度こそ作るために。
けれどそれは律自身が起こしてしまった過去からの逃避でもあったのだ。
例えるなら自分が殺してしまった人間のクローンを創造して、罪滅ぼしをする様なものだった。
自らの犯してしまった罪を、自己満足の善行で上書きするようなものだ。
無論、律にその是非は問えない。
だがそんな律にも一つだけ言える事がある。
罪滅ぼしをするにせよ、それより先にしなければならない事が確かにある。
単純な真理だが現実には成し難い事。
即ち、『謝る』という事。
『謝る』という事は難しい。
自らの非を認め、受け容れた上で、迷惑を掛けた相手に心から頭を下げる。
律はその難しさから逃げ続けてきた。
逃げ続け、二百を超えるループの中に身を置いてしまっていたのだ。
当然、逃げた先には何も存在していなかった。
逃げたという事実が延々と積み重ねられていくだけだ。
「あ……、えっと……」
梓の顔がどんどん赤くなっていく。
まさかここまで真正面から謝られるとは思っていなかったのだろう。
「そ、そこまで言うんなら、許してあげます!
ただし……!」
「ただし?」
「私の好きなドーナツ、もう勝手に食べないで下さいね!
私、あのドーナツで、最高の一日を締めくくろうと思ってたんですから!」
赤くなっている梓は気付かなかったに違いない。
あの最初の八月三十一日——いや、昨日——を、最高の一日だったと称してしまっている事に。
勿論、律はそれを指摘しなかった。
これ以上梓を刺激してしまったら、それこそゆでだこの様になってしまうだろう。
だが梓の気持ちは律にもよく理解出来ていた。
昨日、梓は楽しかったのだ。
行き当たりばったりで無茶苦茶な一日ではあったが、最高に楽しかったのだ。
だからこそ最後の律の失敗を受け容れ難くて起こってしまったのだろう。
律自身がそうであった様に。
二人とも似た者同士で、似た者同士だから引っ込みが付かなくなってしまっただけだったのだ。
一言、どちらかが謝れていれば、笑って別れられた一日であったはずなのに。
「了解、気を付けるよ」
笑顔で、けれど真剣に頷いて、ドーナツに手を伸ばす。
何にしろ腹ごしらえだ。
梓の事を考えるにしろ、これからの事を考えるにしろ、体力を付けなければどうにもならない。
これだ、と選んだドーナツを手に取ろうとして、同じドーナツを選んでいた梓と指の先が触れた。
急激に頬が熱くなるのを感じる。
何故自らの頬が熱くなるのか、律にはその理由が分かっている。
恋心に近い思慕の念を梓に抱いてしまっているのだ。
律は知っている。
体感時間で半年以上毎日一緒に居た梓の様々な顔を。
最高に喜ばせてやれた時の、眩い笑顔を。
その際に見せてくれた律への好意を。
あれほど傷付けてしまった後においても、心の底から律を心配してくれていた事を。
繰り返していた世界の中で、無自覚に律を救ってくれていた事を。
梓を大切にしてやりたい、と思う。
もう傷付けたくない、とも。
少なくとも暫くは梓の事以外を考えられそうもない。
この律の想いが未来の二人にどの様な影響を与えるのかは分からない、今は、まだ。
もしかすると律のこの一方的な想いを梓が困惑する日がやってくるかもしれない。
律の見た夢にしろ、現実に起こった現象にしろ、
ループの中で生きて来た影響が顕著になっていくのは、きっとこれから先の話だ。
今こそが律と梓にとって本当の始まりなのだ。
けれど律は思った。
困惑するにせよ、梓は真に律の事を考えた答えを出してくれるだろうと。
梓はそういう後輩で、最高の仲間で、大切な存在なのだ。
律は知っている。
梓がどれほどまでに自分の事を想ってくれているか、それを知っている——。
だからこその腹ごしらえだ。
ループがもし夢であったとしても、ドラムの腕が鈍っている自覚は強くある。
どの様にドラムを叩いていたのか、その感覚は遥か遠い過去に置き去りにされている。
このままでは秋に行われる学園祭のライブの失敗は決定されたようなものだ。
そうはいくか。
どれほど遠かろうと、感覚は必ず取り戻してみせる。
学園祭では最高の演奏をしてみせて、最高の思い出を作ってみせる。
そのために体力を付けて、今日は梓と学校で演奏の特訓をしようと思う。
まずはそれが自分を支えてくれた梓への恩返しだ。
無論、そんな事など梓は与り知らぬところだろうが、それでも。
「いい天気だな」
「何ですか、突然に」
「いや、いい天気だと嬉しくなってくるじゃん?」
「まあ、それはそうですけど……」
釈然としない表情の梓に苦笑しながら、律は窓から空を見上げてみる。
雲一つないとまではいかないが、いい天気だった。
初めて見る九月の朝陽。
これからの課題は山積みだが、それすらも構わないと思える爽やかな朝陽。
そして決心する。梓の笑顔を守り続ける事を。
多数の障害がこれからも自分達の前に立ち塞がったとしても。
「あーっ!」
不意に梓の叫び声が上がる。
何が起こったのかと梓に視線を向けてみると、梓は非難の表情を浮かべていた。
「な、何だよ、梓……」
「律先輩、それ」
梓が頬を膨らませながら律の手元を指し示す。
律が持っていたのはドーナツ。
先刻食べてはいけないと釘を刺されたばかりの、梓の好物のドーナツだった。
うっかりしていた。
九月の朝陽に目を細めていたためか、無意識に次のドーナツに手を伸ばしていたらしい。
無論、まだそのドーナツに口を付けてはいないが。
「もう……、ちゃんと反省してるんですか?」
「面目ない……」
これは完全に自分のミスだ。
心の底から反省しながら頭を下げると、
梓は頬こそ膨らませているもののその目元を柔らかくした。
「駄目です、許してあげません」
「マジかよ……」
「本当に許してほしかったらですね……」
言いながら梓が移動を始める。
サイドテールを可愛らしく揺らしながら辿り着いたのは律の背後。
何を始めるのかと思えば、梓は律の思いも寄らなかった言葉を口にした。
「ドーナツ、食べさせて下さい」
「へっ?」
「ドーナツを食べさせて下さいって言ったんです。
許してほしくないんですか?」
梓らしからぬ申し出。
やはり少し疲れているのだろう。
目の下に隈まで作ってまで、律と仲直りする方法を考えてくれていたのだ。
少し疲れたサイドテールもそれを示している。
しかし同時に気分が高揚もしているのだろう。
律と仲直りが出来たのが嬉しく、多少甘えたい気分にもなったに違いない。
絶妙なところで甘えてしまう。
梓はそういう一面もも持った、可愛らしい後輩でもあった。
「はいはい」
「はいは一回です」
「はいよ」
苦笑しながら、肩越しにドーナツを差し出す。
誰かに見られたら恥ずかしい光景だが、何、幸い今日は家に誰も居ないのだから。
気恥ずかしくはあるが、これを新しい始まりにするとしよう。
いずれ何らかの理由でまたループに囚われる事があるかもしれない。
ループに囚われた理由、ループから脱却出来た理由が完全には分かっていない以上、その不安は必然だ。
だが——、梓がまた傍に居てくれるのなら——。
律は今度こそ自分自身の想いでループに立ち向かっていけるはずだ。
「おはようございます!
今日は九月一日、日曜日です!」
律が点けたテレビの画面の中。
見慣れた日曜の朝のワイドショーのレポーターがそう宣言している。
一週間振りの懐かしい声に耳を傾けていると、梓の手のひらが律の肩を優しく掴んでいた。
「召し上がれ」
「いただきます」
律の言葉に頷いた梓が顔を近付け、
好物のドーナツをその唇で覆った次の瞬間、
律の手の中で繋がっていたドーナツの円環が、綺麗に途切れた。
おしまい
[[戻る>律「ひかりひとつひらり」]]
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響いている。
玄関のチャイムの音が響いている。
繰り返すループの中で二百度以上そうしたように、律はそのチャイムで目を覚ました。
手のひらで額に触れてみる。
律の額には一切の傷跡も残されてはいなかった。
まるで元々怪我などしていなかったかの如く。
分かり切っていた事だが、どうやら今回も繰り返す螺旋から脱却する事は出来なかったらしい。
だが、律は嘆息もしなければ、気鬱めいた感情に襲われもしなかった。
分かったのだ、体感時間で半年以上の八月三十一日を繰り返してようやく。
梓に幸せな思い出を残してやりたい。
その気持ちに嘘は無かったが、一種の大義名分でしかない事も確かだったのだと。
律は消したかった、自らの失敗を。
最悪と言って差し支えなかった初回の八月三十一日を。
それよりも先にするべき事があったというのに。
それだけは間違いなく律の過ちだった。
故に律はもう嘆息しない。
嘆息して、後悔と気鬱に肩を落としている暇など存在しない。
未来永劫続くと思わされるループ相手でも、立ち向かってみせる。
律が本当にするべき事を、九月一日の朝にしてみせるために。
「よっしゃあっ!」
201
手のひらに記して、叫ぶ。
布団の中から勢いよく起き上がり、携帯電話を掴んで玄関まで駆け出して行く。
玄関扉の先では梓が待っているだろう。
恐らくはこれまでのループ通り多少呆れた表情で。
だが今日一日の予定に心躍らせている事をその口元に隠し切れていない表情で。
可能ならば何度でも見続けたい、生意気で口が悪く、可愛くて大切な後輩の姿で。
しかし律は梓の別の表情も見てみせると決めたのだ。
律はこれから玄関を開いて梓を居間に招き入れる。
軽く朝食を取ってから、自分の体験して来た現象の全てを語る。
すぐには理解してもらえなくても構わない。
どれだけ時間が掛かろうと粘り強く説明して、必ず理解してもらう。
それから唯と澪、紬と和達も呼ぼう。
迷惑になるのは分かり切っているが、後日律の死を知らされるよりは些細な迷惑に違いない。
様々な知識に優れている和なら律の想像もしなかった助言をくれるはずだ。
澪と紬も親身に相談を聞いてくれるだろうし、唯の口から奇想天外なら的を射た発想を得られる可能性もある。
この無限の螺旋との戦いを律はこれからようやく始めるのだ。
本当に脱け出せるループなのかどうかは分からない。
もしかしたら律が死を選択するまで終わる事のない無間地獄なのかもしれない。
それでもやれるだけの事はやってみせる。
自殺など最後の最後の選択で十分なのだから。
そうして——
そうしてもし——
いつか九月一日を迎える事が出来たのなら——
——ちゃんとおまえに伝えるよ、梓。
胸の中だけで、しかし強く強く決心し、律は玄関扉を開いた。
これからも繰り返すであろう八月三十一日を、今度こそ正面から見据えて。
「よう、梓!
悪いな、待たせちゃって!」
&nowiki(){*}
眼前の梓には三つの違和感があった。
第一の違和感はこれまでのループで見た事がない梓の表情だった。
目の下に軽く隈を作っており、その表情には呆れも笑顔も見て取れなかった。
第二の違和感は梓の髪型だ。
普段のツインテールではなく、少し疲れたサイドテールに纏められている。
前回の八月三十一日に見せたサイドテールとも少し違っているように思えた。
第三の違和感は梓が両手持ちしているビニール袋の存在だ。
これまでの八月三十一日で梓が自前の鞄以外に何かを持っていた事は無かったはずだった。
「……」
「……」
律は言葉が出せない。
梓の口からも言葉が出てこない。
自分だけ空回りしてしまったような気まずさ。
それもこれまでの八月三十一日の中で感じた事が無いものだった。
「えーっと……、梓……?」
「はい」
「お、おはよう……?」
「おはようございます。
どうして疑問形なんですか」
「ど、どうしてだろうな……」
それだけ言って、律は口を閉じる。
非常に気まずく、空気も実に重たい。
一体何が起こってしまったというのだろう。
ループと相対するという律の決心が、繰り返すループに何らかの影響を与えてしまったのだろうか。
例えば梓の精神状態を重苦しいそれに変貌させてしまうとか。
変化自体は好ましい事であるはずだが、梓の様子を見ていると一概にそうは言えない気がした。
——あーっ、何が起こってるのか分っかんねー!
心の中だけで髪を掻き回す。
勿論現実にはそうしなかった。
律には他にしなければならない事がある。
梓の様子が変貌しているのは予想外だったが、とにもかくにもループの事を説明しなければならない。
この状態の梓が聞いてくれるとは思いにくいが、もう諦めるわけにはいかないのだから。
「あ……」
「律先輩」
『梓』と呼び掛けようとしたが、その声は梓自身に遮られた。
その表情は相変わらず不健康そうで重苦しい。
よく眠れていないのだろうか。
それを訊ねるより先に梓の言葉が続いた。
「どうして私が来るって分かったんですか?」
「えっ?
だって約束……」
「約束なんかしてないじゃないですか。
それにあんな楽しそうな顔で出て来るなんて、何だか私馬鹿みたいじゃないですか。
私、夜明け前まで、どうしようかずっと悩んでたのに……」
「いや……、何の話だよ……?
遊ぶ約束なら昨日ちゃんと私から……」
「律先輩、寝惚けてますね?
遊ぶ約束をしたのは一昨日じゃないですか。
昨日の事、もう忘れちゃったんですか……?」
話が噛み合わない。
約束をしたのが一昨日?
そして、昨日の事?
夜明けまでどうしようかずっと悩んでいた?
それでは——
それではまるで——
「ちょっとごめん!」
律は玄関扉を閉めて、握り締めていた携帯電話に視線を落とした。
今回の八月三十一日。
目を覚ましてから初めて目にする携帯電話の液晶に記されていた数字は——
9.1
&nowiki(){*}
居間のテーブルには、広告の裏を使った手紙が律儀に残されていた。
『ねぼすけ姉ちゃんへ!』と弟の字で書かれたそれには家族の外出が記されていた。
夏休み最後の日だから家族で買い物に行くそうだ。
それ自体は問題ない。
問題なのはその広告の表に記された文章であった。
近所のスーパーの特売の広告。
そこに記されていたのは『一日特売デー、本日のみ!』とある意味当たり前の文章。
母親が捲ったのか、壁に掛けられたカレンダーも九月を示していた。
——本当に九月一日なのか……?
梓を居間に招き入れた後も、律はその現実を受け止めきれずにいた。
立ち塞がるループを受け容れ、相対しようとした矢先がこれだ。
得体の知れない現実に不安感ばかり大きくなっていく。
解放感など存在しなかった。
まるで悪夢の続きを見ている様な感覚とも言えた。
何かの間違いなのか。
自らの願望が見せた妄想の世界なのか。
そんな気までしてくる。
だが。
「あっ……」
漏れた声と共に間抜けな音が居間に響いた。
律の腹の虫だった。
こんな時に、と律自身も思わなくもないが、元より空腹に弱い律だ。
空腹状態ではまともな思考をする事が出来ない事も経験からよく知っている。
とりあえずまずは朝食の用意でもしよう。
そう思って律が立ち上がった瞬間だった。
梓がおずおずと手に持っていたビニール袋をテーブルの上に差し出したのは。
「あの……、律先輩……」
「……何だ?」
「これを……」
「だから、何だ?」
「いいですから……」
テーブルに座り直し、律は差し出されたビニール袋を開いてみる。
中に入っていたのは、よく見慣れた特徴的な箱。
ドーナツ屋専用の箱だった。
あの日、最初の八月三十一日、二人で行ったドーナツ屋の箱だった。
静かに開いてみる。
色彩豊かなドーナツが所狭しと並べられていた。
律の好きなドーナツも。
あの日、律が誤って食べてしまった梓の好物のドーナツも。
「お腹が空いてるんなら食べて下さい、律先輩」
「いい……のか……?」
「……はい」
律が問うと梓が軽く目を逸らした。
その頬が若干赤く染まって見えたのは気のせいだろうか。
あの店のドーナツ。
最初の八月三十一日、喧嘩をするきっかけになった曰く付きの一品。
ああ、そうだったな、と律は思う。
——つい昨日、私達はそうして喧嘩したんだったな……。
不意に泣き出しそうになってしまった。
律はそれを隠して立ち上がり、冷蔵庫の中から紙パックの野菜ジュースを取り出した。
自分の場所と梓の前に置いてから、小さな声で続ける。
「梓も一緒に食べようぜ?」
「……いいんですか?」
「いいって、こんなに食べ切れないしさ。
それに梓、朝ごはん、ろくに食べてないんだろ?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「ごめん」
何の躊躇いもなく謝った。
普段の律とは違うと気付いたのだろう。
面食らった様子で梓が視線を律に向けた。
「そんな……、私こそドーナツであんなに怒っちゃって……」
「それでも、ごめん。
私が、悪かった。
あの時、私がちゃんと梓に謝ればよかったんだ。
ごめんな、先輩だからって何か意地張っちゃったみたいだ」
視線を向けて、目と目を合わせて、真っ直ぐに謝る。
心の底から、恥も外聞もなく、本音で。
そして思う。
これこそ私が本当にしなくちゃいけない事だったんだ、と。
律は最初の八月三十一日を無かった事にしてしまいたかった。
それ以上の思い出で上書きしてしまいたかった。
通常ならば叶うはずもない願い。
だが何の因果か律のその願いは叶えられてしまった。
神の悪戯か、律の強い想いの力の結果か、それとも単なる夢なのか。
ともあれ叶えられてしまった。
これ幸いと律は繰り返すループで過去をやり直そうと考えた。
最高の八月三十一日にするために、梓の最高の今度こそ作るために。
けれどそれは律自身が起こしてしまった過去からの逃避でもあったのだ。
例えるなら自分が殺してしまった人間のクローンを創造して、罪滅ぼしをする様なものだった。
自らの犯してしまった罪を、自己満足の善行で上書きするようなものだ。
無論、律にその是非は問えない。
だがそんな律にも一つだけ言える事がある。
罪滅ぼしをするにせよ、それより先にしなければならない事が確かにある。
単純な真理だが現実には成し難い事。
即ち、『謝る』という事。
『謝る』という事は難しい。
自らの非を認め、受け容れた上で、迷惑を掛けた相手に心から頭を下げる。
律はその難しさから逃げ続けてきた。
逃げ続け、二百を超えるループの中に身を置いてしまっていたのだ。
当然、逃げた先には何も存在していなかった。
逃げたという事実が延々と積み重ねられていくだけだ。
「あ……、えっと……」
梓の顔がどんどん赤くなっていく。
まさかここまで真正面から謝られるとは思っていなかったのだろう。
「そ、そこまで言うんなら、許してあげます!
ただし……!」
「ただし?」
「私の好きなドーナツ、もう勝手に食べないで下さいね!
私、あのドーナツで、最高の一日を締めくくろうと思ってたんですから!」
赤くなっている梓は気付かなかったに違いない。
あの最初の八月三十一日——いや、昨日——を、最高の一日だったと称してしまっている事に。
勿論、律はそれを指摘しなかった。
これ以上梓を刺激してしまったら、それこそゆでだこの様になってしまうだろう。
だが梓の気持ちは律にもよく理解出来ていた。
昨日、梓は楽しかったのだ。
行き当たりばったりで無茶苦茶な一日ではあったが、最高に楽しかったのだ。
だからこそ最後の律の失敗を受け容れ難くて起こってしまったのだろう。
律自身がそうであった様に。
二人とも似た者同士で、似た者同士だから引っ込みが付かなくなってしまっただけだったのだ。
一言、どちらかが謝れていれば、笑って別れられた一日であったはずなのに。
「了解、気を付けるよ」
笑顔で、けれど真剣に頷いて、ドーナツに手を伸ばす。
何にしろ腹ごしらえだ。
梓の事を考えるにしろ、これからの事を考えるにしろ、体力を付けなければどうにもならない。
これだ、と選んだドーナツを手に取ろうとして、同じドーナツを選んでいた梓と指の先が触れた。
急激に頬が熱くなるのを感じる。
何故自らの頬が熱くなるのか、律にはその理由が分かっている。
恋心に近い思慕の念を梓に抱いてしまっているのだ。
律は知っている。
体感時間で半年以上毎日一緒に居た梓の様々な顔を。
最高に喜ばせてやれた時の、眩い笑顔を。
その際に見せてくれた律への好意を。
あれほど傷付けてしまった後においても、心の底から律を心配してくれていた事を。
繰り返していた世界の中で、無自覚に律を救ってくれていた事を。
梓を大切にしてやりたい、と思う。
もう傷付けたくない、とも。
少なくとも暫くは梓の事以外を考えられそうもない。
この律の想いが未来の二人にどの様な影響を与えるのかは分からない、今は、まだ。
もしかすると律のこの一方的な想いを梓が困惑する日がやってくるかもしれない。
律の見た夢にしろ、現実に起こった現象にしろ、
ループの中で生きて来た影響が顕著になっていくのは、きっとこれから先の話だ。
今こそが律と梓にとって本当の始まりなのだ。
けれど律は思った。
困惑するにせよ、梓は真に律の事を考えた答えを出してくれるだろうと。
梓はそういう後輩で、最高の仲間で、大切な存在なのだ。
律は知っている。
梓がどれほどまでに自分の事を想ってくれているか、それを知っている——。
だからこその腹ごしらえだ。
ループがもし夢であったとしても、ドラムの腕が鈍っている自覚は強くある。
どの様にドラムを叩いていたのか、その感覚は遥か遠い過去に置き去りにされている。
このままでは秋に行われる学園祭のライブの失敗は決定されたようなものだ。
そうはいくか。
どれほど遠かろうと、感覚は必ず取り戻してみせる。
学園祭では最高の演奏をしてみせて、最高の思い出を作ってみせる。
そのために体力を付けて、今日は梓と学校で演奏の特訓をしようと思う。
まずはそれが自分を支えてくれた梓への恩返しだ。
無論、そんな事など梓は与り知らぬところだろうが、それでも。
「いい天気だな」
「何ですか、突然に」
「いや、いい天気だと嬉しくなってくるじゃん?」
「まあ、それはそうですけど……」
釈然としない表情の梓に苦笑しながら、律は窓から空を見上げてみる。
雲一つないとまではいかないが、いい天気だった。
初めて見る九月の朝陽。
これからの課題は山積みだが、それすらも構わないと思える爽やかな朝陽。
そして決心する。梓の笑顔を守り続ける事を。
多数の障害がこれからも自分達の前に立ち塞がったとしても。
「あーっ!」
不意に梓の叫び声が上がる。
何が起こったのかと梓に視線を向けてみると、梓は非難の表情を浮かべていた。
「な、何だよ、梓……」
「律先輩、それ」
梓が頬を膨らませながら律の手元を指し示す。
律が持っていたのはドーナツ。
先刻食べてはいけないと釘を刺されたばかりの、梓の好物のドーナツだった。
うっかりしていた。
九月の朝陽に目を細めていたためか、無意識に次のドーナツに手を伸ばしていたらしい。
無論、まだそのドーナツに口を付けてはいないが。
「もう……、ちゃんと反省してるんですか?」
「面目ない……」
これは完全に自分のミスだ。
心の底から反省しながら頭を下げると、
梓は頬こそ膨らませているもののその目元を柔らかくした。
「駄目です、許してあげません」
「マジかよ……」
「本当に許してほしかったらですね……」
言いながら梓が移動を始める。
サイドテールを可愛らしく揺らしながら辿り着いたのは律の背後。
何を始めるのかと思えば、梓は律の思いも寄らなかった言葉を口にした。
「ドーナツ、食べさせて下さい」
「へっ?」
「ドーナツを食べさせて下さいって言ったんです。
許してほしくないんですか?」
梓らしからぬ申し出。
やはり少し疲れているのだろう。
目の下に隈まで作ってまで、律と仲直りする方法を考えてくれていたのだ。
少し疲れたサイドテールもそれを示している。
しかし同時に気分が高揚もしているのだろう。
律と仲直りが出来たのが嬉しく、多少甘えたい気分にもなったに違いない。
絶妙なところで甘えてしまう。
梓はそういう一面もも持った、可愛らしい後輩でもあった。
「はいはい」
「はいは一回です」
「はいよ」
苦笑しながら、肩越しにドーナツを差し出す。
誰かに見られたら恥ずかしい光景だが、何、幸い今日は家に誰も居ないのだから。
気恥ずかしくはあるが、これを新しい始まりにするとしよう。
いずれ何らかの理由でまたループに囚われる事があるかもしれない。
ループに囚われた理由、ループから脱却出来た理由が完全には分かっていない以上、その不安は必然だ。
だが——、梓がまた傍に居てくれるのなら——。
律は今度こそ自分自身の想いでループに立ち向かっていけるはずだ。
「おはようございます!
今日は九月一日、日曜日です!」
律が点けたテレビの画面の中。
見慣れた日曜の朝のワイドショーのレポーターがそう宣言している。
一週間振りの懐かしい声に耳を傾けていると、梓の手のひらが律の肩を優しく掴んでいた。
「召し上がれ」
「いただきます」
律の言葉に頷いた梓が顔を近付け、
好物のドーナツをその唇で覆った次の瞬間、
律の手の中で繋がっていたドーナツの円環が、綺麗に途切れた。
おしまい
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