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勅裁社

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勅祭社は天皇家の勅使が参向して祭祀が執行される神社のことで、正式に治定されたのは、明治十六年に賀茂祭および石清水祭が勅祭と定められた賀茂御祖神社、賀茂別雷神社、石清水(男山)八幡宮が最初で、その後に春日神社、氷川神社、熱田神宮、橿原神宮、出雲大社、明治神宮、朝鮮神宮、靖国神社、宇佐神宮、香椎宮、鹿島神宮、香取神宮、平安神宮、近江神宮が勅祭社となっている。現在の勅祭社は消滅した朝鮮神宮を除く前記の十六社である。このうち宇佐神宮と香椎宮は十年ごと、鹿島神宮、香取神宮は六年ごとに勅使が差遣され、また靖国神社には春秋二度の大祭に勅使が差遣されている。とあり鹿島神宮、香取神宮に次いで宇佐神宮と香椎宮は重要とあります。
 
宇佐神宮(うさじんぐう)
 大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である。住所は大分県宇佐市大字南宇佐2859。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。
祭神等
 主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている(メインは上宮だが、上宮・下宮どちらも三柱全員を祭っている)。比売大神は宗像三神のこととされる。
 このほか、境内には仁徳天皇以下五柱の通称「若宮五神」を祭る若宮神社、応神天皇の子神を祭る春宮神社、大山積尊を祭る亀山神社(亀山は当宮が位置する山の名前)、境内の菱形池を守る水分(みくまり)神社、菅原道真を祭る天満神社、素戔嗚尊を祭る八坂神社、武内宿禰を祭る黒男神社、和気清麻呂を祭る護皇神社、初代大宮司・大神比義を祭る大神祖神社、かつて東征中の神武天皇をこの地でもてなしたとされる菟沙津彦・菟沙津姫を祭る宇佐祖神社などが末社として敷地内に存在する。
 また、敷地外にある外宮として、大許(おおもと)神社が近隣の御許山(おもとさん)の上にある。御許山は比売大神が地上に下った時最初に降り立った地とされている。
 なお古くは弥勒寺という神宮寺があったが廃仏毀釈により取り壊され、かつて同寺があった場所には社務をおこなう神宮庁と神宝を収める宝物館が存在する。
応神天皇(おうじんてんのう、200年12月14日 - 310年2月15日)は、第15代の天皇。在位期間は270年1月1日 - 310年2月15日。4世紀末から5世紀初頭にかけて実在性が認められる最も古い天皇である。実在のあり方に諸説あり、三王朝交代説における征服王朝の創始者であるという説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神である(宇佐八幡)という説、河内王朝の始祖であると言う説などがある。

由来と歴史
 社伝によれば、三角池(現在の中津市にある薦神社)において大神比義(おおがのひき)の前に童子姿の神が現れ、自らを誉田天皇(応神天皇)と名乗って祭祀を命じたことに始まる。史実では、もともと宇佐にいた辛島氏を初めとする渡来系豪族たちの祭神であったとされる。
 東大寺造営の際宮司等が託宣を携えて都にのぼり、造営を支援したことから中央との結びつきを強め,宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した。
 宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めていたが、後に菟沙津彦らの子孫・宇佐氏が大宮司職を継承した。さらに宇佐氏の支族である到津氏および宮成氏と三氏で祭祀を行った。現在では宇佐氏は祭祀を離れ、大宮司は到津氏が継承し、宮成氏とともに祭祀を行っている。
九州最大の荘園領主
 律令下での宇佐神宮は、神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また当時の社寺の例にもれず神人(じにん)による武装もしており,このため近郊の(特に豊後の)有力武士としばしば敵対している。
 源平争乱期には平氏方につき,屋島から逃亡中の平氏が宇佐神宮を頼って落ち延びてきたこともあったが,豊後の緒方惟義が源氏方について反逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平氏が自殺したという場所に,小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼き討ちにあったという。
 鎌倉時代の蒙古襲来でも当時の社寺の例にもれず加持祈祷を行っている。
 さらに下って戦国時代には豊後の守護戦国大名・大友氏と,豊前に手を伸ばしていた中国地方の覇者・大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり,大友氏と対立(宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている)。大友氏の手で再び焼き討ちされ,このときは大宮司らが現在の北九州・到津付近まで逃げ延びる羽目になる。
 大友氏はその後の島津氏との戦いで勢力をそがれ豊臣秀吉による九州平定を招くこととなり,豊前には毛利氏,ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐する。江戸時代以降,宇佐一帯は中津藩・鍋島藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となったが,その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。
宇佐使
 平安時代まで,天皇の代替わりなど重要時には宇佐使(うさづかい)という使節が朝廷から派遣されていた。宇佐八幡宮神託事件にちなみ、宇佐使は和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが通例であった(ただし菅原道真が左遷された際のみ藤原氏から人選されている)。なお宇佐使は建武期に復活したが、再び停止された。明治以降に復活し、大正時代から宮内庁の職員が10年おきに派遣される勅使祭となって現在も続いている。

宇佐氏
 宇佐神宮は、分祀が全国に二万四千以上もある八幡社の総本社である。そしてその主祭神は応神天皇で、すべての八幡社がみな同じである。ただし、相殿神となると、宇佐と分社の第一である石清水および鶴岡の両八幡宮は比売神と神功皇后を祭り、筑前の筥崎宮は神功皇后と玉依姫、肥前の千栗・豊後の柞原両八幡宮は仲哀天皇と神功皇后、とされて少しずつ異なる。この相違には祭祀上あるいは適地性というものが推察されるが、八幡神が応神天皇であることは変わらない。
 古文献によれば、宇佐神宮ははじめ単に八幡社・八幡宮などといって「宇佐」の地名はついていない。それが、のちに石清水八幡宮が勧請されてから、それと区別する必要上、やがて宇佐八幡宮と呼ばれるようになった。また、八幡の文字は奈良時代ヤハタと読んでおり、ハチマンと音読するようになるのは平安時代以後のことであって、八幡神はもとヤハタ神であった。しかし、ヤハタ神とは何かとなると、諸説あるが未だ詳らかではない。
 『延喜式』の神名帳をみると、豊前国の神社は六座しかなく、そのうち宇佐郡は三座で「八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫廟神社」を挙げ、並びに名神大社とされている。この三座は宇佐の本殿が三座から成り、向かって左から一の御殿に八幡大神(応神天皇)、二の御殿に比売大神、三の御殿に神功皇后を祭っているのに照応するが、はじめは比売大神がこの地の土豪宇佐氏の氏神として発展したらしい。
 宇佐八幡宮は、中世には豊前国の一宮となり、またその経済的基盤として社領もすこぶる多かった。すでに平安時代の初め、八幡神・比口羊神の神封千四百十戸があり、のちの『宇佐大鏡』に豊前・豊後・日向の三国七郡の御封田六百四十烟とあり、これは建久年間(1190-99)の図田帳により詳細に知られる。これらの地を基礎として経遺産時代の末から各地に社領荘園が営まれ、宇佐宮領は右三国のほか、筑前・筑後・肥後にも及んで本御荘十八荘と呼ばれた。ところで、戦国時代になると宇佐の宮寺領も次第に武士の押領するところとなり、秀吉のとき残った社領もすべて没収された。しかし、天正十七年(1589)黒田長政が三百石の所領を寄せ、文禄元年(1592)社殿を造営、次いで中津城に入った細川忠興は千石、次に松平重直が七百石とし、正保三年(1646)徳川家光から改めて朱印領千石が寄せられた。
 神職は、はじめ大神氏が務めたが、平安時代の中頃神主職を宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲した。
 宇佐氏は菟狭津彦命を祖とし、宇佐八幡宮の神主家で、古くは宇佐国造家であった。欽明天皇の時代に諸石が八幡宮を勧請したのにはじまり、元明天皇の時、沙門法蓮が医術にすぐれた功によって、一族とともに宇佐公の姓を賜わったという。平安時代初期に大神氏とともに、宇佐公池守が宮司に補せられ、のち大神氏は衰えて、池守の子孫が大宮司を世襲し、鎌倉時代末期の宇佐公世の代から二家に分かれた。兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称し、この二家が交互に大宮司職を継ぎ、明治に至っている。庶流に、岩根・横代・平田・安心院・稲用・出光・益永・永弘・小山田・江嶋の諸氏が出ている
 
「おおがのひぎ 大神比義」
 宇佐八幡御発現につき、欽明天皇二十九年同三十二年宇佐菱形池辺にて大神比義により瑞を現わし、比義によって御発現になった。其後元明天皇和銅元年より鷹居の地に奇瑞を現わしたので和銅五年大神比義斎き祭って鷹居に御鎮座になったとある(託宣集)其子孫栄え大神氏祝氏小山田氏となる。豊後国跡考に速見郡大神村は其比義の住んだ所とて比義の館址を古殿と称している云々。
「おおがのたまろ 大神田麿」大神比義の子。諸男養老三年、神託により日向征伐に赴き其子田麿、弘仁中大宮司となり、爾来、子々孫々大宮司に任ずと。(大典)

香椎宮(かしいぐう)
 は、724年(神亀元年)に創立された、仲哀天皇と神功皇后を祭神とする神社。 福岡県福岡市東区。
歴史
 仲哀天皇9年(200年)、神功皇后が自ら祠を建て仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。 養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工される。この2つの廟をもって香椎廟とする。 明治時代に官幣大社となる。終戦までは勅祭社に指定され、現在でも十年に一度宮内庁より勅使が遣わされている。最近では平成17年(2005年)に遣わされた。
神木「綾杉」
 神功皇后の三韓征伐から帰国した際、三種の宝を埋め、「永遠に本朝を鎮護すべし」と誓いを立てて鎧の袖の杉枝をその上に挿したものが現在の大木となったとされる。普通の杉と葉の形状が異なり、綾状になっていることからこの名が付いた。大宰帥に任じられた者は、香椎宮に参拝し神職からこの杉の葉を冠に挿されるのが恒例とされていた。

《除福伝説》
除福東渡伝説(司馬遷著「史記」、漢書伍被伝)によると神仙思想が盛んなBC200年頃の秦の始皇帝時代、除福は長生不老の仙薬を求めて三千人の童男・童女、五穀種および百工(工業技術者集団)を連れ、東海 三神山に向け出航し平原広沢を得て王となったとあるように、日本列島の各地(鹿児島県西岸、有明海、瀬戸内海西部、紀伊半島熊野、丹後半島、愛知県沿岸部、駿河湾、富士山北麓、東北北部日本海沿岸、八丈島)に上陸し、稲作・冶金・織機を普及した一つの流れかもしれません。

石清水八幡宮
京都府八幡市八幡高坊30
祭神*譽田別尊 多紀理毘賣命 市寸嶋姫命 多岐津毘賣命 息長帶比賣命
清和天皇貞観元年(859)、南都大安寺の僧行基が、「吾、王城近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という豊前宇佐八幡の託宣を蒙り、まず、現在の離宮八幡宮の地に至り、その後朝廷より宣旨を受けた橘良基が当地に六宇の社殿を建立。翌年、三所の神璽を奉安せられたのが当社の創始。山城・河内を眺望できる場所にあり、王城の裏鬼門に位置し、王城鎮護に相応しい。
延喜式神名帳に記載の無い式外社で、「石清水文書」には、当社と平野社、祇園社など、魚味を供さない社は神名帳に載せない旨が記されているらしい。(平野社は延喜式に載っているのだが)
 古来、伊勢の神宮に次ぐ、第二の宗廟として上下の尊崇が篤く、特に皇室においては崇敬が深く、
永祚元年(989)にはじまった行幸は、明治天皇まで240余度にも及ぶ。また源氏の崇敬社でもあり、全国各地四万社にその分霊が祀られた
 日本全国に八幡とつく神社は3万ないし4万社を数えるといわれていますが、なかでも石清水八幡宮は九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともにわが国の歴史上、極めて重要な地位を占めてきました。その歴史は古く、今も昔も全国津々浦々より多くの人が引きも切らず参拝に訪れます。また神社のある男山は、京都の南西・裏鬼門にあたり、木津・宇治・桂の三川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要地、政治上の重要な拠点に位置しています。
 石清水八幡宮の御祭神は御本殿中央に八幡大神様(誉田別尊[ほんだわけのみこと]−第15代応神天皇[おうじんてんのう]−)を、西に比?大神様(ひめおおかみさま)(宗像三女神、一説に仲津姫命、あるいは本朝国母玉依姫命[ほんちょうこくぼたまよりひめのみこと])、東に神功皇后様(じんぐうこうごうさま)(息長帯比賣命[おきながたらしひめのみこと])をお祀りしています。この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神と申し上げます。                    
 石清水八幡宮の創建は平安時代初めの貞観元(859)年、大安寺の「行教」という僧が豊前国(大分県)の宇佐宮におこもりになった際、八幡大神様の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安申し上げたことにはじまります。この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権允橘良基は、すぐさまこの地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営し、そこに八幡三所大神が正式に御鎮座になりました。 翌年貞観2(860)年4月3日のことでした。
 石清水八幡宮の社号は、今なお男山の中腹に涌き出ている霊泉“石清水”に因んだもので、そのほとりには八幡三所大神が男山にお鎮まりになる以前、すでに「石清水寺」という山寺が存在したといわれます。 社号は明治初年に“男山八幡宮”と改称されましたが“石清水”の社号が創建以来の由緒深いものであるため、大正7年に再び“石清水八幡宮”と改称されました。
 八幡大神様の御神徳は御託宣にもあらわれている様に、まさに広大無辺で長い歴史の中で様々な人々から様々な願いを叶える神様として信仰されてきました。なかでも皇室には厚い御崇敬を寄せたまい、伊勢の神宮に次ぐ国家第二の宗廟として、天皇・上皇の行幸・御事は円融天皇(第64代)の御参拝以来、現在までに実に250余度にも及んでいます。源氏をはじめとする全国の武士は八幡三所大神を武の神、弓矢の神として尊崇し、なかでも源頼信にはじまる河内源氏の一族は源義家が石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗ったことからもうかがわれるように、八幡大神を氏神(一族の守護神)として仰ぎ、勢力の拡大とともに全国に数多くの八幡宮を祀りました。さらに厄除けの神様として信仰の歴史は古く、全国屈指の厄除けの神社として年間を通じ多くの参拝者が訪れています。

■香椎宮(福岡市東区香椎)
祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神。西征中この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭ったのが宮の起源とされる。香椎は鴻臚館貿易の衰退した12世紀から博多津に代って栄えた貿易港で、元寇の際、豊後の大友氏が香椎・多々良地区を警固してから大友氏の支配を受けるようになった。同氏建立の多々良の顕孝寺辺りは内外の僧侶・商人で賑った。香椎造りで著名な享和元年(1801)再建の本殿は国指定の重要文化財。香椎宮の周辺には武内宿禰ゆかりの不老水、急死した仲哀天皇を祭る古宮、戦いから帰った神功皇后が植えたという綾杉の大
木などがある。
 ■御祭神 仲哀天皇 神功皇后
由緒 香椎宮の創建は仲哀天皇の御神霊を神功皇后躬つからお祀りあそばされた(200)ことに来し、これを古宮と申します。神功皇后の宮は、元正天皇の養老七年(723)皇后の御神託により朝廷より九州に詔して社殿の造営を始められ、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工しこの両宮を併せて香椎廟と称します。明治以降官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しています。香椎廟は本朝鎮護の宗廟なれば、廟号を以って格別の御崇敬を捧げさせられ奈良平安このかた廟司以下六百余戸の奉仕団また千数百町歩の神領を賜わり国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ現代に於いては十年毎に勅祭を斎行せられます。仲哀天皇八年(199)筑紫の橿日宮に坐しまして天下冶しめし率先御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばされました。皇后は御遺志を継がれ神祇の教えを受けご懐妊の身を以って躬つから国内を平定せられ更に船団を率いて三韓御渡航の壮挙を果され初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました。この御大業は正に神わざとして史上に輝き、朝貢あり帰化あり交流盛んにして国運愈隆盛に赴きました。御子応神天皇は八幡神として遍く信仰を集められ、御孫仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳陵によって聖徳を偲ぶことができます。かの雄渾な土木技術を始め建築、裁縫、工芸、文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に淵源しやがて絢爛たる日本文化の花が開かれて行きます。この国に生を享ける者の一日も忘れまじき御神徳であります。
■古宮 
仲哀天皇皇居橿日宮址、沙庭斎場遺跡、香椎(棺桶椎)あり
■御本殿 
香椎造と称し我国唯一の建築様式で国の重要文化財
享保元年(1801)筑前藩主黒田長再建
■御神水綾杉 
神功皇后三韓より御帰還の際、三種の神宝を埋めその上に杉を植えてとこしえに本朝を鎮護るべしと誓ひて神霊を憑け留められ杉でこの杉の葉に不老水を添えて毎年禁裏に奉献いたします。火災に遭ふも若芽根より生じ植継ぐことなく伝っております。
■不老水 
大臣武内宿祢公ゆかりの不老長寿の霊泉。古来痼疾を除き齢を延ばす極めて霊験ありと伝えられ名水百選の認定を受く。
■勅使参拝標石 
中門内左右に「御脱剣所」「衛士居所」と高さ六十センチの標石があり、中門階段下左右に「御手所水」「御祓所」、勅使館前に「御休息所」の標石が立っています。これは勅使または太宰師の参拝の時、昇殿に至る順序を指示した石で奈良時代のものと推定される。

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