1. その瞬間、思わず息を呑んでいた。 ありがちなドラマのワンシーンみたいに。 息を弾ませ、控え室であるホテルの一室に飛び込んできた、可憐にして鮮烈な印象の乙女。 予想だにしていなかった衝撃で、言葉は疎か、瞬きさえも忘れてしまった僕は、 ただただマヌケに口を開いたまま、彼女の美しさに見惚れるばかりだった。 足元が覚束ないのは、立ち眩みだろうか。 それとも、この胸に感じる、締めつけるような鈍痛のせい? 「あ……えっと」 泳いでいた彼女の瞳が、僕を捉えた。躊躇いがちに、ぎこちなく笑いかけてくる。 奥ゆかしく、初々しい。けれど、どこか得体の知れなさを感じさせる仕種だ。 「すみません。あの……こちらに行くよう言われて……来ました」 「あ、ああ。待ってたよ。僕は――」 「知ってます」 彼女は、歯切れよく続ける。「現在、注目度ナンバーワンのJaMさん、ですよね」 そして、たった今パウダーブラシで塗ったように、サッと頬を上気させた。 正しくは、僕ひとりを指す名前ではない。いわゆる、ブランド名だ。 僕らが立ち上げたファッションブランド【JaM】は、ここ最近で、かなり知名度をあげている。 ファッション雑誌の取材も増えたせいで、写真を撮られる機会も多くなった。 この娘も、そんな内の一冊から、僕の顔を見知ったに違いない。 だが、まあ、そういった世間話は後にしよう。 今は、悠長に構えていられない。すべきことが山積して、時間の余裕がなかった。 「着いた早々で悪いけど、すぐ準備してくれ。とにかく急いでるんだ。 おい、柏葉! この子の着替えとメイク、手伝ってあげて」 近くにいた女性スタッフに指示を出して、腕時計を睨む。 ギリギリか? 間に合ってくれよと独りごちて、僕は他のモデルの最終チェックを始めた。 なんとしても、あのドレスを……。有終の美を飾るのは、あのドレスでなければダメなのだ。 どうして、こんなに慌てているのか。その発端は、今朝のことだ。 数日前から体調を崩し気味だった専属モデルのフランス娘が、緊急入院した―― その電話連絡を受けて、僕は愕然としたし、大袈裟ではなく頭も抱えた。 ここのところ、体調が優れない様子だったから危ぶんではいたが、よりによって今日だとは。 普段ならば、ここまで困りはしない。こっちだって、プロの看板を掲げている身だ。 病気が日を選んでくれないことなど、百も承知。準備に抜かりはない。 不測の事態に備えて、【JaM】でも現在、3名の女性モデルと専属契約していた。 だが、今回のラストを飾る予定の一着は、特別な――いわゆる、着る人間を選ぶタイプ。 この新作ドレスが似合うモデルは、病に倒れたオディール嬢だけだった。 しかも、悪いことは重なるもので、お披露目できるのは今日しかない、ときている。 幾つもの大手ブランドが、数日間にわたって新作を発表してきた、このクリスマス・コレクション。 その最終日である今日、勝負を賭けて、一気に注目を集める作戦だったのに…… いまさら、一着だけ出品を取りやめるなんて、絶対にしたくない。 国内外を問わず、情報通の著名人たちが、今年最後となるショーをチェックしているのだから。 新進気鋭の僕ら【JaM】ブランドにとって、マーケットを広げる大きなチャンスだった。 だからこそ僕は、僅かばかりでも成功に近づくために、電話をしたのだ。 共同経営者にして、いまや人生のパートナーでもある彼女に―― ――そして、彼女の手配で来てくれた助っ人が、件の娘というワケだ。 しかし率直なところ、僕は、ほとんど期待していなかった。 どうせ都合がつくのは、人材派遣会社の契約スタッフだろう…… 自分のイメージにカチッと嵌まる女の子など、そうは居ないと高を括っていた。 ところが、どうしてどうして。 訪れた娘は、僕の予想の一切合切を、根底から覆してくれる逸材だった。 まず眼を惹くのが、緩いウェーブのかかった、艶やかな鳶色のロングヘアー。 くっきりとした顔立ち。深く澄んだ青い瞳。そして、均整の取れたスタイル。 妖しい色香のヴェールを秘やかに纏った、神秘的な魅力を匂わせる女の子だ。 「チーフ。着付け、これでいいかな。チェックしてください」 柏葉に請われて、ドレスを纏った乙女の周りを、ぐるり。 さすがに几帳面な柏葉だけあって、いつもながら手抜かりがない。 僕は頷くと、続けてメイクを急ぐように言った。 それにしても、モデルの娘も慣れているのか、堂々としたものだ。 若い男に、息がかかるくらいの間近で眺め回されているのに、狼狽えもしない。 どこをとっても、合格点だ。まったくもって申し分ない。 あとは、ステージでの歩き方など、即席で教え込めばいけそうだ……。 2. 「――いやはや、間一髪だったよ」 ショーは来賓の熱気と惜しみない拍手喝采に送られながら、静かに幕を下ろした。 関係者たちの【JaM】に対する反応も、まずまず、と言ったところ。 僕が相棒に成功を伝えたのは、雑誌社の簡単な取材に応じた後のことだ。 メールでもよかったけれど、彼女の声を聞きたかったから、電話をかけた。 「来てくれた娘が、見事に代役を務めてくれたからね。嬉しい誤算だった」 『お疲れさま。あたしも、今度ばかりは肝を冷やしたわよー。 でも、概ね好評でよかった。あなたの頑張りが、成功を引き寄せたのね』 「どっちかって言うと、優秀なスタッフのお陰だよ。僕ひとりの成果じゃない。 だから、全員で掴んだ成功だな、うん」 謙遜でもなく、僕は本心から、そう思っていた。 しかし、彼女はそれを、優等生の模範解答だと言う。 『あなたが統率したからこそ、みんなも個々の力を発揮できた――とは、思わない?』 「僕は、そんなに面倒見よくないって。成功することしか、頭になかったし。 もっと面白くなりそうだってのに、こんなところで躓いてられないからね」 『へぇえ……』 「なんだよ?」 『ちょっと、ね。あたしの旦那さまも、随分と、野心家になったものだなぁーって』 もしかして、あたしの影響なのかしら? 茶化す彼女に、「そうとしか考えられないね」と。 冗談半分に切り返して、僕は腕時計に目を落とした。そろそろ、時間だ。 ホテルの広間――ショー会場の隣室を借りての、アフターパーティー。 こういう席も、顧客や業界人と繋がりを作るための、貴重な営業の場だ。 ショー自体が展示即売会みたいなものだし、この場で購入を耳打ちされることも、少なくない。 さらに広い世界を目指す者にとっては、決して疎かにできない式典だ。 「帰りが遅くなるだろうし、先に休んでていいよ。 場合によっては、このままホテルに泊まるつもりだからさ」 それだけ伝えて、僕は通話を切った。 食事は、和洋折衷のビュッフェ形式。 飲み物やデザートも、いろいろ取り揃えてあって、目移りさせられるのだが…… ひっきりなしの社交辞令に忙殺されるあまり、僕は殆ど料理に箸をつけられずにいた。 こんな時、相棒の彼女が傍に居てくれたら―― 表向きは笑顔で談笑しつつも、肚裏では、そんな弱音を吐いてしまう。 でも、彼女は、今が大事な時期だ。甘えっぱなし、頼りっぱなしじゃいられない。 挨拶の人波が落ち着くと、僕はシャンパングラスを手に、窓際のソファに座った。 ずっと喋ってばかりだったから、口の中が乾ききって、ちょっと喉も痛い。 ソファの背もたれに肘を乗せ、ガラス張りの窓の外に広がる夜景を横目に、 ゆっくりとグラスを傾け、肺腑に澱んでいた重い息を吐き出した。 「あの……ぉ」 不意に、か細い声が、会場の喧噪に呑まれまいと足掻きながら、僕の耳にしがみついた。 誰だろう? 条件反射的に愛想笑って、声のした方へと振り返った。 「あれっ? きみは――」 ソファの前に立って、不安そうに僕を見おろしていたのは、鳶色の髪の乙女。 僕のデザインしたライトグリーンのドレスに身を包んだ、あの助っ人モデルの娘だった。 白くほっそりした両腕に、ちまちまと料理を盛りつけた紙皿を携えて―― 少しばかり、くたびれた面持ちをしている。 僕と同様、つい先程まで十重二十重とカメラに囲まれていたから、気疲れたらしい。 紙皿の一方を、おずおずと差し出しながら、彼女は緊張で震える声を絞りだした。 「お料理……いかがですか? 適当に、取り分けてきましたけど」 やっと人混みから解放されて、これから軽く食事をするところか。 僕としても、なにか腹に入れたいと思っていたので、素直に腕を伸ばした。 「ありがとう。けどさ……手掴みで食べるのかい、これ」 「えっ? あ、あっ、お箸わすれたっ!」 「取ってくるよ。きみは、座って待ってて」 近くのテーブルから二人分の箸と、飲み物のグラスを持って、ソファに引き返す。 よほど自分の失態が恥ずかしかったのか、彼女は耳まで赤くして、俯いていた。 「お待たせ。飲み物は、烏龍茶でよかったかい」 「は、はいっ。すみません。なんだか、却って気を遣わせてしまったみたいで」 「気にしなくていいよ。恩人には、礼を以て尽くすものだし」 「え?」 「今日のこと。あのドレスを出せなかったら、不本意な結果で終わってたはずだ。 大成功に漕ぎ着けられたのは、きみのお陰さ。本当に感謝してる」 「そんな……ヨイショしすぎですぅ~」 あまり褒められ慣れていないのか、彼女は頬に手を当てて、へにゃへにゃと笑った。 ステージに立っているときは、堂々としていて、貫禄すら感じたけど…… こうして見る限り、素は内気な娘らしい。 「偽らざる本音だよ。そう思ってるのは、たぶん、僕だけじゃない」 ソファに腰を降ろして、僕は、手にしたグラスを差し出す。「きみの魅力に」 「……キザなのね」彼女は鼻を鳴らして、頬を上気させた。「ショーの成功に」 「――乾杯」 そっと控えめに……。挨拶がわりのキスのように軽く、ふたつのグラスが触れ合う。 堅く澄んだ音が、ひとつ。傾けられた彼女のコップの中で、氷がくるりと回った。 僕はシャンパンで、彼女は烏龍茶で口を湿らし喉を潤して、箸を手にする。 二人が最初に口に運んだ料理は、奇しくも、ほんわりと湯気の昇る小籠包だった。 「ああ、そう言えば――」 火傷しないように小籠包を嚥下して、僕は切り出した。 いきなりではないつもりだったが、隣で「ぅんっ?!」と…… 意表を衝かれたかのような呻き声が上がった。 見れば、彼女は小籠包を頬張った状態で、目を白黒させている。 「ナニやってんだよ。そんなに慌てて食べなくたって……ほら、飲み物」 身を乗り出し、彼女の醜態を覆い隠しつつ、僕は、烏龍茶のグラスを手にする。 しかし、慌てた彼女は、箸を放り出すや別のグラスをひっ掴んで、一気に飲み干してしまった。 それ、僕の飲みかけのシャンパン……って言っても、もう手遅れ。 酒を呑まそうと企んで烏龍茶を取りあげたわけじゃない、とだけ釈明しておく。 「――はふぅ。危うく死んじゃうところでした。貴方は命の恩人です」 「えっと……まあ、アレだ。不慮の事故だよな、事故……ははは」 「ホント、お餅を喉に詰まらせる事故って、毎年、お正月に聞きますよね」 「そうじゃなくて……いや、まあ……いいや、なんでも」 「ん? あ、ところで、さっき何か言いかけてませんでしたっけ」 問われて、今度は僕が、言葉を呑み込んでしまった。 なんの話だっけ? 首を傾げ、思案に沈むこと、暫し――突如として思い出した。 たぶん、そのときの僕は、頭の上に電球を灯したようなマヌケ顔をしてたはずだ。 「そうそう。自己紹介が、まだだったなぁって。僕の名前は……」 言って、ブレザーから名刺を取り出そうとした手を、彼女の手が、そっと遮る。 「知ってますよ。桜田ジュンさん……でしょう?」 「うん。雑誌のインタビュー記事かなにかで、僕の写真を見たの?」 彼女はニッコリ微笑んで、首を横に振った。 「もっと、ずぅっと前から。そう……貴方がデビューするより昔から、です」 「本当かい? きみの勘違いじゃなくて?」 「ええ。ホントですよ」 貴方は、忘れてしまったのかしら。 彼女の深い碧瞳が、語られなかった言葉の続きを、投げかけてくる。 だけど、僕は思い出せなかった。 どれだけ回想しても、この娘を記憶の中で捕まえることが、できなかった。 [[つづく>『カムフラージュ』 2]]