地下妄の手記

一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その10

最終更新:

619metro

- view
管理者のみ編集可
42」「中目黒駅」こんなにもトンネルが汚れているのはなぜ

       日比谷線の始点は東急・中目黒駅、ホームは地上2階にある。この駅を出るとすぐ地下
      に入る。だが、そのトンネルをよーく観察してみると、壁や柱がどす黒く汚れていたり
      まだらに変色していたり、やけに古いトンネルなのだ。
       都心の上野や秋葉原あたりのトンネルとは、ずいぶん違っているから、誰にでもわかる。

 日比谷線が中目黒まで繋がった年の夏に、親父から「涼しいとこ行くか」と言われ、映画館かデパートへ連れて行ってくれるのかと、ついていった先が東横線の中目黒駅、「乗って涼しい地下鉄」だと。
 霞ヶ関から歩いて、銀座の三笠会館でカレーを食わせてもらった。これが日比谷線の乗り初め。それからかれこれ44年。秋庭さんがトンネルの汚れを言い出したのが6年前、開通から35年以上も経った地下鉄の壁の色が古いの新しいのって、何の証拠になるのだろうか。


       このトンネルは、いつ造られたのだろうか? 東急の創始者・五島慶太の自伝『五島慶太
      伝』を読んでわかった。
       1922(大正11)年、東京市が6つの地下鉄建設を国に申請している。申請から2週間
      後、目黒~六本木の地下鉄建設免許を持っていた五島慶太は免許失効処分を受けた。
      失効の理由は「建設の動きが見られない」というものだつた。しかし、タイミングから東
     京市の申請と深い関わりがあることは明らかだった。東京市の申請した地下鉄第3号線の
     一部が、五島の持っていたルートと重なっていたのだ。
      「これは単なる表面上の理由であって、実は、大震災後における東京市内の交通を東京市
     で独占しようとする、当時の後藤市長の計画の犠牲となったものである。当時、当社はか
     くのごとき過酷なる免許失効に対してその不当なることを力説し、抗議したのであるが、
     ついに当局の容れるところとはならなかった」
     と、五島は記している。

  目黒~六本木の地下鉄免許を五島慶太が持っていた?何のことかな?池上が持っていた免許のこと?武蔵(荏原)が持っていた免許のこと?目黒って上目黒に ある中目黒駅の事だったんだぁ。フウン?大正7年に東急東横線の前身武蔵電気鉄道が申請した目黒~有楽町の免許申請のことかな?これの失効って大正13年 じゃなかったっけ?秋庭さん自身も余所でそう書いてたんじゃなかったっけ?当時の目黒町って今の上・中・下目黒に、青葉台と東山とかまで含めた地域だった よな。
 ってだけじゃなく、関東大震災って何時よ?大正12年9月じゃなかったっけ?何で1922年(大正11年)の免許失効が

      大震災後における東京市内の交通を東京市で独占しようとする、当時の後藤市長の計画の
     犠牲となったものである。

になるわけ?そうかぁ、後藤新平関東大震災を予定していたかぁ(笑 凄いなぁ震災前の東京市長時代の大風呂敷。まるで加藤保憲扱いだな。

      「失効」というより「没収」といったほうが当たっていると、私は思う。「かくのごとき
     過酷なる失効」という言葉の裏に、すでに多額の資金を投じて建設を進めていたのに免許
     を奪われた五島の怒りにも似た口惜しさがにじみ出ている。
      中目黒駅近くのトンネルはきっと、その当時、五島が造ったものに違いない。だから、
     古びて見えて当然なのだ。

誤った引用(実質は盗用)に基づいて、しかも、それが何の説明にもならないのに「すでに多額の資金を投じて建設を進めていた」ことになるんだろうか?当時の五島は東横の建設資金捻出で四苦八苦、何処にそんな金が、株主から五島火炙りにされるぜ。


       43」[日比谷駅]祝田橋で日比谷線が地下道と交差している秘密

       日比谷線は霞ヶ関駅を出ると、桜田門で右にカープして内堀通りに入り、日比谷公園の
      北側を通って日比谷駅に着く。
       その途中、祝田橋で「大下水渠」の下を通過している。『日比谷線建設史』には、こう
      書かれている。
       「祝田橋において大下水渠の下をくぐる。この下水渠はかつて丸ノ内線の霞ヶ関駅建設当
      時、霞ヶ関駅付近で下受け工事を施した経験があるもので矩形型の鉄筋コンクリート造り
      である」
       丸ノ内線で下から支える工事をした鉄筋コンクリート造りの矩形の構造物が、祝田橋付
      近にもあって、日比谷線建設のときに日比谷線のトンネルで下から支える工事が行なわれ
      たことを記しているのだ。
       「下水渠」というのは、下水を流す下水溝ではないらしい。1970(昭和45)年に当時の
      山内公猷・営団地下鉄総裁が都市交通審議会の席で、
      「最近、いろいろの下水、あるいは電線シールド工事が非常に多くなっております」
       と発言していることでもわかるが、下水渠といってもいろいろあって、下水とは関係の
      ない電線などを収容した「下水渠」もあったようだ。公にはできないトンネルも、そう呼
      んでいたのかもしれない。
       今から67年前、1940(昭和15)年は紀元2600年ということで、記念のイベントや
      事業がわが国では数多く行なわれた。東京市も皇居周辺の整備を行なっている。
       皇居前広場の造園や道路の改修を行なっているのだが、そのために、全予算の4分の3
      を投じ、勤労奉仕の市民延べ50万人を動員して地下道が造られた。
       幅19メートル、高さ4メートルという大きなトンネルで、これを1・8キロにわたって敷設すると
      いう大事業だった。
       その地下道の起点は今の千代田線霞ヶ関駅、ここから祝田通りに沿って北に進み、図には
      ないが、日比谷濠の手前でループを描き、本線は祝田橋を越えて皇居前広場を通って大手
      門の前へ向かっていた。途中、東京駅前に通じる行幸道路へも分岐していたという。
       この事業は1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までつづけられたが、完成しないまま戦況
      悪化のためか、中止されている。そして、戦後、この地下道はまったく建設されなかったことに
      なっている。
       この地下道のルートはまさに祝田橋で日比谷線と交差しているし、丸ノ内線とも霞ヶ関駅で
      交差していて、「日比谷線建設史」 の記述とも符合する。祝田橋では日比谷線の上に今でも
      地下道があるはずである。

 秋庭さん得意の省略による原資料の改竄の代表例がこれ。

     【秋庭盗用文】

       「祝田橋において大下水渠の下をくぐる。この下水渠はかつて丸ノ内線の霞ヶ関駅建設当
      時、霞ヶ関駅付近で下受け工事を施した経験があるもので矩形型の鉄筋コンクリート造り
      である」

 【日比谷線建設史原文】

   「祝田橋交差点において大下水渠の下をくぐる。この下水渠はかつて丸ノ内線建設当時、
  霞ヶ関駅付近で下受け工を施した経験があるもので、内空3×2.4mの矩形型の鉄筋コン
  クリート造りである」

  もともと、紀元2600年奉祝事業の地下道建設と祝田橋での「大下水渠」下受け工との間には秋庭さん自身すら文章の中で何の憑拠を示す事ができず、関連 もつけることができないしろものなんだけれど、同じ項に並べると何だかこの「大下水渠」が「紀元2600年奉祝事業の地下道路」のなれの果てじゃないかと 思えてくるように「内空3×2.4mの」を省略して、この「大下水渠」が恰も、

       幅19メートル、高さ4メートルという大きなトンネルで、これを1・8キロにわたって敷設すると
      いう大事業だった。


「内空19×4m」位ありそうと、印象操作している訳ね。念の為言っておくと「日比谷線建設史」によれば、この付近の土被り8.9m、この空間に、日比谷線の上に、こんな地下道置ける訳ないでしょうが。ってかどうやって下受け工すんの?
 ネタ元は「紀元二千六百年記念宮城外苑整備事業概要 / [東京市∥編] 」を東京室で当ったってってとこだろうな。

 なお、紀元2600年記念奉祝事業で地下道路、正確には自動車道として計画されたらしいこれについては、morich-blogを参照してください。



      44」[銀座駅]地下2階の狭すぎる通路に秘められた謎

       銀座線の銀座駅は銀座のメイン・ストリートにあり、丸ノ内線の銀座駅はおよそ250
      メートル西にある。この2つの駅をつなぐ大通りが晴海通りだ。
       この晴海通りの地下1階には道幅いっぱいを使った地下プロムナードがあり、地上とは
      違ったテナントが店舗を持ち、人通りも地上より多い。
       この地下プロムナードの下、地下2階にあるのが、改札口を出ないで銀座線と丸ノ内線
      が乗り換えられる専用地下通路である。
       この地下通路が奇妙なのだ。天井は低く道幅も狭い、両側に華やかなショーウインドウ
      はなく、無味乾燥な壁がつづいている。
       扉があるのは東京メトロの事務室だけだ。歩いている人も気のせいか無表情で急ぎ足に
      見える。

  乗換の専用地下通路つまり改札内なら、「低い天井、狭い道幅、ショーウィンドウはない、無味乾燥な壁」って当たり前じゃん。どこが奇妙?実際、殺風景は 殺風景だけど、言うほどに「低い天井、狭い道幅」じゃないよ、大手町から東京駅への東西線の上の改札外の地下通路と変わらない。

       この通路の下、地下3階に広がるのが日比谷線の銀座駅だ。この駅のホームに降りると、
      トンネルが銀座線とも丸ノ内線とも違うことに気づくはずだ。まだ気づいていない人は、
      ぜひ行ってみるといい。
       『日比谷線建設史』によると、「銀座線との交差部は、銀座線建設当時に横断部分の構築が
      造られていたが、当時計画されていた構築と異なって日比谷線は架空線形式になったため、
      隧道の高さが足りず、改造を余儀なくされた」
       つまり、日比谷線銀座駅のトンネルは、戦前、銀座線が建設されたときに造られていた
      が、日比谷線を走る電車がパンタグラフ方式のため高さが足りないのでトンネルを改造し
      なければならなかった、という。

 はいっ、ここも省略による改竄、その上、原資料の都合のエエ所取り。恣意的な盗用。

     【秋庭盗用文】

       「銀座線との交差部は、銀座線建設当時に横断部分の構築が造られていたが、当時計画
      されていた構築と異なって日比谷線は架空線形式になったため、隧道の高さが足りず、改造
      を余儀なくされた」

 【日比谷線建設史原文】

  銀座線との交差部は、銀座線建設当時に横断部分の構築が造られていたが、当時計画
 されていた構築と異なって日比谷線は架空線形式になったため、隧道の高さが足りず、改造
 を余儀なくされた。まず、下床版をこわしてさげるとともに、上床版(銀座線の下床版)をとり
 こわしてPCげたを架け、内空を拡大した。

       したがって、銀座線とはもちろんのこと、戦後に造られた丸ノ内線とも、ここのトンネ
      ルは違っているのだ。
       私は、本書のなかでしばしば、建設されなかったとされている「地下鉄新宿線」は建設
      されていたのではないか、という仮説を述べてきた。実は、この地下鉄新宿線の終点が銀
      座の少し先、日比谷線の駅なら2つ先の築地なのだ。
       戦前、地下3階に造られたトンネルは、地下鉄新宿線のトンネルだったのではないだろ
      うか?
      地下2階の専用地下通路も日比谷線が開通するまではなかったとされているが、日比谷
      線銀座駅を造るときにトンネルの高さを上げたためにスペースは狭くなったが、戦前から
      地下2階の通路は地下3階とともに数寄屋橋から三原橋まで完成していた、と私は考えて
      いる。
       まさに、この地下通路は、戦前の地下鉄の姿が見られる「遺跡」といえよう。

 あのね、戦前に準備されていたのは「銀座線建設当時に横断部分の構築が造られていた」つまり、銀座線直下の交差横断部分だけ、それこそ秋庭さんが主張するところの

        2」地下横須賀線の「東京トンネル」は、100年近く前に造られていた?

         地下鉄のトンネル工事で活躍するシールド工法は、線路の下にトンネルを掘る作業では
        有効だが、ホームなどがある駅の下にトンネルを掘る場合には、駅の重量にトンネルが耐
        えられないため使われない。
         こうした場合は駅を避けるルートに変更されるのだが、都営浅草線五反田駅のように、
        地下鉄が駅の真下を走っていることがある。これは、そこのトンネルが駅が造られたとき
        か、それ以前に造られたことを示している。

 もちろん、このこと自体は嘘で、アンダーピニングとか既設駅のトンネル直下に線路を通す方法はいくらもあるが、営業線を下受けしながら、交差部を造るって、祝田橋の「大下水渠」を下受けするのとは格段に大変な工事、それをしなくて済んだだけでも経費と時間の大節約。
 でも、数寄屋橋から三原橋まで、既に造ってあったわけじゃない。第一、

       日比谷線銀座駅を造るときにトンネルの高さを上げたために(地下二階の:陸壱玖注)スペース
      は狭くなったが、

 その理屈だと、銀座線も交差部でスペースが狭くなるから、銀座線は天井が支えて走れなくなるんじゃないかな?


      45」[東銀座駅]戦前の幻の地下鉄「新宿線」のトンネルを改造?

       日比谷線は銀座駅を出ると、坂を上るようにして三原橋あたりで地下2階に上がってく
      る。ここから東銀座駅付近までの工事の内容が『日比谷線建設史』 に次のように記されて
      いる。

 日比谷線線路平面図および従断面図に拠れば、銀座駅出た所から、日比谷線の北千住向きは12‰、10‰の下り勾配で東銀座駅到着。上りじゃないよ下り。


       「東銀座工区のAは東銀座までの部分開通に必要な工事。BはA、CおよびDを除いた工
      事。Cは追加工事。Dは隣接三原橋工区工事に関する工事である」
       地下鉄工事を知らない私には、具体的にどんな工事なのかはまったくわからないが、気
      になったのが「B」だ。どんな工事なのか、想像すらできない。
       Aは最も主になる工事で、Cはそれを補う追加工事であることは私にも理解できる。し
      かし、Dは隣接三原橋工区工事でなく「に関する工事」となっている。それがどんな工事
      なのかわからない。
       もっとわからないのはBの工事、A、C、D以外にどんな工事があるのだろうか? 日
      比谷線建設とは何も関係のない工事ではなかったのだろうか?
       その他の工事なら普通「D」とするのに、主たる工事の次の「B」にしているのが不思
      議だ。
       そう考えてきて、銀座駅のところで述べた日比谷線のトンネルが築地を終点とする戦前
      の地下鉄新宿線のトンネルではないか、という仮説が浮かび上がってきた。そのトンネル
      が築地まで完成していたとすれば、東銀座工区でもトンネルの高さの変更など、戦前のト
      ンネルに関わる工事があったはずだ。
       しかし、地下鉄新宿線は造られていない、としている営団としては、それをオープンに
      できない。だから「B」工事としたのではないだろうか? 私には、そう思えてならない。


 これについては、昔2ちゃんに書いた記事を挙げておきます。

「30◆地下鉄日比谷線のABCD工事」
日比谷線東銀座工区のABCD工事は、秋庭氏は得意の秋葉算で
「四億円の建設費がかかった」と言うけど、
「日比谷線建設史」では総額は410,835,200  内訳は
A(東銀座までの部分開通に必要な工事)=299,539,940、
B(A、CおよびDを除いた工事)= 67,426,040、
C(追加工事)= 11,011,580、
D(隣接三原橋工区工事に関連する工事)= 32,857,640
つまり、
総額≒4億1千万円
  A≒3億0千万円
  B≒   7千万円
  C≒   1千万円
  D≒   3千万円
要するに、「何も関係が無い工事」の費用は7千万円、この区間の土木工事の四分の一以下の額です。
Aの工事については、>>506氏が書かれている様に、東銀座までの部分開業のために、本線隧道、
駅部分地下2階に変電所と、信号所を作るための工事費用で部分開業時に既に処理済、B、C、Dに
ついては、部分開業以降も計上が発生している事は、「工費表」に(イ)(ロ)と計上時期が区分されて
いるんで、私は、「B」の7千万円は、東銀座駅西端から三原橋工区にいたる、日比谷線地下3階の隧道
工事費用、すなわち本体の工事費用と推定しています。だって何処にも計上されてないんだもん。


      46」[築地駅]地下駐車場は、かつての地下鉄ルートだった?

       日比谷線築地駅で降りて聖路加病院の方向に歩くと、かつて築地川が流れていた築地川
      公園に出る。この公園は川の上にコンクリートの蓋をして造った公園で、公園の下には地
      下駐車場がある。
       この駐車場は第一、第二、第三、合わせて400台の車を収容できる、という。ただ、不思議
      なのは第二、第三が区営なのに第一は都営でも区営でもなく、築地4-16-1と所在地は
      わかるが、その場所が地図にも載っていないのだ。
       ここは、かつて政府専用の駐車場で「ハローページ」にも載っていなかった。戦前の地下鉄
      のルートを追いかけていたとき、私はこの駐車場を4号線のルートで見つけた。
       同様に川に蓋をして造った地下駐車場といえば、西銀座駐車場がある。丸ノ内線銀座駅
      のある数寄屋橋から銀座線新橋駅まで500メートルほどつづいている駐車場である。ここは
      戦前の地下鉄3号線のルートと一致している。
      京橋駅の項で紹介した八重洲地下駐車場は都営だが、ここは戦前の地下鉄5号線のルー
      トに当たっている。
       都営浅草線が走っている昭和通りには、日本橋、宝町、新京橋、東銀座と、4つの地下
      駐車場が並んでいる。収容能力は合わせて約800台。ここは戦前の地下鉄2号線のルート
      になる。
       都営三田線内幸町で紹介する日比谷シティ周辺の地下駐車場、日比谷公開の地下駐車
      場やJR有楽町駅前の交通会館の駐車場など、地下駐車場は戦前の東京の地下を知るうえ
      で重要なポイントに存在している。

今 までの秋庭さんの理論構築から言うと、日比谷線は「戦前の地下鉄新宿線」のトンネルを利用して造られたということになる様なのだけれど、それと築地川第 一、第二、第三、とがどのように関連しているのだろう。秋庭さんの言うように「聖路加病院の方向に」あるのは築地川第三だけ、しかも第二、第三は地上の自 走式駐車場。第一にいたっては築地市場の北東側晴海通りの西側の地上の自走式駐車場ビル。
いづれにしろ、日比谷線から大通りで一筋分離れてるし、地下鉄のトンネルとは無縁の存在。

記事メニュー
目安箱バナー