地下妄の手記

大東京の地下400年 九層倍の嘘 濁乱編

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大東京の地下400年 九層倍の嘘 濁乱編


43」1903(明治36年、「極秘の地下鉄」が日比谷を走った!?

 上野公園の地下を走る京成電鉄を起こし、小田急、京王帝都電鉄を起こし、新橋駅をめ
ぐる早川徳次と五島慶太の騒動では調停役を頼まれるなど、東京の鉄道の歴史にしばしば
登場する利光鶴松は、1903(明治36)年、極秘に地下鉄線路を日比谷公園-数寄屋橋に
敷いている。市区改正委員会の地下鉄建設計画より17年も前のことだ。

  なんと!秋庭さんの妄想、「利光の地下鉄」は、1919年(大正8年)が最初だと思っていたら、いつの間にか時計の針が更に秋庭さんお書きの通り「17年」ばかり遡って明治36年が嚆矢となったようです。脳内では。
  で、早速改竄ですか?

京王帝都電鉄を起こし、

  秋庭さんの歴史認識では、利光は「京王電軌」つまり、新宿~八王子に軌道を敷いた方を起したんじゃなかったのかな?その線で妄想垂れ流していたのを、利光は「京王電気」の起業には関わっておらず、小田急の子会社として発足した「帝都電鉄」の創業者って教えてあげたら、「京王帝都電鉄」を起しに改竄してやんの(笑
  無理だって、利光1945年にオッチンでますもん、1947年だかに大東急から分割になった「京王帝都電鉄」は起せません。
  それから「後術」(by 中村克)してますけど、17年後に「市区改正委員会」は地下鉄建設計画なんて出していませんよ。嘘吐き(笑

  でっ以下支離滅裂な、当時の政治情勢長口舌がはじまります。

 利光は若いころ、弁護士から代議士を目指して板垣退助率いる立憲自由党に入党してい
る。自由党は第1回の衆議院議員選挙で130議席を獲得して最大会派となった。
 しかし、明治天皇が首相に任命したのは選挙に出てもいなかった松方正義。自由党は政
権を握るどころか政府による弾圧を受けることになる。このとき、自由党を動かしていた
のは星亨で、利光は星の右腕だった。

  何が言いたいのかなぁ?最大会派になろうがなるまいが、選挙に出ていようが出ていまいが、総理大臣は天皇が任命します。「任命」は現憲法でも変わっていない。現憲法は「内閣総理大臣が国会議員でなければならないこと」、「天皇は国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」となっている。異なるのは、大日本帝国では、総理大臣は官位であり、国会議員である必要はなく、帝国議会に指名権が無かったってことなんだが。だから、最大会派になろうがなるまいが政権を握る」事なんか出来ないんだが、
  自由党への弾圧と言うより、第二回衆議院選挙(明治25年1892年)での松方政権(主に内務省)の自由党に対する選挙干渉が嵩じて死者が出たり、結果として議席を減らしたりと言うことになったんでしょうが。政府の弾圧というが、当時の選挙ってのがどんなもんだったか、選挙に参加したものがどういう者達だったか?星や利光を取り巻く壮士と呼号する連中がどんな者達だったか?西南戦争や秩父事件を通じて、政府の目から見れば、自由党員はいつ武装して反乱を起こすかわからない連中、それが立法参与の府で多数を占める状況を秩序維持の立場で抑えようと思ったわけでしょ。
  で、受けた弾圧の結果はどうだったのさ?自由党自体が弾圧されたなら、自由党を動かしていたと言う星とその「三百代言仲間」の利光はどう弾圧されたのさ?弾圧の結果がコレ?

彼は「天下を掌握するには、農民の人望を得るほか、宮中の御信任と実業家の信用を得
るを必要とすることに気づいた」と自伝に書いている。
そこで2人は、新興の地主たちと組んで会社を設立し、馬車鉄道、石油鉄道、圧搾空気
鉄道、路面電車と、さまぎまな鉄道の認可申請をしている。

言わんとすることは、

  1点目 農民の人望、実業家の信用が必要と新興地主たちと組んでさまざまな鉄道の認可を会社を設立して申請していると言うこと。

  さまざまな鉄道の認可申請にどんな意味があるんでしょうか?また、その申請をなしたのはいつ頃で、具体的な認可があった鉄道はどれなんだろうか。それが、農民の人望や実業家の信用とどう結びつくのか?説明になっていないんですが。
  利光の出願が「東京自動鉄道」(動力=空気圧搾式)のことだというのならば、その時期は明治28年=1895年以降であり、これは後に雨宮敬次郎、藤岡市助等の「東京電気鉄道」、藤山雷太、渋沢栄一等の「東京電気鉄道」と明治34年=1901年に合同して免許を受け、明治35年4月東京市街鉄道となります。つまり具体的な動きは、以下に秋庭さんの言う、「自由党」が宮中に入ったと言う時期より5年以上後の出来事です。(利光と鉄道に係る経緯は「京成電鉄五十五年史」による)


一方、板垣退助を明治政府のドン山県有朋が務めていた内務大臣にすることに成功。初
めて自由党は宮中に入ることを許された。
 中世ヨーロッパには、王宮と王族の邸宅、教会が地下道で結ばれ、市内の隅々まで地下
道で行ける町があった。地下道は有事の脱出ルートとしてだけでなく、王族の行動の自由
を広げるのにも役立っていた。
 100年前のアメリカのボストンには、政府や州の要人、軍や警察が利用する極秘地下
鉄網が敷かれていたという。これを知った星と利光は、宮中の信任を得る方法として、天
皇家と皇族だけが利用する極秘の地下鉄を考えていたのではないだろうか?

  2点目 宮中の信任を得るため、王族の行動の自由を確保するよう「天皇家と皇族だけが利用する極秘の地下鉄を考えていた?」
  しかし、この段は時制の誤魔化しが凄いなぁ。
  弾圧されたと言う板垣をどうやって内務大臣に出来たのか?そのプロセスが全然見えませんけど、板垣は元参議(新政府のナンバー5)だったんじゃなかったっけ?征韓論で下野したその延長線上に自由党があるんじゃなかったかな?明治20年には帷幄に列する伯爵(華族様)だから宮中に入ることを許されたなんてのは関係ないんだけどね。それとも何かね?何かにつけて仕込み杖振り回す、星と、利光の手下の無頼漢三多摩壮士(星、利光にとっての自由党の中核)連中宮中に入るを許されたとでも?とどのつまりは一体誰が「宮中に入ることを許された。」ことやら。
  中世ヨーロッパってどこですか?イタリアですか?王国ばかりだったんですね?非統一イタリア。それとも別の国?事実関係明らかにされたこと無いんですよねこの件について。
  100年前のボストン?これも実証無いでしょ。ボストンは極秘じゃなくてアメリカで最初に地下鉄を走らせた街、1897年に路面電車の地下化を行った街。110年前にね。で、星と利光が宮中に取り入る「秘策=天皇家と皇族だけが利用する極秘の地下鉄」を考えていたのではないだろうか?と言う時期は、第二回衆議院選挙(明治25年=1892年)から利光の秘策が功を奏して東京市会議員になる明治29年=1896年だとしたら、110年前よりさらに以前ってことだし、こんどは、明治36年(1903年)とも平仄が合わないんですよね。しかも星亨明治34年(1901年)に暗殺されちゃってるんですけど。

 伊藤博文が辞職して、板垣と第2党の党首だった大隈重信に明治天皇から連立政権の命
が下った。しかし、星は板垣と決別して党を解散し新たに憲政党を起こし、その後、東京
市街鉄道を起こして鉄道の認可申請をしている。

  だからぁ、時期が合わないって、街鉄の免許は明治34年、宮中の信任関係は明治29年1896年)以前の話じゃなきゃ。

 結果、認可されたのは日比谷公園-数寄屋橋と日比谷公園-神田橋の2つのルートであ
った。どちらも距離は短かったが、当時は、認可を受けたルートに路面電車を走らせよう
と地下鉄を走らせようと申請した者の自由だった。2つの鉄道を走らせることもできた。
私は、東京で初めて地下鉄の線路が敷かれたのは、1903年開通の日比谷公園-数寄屋
橋だ、としたいと思う。

  で、よりによって、その地下鉄を敷くための手段が「街鉄」ぅ~?
  坊ちゃんはその地下線の図面を引くために明治34年35年に「街鉄」の技手になったってぇのかい?いやぁ、楽しい話じゃねぇかい(笑
  でっ、この地下鉄話、これは当時の東京の路面交通の最大の担い手、東京電車鉄道(東電=旧東京馬車鉄道)には及ばなかったのかな?あれは、馬から電気への動力の転換申請だから、鉄道の敷設免許と違うって算法かい?
  明治28年京都電気鉄道の先例があると云え、東京電車鉄道が転換の申請をしたのが明治33年、街鉄の申請が34年、東京電車鉄道の品川-新橋開通が明治36年8月、街鉄の数寄屋橋-神田橋が9月、漸っと電車線が黎明期を迎えたこの時期に、言ってみれば、動力源の発電事業も黎明期のこの時期に「地下鉄」がどうやったら敷けるの?しかもたった2年で?まさか、35年後の「東京高速鉄道」が2年で渋谷~新橋を敷いたなんて言うんじゃなかろうな。東京高速、開削で2年余掛かってるんですが。例によって有りもしないシールド機を持ち出すのかな?数寄屋橋-神田橋2キロあるんです。当時のシールド機にそんな能力が有ると思う?開放型で、殆どって言うか100%人力で掘るんだよ。圧搾空気や蒸気で動く削岩機すらない時代だよ。1日1m掘れて、2000日約6年掛かるんですよ。「街鉄」は実質1年で数寄屋橋-神田橋の路面電車を敷設していますよね。1日約5mどうやって掘るのかな?最新の密閉式シールド機で鉄道で言う単線相当で1日最大20mだってのに。明治35・6年頃にどうやって掘ったの?それとも、江戸時代の上水のトンネルだか?江戸の抜け穴トンネルの利用?無理です。ってかそんなものねぇもん。有っても無理、幾ら当時の車両が小さかったと言え、少なくとも高さ4メートル以上、複線だから幅8メートル以上のトンネルが必要でしょうから、秋庭説の上水のトンネルとか抜け穴のトンネルは縦横2m四方、ならばこの地下鉄用のトンネルは流用不可能、新規に掘るのと代わらんのじゃないでしょうか。

 ─ ─ ─ ─ 平成21年7月22日追記 ─ ─ ─ ─

 別項の確認で、「内務省史」(大霞会内務省史編集委員会編 地方財務協会1971年刊)を眺めていたら「第二回衆議院議員総選挙」の与党(政府系)と民党派(自由党、改進党等)の議席獲得数があった。

  与党派137名  民党・準民党163名

 秋庭さんが丸写ししている「利光鶴松」の伝記にはこの結果は書かれてなかったのかな?

 ─ ─ ─ ─ 平成21年7月22日追記終了 ─ ─ ─ ─

44」ドイツ軍の首都空襲が東京に地下鉄を促した!

 1914(大正3)年、ドイツ軍が行なったロンドン、パリの空爆は、それまでの大砲に
よる戦争から爆撃機による戦争へと、戦争の形態を大きく変えた。
 ロンドン空襲は114回、パリ空襲は33回。空襲による死者は1861人、負傷者は4
083人を数えた。爆撃機が大砲よりはるかに優れた武器であることは、改めて説明する
必要がないだろう。破壊力、殺傷力は比較にならない。

  たしかに、航空機(飛行船を含む)による攻撃は戦略、戦術のエポックだったが、第一次大戦中も、第二次大戦までの戦間期においても、大砲→空爆と戦争の形態を大きく変えてはいない。基本的には、砲弾の投射距離の延伸。都市等への戦略爆撃の概念はありません。「破壊力、殺傷力は」比較するメジャーが無いので比較にならないのではなく、「比較できません


 それを目のあたりにしたヨーロッパでは、第一次世界大戦が終わるころ、爆撃機が文字
どおり爆発的な増え方をしている。
 ドイツ軍は大戦前の10倍以上の2400機に、ドイツ軍の空襲を受けたイギリスは11
0機から30倍の3300機に、フランスは140機から30倍以上の4500機に、いずれ
も悔しさを晴らすかのように空軍を増強している。

  秋庭さん例によっての「秋庭算」と言うか、得意技元ネタの歪曲です。比較の対象にならない事項を無意味に比較されています。まずここに挙げられている数字は「爆撃機」と言う軍用機種別の数字ではありません。各国軍の「軍用機」全ての数字です。また、終戦時に各国が保有(残存させていた)一応稼働機の数の様です。そして、最大の詐話は大戦前つまり、航空機が専ら偵察や通信の目的で採用されていた開戦時と、爆撃に限らないあらゆる意味で主力兵器となった終戦時の数を比較され、しかも「いずれも悔しさを晴らすかのように空軍を増強している。」と英、仏軍について「意識の捏造」すら行われています。増強と言う言い方、対比、意味無いんです。なにしろ、第一次世界大戦中各国合わせて22万機も造っているんですから、その結果の残存数が、1万機余。途中で米国も参戦してますからこの国の分の残存もあるでしょうが、20万機以上が、戦闘で、或いは耐用時間超等の経年で消耗されていますから。「悔しさを晴らす」何って何の意味も無い無責任な印象操作のためだけの「意識の捏造」です。


もうひとつ、ドイツ軍の空爆がもたらした変化といえば、弾薬庫をさらに地下深くに移
動させただけでなく、ヨーロッパ各国の首都の地下を一変させたことだ。
遠く離れた日本では、未だ敵の戦艦からの砲撃に備えた防衛体制しかなかった。もし空
爆を受ければ東京は、ひとたまりもなかった。

  「弾薬庫をさらに地下深くに移動させた」と言う事実はありません。「ヨーロッパ各国の首都の地下を一変させた」と言う事実もありません。少なくとも、秋庭さんはその証拠を挙げられた事がありません。証跡の無いことをあたかも事実の様に言うことを「捏造」と言います。


「市区改正」のころから陸軍が膨大な予算を使って秘かに築いてきた東京の地下要塞や地
下道網は、その価値を半減させられたのだ、新たな対応を迫られることになった政府は、
1920(大正9)年、市区改正委員会に地下鉄建設を発表させた。

  「市区改正委員会」は「地下鉄建設」の発表なんかしていません。
  東京市の高速鉄道網について提案(位置付けは勧告)したのは「東京市内外交通調査委員会」です。後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 壱

 品川-押上、新宿-桜田門、池袋-越中島など7路線に及ぶ「大地下鉄建設計画」で、
それは、ヨーロッパ先進国に追いつき追い越そうと努めてきた明治政府の「強い意志」が
表われたものか、と思わせた。
 だが、「市区改正」と同じように、10年経っても1本の地下鉄路線も敷設されなかった。

  何で?「大正9年」の話が、

>明治政府の「強い意志」が表われたものか、

 になるんでしょうか?「大正政府」語呂ワリいな確かに(笑


 平成21年7月9日 誤記訂正

──────────── 訂正開始 ───────────────

「市区改正委員会による高速鉄道網の提案、大正9年にありました」

ついては、「嘘吐き」の部分については、上記の主旨について撤回し謝罪いたします。

別途──大東京の地下400年 九層倍の嘘 狂瀾編──(近日公開) で詳記しますが、上記秋庭さんの記述はこの点については、間違いではありません。しかし以下の意味については「嘘吐き」部分は撤回いたしません

市区改正委員会による高速鉄道網の提案は「大地下鉄建設計画」ではないからです

 大正8年4月の市区改正委員会において此件が審議されたときに、委員会幹事池田宏(内務官僚都市計画の法側面の整備に尽力した人)は、こう言っています。

 ──前略── 其の次に地下線に依るべき場所、高架線に依るべき場所
         の区別はどうであるか、大体でも宜いが話せと云う御話であり
         ますが、是れは企業者がありました時分に、其の企業者に許しま
         す時分に間題となる訳でありますし、又其の企業者が其の許さ
         れた設計に基いて工事を実施シマスル際に、地域の状況若は敷
         設すべき土地の交通であるとか或は地質であるとか云ふやう
         な各線の状況を参酌しまして、最も適富なりとする法式に依る
         ことであり間するので、今大体に於て此処は斯くなるであらう
         此処は斯うなるであらうと云ふことを申上げましても、夫れは
         何も権威の無いことと思ひまするから、其の点に対しては説明
         することは止めたいと思つて居ります、

  東京都市計画資料集成 明治・大正篇 27 東京市区改正委員会議事録 藤森照信監修 1987年本の友社刊
  東京市区改正委員会議事速記録(大正8年4月14日開議) 議第862号「東京市区改正設計に関する件」より抜粋
  旧字体および、カタカナ書き部分を新字体、平がなに陸壱玖修正。

  すなわち、高速鉄道を地下で敷設するか、高架で敷設するかなど取り決めていないのです。市区改正委員会が市区改正の設計に盛り込むべしとした「高速鉄道」は、

  市の実態的な外縁が山手線、循環線(現在の総武中央線と神田以南品川までの山手線部分)の部分を越えつつあるから、軌道法による市営軌道の時速8マイルに対して、時速20マイル程度で外縁と都心を結ぶ鉄道

  と言う、目的をうたうものであり、高架、地下の技術的手段は問わない位置付けだったのです(と言うか、技術的手段について検証していないから此時点で云々するのは無意味と言うことだったようです)。これは大正9年1月の告示時点でも変わっていませんでした。秋庭さんが引き写してきた「千代田線建設史」では、市区改正委員会告示を説明している5ページに図があり、凡例に「地下鉄計画線」なる記述があるのですが、これは千代田線建設史編者の誤認、誤解による記述であろうと考えています。

──────────── 訂正終わり ────────────
 

45」80年以上前、世界を驚かせた3層構造の地下鉄駅プランとは?

 20世紀屈指の建築家といわれるフランス人、コルビュジェは、1922(大正11)年、
「現代都市」といわれる都市計画プランの『輝くパリ』という作品を発表して、その名を
世界に知られることになる。

  コルビュジェ、フランス人じゃないし。
  「輝くパリ」なんて作品コルビュジェ発表してないし。
  2ちゃんでも、mori-chi さんのblogでも指摘された、秋庭さん自身文庫版「帝都東京・隠された地下網の秘密[2] 新潮社2006年刊」では「輝く都市」と修正されていたのにまた元の木阿弥ですか?まぁ、「輝く都市」ってタイトルも間違いだからどうしようもないけどね。自著を繰り返し改竄してどうするんですか?秋庭さん?

 『輝くパリ』という作品の中心となるものは、フランスの首都パリのエッフェル塔でも
なく、凱旋門でもなかった。地上2階、地下3階の地下鉄の駅だったのだ。
 それも並の地下鉄駅ではなかった。地下は3層構造になっていて、地下1階には既存の
パリ市内を走る地下鉄のホームがあり、地下2階には市内と郊外を結ぶ地下鉄のホームが
っくられ、地下3階には「新幹線地下鉄」とでもいうべき、遠距離を走る鉄道のホームを
つくる、というものだった。

  だから、パリじゃないってば、市内を改造するって都市計画でもなかったし。秋庭さん地下の構造も嘘書いてるし。

 今の東京なら、地下1階には丸ノ内線、地下2階には都営新宿線、地下3階には中央新
幹線が走る駅が、近未来に新宿にできる可能性があるが、これは80年以上も前の話だ。
パリ市民は一様に言葉を失い、茫然自失に陥ったと伝えられている。

  今の東京、新宿との比較関係ないから。都営大江戸線忘れ去られてるし、新宿もそれぞれの位置関係、地下1・2・3階じゃないから

 当時のパリには多数の地下要塞があり、それを地下道で結んでいたが、いずれも国民に
は知らされておらず、まぎれこんだら出口がわからず、出てこられないといわれていた。
コルビュジェは、そんな地下綱を地下3階に描いていたわけだから、パリ市民の戸惑いは
想像以上だったろう。

  コルビュジェ、スイス人だから。そんなもん描いたら、ジャンダルムにしょっ引かれる。スパイとして。

 日本では、コルビュジェの名は知っていても、『輝くパリ』にある地下鉄駅のプランを
知る人は少ない。というのも、この作品は日本語に訳されていないのだ。
 不思議なのは、地下鉄駅プランに触れてない『都市計画の方法』という作品が、なぜか
日本では『輝くパリ』という題名で出版されている。題名がすり替えられた理由はわから
ない。

  だから、坂倉準三訳の「輝く都市」って本は出てるけど、日本でも「輝くパリ」と言うタイトルの本は出ていないんだが。


 コルビュジェのプランが東京で実行されたら地下の国家機密が白日の下に晒されるので
はないか? と、誰かが恐れたのだろうか。

  コルビュジェ大変だな、あっちこっちでスパイ扱いされて。約一名にだけど。

 

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