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夜桜 - (2007/05/25 (金) 15:10:02) の編集履歴(バックアップ)


                                      夜桜。

郊外の公園。時刻は夜。
お前のために引きこもりを脱出してきてやったからな。
今日はお前の命日だからか、俺は桜が一番綺麗と有名な公園に来ていた。
早速広場に来ると、綺麗な夜桜が俺の目に映る。
暗闇の夜に負けずに勇ましくたっている。
微妙な風によって先の枝と桜が仄かに揺れ、桜がヒラヒラと舞い落ちる。
其れを受け止めるように俺は右手を差し出した。
桜はゆっくりと俺の右手に横たわる。
少しの水分を帯びた桜は程よい温度で俺の熱った手を冷ましてくれた。
嗚呼。確かこんなにも綺麗な夜で桜が咲き乱れていた頃だったよな。
お前が死んだのは……



*     *     *



俺は流石家の長男として生きてきた。
母は史上最強で最悪なほど怖い。
妹は頭がよく、万年赤点の俺とは大違いだ。
いつも、PCをやっているからか、俺は弟より弱い。
だが、そんなことは気にしていない。
姉は一人居るがだいぶ前に結婚し、家を出ている。
父は普通のリーマンだ。

俺の日課はPCに入り浸り、ブラクラを踏むこと。
踏む気はまったく無いのだが、画像を探すと絶対に踏んでしまう。
弟は横から覗き込むように眺め、偶に俺に突っ込みを入れる。

「OK。ブラクラゲット」
「まだ再起動して五分も立ってないのに流石だな」

弟の皮肉などに構っている訳も無く、PCの電源ボタンを押し、再起動を強制的に行う。
どんなPCでも電源を数秒押していれば勝手に電源が切れるのだ。
こんな誰でも知っているような豆知識も、PCを初めて買ったときは全くと言っていいほど知らなかった。
本屋などでPC関係の本を立ち読みすることで得た情報だ。
偶に、インターネット上の最大規模の掲示板である2ちゃんねるで教えてもらうこともある。
今ではPC関連ではオタクの粋に入り込もうとしてる。
ブツンという音と共にPCの画面が真っ暗になり、電源が切れる。
其れをまた立ち上げ、動作可能になるまで待つ。
その合間に弟と話すのも俺の日課だ。

「時に兄者。桜は好きか?」

不意に弟が話しかけてきた。
いつもなら俺が話題を切り出すのに珍しいな……
まぁ、適当に答えるか。

「好きだが、其れがどうかしたのか?」

適当に答えたとしても、これは本心だ。
桜は綺麗だし、何故か心が表れるような気がする。
だが、春の日に桜が絶対見たいほど好きではない。ただ、見れれば良いな程度だ。
何故かというと、俺たちが住んでいる家は結構な都会であるため、桜自体がこの町では絶滅種なのだ。
見るためにはいちいち郊外まで行かなければならない。
そこまでして行く気は毛頭ないし、行く事自体が面倒だ。
だから、ここ数年桜なんて見ていない。

「いや、なんでもない」

弟は其れだけしか答えなかった。
何か隠しているような気もしたが、PCが使用可能な状態まで復帰したため気にもかけずにネットサーフィンを始める。
そういえば、もう桜が咲く頃だな……
インターネットの待ち時間にそんな事をフッと思った。
俺がいつも行く場所は画像を主に扱っている掲示板、半角二次元だ。
ソニンタンのハァハァ画像をいつも探しているが、探すたびにブラクラを踏む。
俺はいつも不思議に思うが、弟に”兄者が鈍感なだけだ”といつも言われてしまう。

「今度こそはあたりだ!」
「その台詞は今日で十回目だが……」

弟の虚言なんかにだまされるか。
俺は名無し>>578さんを信じる!
そして、クリック!

ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・

異常な速度でウィンドウが開かれていく……
またもや、ブラウザクラッシャーか……
俺はため息を付きながらPCの電源をまた落とした。

「時に兄者よ。たまには散歩でもしないか?」

俺は思いっきりPCの再起動を仕掛けているところだったわけで、弟の言葉に少し硬直した。
散歩? 年中自分の部屋で引きこもっている俺とか?
このとき一瞬、弟の目つきが変わっていた。
哀しみ。苦しみ。
そんな感情が弟の目から出ていたのだ。
俺はその時気付いてやってれば良かったのかもしれない。
弟が最悪な状況に居ることを……



*     *     *



一番愚かだったのは自分だったのかもしれない。
自分のことしか考えられなかった俺。
弟が居て当たり前だったという自分の見解。
全てを今ここで見直せば、とんでもない事にまで進まなかったのではなかったのでは無いか……
だが、今こうして後悔してもお前はもうここに居ないのだ。
一瞬悲しさと共に涙がこみ上げてきた。

桜の花びらが、開いたままの右手に落ちた。
先程の桜は俺の体温が熱過ぎたのか、萎れかかっていた。

今ある花弁は二枚。



*     *     *



「まぁ、偶には体を動かすのも良いだろう」

俺はもう既にいつもの弟者に戻っている彼に向かっていった。
もう十回ブラクラを踏んで気分も荒んでいた所だったし、引篭もりから外の世界に出てみるのも悪くはない。
外はいい具合にカラリと晴れ、殆どの草木はまだ顔を出していなかった。
もう三月だというが、まだ外は寒いだろう。
俺は寒いのが嫌いなため、着込みに着込む。
厚手の靴下に履き替え、今までT-シャツだったが、直ぐセーターに着替え、その上にはフリースを着、マフラーを首に巻き、お気に入りのロングコートを羽織る。
見た目からしたらかなりふとましいだろう。
結構な量の着物を着込んだため、否が応でも体が太くなってしまうのだ。
準備ができ、弟の前に出ると、思ったとおり、彼は噴いた。

「プッ。兄者。其れは流石に着込みすぎかと思われ……」

着込みすぎているとは自分で思っていない。
ただ、寒いのが尋常じゃないくらいに嫌いなだけだ。
あの、肌を抉り取るかのような感覚。冷たく、優しさが感じられない風。
俺は昔から冬が嫌いだった。冬に良い事等ひとつもない。
冬好きな奴に言わせれば冬の良い所は一晩を明かせるほど話せるだろうが、俺にそんな気など毛頭無い。
冬のことで一晩明かすくらいなら何もしない方がマシだ。

「うるさい。弟者だってわかっているだろう。漏れが寒がりだということを」
「ああ、極端のな」

皮肉に笑う弟者を殴ってやりたかったが、ここは必死にこらえた。
別に殴りたければ殴れるのだが、俺は弟者より弱いため返り討ちにされるのが落ちなのだ。
悔しさを必死に心のうちに隠し、弟者より先に玄関へと向かう。
母は近くのスーパーでパートとして働いている。
妹はまだ中一なので学校に居るだろう。
俺たちは完全な休日。俺たちの学校は創立記念日として今日はお休みなのだ。
久しぶりにPCに入り浸りだと思ったが、弟者も同じ学校であったことを今思い出した。
玄関は相変わらず寒い。
家のドアの隙間から冷たい風が押し寄せてくる。
まだ冬が続いているという知らせだ。
だが、結構着込んだ所為か寒がりの俺でもそこまで寒いとは感じなかった。
其れはそうだ。まだ家の中なのだ。
歩きやすい運動靴を履き、弟者が履き終るのを見計らいドアをあけた。
案の定外は寒い。
だが、あまり寒すぎるとは思わなかった。
やはり春も到来してるのだろうか、生ぬるい風が寒い風と共に俺の顔に向かって襲ってきた。
風はそこまで強くなく、俺の顔をそっと撫でる位が限度だった。
弟は未だに外を出るのをためらっている。一度出てしまえばそこまで寒くはないのに。
俺は未だに玄関で外に出ようかと迷っている弟に向かって声をかける。

「おい弟者。漏れが外に出ているというのに何故弟者は未だに家の中なのだ?」

意地悪く笑って言ってやった。先程俺を馬鹿にしたお返しだ。
弟はその言葉にムッとした様で、最終的に外へと出てきた。
弟が家に舞い戻らないように急いで家のドアを閉め、鍵をかける。
これで弟の逃げ場を防いだ……
まぁ、くだらないことだとは思っていた。そう思っている端から弟者がこちらを訝しげに見つめポツリとはなつ。

「何をやっているのだか……」

やれやれといった口調で弟は放つ。
また、こいつは癪に障る事ばかり言いやがって……
俺も一瞬むっとしたが、下らない争いはやめ、散歩を始める。
やはり、都会は嫌いだ。
一日中車の騒音は町中に響き、工場や車のガスで汚れたスモッグが大気を黄色く汚している。
最近は政府が危機感に陥ってきたのだろう、排気ガスを無くそうなどと訴えかけるポスターを張り出しているが、そんなことは無駄だと政府はわかっていない。
大体、呼びかけるだけで町が元に戻るとでも思っているのか。
自分から動き出さなければ何も変わらないと言う事が分らないのか?
大気を汚している本人はそんなこと関係無いと言うほどに平気で汚し続けているのに……
植物も最近この町では不要のものへと変わって行く。
そのうちこの町は汚れによって死に絶えるだろうな……
俺がそんな事を思っていると無意識に顔が怖くなっていたらしい、弟者が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

「時に兄者。何を考えているのだ?」
「いや……なんでもない」

別に答えてもよかったのだが、いつもはPCのことしか考えない俺がこんな事を思っていたなどと、弟に知られたら、あいつは腹を抱えて笑うだろう。
俺はそう考えていた。
桜か……俺も、今年は見たいな……
歩道をぶらぶらと歩いていたため、目的地が完全にわからなかった。
とりあえず、近くにあった公園とは呼べない、小学生の遊具が沢山あるところに寄った。
ベンチは赤くさび付き、木は結構使われているのだろうボロボロになっている。
だが、座るところがほかにも無かったため、俺達はそこに腰を下ろした。
俺たちの二人はそこまで重くないはずなのに腰をかけただけでベンチは悲鳴を上げた。
キシキシ言いながら木が少し反り返る。

「このベンチ少し危なくないか?」
「ああ、漏れもそう思う」

二人で顔を見合わせながらそんな事を呟き、笑いあう。
この遊具の溜まり場には植物が少なからずある。
生憎桜は一本も無いが……
風が時折強く吹き、何も付いていない寂しい木を大きく揺らす。
その何時もと全く変わりない光景を俺は何かに取り付かれるように見ていた。
何故かは判らない。弟とこうして平和でいられるのが最後だと心が悟ったのだ。
訳が判らない。
弟がこうして何の問題も無く俺と一緒に居るというのに……
多分下らない危機意識だろう。
通常が壊されるというありえない被害妄想。

                                      ”ありえない” 

本当にありえないのだろうか? 弟者が傍に居て何時も二人で笑いあう。
その通常が覆される。其れが本当にありえないのだろうか?

「兄者!」
「!」

弟の言葉に俺はハッと目を覚ます。
最近は何でだろうか、外に出るとこういう変なことばかり考える。
自分が変わり始めているという証拠か……それとも、回りが変わり始めているという証拠か……
(いかんいかん)
心の中で首を振り、下らないことを振り払う。
そして、弟者のほうに顔を向けると、彼は心配そうに此方を伺っていた。

「兄者、時にどうした? 今日の兄者は結構変だと思われ」

まただ。
弟者の目に何か哀しみと苦しみが映る。
哀しみは判る。
桜が今年も見れないという下らない悲しみだが、苦しみは一体なんだ?
何か病気にでも侵されたのか?
一体何なんだ……

「いや、なんでもない。ただ色々と考え事をしていただけだ」

適当に流す。
別に嘘を言ったわけではない。
考え事をしていたのは紛れも無い事実だ。

「兄者。聞きたいことがある」
「何だ?」

一瞬弟の顔が真剣になる。
一体さっきから何を感じているのだ?
何を考えているのだ?

「もし明後日に死ぬとしたら何がしたい?」
「明後日?」

―――― 何故明日ではないのだ?

ふと嫌な予感が脳裏をよぎる。

―――― 明後日? 何を言っている?

彼は遠くを見、目は哀しみを纏っている

―――― 何を考えているのだ?

鼓動がゆっくりと早くなる。

―――― 教えてくれ。何を隠しているのだ。

突如、弟がベンチから倒れる。
考え事をしていたからか、その瞬間が永遠に思えた。

「弟者ー!」

いつも何か叫んでいた。
意味がわからない。何故弟がいきなり倒れる?
だが、一回母者がこんな事を言っていた……

―――――― 弟者は偶に病院に行っているね。何でだろうか

そうか。
あの哀しみと苦しみはそういう意味だったのか。



*     *     *



嗚呼。あの時が最後だったな。
だけど、俺は後悔していない。
全ては俺が馬鹿だったゆえに気づかなかったこと。
全ては俺のせいだが、別に思い悩んではいない。
だって、あいつが言ってくれたからな。

              ”過去に囚われるな”

と。

新しく花弁が俺の右手に舞い落ちる。
新しいのを合わせると三枚。



*     *     *



俺は完全に慌てふためいていた。
目の前で弟者が倒れたのだ。
血は噴いていないが、体が小刻みに揺れている。
ポケットを全て探してみると、運良く携帯電話を持っていた。
手がかなりの速さで震えている。
あれ?
救急車の番号……
何だっけ?

人は極度のパニック状態になると頭の記憶が完全に混乱し、ある記憶が喪失してしまうことがある。
簡単なことが思い出せない。
目の前の人物を助けるのに必死で何をして良いかわからない。
冷静な判断ができなくなる。
パニックに陥るなと大人は子供に言い聞かせるが、こういう非日常的なことが日常におきると脳は突然の状態変化に応じることができない。
そして、パニック――――

弟者が死ぬ!
弟者が死ぬ!
弟者が死ぬ!
弟者が死ぬ!

これだけが俺の頭をぐるぐると回っていた。
周りの人たちが俺たちの状態を理解してくれたみたいだ。
ギャラリーが俺たちの周りを取り巻き、しばらくすると、救急車がやってきた。



くそったれ……
まだ死ぬわけには行かないんだ……
兄者なんかに家を任せていられるか……
俺が居なければ……
体よ動け!!

ちっ・・・・・
こんな暗闇の中で死ぬのは全くのお断りだぜ……
ん?
何だ……目の前にあるのは?

あれは……

桜?



ピー・・・ピー・・・ピー・・・ピー

弟者……
頼むから目を覚ましてくれ……

弟者の命を表しているように無機質な機械音が当たりに響き渡る。

―――― お前が死んだら俺はどうすればいいんだ……

機械音は秒針の様に弟者の命を部屋に伝える。

―――― 今まで気づけなかった俺を許してくれ……

兄者の目から涙があふれる。

―――― 桜……お前が目を覚ましたら一緒に見に行こう……

窓の外から見える景色は夜。

―――― 頼むから……

一瞬、遠くから強大な風が吹き、病院の窓を大きく揺らす。
気が狂いそうなほどに白に統一された病室は優しく二人を包み込む。

「兄……者……」

弟はふっと目を覚ます。
ゆっくりと開けられた目には哀しみだけが映っている苦しみは無い。
よかった……
根拠の無い安堵感を俺は心の中でたっぷりと抱く。
弟者は無事だった……

「兄者……頼みがある……」
「ん? なんだ?」

                         ”俺に桜を見せてくれ”

桜?
こんな夜中にか?
弟者の必死さがこめられた声に俺は少し恐怖が脳裏をよぎ、気が付いたら弟者を背中に担いでいた。
病室を出た瞬間、後ろから色々な声が追ってきたが、俺は構わず弟者を背負ったまま走り続けた。
目指すはこの町でたった一本だけある大きな桜。
背中に張り付いている弟者の鼓動は時間がたつにつれてゆっくりと弱く静かになって行くのが判った。



まだ死ねない……
桜を見るまでは……
目の前にある大きく佇んでいる桜の木を見届けるまでは……

俺は力が続く限り走った。
目の前に佇む桜がゆっくりとだが、着実に迫る。

胸が痛い。
心臓が破裂しそうだ。
無理も無い。俺は一応病人なのだから……
気をしっかり持たなければ一気に持っていかれそうだ……
目の前の大木はあと少しというところまで迫っている。



弟者の最後の願いをかなえてやるんだ!
俺はただ其れだけをエネルギーに後五百メートルという距離を走っていた。
弟者の鼓動は着実に弱くなっている。
負けては駄目だ。
病気というなの下らない敵をおまえ自身の体から追い出せ!

「まだ…死ね…な…い」

弟者はもう何処かへ消えてしまいそうな程弱弱しくなっている。
この汚れた外気にずっと触れているためであろう。
俺は今このときこの大気汚染を恨みに恨んだ。
弟者の体を蝕むこの外気を……
弟者を俺から奪って行く魔の空気を……

「俺たちの時間を返せ……」

何故こんな言葉を言ったのか。
誰にこの言葉を言ったのかは全く判らない。
ただ、弟者の消えかかっている命の灯火を消そうと頑張っている外気や、排気ガスどもに何かを言ってやりたかっただけだ。
弟者の健康な体をこんなにも弱弱しくしやがって。
誰を恨めばいいのか判らない。
外気か。政府か。大気を汚している車か。

否、違う。

一番憎むべきものは………

俺だ。

何時までも一緒だと思っていた。
それ故に相手のことを考えずに生きてきた。
何時ものようにネットを徘徊し、ブラクラをふみ、弟者に皮肉られる。
そんな、毎日が何時までも続くと思っていた。
元から其れが間違いだったんだ。
人に永遠など存在しない。
形ある物いつか壊れる。
この世に死が無い者等存在しない。
そう。形を持っているもの全てに死がありえるのだ。

老衰。
老化。
劣化。
病気。
事故。
自殺。
他殺。

あらゆる原因で死は発生する。
其れが早いか遅いかの問題であって、それ以外は何も無い。
全ての死に原因がある。
其れを発生させるのを如何に遅くすることで、死の恐怖から少なからず遠ざけることができる。
だが、其れは永遠ではない。
老衰、病気は防げないものだ。
どんな薬だとしても、治療だとしても、体が老化するのは防ぐことができない。
そして、老化が進めば進むほど抵抗力が落ち、若い頃での軽い病気でも、年をとってから掛かれば致命的になる。

そんな事は気にも留めなかった。
前から弟者は健康だと思っていたからだ。
気づけば、お前があのような不可思議な表情をしたときに早く気づいてやればよかったのだ。
そうすればもっと早く適切な処置ができていたものを……
お前の命の灯火がこんなにも弱弱しくならなくても済んだものを……
否、今後悔してももう遅い。
今俺にできることは一刻でも早く、お前に桜を見せてやること。

そして、着いた。



あと少しだ。
あと少しであの桜の傍に……

突如自分の体が重くなる。
動けない。
目の前の景色が霞んで行く。
あと少しなのに……
あの綺麗な、桜が……

            ”夜桜”が……


漆黒の景色にポツンと立つ哀しくも美しい巨大な桜。
其れは自らの命を具現化したもの。
自分の意思で自らの命に触れることはできない。
そう。
その行為は自らの手で心や魂を掴もうとする行為と全く同じ。
目には見えない。だが、其れで居て存在している。
命の具現化方法は人によって異なる。
大切な人か、聖火の様に燃え上がる炎か……
命は成すがままに遠くでそっと見つめるのが一番正しい行為なのだ。
近くによってよく見ようとしても、命自体が其れを拒絶する。
下手をすれば、自分の意思で死の恐怖を近づけるも遠ざけるも自由にしてしまうからだ。
命は意思に反応するのではない。
心に反応するものだ。
”意思”が命に触れてみたいと思っても、”心”が拒絶すれば、命も拒絶する。
何故かは判らないが、”意思”と”心”は根本的に違うものだ。



「ハァハァ……着いたぞ弟者……」

目の前にあるのは巨大な枝垂桜。
柳のような枝にあらん限りの綺麗な桃色の花弁が咲き誇っている。
少しの微風にも枝は大げさに揺れ、花吹雪を俺と弟者に見せた。
俺はその姿にかなりの感動を心に覚えた。
ここ数年見ていなかった桜。
しかも、周りは夜で、その夜を照らす光というように花弁一つ一つが綺麗に月夜に光る。

                ”夜桜”

なんて綺麗なのだろうか。
太陽光に浴びて輝かしく光るその姿とはまた違い、堂々として、冷静さを醸し出している。
不気味でもなく、明るすぎて疲れることも無い。
絶妙の光加減、大きさ。
まさに自然の奇跡。
なんとなく、頬に涙が伝う。

「弟者……弟者……お前が見たがっていた桜だぞ。
其れもこんなに綺麗な……弟者……?」

背中には人間の温もりではない。
水のように冷ややかな冷たさ。

そう。

心臓が……
弟者の命の具現化。
弟者の”桜”が、全て……散った。
彼が一番求めていたのは、現実にある綺麗な大木ではなく、自らの命だったのではないか……
弟者の心は病気という名の闇で覆われ、だが、それでも何一つ傷つくことなく壮大に弟者の命を保ち続けた世界でたった一本の”命”又は”桜”

彼の桜が散ったとき、俺の膝がガクンと折れた。
こんなにも綺麗な桜が見れたのに。
こんなにも綺麗な夜桜が見れたのに。
誰も居ない。俺たちだけの桜が見れたのに。
俺は土でできているが、硬い地面に向かって拳を振り下ろす。
弟者……お前と一緒にこの桜が見たかったのに……
お前がまだ生きている間にこの綺麗な桜をお前に見せてやりたかったのに……

「畜生……!!」

一番大好きだった。
大切な存在だった。
一番の大親友だった。

お前と一緒に見たかったのに。
先に逝きやがって!
何で、弟が兄より先に逝くんだよ!
何で、こんなにも、堂々と、力強く立っている夜桜が、お前に見せられない!
無意識に涙が目の前に移る黄土色の地面に落ちる。
弟者……弟者……



*     *     *



ハハハ。
俺は、無意識に笑った。
弟者が死んだ後、俺はこっぴどくみなにお説教されたな……
可笑しいな。
こんなにも、お前の死が哀しいのに、今思って思い返してみると、笑い転げてしまいそうだ。
楽しい思い出。
悲しい思い出。
忘れたい思い出。
全てが俺の頭の中を駆け巡る。
目の前の桜吹雪はまだ止まりそうに無い。

またもや、俺の頬から無意識に涙が零れ落ちる。
お前が居なくなってから、俺は涙脆くていかんな……
弟者……

お前は其れでよかったのか?
お前の満足する桜は見えたのか?

俺は、思い切って、叫ぶ。

『桜をたまには見に来いよ!!』

お前の返答を待っていた。
帰ってくるとは思っていない。
だけど、待ちたかった。
お前が近くに居るという証拠が欲しかったのだ。






『当たり前だろ……?』





俺の背中に暖かいものが一瞬触れる。
そして、振り返った其処には……

ああ、また、命日にここで一緒に夜桜を見ような……



               ”弟者”      


薄らと透明感がある人影に俺はそう微笑みながら言った。
人影は、弱弱しく笑い、俺に手を振って消えた。




                                       『約束だぞ』


               THE END