五回目の結婚記念日の朝。 シンジは窓を開け、顔を突き出して天気を確かめていた。 透き通るような真っ青な空に、スッと筆で刷いたような一筋の雲があるだけの好天。 その青空と白く輝く太陽の光に誘われ、シンジは遥か昔の記憶を思い起こし、一人夢想していた。 先生の所に預けられていた頃。 漫然と冴えない休暇の日々を過ごしていたシンジにとって、夏休みは苦痛でしかなかった。 どうすれば早く夏休みが終わるのだろう? ただそれだけを思っていた。 しかし。 碧眼の少女と出逢い、使徒という敵を一緒にすべて殲滅し終わった後の夏。 どうすればその少女との楽しい夏休みの日々を永遠に続けられるのだろう? シンジは、ただそれだけを考えていた。 やがて大人となり、ひと夏にも渡る休暇とは無縁な日々を送っているシンジは、 あの夏に、今は彼の妻となったその少女と過ごした日々こそが、 もはや戻ることのない永遠の夏休みへの入り口であったことに気がつく。 遠く、長い夏休みは、今もシンジの記憶の中にあり続け、燦然と光輝いていた。 「いつまでボケッとしてんのよ、バカシンジ!電車、乗り遅れちゃうわよ!」 妻の声に、現実へと引き戻される。 慌ててタオルなどの入ったボストンバックを肩に背負うと、シンジもアスカの後を追った。 『――まもなく7番線に、新湘南行きの特急列車が参ります。危ないですから黄色い線の内側まで…』 無機質なホームの音声案内を聞きながら列車を待っていた二人は、 ようやく到着した列車のドアが開くと、乗車券に記載されている席へと向かう。 アスカを窓側の席に座らせると、シンジもその隣に腰を下ろす。 ポテチを食べながら、ご機嫌な様子で発車を待っているアスカを、シンジは優しく見守っていた。 二人が海へ行くのは、これが三度目だった。 最初は高校生のとき。夏休みに、新しく出来た人工ビーチの新湘南へ行った。 二回目は新婚旅行のとき。有給を二人でとり、三泊四日で沖縄へ行った。 それ以来の海なのだから、アスカがはしゃぐのも無理ないな、とシンジは思う。 『大変お待たせ致しました。7番線・新湘南行きの列車が発車致します。』 二人を乗せた列車が動き出す。加速していくにつれて、景色が風のように流れ、移ろう。 そんな窓の外の風景を眺めているアスカに、シンジは先週からずっと聞けなかった疑問を投げかけた。 「何で今回の結婚記念日に新湘南に行くことに決めたの?」 「たった一日だけの休みじゃ、近場しか行けないじゃない?それに…久しぶりにあの海を見たくなったし。」 照れ隠しのためだろうか、少しぶっきらぼうに答えたアスカの態度に、シンジは確信する。 アスカも、あの楽しかった遠く長い夏休みの記憶の引き出しを確認したかったのだろう、と。 今朝、シンジが思いを馳せていたように。 いつの間にかに外は、都市の殺伐としたビル群から、田舎の緑の色濃い木々の風景へと変化していた。 ガタンと一際大きく揺れると共に列車は止まり、終点のアナウンスが流れた。 二人はそのまま海岸行きのローカル線へと乗り換える。 駅のホームでは、潮騒が遠くに聞こえ、ほんのりと潮の香りもしてきた。 ガタン。ガタン。やや老朽化した車両が音をたてて走り出す。 「…この辺りは、あの頃とほとんど変わってないわね。」 「うん。何だか懐かしい感じがする。」 目的の駅に到着すると、改札を抜け、しばらく真っすぐに歩く。 目指す海岸は、すぐ近くだ。 海岸に着くと、アスカは砂浜へと一直線に駆け下りていった。 背伸びをするかのように両手を高く突き上げ、潮風に逆らって水平線に向かって叫ぶ。 「う~ん、気持ちいいー。海~ってカンジ!」 そのまま砂浜を縦横無尽に駆けまわるアスカに、シンジは慌ててビーチサンダルを手渡す。 「さっすがシンジ。よく気が利くじゃない?」 そう言いながら悪戯っぽく微笑む妻に、少しドギマギしてしまうシンジ。 二人はおそろいのサンダルに履き替えると、波打ち際まで歩いていった。 シーズンをやや過ぎた海には、沖合いにいる数人のサーファー以外誰もおらず、 まさに二人のための貸切状態といった感じであった。 するりと上着を脱ぐと、アスカは水着姿になって、波と追いかけっこを始めた。 「ねぇシンジ、アンタもこっちに来なさいよ~」 「僕はここで荷物番してるから、アスカは泳いできなよ。」 「あんたバカァ?他に誰もいないんだから大丈夫よ。ほら!」 「うわっ!濡れちゃったじゃないか!やったな~!」 アスカに両手ですくった海水をパシャッとかけられたシンジは、 荷物を砂浜へ置くとTシャツを脱ぎ捨て、その後を追っていった。 二人は沖の方まで泳いでいく。思った以上に海水は暖かく、思い切り海水浴を満喫する。 「見て見てシンジ!ほら、あそこに魚がたくさん泳いでるわよ!」 海中に顔を出したり沈めたりしながら子供のようにはしゃいでいるアスカを眺めながら、 こんなに溌溂とした、心から楽しそうな妻の笑顔を見るのはいつ以来だろうと、シンジは思う。 しばらく二人は泳ぎまわったり、綺麗な貝を探したり、クラゲを海草で突いたりしながら、 一緒の時を過ごしていたが、シンジは疲れてしまい、一旦浜辺に上がった。 「あらぁ、もうお疲れ?無敵のシンジ様が?」 波間で濡れた口を尖らせながら、アスカはしばらく文句を言っていたが、再び沖へと泳いでいった。 優雅に泳いでいる妻の姿は、とても眩しく輝いて見えた。 高校生の頃の、あの日のように。