おふくろさんは朝が早い。寝台を整え見繕いの後軽く体をほぐしていると、お付の女官が部屋に入ってきて朝の挨拶をした。
彼女もおはようと挨拶を返し、しつらえられた鏡台の前に座った。彼女はこの鏡台を好きではなかった。分不相応だと感じるのだ。
女官は艶やかな明るい光沢を持つ、彼女のクリームブロンドに櫛を通してくれた。
丁寧に。丁寧に。
彼女はこの時間が好きだった。髪と共に心まで解きほぐされるようだった。
とりとめのない思いに浸る。これまでの人生、出会った人、別れた人・・・
彼女はその四肢に力をこめて立ち上がると、部屋のドアを開けた。
さぁ、今日も一日がんばろう。

「おはよう、おふくろさん」
おはよう。彼女が道を歩くと子供たちがあいさつをしてくれる。彼女はいちいちその挨拶に答える。そうすると子供たちは、ワッと楽しそうに笑い、学校への道を歩いてゆく。
彼女は子供たちとふれあうのが大好きだった。
子供たちは良いにおいがする。純真でほがらか、好奇心旺盛で少し残酷で、でもそれは生きる楽しさでいっぱいになっている傲慢さ。
でもそんないのちにあふれる子供たちが好きだった。
世界はやさしいものではなく、いつも悲劇をふり掛けようとする性悪の醜女。
ついさっきあいさつをした子供たちも、醜女からひどい仕打ちを受けている。
世界に愛されているならこの国に来なくてすんだのに。
そう思い、ややうつむき加減に歩き出す。
いえ、彼らがこの国に来たのは愛されるため。そうでなければ悲しすぎる。
彼女は再び頭を高く上げ胸を張り、道行く子供たちと元気にあいさつした。
私は・・・私にできることをしよう。

一見何も起こっていない街中でも、低い目線で見ると色んな事件が起こっている。
若い者同士のなわばり争いや、迷子や、魚どろぼう。
彼女は目についたひとつひとつに辛抱強く向き合っていた。
いきがる若者にはさとし、はぐれた親を探した。
どろぼうは捕まえてみるとやせ細っている上に、お腹をすかせた子がいるという。魚屋の主人には悪いがここは逃げられたことにした。
「いいってことよ。おふくろさんが悪いわけやないわな。ありがとうな!」
魚屋の主人はそうねぎらい、お土産までくれた。
いい人をだましたことに心が痛んだが、ここは甘えることにした。
彼女はどろぼうの親子にこのお土産を届けて、食事を確保する別の方法を相談することにした。

彼女は路地裏にある空き地に来ていた。
立ち木が一本あり木漏れ日が芝生をモザイクに彩る。静かでぽかぽかした、お気に入りの場所だった。
しかし今日は先客が来ていた。小さい子。だけど様子がおかしい。背を丸めて向こうを向いたまま泣いていた。
彼女はその涙をぬぐい話しかけた。
子供はいった。「ハルにはお母さんがいないの」
「あのね、ユウくんとミキちゃんとジュンちゃんにはお母さんがいるの」
「でもハルにはお母さんがいないの」そういって涙をこぼした。
あぁこの子もそうなのだ。事情は分からないがたまらなく寂しくなったのだろう。
彼女にはこの子にかける言葉がなかった。
ただそばにいて子供の話に耳を傾け、小さな瞳から涙がこぼれたときはそれをぬぐいとった。
子供は話しつかれたのか彼女に身をもたれかけ、いつしか小さな寝息を立てていた。
眠りなさい。彼女は思った。
どれだけ今がつらくても、生きてさえいればいいことがある。
子供の高めの体温を感じながら彼女も眠りに落ちた。
夕日を受けこがね色にたゆとう彼女の髪が、子供をつつんでいた。

彼女は夜になる前に子供を起こし、孤児院まで送り届けた。
「・・・お母さん」子供が寝言でそう漏らしたことを思い出す。
嬉しさと悲しさが半分ずつだった。
彼女は家に帰ると今日を思い返した。色々なことがあった。それでも平和な一日だったと思う。
それでも胸には一抹の不安が宿っていた。思い過ごしだといい。
街には忌まわしいにおいがあった。
それは砲煙と硝煙と軍靴の。それは悪意と狂気と歓喜の。それは血と肉と死の。
彼女の卓越した嗅覚にはいまいましいほどにその気配を感じていた。
背筋が凍るようなおののきとともに、激しい怒りを覚えた。
にんげんはいつまで同じことを繰り返すのか!
それでもなお彼女はみんなが好きであった。抑えきれないため息が洩れる。
私は・・・私にできることをしよう。

彼女は部屋のドアをくぐる。
そのドアにはプレートが掛かっていた。
いわく「母なる犬」と。

(文章:九頭竜川)
最終更新:2007年01月30日 22:13