耶麻郡大谷組利田村

陸奥国 耶麻郡 大谷組 利田(かかた)
大日本地誌大系第32巻 153コマ目

府城の西北に当り行程6里。
3区に住す。
東を清水(しみつ)という。家数15軒、東西1町36間・南北1町8間。
その西6町に1区あり。関野(せきの)という。家数20軒、東西2町・南北1町40間。
関野より未(南南西)の方1町に1区あり。滝下(たきした)という。家数2軒、東西7間・南北35間。
北は山に()ひ南は揚川に臨み東西に田圃(たんぼ)あり。

東7町吹屋村の界に至る。その村まで8町。
西14町中山・赤岩両村の界に至る。両村まで21町。
南2町河沼郡野沢組利田村に界ひ揚川を限りとす。その村まで8町。
北15町小土山村の界に至る。その村は子丑(北~北北東の間)に当り16町20間余。
また
辰(東南東)の方7町荻野村の界に至る。その村まで8町。
戌(西北西)の方14町大蘆村の界に至る。その村まで28町20間余。
寅(東北東)の方17町大谷村の界に至る。その村まで26町。

この村旧蔭田という。永正中(1504年~1521年)今の名に改むという。

山川

揚川

村南2町余にあり。
広100間計。
荻野村の方より来り、西に流るること23町余中山・赤岩両村の界に入る。
小船を設け野沢組の諸村に往来す。
この川の北岸に大黒岩とて高30丈計、巨岩の(そび)えたるあり。慶長16年(1611年)の地震に岩折けて、流れを塞ぎ高1丈計の大滝となり(さけ)(ます)の類上ることを得ず。因て土人多く網罟(もうこ)の利を得たり。寛永6年(1629年)滝を切開きしより上流の諸村もやや釣漁の利あり(利田村の条下を併せ見るべし)。その後享保中(1716年~1736年)京師より岡田道幽というもの来り、塩川村より越後国新潟まで船を通せんことを計り数多の人夫を集めこの滝を切崩しけれどもその功成らず。今に利田の滝とて岩石多く急流なり。

水利

堤5

一は村西18町にあり。小牧堤(こまきつつみ)という。周110間余、天和2年(1682年)に築く。
一は村より12町戌(西北西)の方にあり。なす山堤という。周60間余、元禄2年(1689年)に築く。
一は村より14町亥(北北西)の方にあり。周140間元和2年(1616年)に築く。彌中堤(やなかつつみ)という。
一は村北19町にあり。中野堤(なかのつつみ)という。周150間余、寛文8年(1668年)に築く。
一は村北15町にあり。周70間余、元禄4年(1691年)に築く。大平堤(おほたひらつつみ)という。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 天神
鎮座 不明
清水の西1町30間にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登が司なり。

瀧神社

祭神 罔象女神(みずはのめのかみ)
相殿 天神
鎮座 不明
滝下の西1町40間にあり。
鳥居あり。高村能登が司なり。

寺院

圓満寺

関野の北にあり。
開基の初詳ならず。
山号を清水山という。真言宗府下博労町自在院の末山なり。
天文中(1532年~1555年)照林という僧住してより法流相続す。
大日を本尊とし客殿に安ず。
鐘楼門あり。鐘の径2尺2寸、『享保二十乙卯年行願カ鑄所ナリ冶工早山清左衛門伊次』と彫付けあり(享保20年:1735年)。

四所神社

境内にあり。
この社もと村中にあり。何の頃にかここに移す。

不動堂

境内にあり。

古蹟

館跡

村西5町、小牧林という所にあり。
登ること15丈計、東西1町・南北2町、四方に堀の形あり。
明應・文亀の頃(1492年~1504年)小林伊勢介敦平(とんたひら)という者住せしという。今もこの地の字を敦平という。
また清水に敦平が子伊勢介春綱が的場跡なりという所あり。


  • Google Map
    • 清水利田地区(清水)
    • 関野?
      • 関下という地名はあり。位置的には関野の場所。
    • 滝下利田地区(滝下)
      • 南側に滝下という地名があるが民家なし?
    • 大黒石 - なし
      • 河川工事のおかげで現在急流は無くなっています。岩があったとすれば、揚川の北岸という事なのでこの辺?(ストリートビュー
    • 熊野神社(清水)
    • 瀧神社(清水)- 確認できず。
    • 円満寺>?(滝下)
    • 小牧館跡?
      • 小牧は上小牧・下小牧という地名がありますが、大体この辺りです。近くに磐越西線の阿賀野川釜ノ脇橋梁があります。敦平という地名は見当たりませんでした。
      • 清水に的場という地名はありませんが、馬場前ならありました。
最終更新:2020年09月17日 21:10