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陸奥国 [[会津郡]] [[高野組>会津郡高野組]] &ruby(かうや){高野}村
&blanklink(大日本地誌大系第31巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202} 109コマ目
#expand(500){{{
府城の南に当り行程10里30町余。
家数5軒、東西20間・南北30間。
東は高野川に&ruby(そ){傍}ひ、西南に山連なり、北に&ruby(たんぼ){田圃}あり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東7町[[田島組丹藤村>会津郡田島組丹藤村]]の界に至る。その村まで10町。
西2里4町計[[大沼郡野尻組大芦村]]の山に界ひ船鼻山の峯を限りとす。その村は戌亥(北西)に当り4里10町余。
南2町30間[[下塩沢村>会津郡高野組下塩沢村]]の界に至る。その村まで14町30間。
北28町[[楢原組赤土村>会津郡楢原組赤土村]]の山界に至る。その村まで1里。
また巳午(南南東~南の間)の方5町[[田島組永田村>会津郡田島組永田村]]の界に至る。その村まで15町40間。
**小名
***&ruby(ばとう){馬頭}
本村より辰巳(南東)の方3町にあり。
家数8軒、東西30間・南北1町。
東は山に倚り西は高野川に臨み南は檜沢川に&ruby(そ){傍}ひ北に田圃あり。
***&ruby(くれつぼ){暮坪}
馬頭の北1町にあり。
家数8軒、東西15町・南北40間。
東は山に傍ひ西は田圃なり。
***&ruby(いはのした){岩下}
暮坪より亥(北北西)の方1町にあり。
家数7軒、東西15間・南北40間。
東は山に倚り西は田圃なり。
***&ruby(たちやさは){立屋沢}
本村より丑寅(北東)の方3町にあり。
家数22軒、東西50間・南北1町30間。
山麓に住し南は高野川に傍ひ東西に田圃あり。
***&ruby(なかむら){中村}
本村より戌亥(北西)の方9町にあり。
家数14軒、東西10間・南北40間。
高野川の両岸に散居す。
東西に山連なり、南北は田圃なり。
**端村
***&ruby(あさふ){浅符}
本村より戌亥(北西)の方18町にあり。
家数20軒、東西1町20間・南北40間。
高野川の両岸に散居す。
東北に田圃を開き西南は山に傍ふ。
*山川
**&ruby(ふねがはなやま){船鼻山}
村西1里4町計にあり。
会津・大沼二郡に跨り峯を界とす。
この山の北を&ruby(こ){踰}えて大芦村に往く路あり。船鼻峠と云う。
登ること1里計(本郡の条下に詳なり)。
**&ruby(しらくはやま){白桑山}
村北20町にあり。
頂まで15町。
丑寅(北東)の方[[楢原組赤土村>会津郡楢原組赤土村]]と峯を界ふ。
半腹を超えて赤土村に通る路あり。
**さる倉山
村より寅(東北東)の方15町にあり。
頂まで15町計。北は赤土村に属す。
**&ruby(ひさはかわ){檜沢川}
村南5町にあり。
[[下塩沢村>会津郡高野組下塩沢村]]の境内より来り東に流るること8町計[[丹藤村>会津郡高野組丹藤村]の界に入る。
広14間計。
**高野川
村東にあり。
源は船鼻山より出て、辰巳(南東)の方に流るること1里25町計、檜沢川に注ぐ。
広6間。
*関梁
**橋
村南5町余にあり。
檜沢川に架す。
長13間、隣村の通路、土橋なり。
*神社
**稲荷神社
|祭神|稲荷神?|
|相殿|幸神|
| |熊野宮|
|鎮座|不明|
小名岩下の東山麓にあり。
鳥居拝殿あり。下塩沢村大竹摂津が司なり。
*古蹟
**館跡
村西山麓にあり。
東西20間・南北45間。
築地の高1丈、門の礎なほ存す。
大竹肥前某と云う者住せし所なり。肥前は田島の城主長沼氏譜代の臣にて天正の頃(1573年~1593年)盛秀に従て&ruby(しばしば){屢}戦功ありしと云う。
*旧家
**大竹正蔵
この組の郷頭なり。
其先を肥前(諱を失う)と云う。世々長沼氏に仕ふ。肥前が子右京亮秀定より八世にして今の正蔵に至りしと云う。&ruby(すなわち){即}肥前が館跡に住し家に武器数品を&ruby(おさ){蔵}む。
また、古文書4通あり。
其文如左
> 撰吉日良辰
>元服
> 藤原朝臣盛秀 花押
> 源秀定
> 仍元服理髪状如件
> 大永六年ひのへいぬ正月十一日
> まつゝに三十苅くとれ仕侯、廿かり同ろてつのはたけ一枚大竹右京亮久恩にいたし候也、仍而爲後日如件、
> 天文二年癸巳拾月四日 判同上
> 右屋はきたろはき所領之内まとはの幷はたけ五十銭も所大竹さるくら末代かいとり候也、仍而爲後日如件、
> 天正四年ひのへね六月吉日 花押
> 右ならはら橋吉左衛門所帯大竹右京助に御めんにひと幷林共に別條有間敷候、仍而爲後日如件、
> 天正七年つちのと卯極月吉日 判同上
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-Google Map
--[[船鼻山>https://goo.gl/maps/GQREaPq4m9kUd5sq5]]
--[[舟鼻峠>https://goo.gl/maps/ZMt4Vy4hsXf9UfV26]]
--[[赤土峠>https://goo.gl/maps/8epuyeQuyJZ6eynd9]](白桑山の半腹を超えて赤土村に通る路)
--[[那須沢山>https://goo.gl/maps/6Axn7Binm52fR49b9]](さる倉山?)
--[[神社>https://goo.gl/maps/ZadSWPWGaoK4DU9c6]]
※「幷」:ならび
}}}
陸奥国 [[会津郡]] [[高野組>会津郡高野組]] &ruby(かうや){高野}村
&blanklink(大日本地誌大系第31巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202} 109コマ目
府城の南に当り行程10里30町余。
家数5軒、東西20間・南北30間。
東は高野川に&ruby(そ){傍}ひ、西南に山連なり、北に&ruby(たんぼ){田圃}あり。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東7町[[田島組丹藤村>会津郡田島組丹藤村]]の界に至る。その村まで10町。
西2里4町計[[大沼郡野尻組大芦村]]の山に界ひ船鼻山の峯を限りとす。その村は戌亥(北西)に当り4里10町余。
南2町30間[[下塩沢村>会津郡高野組下塩沢村]]の界に至る。その村まで14町30間。
北28町[[楢原組赤土村>会津郡楢原組赤土村]]の山界に至る。その村まで1里。
また
巳午(南南東~南の間)の方5町[[田島組永田村>会津郡田島組永田村]]の界に至る。その村まで15町40間。
**小名
***&ruby(ばとう){馬頭}
本村より辰巳(南東)の方3町にあり。
家数8軒、東西30間・南北1町。
東は山に倚り西は高野川に臨み南は檜沢川に&ruby(そ){傍}ひ北に田圃あり。
***&ruby(くれつぼ){暮坪}
馬頭の北1町にあり。
家数8軒、東西15町・南北40間。
東は山に傍ひ西は田圃なり。
***&ruby(いはのした){岩下}
暮坪より亥(北北西)の方1町にあり。
家数7軒、東西15間・南北40間。
東は山に倚り西は田圃なり。
***&ruby(たちやさは){立屋沢}
本村より丑寅(北東)の方3町にあり。
家数22軒、東西50間・南北1町30間。
山麓に住し南は高野川に傍ひ東西に田圃あり。
***&ruby(なかむら){中村}
本村より戌亥(北西)の方9町にあり。
家数14軒、東西10間・南北40間。
高野川の両岸に散居す。
東西に山連なり、南北は田圃なり。
**端村
***&ruby(あさふ){浅符}
本村より戌亥(北西)の方18町にあり。
家数20軒、東西1町20間・南北40間。
高野川の両岸に散居す。
東北に田圃を開き西南は山に傍ふ。
*山川
**&ruby(ふねがはなやま){船鼻山}
村西1里4町計にあり。
会津・大沼二郡に跨り峯を界とす。
この山の北を&ruby(こ){踰}えて大芦村に往く路あり。船鼻峠と云う。
登ること1里計(本郡の条下に詳なり)。
**&ruby(しらくはやま){白桑山}
村北20町にあり。
頂まで15町。
丑寅(北東)の方[[楢原組赤土村>会津郡楢原組赤土村]]と峯を界ふ。
半腹を超えて赤土村に通る路あり。
**さる倉山
村より寅(東北東)の方15町にあり。
頂まで15町計。北は赤土村に属す。
**&ruby(ひさはかわ){檜沢川}
村南5町にあり。
[[下塩沢村>会津郡高野組下塩沢村]]の境内より来り東に流るること8町計[[丹藤村>会津郡高野組丹藤村]の界に入る。
広14間計。
**高野川
村東にあり。
源は船鼻山より出て、辰巳(南東)の方に流るること1里25町計、檜沢川に注ぐ。
広6間。
*関梁
**橋
村南5町余にあり。
檜沢川に架す。
長13間、隣村の通路、土橋なり。
*神社
**稲荷神社
|祭神|稲荷神?|
|相殿|幸神|
| |熊野宮|
|鎮座|不明|
小名岩下の東山麓にあり。
鳥居拝殿あり。下塩沢村大竹摂津が司なり。
*古蹟
**館跡
村西山麓にあり。
東西20間・南北45間。
築地の高1丈、門の礎なほ存す。
大竹肥前某と云う者住せし所なり。肥前は田島の城主長沼氏譜代の臣にて天正の頃(1573年~1593年)盛秀に従て&ruby(しばしば){屢}戦功ありしと云う。
*旧家
**大竹正蔵
この組の郷頭なり。
其先を肥前(諱を失う)と云う。世々長沼氏に仕ふ。肥前が子右京亮秀定より八世にして今の正蔵に至りしと云う。&ruby(すなわち){即}肥前が館跡に住し家に武器数品を&ruby(おさ){蔵}む。
また、古文書4通あり。
其文如左
> 撰吉日良辰
>元服
> 藤原朝臣盛秀 花押
> 源秀定
> 仍元服理髪状如件
> 大永六年ひのへいぬ正月十一日
> まつゝに三十苅くとれ仕侯、廿かり同ろてつのはたけ一枚大竹右京亮久恩にいたし候也、仍而爲後日如件、
> 天文二年癸巳拾月四日 判同上
> 右屋はきたろはき所領之内まとはの幷はたけ五十銭も所大竹さるくら末代かいとり候也、仍而爲後日如件、
> 天正四年ひのへね六月吉日 花押
> 右ならはら橋吉左衛門所帯大竹右京助に御めんにひと幷林共に別條有間敷候、仍而爲後日如件、
> 天正七年つちのと卯極月吉日 判同上
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-Google Map
--[[船鼻山>https://goo.gl/maps/GQREaPq4m9kUd5sq5]]
--[[舟鼻峠>https://goo.gl/maps/ZMt4Vy4hsXf9UfV26]]
--[[赤土峠>https://goo.gl/maps/8epuyeQuyJZ6eynd9]](白桑山の半腹を超えて赤土村に通る路)
--[[那須沢山>https://goo.gl/maps/6Axn7Binm52fR49b9]](さる倉山?)
--[[神社>https://goo.gl/maps/ZadSWPWGaoK4DU9c6]]