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 慶長16年に会津地方を震源とした大きな地震が発生しました。
 大日本地震史料に記録が残っているので、その内容を引用したいと思います。
 
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 慶長16年8月21日(西暦1611年9月27日)岩代岩代国会津、地大に震ひ、寺院・家中・民家の倒潰算なく、山崩れて河流を塞止め、湖を生ず
 
 &bold(){当代記}
 八月廿一日、奥州會津邊大地震、石垣悉崩、塀櫓以下悉落、殿守破傾、瓦以下落、人馬多死、近邊山崩、川の流を留、依之知行二萬石餘湖水となる、他国此地震無之、中にも柳津本堂倒、在家多ころび、山崩、是は偏飛騨守佛神を蔑如し、任我意、其天罰の謂と云々
 
 &bold(){会津四家合考}
 慶長十六年辛亥八月廿一日、辰刻会津大地震、会津川下流山崩塞焉、故浲水汎濫、而欲浸耶麻、蜷川秀行長臣岡半兵衛、野野左近、籍于郡中集役夫、下流而不日通焉、水盡涸、然下濕之地、餘水相湛爲湖、称曰山崎湖、自寛永末年之頃、漸々水涸、皆爲菑畬矣、此地震楊津堂崩入河、並塔寺観音堂崩倒
 
 &bold(){續年日記}
 慶長十六年辛亥八月廿一日、辰刻大地震、別て会津は天地開闢以来の大地震也、城下は不及曰、大寺柳津塔寺、新宮如法寺、法用寺等と寺院佛閣、神社堂塔震倒、或は大破、其外城石垣崩埋、堀家中の家土蔵門戸倒、町家民家夥倒、会津川下流山崩川を塞ぐ、水湛事三日三夜、郡中村々家に水附浮流事夥、依之秀行の長臣岡半兵衛、野々左近、其外大勢出で、郡中の人足数萬人集て、爲堀けれ共無甲斐、此時山崎之湖水出来る、其餘截川塞渓成沼、或は川旱潟と成り、山亦成川所多し、於会津太平邑五分一邑程窪村泥潟山邑二つ栗村小杉山黒澤麻生大栗山砂子原牧澤湯八木澤大嶺小野川小中津川下中津川大蘆虵喰沼山沼平山口水引粟生澤楢原大内氣多宮蕪中の沼、此時出来たる也、熱鹽温泉湖没、又名入邑の内高清水戸板平の山夥崩て塞、只見川三日不流、水上に湛事宮崎村迄溜る、其崩塞たる所、川中に大石共不流して在、川中後高瀬と名、魚を取、依て寛永五年に役銀二匁宛永代定役と成、亦利田瀧坂も如此魚を取る、亦瀧谷邑岩谷岩城山三分二崩塞川、七日水不流、砂子原小鹽澤迄湛、此時今の村居に砂上り、成平地故、民家移す
 
 &bold(){柳津圓藏寺雑記}
 [史料編纂掛岩代採訪本。寺は岩代国河沼郡柳津村にあり]
 慶長十六年辛亥八月廿一日(戊子)辰之下刻、郡中大地□(震々)就中、此地岩巒崩裂し而、佛殿函丈僧房民家悉く倒覆す、人も亦多く壓死す、洪水渺瀰于山中、及水之涸、凡歴代之経籍寶器等、悉漂流也
 
 &bold(){駿府記}
 慶長十六年八月廿五日、去十三日、会津大地震、蒲生飛騨守秀之(行)城郭、石壁以下悉震崩云々
 
 &bold(){武徳編年集成}
 慶長十六年八月廿二日、奥州会津大地震、巳の刻猪苗代四萬石の地陥り湖となる、死歿する男女三千七百餘、[是多々美川埋る故也、会津風土記に見ゆる]
 
 〇駿府記十三日に作り、編年集成廿二日に係ぐるは、共に誤れり
 
 &bold(){新編会津風土記}
  河沼郡
   塔寺村八幡宮
 慶長十六年八月廿一日、大地震して、未社鳥居廻廓舞殿釣殿観音堂二王門の類、一時に頽顛し、只本社のみ残りしを、同十七年蒲生氏に請、士民を勧め、僅にかたばかりの営をなす[前後略]
  同郡
   柳津村虚空蔵堂別當円蔵寺
 慶長十六年地震暴水ありて、屋宇漂流し、此寺も災に罹り、多く経巻什寶を失へり、其翌十七年春、又大地震ありて、寺の後山崩れ、僧房を破り、看寺の僧二人を壓殺す
 
 ※新編会津風土記からの参考文は割愛
 
 
 &bold(){言緒卿記}
 十一月二日丁酉、天晴、八月九日に会津の柳津大地振、堂舎佛閣盡破滅之由、於御城、[駿府]新庄宮内法印雑談有之了[本書及び下の慶長日件録に八月九日とあるは傳聞の誤ならん]
 
 &bold(){蒲生記}
 八月廿二(一)日、会津大地震動して、辰巳の刻に、北方の在郷とも、一つの湖とこそ成にけれ、恐しかりし事共也
 
 &bold(){異本塔寺長帳}
 慶長十六年辛亥、八月廿一日辰刻、大地震、別て、会津は、天地開闢以来の大地震也、城下は不及曰、大寺、柳津、塔寺、新宮、如法寺、法用寺等と寺院佛閣、神社堂塔震倒、或は大破、其外、城石垣崩埋堀、家中の家土蔵門戸倒、町屋民家夥倒、会津川下流、山崩川を塞ぎ、水湛事三日三夜、郡中村々家に水附、浮流事夥、依之、秀行の朝臣岡半兵衛、町野左近、其外大勢出て、郡中の人足数万人、集て爲堀けれ共無甲斐、此時山崎之湖出来る、其餘截川塞渓成沼、或は川旱潟と成り、山亦成川所多し、於会津、大平邑、五分一邑、程窪村、泥潟山邑、二ツ栗村、小杉山、黒澤、麻生、大栗山、砂子原、牧澤、湯八木澤、大嶺、小野川、小中津川、下中津川、大蘆、蛇喰、沼山、沼平、山口、水引、粟生澤、楢原、大内、氣多宮、蕪中ノ沼、此時出来たる也、熱塩温泉湖没、また、名入邑の内高清水、戸板、平ノ山夥崩て、塞只見川、三日不流、水上に湛事、宮崎邑迄溜る、其崩塞たる所、川中に、大石共不流して在川中、後名高瀬、魚を取、依て寛永五年に、役銀二匁宛、永代定役と成、亦利田滝坂も如此魚を取る、又瀧谷邑岩城山に三分二崩塞川、七日水不流、砂子原、小鹽澤迄湛、此時今の村居に砂上り、成平地故、民家移す
 
 &bold(){新編会津風土記}
 ※略
 
 &bold(){セバスチヤン・ビスカイノ金銀島探検報告}
 土曜日若松市に著せり、此地を領する王は飛騨殿[蒲生秀行]にして皇帝の長女の婿なり、[中略]王は附近の河及び湖の出水せる爲め、その城及び市街大害を被り、又前月大地震ありて、其城及び二万戸以上の家屋破損し、今修理中なる由を語り、地震の原因を尋ねたれば、大使は天に在る神が天地及び人類を造り其意に任せ空氣をして地を振動せしめ、国王以下地上の住民をして造物主を思い出し自己の悪行を改めしむる事を説きたり
 
 &bold(){会津舊事雑考}
 〇八月廿一日辰刻大地震会津川下流山崩塡塞焉故浲水汎濫欲浸四郡秀行長臣岡半兵衛町野左近集郡中役夫令疏下流湛者三日而通然下濕之地餘水相湛爲山崎湖漸漸水涸自覚永末年概爲甾畬、
 此時山崩截川塞渓爲沼者太平五分一[耶麻郡]程窪泥浮山二栗小杉山[稲川荘]&ruby(じやばみ){蛇喰}[小俣]等之所也、
 楊津舞台崩堕河及び塔寺観音堂新宮拝殿亦倒[中略]
 〇七月二十一日[慶長十八年]野澤組如法寺修復檀那岡半兵衛也去年去年地震皆損也
 
 &bold(){野志}
 九月、奥羽二州、地陥水涌、死者八千人[實録、一。校正王代統忠、一覧同し]
 
 &bold(){新宮雑葉記}[会津]
 同[慶長]十六辛亥年八月二十一日巳ノ刻大地震、是より用越不止、此時新宮神社佛閣倒て只三所の神殿計り残、此後三所の本社前殿之外無造営、是時山崎前大川地形動上て流水湛、四方七里に横流す新湖となり、青木聖徳寺観音堂湖水の中に至越国道墜て坂下に募、同年十月秀行新宮の来由を糺して社供を寄附し給ふ
 
 &bold(){新宮雑葉記}[岩代国耶麻郡慶徳村字新宮]
 頃しも慶長辛亥仲秋二十五日大地震し、数日の間更に不止、十三間の拝殿を始め四所の明神五所の新勸請十五本地堂一萬宮の南殿八所の廓閣瀧ノ宮稲荷八幡ノ両宮小守勝手の奥之院三多計明神大山袛羽山神社神蔵天満天神之宮居四天王の東門金剛力士の南門に大黒天の北の門補陀楽寺の千手堂文殊堂十王堂三所の宮の本地堂護摩堂東浄堂西惠(?)堂荘厳堂其外僧坊三十餘院皆破壌低倒し、只三所の高閣のみ残れり、見る人肝を痛ましめ聞人神を濡さずと云ことなし
 
 &bold(){新宮雑葉記}
 其後又濁川の水上大平の山慶長十六年八月の地震に抜け落て沼と成れり
 
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 -[[山崎新湖]]
 -参考
 --[[大日本地震史料. 上巻>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993658/124]](震災予防調査会 編)[明治37年(1904年)]
 --[[大日本地震史料 : 増訂. 第1巻(349コマ目)>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1070653]](文部省震災予防評議会 編)[昭和16-18年(1941-1943年)]
 --[[会津地震>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%9C%B0%E9%9C%87]](Wikipedia)
----文中に『阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため』とありますが、古文書に書かれている会津川とは実際そう呼ばれていた訳ではなく「会津の川」という意味でしょう。この地震により被害を受けたのは阿賀川流域だけでなく会津地方西側の山川全般です。例えば二岐川(今の逆瀬川上流)流域の蛇食村(今の会津美里町西側、明神ヶ嶽の北側の村)も地震による影響があったとの記載があります。
 -他
 --[[慶長16年 (1611年) 会津地震による地変 と地震断層(PDF)>https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/40/2/40_2_235/_pdf]](J-Stage)
 
 
 
 
 
 
 
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