河沼郡青津組

陸奥国 河沼郡 青津組
大日本地誌大系第33巻 108コマ目

この地府城の西北に当り本郡の中ほどにて北によれり。
東は笈川組に隣り鶴沼川を限りとし、西南は共に坂下組に続き、北は耶麻郡慶徳組に界ひ日橋川と限りとす。
東西2里余(東は笈川組堂畠村の界鶴沼川より、西は坂下組窪村の山界に至る)。
南北1里11町余(南は坂下組坂下村の界より、北は慶徳組山崎村の界日橋川に至る)。

村里平地にて宮川の東西に住し、東にあるを東郷といい西にあるを西郷という。
東北に川(めぐ)り西は山に対す。田畠多く網罟の利少なからず。

この組の諸村皆郷名を失う。共に蜷川荘と称す。
凡26ヶ村あり。


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越後街道の変遷

※越後街道変遷図

越後街道は、会津若松より赤谷を経て新発田に至る街道で、磐越西線の鉄道が敷設されるまで殷賑を極めた街道であった。
この街道は、慶長以前は会津若松から米沢街道の上高野・下高野を通り、森台・堂畑・立川・青木・宇内を通り勝負沢の峠を越えて、東羽賀・西羽賀・尾登・小島と通って野沢に出るのが本通りだったといわれる。『慶長記』
慶長十六年(1611)、会津一帯を襲った大地震は、山崎(現喜多方市慶徳町)の山を崩して阿賀川を堰き止め、ここに山崎新湖を出現させたために、急遽束松峠を改修してここを経由するのを越後本街道とした(前掲書)といわれるが、『新編会津風土記』の束松の条には「寛永中、加藤家府城周知の時、安座村の肝煎二瓶七左衛門という者初めてこの道を開き木材を運送せしが、漸々に開けて終に往還となれり」と記してある。
しかし、束松峠が古くより交通の要路であったらしいことは、永正三年丙寅(1506)十月二十八日芦名盛高が片門村の渡守へ与えた安堵状、さらに古くは延徳三年己酉(恐らく"辛亥"の記入ミス)(1491)の渡守の定めの写が残っている。
それによれば、
片門村渡守之事
一、五歳以上の男女不依何者六文ツツ壱人分可取之
一、出家・沙門・諸奉公人舟賃取間敷候事
一、行来ノ者立帰之節舟賃取ル間敷候事右之条々堅ク相守往来弥無滞可相勤候事
 延徳三年己酉四月
右者鎌倉ヨリ舟守頂戴仕候文ナリト人々申伝候
(斎藤家文書)
これ等の文と北条時頼が片門の渡しの船頭に「早川」の姓を与えた伝説、または坂下の鶴沼川の「最明寺の渡し」等を併せ考えるとき、束松峠・越後街道がすでにこの頃から交通が開けていたものと思われる。なおついでながら、束松峠の束松は義家が奥州下向の折、首尾よく賊徒を平らげて帰還することを祈り、数本の松を束ねて植えたのが束松だとの伝説もある。
ともかくも、越後街道は会津盆地のほぼ中央を横断するために、盆地を貫流する大川・鶴沼川・湯川等の氾濫によりしばしばその経路を変更したのではなかろうか。
(以下略)
最終更新:2025年11月01日 21:24
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