昔はただ青津村と称して1村なり。後東西を分けて別村とせり。
府城の西北に当り行程3里18町。
家数78軒、東西2町50間・南北3町18間。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
また、巳(南南東)の方1町40間青木村の民居に続き家数2軒、西の方6町西青津村の境内に家居1軒あり。
東15間・北4町、共に
青木村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り1町40間。
西5町・南3町40間、共に
西青津村の界に至る。その村は未(南南西)に当り3町余。
また戌亥(北西)の方20間余に穢多の居所あり。家数2軒。
この村四方
田圃にて西北は川に近し。
慶長16年(1611年)
山崎新湖湛て多く田圃を浸せし時、蒲生氏より与えし文書今に肝煎の家に蔵む。その文如左(※略)。
山川
日橋川(大川)
俗に大川という。下同。
村北6町にあり。
青木村の境内より来り、5町50間西に流れ宮川を得て
南宇内村の界に入る。
廣50間余。
宮川(鶴沼川)
俗に鶴沼川という。下同。
村西30間にあり。
西青津村の界より来り、北に流れまた東に折れ西に転じて日橋川に入る。
境内を経ること凡23町。広10間余。
原野
川原
村より戌亥(北西)の方22町にあり。
東西2町30間・南北20間余。
関梁
橋2
一は村西6町30間にあり。
長24間・幅7尺。
牛沢組塔寺村に往く道なり。大橋という。
一は新橋とて村より戌亥(北西)の方5町40間にあり。
長15間の土橋にて農事の便とす。
共に宮川に架す。
倉廩
米倉3屋
村中にあり。
二屋は社倉なり。
一屋は本組の米を納む。
神社
稲荷神社
| 祭神 |
稲荷神? |
| 相殿 |
伊勢宮 3座 |
| 稲荷神 2座 |
| 御稷神 2座 |
| 山神 |
| 伊豆神 |
| 地神 |
| 鎮座 |
不明 |
村の戌(西北西)の方大亀甲館の上にあり。
鳥居あり。当寺村兼子大和これを司る。
八幡宮
村西小亀甲館の上にあり。
鳥居あり。兼子大和が司なり。
寺院
浄泉寺
村中にあり。
清光山と號す。開基詳ならず。
旧は浄土の道場にて古より弥陀の像2軀を安じ、その中に『作者佐少辨法眼康暦二庚申年作畢』と記せしものありしという(康暦2年:1380年)。今はなし。その頃の草創にや。
文明年中(1469年~1487年)薫山という僧中興してより曹洞宗となる。
天正の頃(1573年~1593年)には本村の住人生江主膳が菩提所にて寄付の田地も多かりしとぞ。
会津郡南青木組恵倫寺の末山なり。
三尊弥陀を本尊とし客殿に安ず。
観音堂
大亀甲館の上にあり。
この堂ものとは青木村にありて大同中(806年~810年)の建立なりといい伝う(今も青木村の北2町計に堂淵という田地の字あり)。
慶長16年(1611年)の地震に堂宇頽廃しここに移すという。
会津三十三所順禮の一なり。
浄泉寺司なり。
鐘楼
観音堂の前にあり。
鐘径2尺1寸、『寛延三庚午歳正月別當清光山浄泉寺現住大瑞代願主照譽常光』と彫付けあり(寛延3年:1750年)。銘あれども煩しいければ略す。
古蹟
館跡
村中民居の地なり。
東西28間・南北54間余。
土居堀の形残り、東の方に的場と称する所あり。
天正の頃(1573年~1593年)葦名の臣生江氏の居りし跡なりという。
天正6年(1578年)2月野沢原町の住人大槻太郎左衛門某というもの葦名盛氏に叛し時、生江大膳・金上兵庫・松本左衛門・新国上総等と盛氏に従い柳津口に向い大槻が婿山内右近を打敗れりという事
舊事雑考に見え。また天正17年(1589年)6月生江主膳磨上の戦に打負けて、青津に帰り一族郷民を集め己が館に楯籠んとしけるが、もとより分内狭く要害あさまなれば館の南2町計を隔て堀をほり廻し河水をせき入れ、北の方は日橋川の端まで1面に
搔楯を搔続けて
夥く結構しければ敵軍容易く押寄さりしが、幾程なくて義廣常州に没落し始終怺ふべき様なければ遂に降人に出。その後生江が拵えたる結構を見れば、堀の水は僅に膝を過ず搔楯はただ葦麻からを一重圍たる計なりしと四家合考にあり。
また村の戌(西北西)の方3町計に男壇・女壇とて壇2あり。
男壇は高3尺・周10間、女壇は高2尺・周5間。
これを生江壇ともいう。男壇の上に古き石塔1基あれども文字なくその来由をしらず。
亀甲館2
村の戌(西北西)の方にあるを大亀甲館といい、高3丈・周100間。上に観音堂及び稲荷の祠あり。
ここより南40間にあるを小亀甲館といい、甲1丈5尺・周60間。上に八幡宮を勧請す。
何れの時何人の築けることを知らず。地形各亀甲に似たるゆえ名けしとぞ。
林木蕃密にして近代の修築にあらず。
またこの村は川に近き所なれば、村民水災を患てこれを築くともいう。今も洪水あればここに上て災を免る。
旧家
生江勇八郎
この村の肝煎なり。
生江氏の遠孫なりとて世々生江氏の館跡に住し、先祖の武器刀槍の類を持伝うれどもその家系を詳にせず。また古文書2通あり。その文如左(※略)。
参照
外部リンク等
村名について
明治22年(1889年)、青木村・青津村・沼越村・立川村・五香村・御池田村・三谷村・中泉村・合川村が合併し広瀬村が発足。
昭和30年(1955年)、坂下町・若宮村・金上村・広瀬村・川西村・八幡村が合併して会津坂下町が発足。
青津地区の社寺
法人番号公表サイトで青津地区を調べると下記の登録がある
| 法人番号 |
商号又は名称 |
所在地 |
備考 |
| 1380005008751 |
稲荷神社 |
河沼郡会津坂下町大字青津字田中36番地 |
|
| 4380005009103 |
浄泉寺 |
河沼郡会津坂下町大字青津字本丁71番地 |
|
6.神社
稲荷神社 祭神:倉稲魂神 例祭:九月九日 新年祭:十一月二十四日 鎮守神。
八幡神社 祭神:誉田別尊 生江大膳基氏が康暦二年(1380)八月一日塔寺八幡を請祭した。
雷神
市神 井田清次郎氏屋敷に市神様または石神様をお祭りした自然石の御神体がある。
7.寺院
清光山浄泉寺 曹洞宗 本尊:阿弥陀如来立像 像高:六十八糎 総高:百三十五糎 亀ヶ森古墳上に建っている。慶長十六年(1611)に青木村より漂着したので青木観音といわれている。 縁日:毎月十七日
伝承
町史より
(1) 豪商 小池丈助
寛政から文政の初めころ(1789~1820年頃)の人。青津村生まれ、性豪放にて鋭才にとみ、青津西部の原野に水田を拓いた。また商才にすぐれ、宮川近くに搾油工場を作り、菜種油始め会津の特産品を越後に売りさばき、越後から塩・海産物を購入する等手広く商売を行った。
鶴沼川(宮川)に私財を以って丈助橋を架け、舟運を計画する等一代にて豪商となったが、晩年事業に失敗して没落した。現在は丈助橋と小池野だけが名残をとどめている。
古地図
最終更新:2025年10月29日 20:18