米代

陸奥国 若松 郭内 米代
大日本地誌大系第30巻 112コマ目


内郭の西、本一之丁の南にあり。
東西の通4条の端を米代一之丁として、次を米代二之丁とし、序を追て四之丁に至る。みな大町通より西に出る道なり。総てこれを米代と称す。代或は台に作り、また袋に作る*1

米代一之丁

東は大町通より西は河原町口に至る。
長7町6間余・幅11間。
家数19軒。
昔は今の郭外大町北の地にありしが外郭営築の時今の所に移せりという(大町の条下と併見るべし)。

河原町口

この丁の西端より郭外河原町に出る郭門なり。
番所、東向。

米代二之丁

米代一之丁の南に並び長6町58間余・幅7間、末は融通寺町通に至る。
家数35軒。
この丁清水多し。処々に桶輪を設け用水とす。

米代三之町

米代二之丁の南に並び長6町7間余・幅5間、諏訪通より末は行留なり。
家数38軒。

米代四之丁

米代三之丁の南に並び長4町36間余・幅2間、末は諏訪通に至る。
家数22軒。
桂林寺通より西は片頬丁なり。

学校

最終更新:2020年02月29日 08:05

*1 「作る」は地名を付けるの意味。米代、米台、米袋