石塚

陸奥国 若松 郭外 石塚
大日本地誌大系第30巻 178コマ目

※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より

黒川の西新町の東にあり。
その名の従て起る処を詳にせず。或は伝う、天應元年(781年)陸奥大堟石川浄足伊治公呰麻呂が乱(宝亀の乱の事か?)を避け本州宮城郡多賀城より來奔し堂家(だうけ)(今の滝沢組牛墓村の地)という処に潜み居しが、終に彼こにて身まかりぬ。後その子孫分れて三家となり、一は堂家と称し、一は石部と称し、一は石塚と称して三浦の時まで(なお)当時の勢家(せいか)*1たり。この地は彼の石塚が館ありし所(ゆえ)この名残るという。

石塚六軒(いしづかろつけん)

黒川の西岸にあり。
南北の通にて長36間・幅3間、家数6軒。
相伝う、この地もと黄檗宗の寺あり。いつの頃にか廃絶し本郡南青木組一堰村に大坊とて太子守宗の比丘ありしが、親鸞が法問に帰依し改て浄土真宗となり、ここに移て光正寺と號せしとぞ。後数世を経て寛文中(1661年~1673年)廃寺となり趾に材木蔵を置き、また黒川に近きゆえ船を蔵る処とせしが、近き頃士屋敷とせり。

寺院

観音堂

この丁の西に続く。
縁起を按ずるに康暦年中(1379年~1381年)葦名直盛の草創なり。その後蒲生忠郷の母堂深くこの観音を信じ再び堂宇を造立し、荘厳を究め常に参詣して渇仰(かつごう)*2他に異なりしとぞ。今に至るまで石塚観音と称し遠近尊崇すること大方ならず。慶長18年( 1613年)この堂を金剛寺の住僧宥伝に付与して別当たらしめり。
6月16、17日会式あり。
会津三十三所観音順禮の一なり。
仁王門
3間に1間、左右に力士の木像を安ず。
制札
仁王門を入て右にあり。
本堂
5間四面東向。
「とち葺」にて四方に庇縁勾欄を設く。みな黒漆の堅地にて種々の彫鏤彩飾あれども外面は風雨の為に剥て完からず。
本尊十一面観音、三浦義連随身の像という。長1寸8分。
また千手観音の像あり。長3尺1寸。
忠郷の母堂納る所なり。
鰐口一口を懸く。『奥州會津若松石堂觀音堂(梵字あり)奉掛御寶前鰐口大領主源氏女御寄進御願如意滿足慶長十九甲辰年八月廿八日だ大工天命野口外記長谷川右衛門』と彫付けあり(慶長19年=1614年。が干支は甲寅。慶長で甲辰は9年(1604年)だが…)
鐘楼
本堂の東南にあり。2間半四面。
鐘・径2尺5寸余。『寛延三庚午年十一月十七日本山金剛寺二十四世現住法印宥道石塚山院代法師宥英冶工星宗七喜起』と彫付けあり(寛延3年=1750年)。銘あれども載せず。
別当 蓮臺寺
本堂の北にあり。
真言宗石塚山と号す。開基詳ならず。
慶長年中(1596年~1615年)大和町金剛寺の末山となる(道場小路観音寺の縁起に因に、当寺もとは彼寺の末山なりしが慶長3年(1598年)上杉景勝奪て他の僧をして別当たらしむ。観音寺12世信悦深く憤を含み蒲生家再封の後具に状を訴えしに因り再び彼寺に隷せり。時の住僧憤りを発し火を放て殿宇を焼き我が身も共にその中にありて焦死せりという。後改て金剛寺に属す)。

東昌寺

観音堂の北に並べり。
山号を俊芳山といい南青木組北青木村恵倫寺の末山曹洞宗なり。
元越後国にありて上杉景勝その考妣(こうひ)*3を祈れる寺なり。景勝移封の時量外という僧この地に来り西北の方に当寺を建しが、慶長6年(1601年)景勝に随て羽州*4米沢に赴きその子弟壽尊を留て住持たらしめ、加藤氏の時今の地に移せり。
本尊観音客殿に安ず。

長善寺

東昌寺の北に並べり。
浄土宗大寶山と號す。
慶長19年(1614年)貞運という僧地を領主に請い草庵を結て住す。2世教傳が時、江戸増上寺の末山となれり。旧は黒川の東岸今の石塚向丁の地にあり寛永の頃(1624年~1645年)今の地に移れり。
本尊弥陀客殿に安ず。

弘長寺

長善寺の北に並べり。
六照山と號す。相模国藤沢清浄光寺の末山時宗なり。
縁起に康暦元年(1379年)鎌倉光得寺の住僧葦名直盛に従てこの地に来り一寺を営みまた光徳寺と称す。数世の戸(やや)廃せり。慶長の始(1596年~)越後国上田弘長寺の住僧其阿というもの上杉景勝に従い来り当寺に住し寺號を改て弘長寺といいしとぞ。
本尊弥陀客殿に安ず。

最終更新:2020年03月01日 02:08
添付ファイル

*1 権力や勢力のある家

*2 仏を心から仰ぎ慕うこと

*3 亡父と亡母

*4 出羽国。現在の山形県と秋田県