忠臣蔵のページ
赤穂市立赤穂中学校昭和55年度卒業生による忠臣蔵に関する情報を提供するページです。
忠臣蔵ゆかりの地を赤穂、関西(京都)、関東(吉良邸、泉岳寺から切腹場所)までを順次紹介していきます。
更新日:2010-06-02 21:03:25 (Wed)
忠臣蔵座談会
みなさん、男女問わず忠臣蔵に興味ある人コメントください。また、情報持っている人いたら情報ください。
また、赤穂浪士、忠臣蔵に関して日ごろ思うことでもOKです。
では、楽しく活用しましょう!
赤穂市の忠臣蔵ゆかりの地を紹介します。
赤穂城は、常陸国笠間から正保2(1645)年に転封となった浅野長直が、慶安元(1648)年より13年に亘る大工事により、寛文元(1661)年に完成しました。変型輪郭式の純然たる海岸近世城郭史上価値ある遺跡として昭和46(1971)年国の史跡として指定され、赤穂市が国内外に誇る市民的文化遺産です。
浅野内匠頭刃傷の知らせを早駕籠で4日半で早水藤左衛門、萱野三平が赤穂城下に着き、邸宅に入る前に一息ついた井戸とされ、息継ぎ井戸と呼ばれています。もとの場所から少し西側に移動しきれいに整備されました。
長屋門は築城当時のもので、旧屋敷跡は大正12(1923)年国の重要文化財に指定されました。
浅野家四代、大石家などの菩提所。宝物館。忠義塚。四十七士の墓。山門は、赤穂城塩屋門を移築したもので、平成元(1989)年市文化財指定されました。二代目の大石名残りの松、大高源五の句碑「こぼるるを ゆるさせ給へ 萩の霧」があります。
大正元(1912)年し創建。赤穂城の三ノ丸の大石内蔵助宅跡にあり内蔵助をはじめ四十七士と萱野三平、赤穂城主浅野家三代と森家の先祖七代の武将を祀っています。神社内に宝物殿、義士木像奉安殿があります。赤穂の人の初詣は、まずここでしょうか。
※現在開設に向けて準備中。しばらくお待ちください。
関西の忠臣蔵ゆかりの地を紹介します。
岩屋寺は、本尊の不動明王は大石内蔵助の念持仏といわれているそうです。寺に四十七士の木像、位牌を祀り、義士の遺物も保存されてます。境内には内蔵助の遺髪を埋めた「遺髪塚」・「大石良雄君隠棲旧跡」の碑があります。
大石神社は、大石内蔵助隠棲の地、内蔵助の手紙などがあります。
京都八坂神社の山手にある『安養寺』での “円山会議”は 1702年 元禄15年7月28日(今の暦では8月21日)、大石内蔵助はじめ赤穂浪士が内匠頭の敵討ちを決起し血判状を交わした場所として歴史的に重要な場所です。
遺物の俳文集と刀があります。三平は赤穂改易の後父の許に帰り、元禄15年正月14日自刃したことが有名ですね。
※現在開設に向けて準備中。しばらくお待ちください。
関東の忠臣蔵ゆかりの地を紹介します。
元禄14(1701)年3月14日に浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけたところ。皇居東御苑のなかに石柱があります。
「浅野内匠頭終焉之地」の石碑があります、これは昭和15(1940)年に田村町有志により建立されたものです。
聖路加看護大学の西側の築地川公圏寄りに石柱が建っています。浅野内匠頭の上屋敷付近を、通称鉄砲洲と呼んでいました。
ご存知義士討入りの場。吉良邸の一部が公園として残っています。上野介の首を洗ったといわれる井戸があり、12月第2土曜、日曜日に吉良祭・元禄市、12月14日に義士祭が行わます。
泉岳寺は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院で青松寺・総泉寺とともに江戸三箇寺の1つに数えられています。
浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで有名であり、現在も多くの参拝客が訪れています。また、毎年12月13日、12月14日には義士祭が催されています。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」があります。
■アクセス
京浜急行本線・都営地下鉄浅草線 泉岳寺駅より徒歩2分
■泉岳寺山門
■大石内蔵助良雄銅像(中門入って右手にあります)
■首洗い井戸(四十七士墓所手前右手にあります)
本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。
■四十七士墓所(山門入って左手奥にあります。)
赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。寺坂坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83才の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
また、47士の他に、萱野三平の供養墓があります。(明和4年(1767年)9月建立)したがって泉岳寺の墓碑は48あります。
- 浪士お預け場所「細川家」:大石良雄外十六人忠烈の跡(東京都港区高輪一丁目)
大石良雄外十六人忠烈の跡は、東京都港区高輪に所在する旧跡にあります。かつて肥後熊本藩江戸下屋敷のあった場所です。
少しわかりにくいですが、泉岳寺山門横に案内図があり、ちょうど泉岳寺裏手にある都営高輪アパート内にあります。
■自刃した義士
大石内蔵助良雄(享年45)、吉田忠左衛門兼亮(63)、原 惣右衛門元辰(56)、片岡源五右衛門高房(37)、間瀬久太夫正明(63)、小野寺十内秀和(61)、間 喜兵衛光延(69)、磯貝十郎左衛門正久(25)、 堀部彌兵衛金丸(77)、近松勘六行重(34)、富森助右衛門正因(34)、潮田又之丞高教(35)、 早水藤左衛門満堯(40)、赤埴源蔵重賢(35)、奥田孫太夫重盛(57)、矢田五郎右衛門助武(26) 大石瀬左衛門信清(27)
- 浪士お預け場所「水野家」:水野監物邸跡(東京都港区芝五丁目)
水野監物邸跡は東京都港区芝5-20-20に存在する三河国岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡です。現在は灯籠(灯篭)と説明版のみ存在します。
水野監物邸跡は、田町(三田でも)駅降りて慶應仲通りを入って歩いていくと正面にドラッグストアー兼100円shopがあり道が左に曲がっているのですが、その隣の医院の前です。説明板があります。偶然にもその医院は、ターコさんのホームドクターだったそうです。
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■自刃した義士
間十次郎、奥田貞右衛門、矢頭右衛門七、村松三太夫、間瀬孫九郎、茅野和助、横川勘平、三村次郎左衛門、神崎与五郎
- 浪士お預け場所「松平家」:大石主税良金ら十士切腹の地(東京都港区三田二丁目)
大石主税良金ら十士切腹の地は東京都港区三田二丁目に存在する史跡、伊予松山城主・松平久松隠岐守定直の三田中屋敷です。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、江戸幕府の命令によって以下の赤穂浪士が切腹した地であり現在はイタリア大使館となっています。命日には、歴代イタリア大使が供養をおこなっています。
■自刃した義士
大石主税、堀部安兵衛、木村岡右衛門、中村勘助、菅谷半之丞、千馬三郎兵衛、不破数右衛門、大高源五、貝賀弥左衛門、岡野金右衛門
- 浪士お預け場所「毛利家」:長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡(東京都港区六本木六丁目)
毛利甲斐守邸跡は、東京都港区六本木六丁目にある史跡です。長門長府藩主・毛利甲斐守綱元(長州藩毛利氏の分家)麻布上屋敷の跡地。元禄赤穂事件(忠臣蔵)における赤穂浪士終焉の地の一つです。
現在は、六本木ヒルズ内の毛利庭園となっており、ひょうたん池の傍に跡地である旨を示す標柱が建てられています。
六本木ヒルに毛利庭園まで行くのなら、南部坂まで行ってください。南部坂上に「津つ井」と言う洋食屋さんがあるのでランチは安くておいしいので是非行ってみてください。レジの所にお店のしおりが置いてあるのですが、南部坂雪の別れの話など書かれています。
■自刃した義士
岡嶋八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、倉橋伝介武幸、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武尭、前原伊助宗房、野寺幸右衛門秀富、間新六郎光風
※現在開設に向けて準備中。しばらくお待ちください。
赤穂浪士四十七士一覧表
■赤穂浪士47士
氏名 |
諱 |
藩職 |
禄高 |
生年 |
享年 |
部隊 |
お預け先 |
家族 |
大石内蔵助 |
良雄 |
家老 |
1500石 |
1659年 |
45 |
表門 |
細川家 |
|
大石主税 |
良金 |
部屋住み |
|
1688年 |
16 |
裏門 |
松平家 |
父は大石内蔵助 |
吉田忠左衛門 |
兼亮 |
加東郡代・足軽頭 |
200石役料50石 |
1641年 |
63 |
裏門 |
細川家 |
|
吉田沢右衛門 |
兼定 |
中小姓近習 |
13両3人扶持 |
1675年 |
29 |
表門 |
毛利家 |
父は吉田忠左衛門 |
原 惣右衛門 |
元辰 |
足軽頭・鉄砲頭 |
300石 |
1648年 |
56 |
表門 |
細川家 |
|
片岡源五右衛門 |
高房 |
側用人・小姓頭 |
350石 |
1667年 |
37 |
表門 |
細川家 |
|
間瀬久太夫 |
正明 |
目付 |
200石 |
1641年 |
63 |
表門 |
細川家 |
|
間瀬孫九郎 |
正辰 |
部屋住み |
|
1681年 |
23 |
裏門 |
水野家 |
父は間瀬久太夫 |
小野寺十内 |
秀和 |
京都留守居役 |
150石役料70石 |
1643年 |
61 |
裏門 |
細川家 |
|
小野寺幸右衛門 |
秀富 |
部屋住み |
|
1676年 |
28 |
表門 |
毛利家 |
養父は小野寺十内 |
間 喜兵衛 |
光延 |
馬廻・勝手方吟味役 |
100石 |
1635年 |
69 |
裏門 |
細川家 |
|
間 十次郎 |
光興 |
部屋住み |
|
1678年 |
26 |
表門 |
水野家 |
父は間 喜兵衛 |
間 新六 |
光風 |
部屋住み |
|
1680年 |
24 |
裏門 |
毛利家 |
父は間 喜兵衛 |
堀部弥兵衛 |
金丸 |
元江戸留守居役 |
300石隠居料20石 |
1627年 |
77 |
表門 |
細川家 |
|
堀部安兵衛 |
武傭 |
馬廻・江戸留守居役 |
200石 |
1670年 |
34 |
裏門 |
松平家 |
義父は堀部弥兵衛 |
礒貝十郎左衛門 |
正久 |
物頭・側用人 |
150石 |
1679年 |
25 |
裏門 |
細川家 |
|
近松勘六 |
行重 |
馬廻 |
250石 |
1670年 |
34 |
表門 |
細川家 |
弟は奥田貞右衛門 |
冨森助右衛門 |
正因 |
馬廻・使番・江戸詰 |
200石 |
1670年 |
34 |
表門 |
細川家 |
|
潮田又之丞 |
高教 |
郡奉行・国絵図奉行 |
200石 |
1669年 |
35 |
裏門 |
細川家 |
|
早水藤左衛門 |
満堯 |
馬廻 |
150石 |
1664年 |
40 |
表門 |
細川家 |
|
奥田孫太夫 |
重盛 |
武具奉行・江戸詰 |
150石 |
1647年 |
57 |
表門 |
細川家 |
|
奥田貞右衛門 |
行高 |
加東郡勘定方 |
9石3人扶持 |
1678年 |
26 |
裏門 |
水野家 |
義父は奥田孫太夫 |
矢田五郎右衛門 |
助武 |
馬廻・江戸詰 |
150石 |
1675年 |
29 |
表門 |
細川家 |
|
菅谷半之丞 |
政利 |
馬廻・郡代 |
100石 |
1660年 |
44 |
裏門 |
松平家 |
|
大石瀬左衛門 |
信清 |
馬廻 |
150石 |
1677年 |
27 |
裏門 |
細川家 |
|
赤埴源蔵 |
重賢 |
馬廻・江戸詰 |
200石 |
1669年 |
35 |
裏門 |
細川家 |
|
千馬三郎兵衛 |
光忠 |
馬廻・宗門改 |
100石→30石に |
1653年 |
51 |
裏門 |
松平家 |
|
中村勘助 |
正辰 |
馬廻・祐筆頭 |
100石 |
1656年 |
48 |
裏門 |
松平家 |
|
木村岡右衛門 |
貞行 |
馬廻・絵図奉行 |
150石 |
1658年 |
46 |
裏門 |
松平家 |
|
不破数右衛門 |
正種 |
元馬廻・浜辺奉行 |
元100石 |
1670年 |
34 |
裏門 |
松平家 |
|
岡野金右衛門 |
包秀 |
部屋住み |
|
1680年 |
24 |
表門 |
松平家 |
伯父は小野寺十内 |
岡島八十右衛門 |
常樹 |
札座勘定奉行 |
20石5人扶持 |
1666年 |
38 |
表門 |
毛利家 |
兄は原 惣右衛門 |
武林唯七 |
隆重 |
馬廻・中小姓近習 |
15両3人扶持 |
1672年 |
32 |
表門 |
毛利家 |
|
貝賀弥左衛門 |
友信 |
中小姓近習・蔵奉行 |
2石10両3人扶持 |
1650年 |
54 |
表門 |
松平家 |
兄は吉田忠左衛門 |
大高源五 |
忠雄 |
金奉行・膳番元方・腰物方 |
20石5人扶持 |
1672年 |
32 |
表門 |
松平家 |
弟は小野寺幸右衛門 |
倉橋伝助 |
武幸 |
扶持奉行・中小姓・江戸詰 |
20石5人扶持 |
1670年 |
34 |
裏門 |
毛利家 |
|
村松喜兵衛 |
秀直 |
扶持奉行・江戸詰 |
20石5人扶持 |
1642年 |
62 |
表門 |
毛利家 |
|
村松三太夫 |
高直 |
部屋住み |
|
1677年 |
27 |
裏門 |
水野家 |
父は村松喜兵衛 |
杉野十平次 |
次房 |
札座横目 |
8両3人扶持 |
1676年 |
28 |
裏門 |
毛利家 |
|
前原伊助 |
宗房 |
中小姓・金奉行・江戸詰 |
10石3人扶持 |
1664年 |
40 |
裏門 |
毛利家 |
|
勝田新左衛門 |
武堯 |
中小姓近習・札座横目 |
15石3人扶持 |
1680年 |
24 |
表門 |
毛利家 |
|
矢頭右衛門七 |
教兼 |
部屋住み |
|
1686年 |
18 |
表門 |
水野家 |
|
神崎与五郎 |
則休 |
横目付・郡目付 |
5両3人扶持 |
1666年 |
38 |
表門 |
水野家 |
|
茅野和助 |
常成 |
横目付 |
5両3人扶持 |
1667年 |
37 |
裏門 |
水野家 |
|
横川勘平 |
宗利 |
徒目付 |
5両3人扶持 |
1667年 |
37 |
表門 |
水野家 |
|
三村次郎左衛門 |
包常 |
酒奉行・台所役人 |
7石2人扶持 |
1667年 |
37 |
裏門 |
水野家 |
|
寺坂吉右衛門 |
信行 |
吉田忠左衛門附足軽 |
3両2分2人扶持 |
1665年 |
83 |
裏門 |
|
|
■その他赤穂藩関係者
氏名 |
藩職 |
禄高 |
その後 |
浅野内匠頭長矩 |
播磨赤穂藩の第3代藩主 |
5万石 |
吉良に切りつけ田村右京大夫(陸奥一関藩主)屋敷にて即日切腹。享年35。 |
瑤泉院(阿久里) |
浅野長矩の妻 |
|
正徳4年 (1714)三次浅野家下屋敷で死去。享年41 |
浅野大学長広 |
内匠頭弟 |
|
のち旗本寄合として復活 |
大石りく |
大石内蔵助良雄の妻 |
|
元文元年(1736年)に死去。享年68 |
大石くう |
大石内蔵助の長女。 |
|
|
大石吉之進 |
大石内蔵助の次男。 |
|
|
大石るり |
大石内蔵助の次女。 |
|
浅野氏一族浅野長道に嫁ぐ。 |
大石大三郎 |
大石内蔵助の三男。 |
|
広島浅野本家に父と同じ1500石で仕えた。 |
萱野三平重実 |
中小姓近習 |
12両2分3人扶持 |
自害 |
四十七士物語 年表
西暦 |
和暦 |
日付 |
出来事 |
1683 |
天和3年 |
2月6日 |
浅野内匠頭長矩(以下、「内匠頭」)、勅使饗応役を拝命。 |
|
|
5月 |
内匠頭・阿久里の婚儀が行われる。 |
1701 |
元禄14年 |
2月4日 |
内匠頭、二回目の勅使饗応役を拝命。 |
|
|
3月14日 |
内匠頭、江戸城松の廊下で吉良上野介(以下「上野介」)に刃傷に及ぶ。 |
|
|
|
田村右京大夫邸にお預けとなり、切腹。 |
|
|
|
内匠頭刃傷事件を伝える使者が、江戸から赤穂へ出発する。 |
|
|
3月19日 |
江戸から急行した使者が到着。 |
|
|
|
赤穂城下は大騒ぎとなるが、家老・大石内蔵助良雄(以下、内蔵助)らが事態の収拾にあたる。 |
|
|
3月26日 |
上野介、御役御免を願い出て辞職。 |
|
|
4月19日 |
赤穂城、明け渡される。 |
|
|
6月28日 |
内蔵助、京都山科に居を移す。 |
|
|
8月19日 |
上野介、呉服橋邸から本所松坂町へ屋敷替え。 |
|
|
11月10日 |
内蔵助、江戸で急進派浪士らと会合し、討ち入り決行を翌年3月頃と決める。 |
|
|
12月12日 |
上野介が隠居。孫の義周が家督を継承。 |
|
|
|
この頃、高田郡兵衛、脱盟。 |
1702 |
元禄15年 |
1月14日 |
萱野三平、摂津の自宅にて自害。 |
|
|
2月15日 |
山科会議が開かれる。 |
|
|
4月 |
内蔵助、妻・りくを離別。 |
|
|
7月18日 |
浅野大学長廣に安芸浅野家お預けの処分が下される。 |
|
|
7月28日 |
円山会議が開かれる。 |
|
|
9月19日 |
大石主税らが江戸へ下向。 |
|
|
10月7日 |
内蔵助らが江戸へ下向。 |
|
|
10月26日 |
内蔵助らが川崎平間村へ到着。 |
|
|
12月10日 |
大高源吾、吉良邸で茶会が催されるという情報を入手。 |
|
|
12月14日 |
深夜、47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。 |
|
|
12月15日 |
赤穂浪士、泉岳寺にて仇討ちの成功を報告し、幕府に自訴。 |
|
|
|
赤穂浪士の処分を巡って議論が分かれる |
1703 |
元禄16年 |
1月22日 |
幕府、浪士らに「親類書」の提出を命じる。(26日に提出。) |
|
|
1月下旬 |
浪士処分を決める投票が行われる。 |
|
|
2月1日 |
綱吉が公弁法親王と会談 |
|
|
2月4日 |
内蔵助ら46士、切腹。 |
|
|
|
吉良義周、知行地を没収され信濃高島城へ配流。 |
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