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忠臣蔵のページ - (2010/02/14 (日) 01:02:06) の編集履歴(バックアップ)


忠臣蔵のページ

赤穂市立赤穂中学校昭和55年度卒業生による忠臣蔵に関する情報を提供するページです。
忠臣蔵ゆかりの地を赤穂、関西(京都)、関東(吉良邸、泉岳寺から切腹場所)までを順次紹介していきます。
更新日:2010-06-02 21:03:25 (Wed)

忠臣蔵座談会

みなさん、男女問わず忠臣蔵に興味ある人コメントください。また、情報持っている人いたら情報ください。
また、赤穂浪士、忠臣蔵に関して日ごろ思うことでもOKです。
では、楽しく活用しましょう!

  • 2年ぶりの書き込みか。。。今年の箱根駅伝復路の日、日本橋で駅伝観戦後、七福神めぐりをし、帰りに泉岳寺にお参りしてきました。 - 管理人@土浦 2013-01-16 22:19:05
  • 大連の日系のお店やホテルに置いている雑誌を見ていたら、赤穂義士のことが記載されていた。題は、「赤穂義士の後日談」!大連でも、この時期は赤穂義士の話題が出るんだと思った。 - 管理人@大連 2011-01-04 20:41:23
  • 義士祭どうでしたか?今度、ハリウッドでキアヌ主演3D赤穂浪士の映画が作られるみたい。どんなんができるんだろう!?今から楽しみです。 - 管理人@横浜 2010-12-14 20:50:31
  • 今日は、義士祭り!赤穂、泉岳寺で祭りがありますね。 - 管理人@横浜 2010-12-14 08:43:35
  • 12月18日(土)から「最後の忠臣蔵」が全国ロードショー!14日は、義士祭盛り上がりますね! - 管理人@横浜 2010-12-11 23:42:06
  • 今年の年末は、久々の忠臣蔵映画となる「最後の忠臣蔵」がスクリーンに登場しますね。原作もなかなか面白いので、読んでみてもよいと思います。年末14日の義士祭、盛り上がりそう。 - なかた 2010-09-14 07:13:59
  • 各地で分けてみました。その他作ったので、発起人の兄三木に愛知地方は、お願いしたいんだけど…その他は、私と赤穂、関西、関東メンバに情報もらいながら少しずつ作成したい思います。 - なかた 2010-02-15 21:58:31
  • 新橋おやじビルに「櫻子」というカウンター・バーあり、ママのえみさん(我々より若い)はとても忠臣蔵に詳しいよ。 - ふえだ 2010-01-28 07:39:18
    • 今度、「櫻子」に連れてって!えみさんってうちの嫁と同じ名前なので親近感わくわ! - なかた 2010-01-28 22:59:03
  • この時間にオンライン中のひとが4人だ!!みんな夜更かしだねーー。 - ふえだ 2010-01-28 00:30:21
  • 息継ぎ井戸といえば、江戸城殿中刃傷事件を赤穂に伝えた「早籠(はやかご)」だけど、あたりまえだけど4人で籠の中の大人ひとりを運ぶわけだよね。それが2組。600KMを4日半で。とてもシンジラレナイね。 - ふえだ 2010-01-16 23:39:06
    • かごに乗っている人も不眠不休だからね。昔の人はすごいわ! - なかた 2010-01-17 00:20:57

忠臣蔵ゆかりの地を紹介します。






赤穂浪士四十七士一覧表

■赤穂浪士47士
氏名 藩職 禄高 生年 享年 部隊 お預け先 家族
大石内蔵助 良雄 家老 1500石 1659年 45 表門 細川家  
大石主税 良金 部屋住み   1688年 16 裏門 松平家 父は大石内蔵助
吉田忠左衛門 兼亮 加東郡代・足軽頭 200石役料50石 1641年 63 裏門 細川家  
吉田沢右衛門 兼定 中小姓近習 13両3人扶持 1675年 29 表門 毛利家 父は吉田忠左衛門
原 惣右衛門 元辰 足軽頭・鉄砲頭 300石 1648年 56 表門 細川家  
片岡源五右衛門 高房 側用人・小姓頭 350石 1667年 37 表門 細川家  
間瀬久太夫 正明 目付 200石 1641年 63 表門 細川家  
間瀬孫九郎 正辰 部屋住み   1681年 23 裏門 水野家 父は間瀬久太夫
小野寺十内 秀和 京都留守居役 150石役料70石 1643年 61 裏門 細川家  
小野寺幸右衛門 秀富 部屋住み   1676年 28 表門 毛利家 養父は小野寺十内
間 喜兵衛 光延 馬廻・勝手方吟味役 100石 1635年 69 裏門 細川家  
間 十次郎 光興 部屋住み   1678年 26 表門 水野家 父は間 喜兵衛
間 新六 光風 部屋住み   1680年 24 裏門 毛利家 父は間 喜兵衛
堀部弥兵衛 金丸 元江戸留守居役 300石隠居料20石 1627年 77 表門 細川家  
堀部安兵衛 武傭 馬廻・江戸留守居役 200石 1670年 34 裏門 松平家 義父は堀部弥兵衛
礒貝十郎左衛門 正久 物頭・側用人 150石 1679年 25 裏門 細川家  
近松勘六 行重 馬廻 250石 1670年 34 表門 細川家 弟は奥田貞右衛門
冨森助右衛門 正因 馬廻・使番・江戸詰 200石 1670年 34 表門 細川家  
潮田又之丞 高教 郡奉行・国絵図奉行 200石 1669年 35 裏門 細川家  
早水藤左衛門 満堯 馬廻 150石 1664年 40 表門 細川家  
奥田孫太夫 重盛 武具奉行・江戸詰 150石 1647年 57 表門 細川家  
奥田貞右衛門 行高 加東郡勘定方 9石3人扶持 1678年 26 裏門 水野家 義父は奥田孫太夫
矢田五郎右衛門 助武 馬廻・江戸詰 150石 1675年 29 表門 細川家  
菅谷半之丞 政利 馬廻・郡代 100石 1660年 44 裏門 松平家  
大石瀬左衛門 信清 馬廻 150石 1677年 27 裏門 細川家  
赤埴源蔵 重賢 馬廻・江戸詰 200石 1669年 35 裏門 細川家  
千馬三郎兵衛 光忠 馬廻・宗門改 100石→30石に 1653年 51 裏門 松平家  
中村勘助 正辰 馬廻・祐筆頭 100石 1656年 48 裏門 松平家  
木村岡右衛門 貞行 馬廻・絵図奉行 150石 1658年 46 裏門 松平家  
不破数右衛門 正種 元馬廻・浜辺奉行 元100石 1670年 34 裏門 松平家  
岡野金右衛門 包秀 部屋住み   1680年 24 表門 松平家 伯父は小野寺十内
岡島八十右衛門 常樹 札座勘定奉行 20石5人扶持 1666年 38 表門 毛利家 兄は原 惣右衛門
武林唯七 隆重 馬廻・中小姓近習 15両3人扶持 1672年 32 表門 毛利家  
貝賀弥左衛門 友信 中小姓近習・蔵奉行 2石10両3人扶持 1650年 54 表門 松平家 兄は吉田忠左衛門
大高源五 忠雄 金奉行・膳番元方・腰物方 20石5人扶持 1672年 32 表門 松平家 弟は小野寺幸右衛門
倉橋伝助 武幸 扶持奉行・中小姓・江戸詰 20石5人扶持 1670年 34 裏門 毛利家  
村松喜兵衛 秀直 扶持奉行・江戸詰 20石5人扶持 1642年 62 表門 毛利家  
村松三太夫 高直 部屋住み   1677年 27 裏門 水野家 父は村松喜兵衛
杉野十平次 次房 札座横目 8両3人扶持 1676年 28 裏門 毛利家  
前原伊助 宗房 中小姓・金奉行・江戸詰 10石3人扶持 1664年 40 裏門 毛利家  
勝田新左衛門 武堯 中小姓近習・札座横目 15石3人扶持 1680年 24 表門 毛利家  
矢頭右衛門七 教兼 部屋住み   1686年 18 表門 水野家  
神崎与五郎 則休 横目付・郡目付 5両3人扶持 1666年 38 表門 水野家  
茅野和助 常成 横目付 5両3人扶持 1667年 37 裏門 水野家  
横川勘平 宗利 徒目付 5両3人扶持 1667年 37 表門 水野家  
三村次郎左衛門 包常 酒奉行・台所役人 7石2人扶持 1667年 37 裏門 水野家  
寺坂吉右衛門 信行 吉田忠左衛門附足軽 3両2分2人扶持 1665年 83 裏門    

■その他赤穂藩関係者
氏名 藩職 禄高 その後
浅野内匠頭長矩 播磨赤穂藩の第3代藩主 5万石 吉良に切りつけ田村右京大夫(陸奥一関藩主)屋敷にて即日切腹。享年35。
瑤泉院(阿久里) 浅野長矩の妻 正徳4年 (1714)三次浅野家下屋敷で死去。享年41。長矩と同じ泉岳寺に葬られた
浅野大学長広 内匠頭弟   のち旗本寄合として復活。享保19年(1734年)享年65。47士と同じ泉岳寺に葬られた
大石りく 大石内蔵助良雄の妻 元文元年(1736年)に死去。享年68。広島の国泰寺に葬られる。
大石くう 大石内蔵助の長女。 父と兄の後を追うように翌年の宝永元年(1704年)夭折した。享年15。豊岡の正福寺に葬られた。
大石吉之進 大石内蔵助の次男。 宝永6年(1709年)3月1日に入寂した。享年19
大石るり 大石内蔵助の次女。 浅野氏一族浅野長道に嫁ぐ。 寛延4年(1751年)6月29日に広島で死去。享年53
大石大三郎 大石内蔵助の三男。 広島浅野本家に父と同じ1500石で仕えた。明和7年(1770年)2月14日に広島にて死去した。享年69
萱野三平重実 中小姓近習 12両2分3人扶持 刃傷事件の第一報を赤穂へもたらした。義盟に加わるが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害。享年28。今も三平の辞世の句碑が切腹した長屋門西部屋の横に残っている。




四十七士物語 年表

西暦 和暦 日付 出来事
1683 天和3年 2月6日 浅野内匠頭長矩(以下、「内匠頭」)、勅使饗応役を拝命。
5月 内匠頭・阿久里の婚儀が行われる。
1701 元禄14年 2月4日 内匠頭、二回目の勅使饗応役を拝命。
3月14日 内匠頭、江戸城松の廊下で吉良上野介(以下「上野介」)に刃傷に及ぶ。
田村右京大夫邸にお預けとなり、切腹。
内匠頭刃傷事件を伝える使者が、江戸から赤穂へ出発する。
3月19日 江戸から急行した使者が到着。
赤穂城下は大騒ぎとなるが、家老・大石内蔵助良雄(以下、内蔵助)らが事態の収拾にあたる。
3月26日 上野介、御役御免を願い出て辞職。
4月19日 赤穂城、明け渡される。
6月28日 内蔵助、京都山科に居を移す。
8月19日 上野介、呉服橋邸から本所松坂町へ屋敷替え。
11月10日 内蔵助、江戸で急進派浪士らと会合し、討ち入り決行を翌年3月頃と決める。
12月12日 上野介が隠居。孫の義周が家督を継承。
この頃、高田郡兵衛、脱盟。
1702 元禄15年 1月14日 萱野三平、摂津の自宅にて自害。
2月15日 山科会議が開かれる。
4月 内蔵助、妻・りくを離別。
7月18日 浅野大学長廣に安芸浅野家お預けの処分が下される。
7月28日 円山会議が開かれる。
9月19日 大石主税らが江戸へ下向。
10月7日 内蔵助らが江戸へ下向。
10月26日 内蔵助らが川崎平間村へ到着。
12月10日 大高源吾、吉良邸で茶会が催されるという情報を入手。
12月14日 深夜、47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。
12月15日 赤穂浪士、泉岳寺にて仇討ちの成功を報告し、幕府に自訴。
赤穂浪士の処分を巡って議論が分かれる
1703 元禄16年 1月22日 幕府、浪士らに「親類書」の提出を命じる。(26日に提出。)
1月下旬 浪士処分を決める投票が行われる。
2月1日 綱吉が公弁法親王と会談
2月4日 内蔵助ら46士、切腹。
吉良義周、知行地を没収され信濃高島城へ配流。



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