その日の午後は、春の暖かい日差しがやっと感じられた。 男はいい天気だ、と呟くと窓を開け、外の空気をめいっぱい吸い込んで、息を吐いた。 その眼鏡越しの紅い眼には、雲ひとつない青い空が薄く映っている。 男は棚からココアを取り出すと、それを適量にカップに入れて湯を注いだ。 甘い香りに頬を緩ませ、ゆったりとした仕草で椅子に座り込んで、静かにすする。 「……また腹が出たな」 腹部に段差が出来る感覚に悪い変化を感じ、男は静かに苦笑した。 容姿は男前と言っても差し支えないが、どうにも腹が出ている上に背も小さい。 恐らく原因のひとつである手元のココアは、当然ながら何も口を利かない。 口が利ければどんな言葉が出るのやら、と男はひとりごちた。 そして机の上にある古いレコード盤から一枚を取り、プレイヤーに乗せる。 慣れた手つきで針を乗せて、その手は再びカップを握る。 ぶつぶつと音が鳴りつつも、プレイヤーは静かな部屋に確かなメロディを響かせ始めた。 曲名は、男が愛してやまない名作曲家チェッタの『春の日差し』。 「愛しい私の御敵。命の恩人。 ……あぁ、なんと待ち遠しい!」 男の弾んだ声が部屋に響き、その右手は軽く指揮を執り始めた。 目の前に存在しない楽団に思いを馳せるように、虚空で揺れ動く。 各地にある隠れ家の一つ、誰も住まなくなった空き家で、 男は静かに指揮を執り続けていた。 「……腹が減ったな」 ……ただし、たった数分間だけ。