空はコンクリートのような灰色をして、淀んでいた。まるで世界に大きな天井が出来たかのようにも見えた。 自室の窓からそれを見つめていたパジャマ姿の少女、空条彼方は、静かにため息をひとつついた。 「今日は、機嫌が悪いのね」 興味を失くしたかのように目を背けてしまうと、彼方はそのまますとんとベッドに倒れこんだ。 外は暗いというのに、部屋の中はひとつとして明かりがついておらず、わずかに黴臭い。 必要最低限しか置かれていない生活用品の殆どが白や灰色といった色合いで統一され、年頃の少女らしい色味はまるでない部屋だった。 しばらく天井を眺めていた彼方だったが、ふと思い出したような表情になると、ベッドの側から何か、毛むくじゃらの物体を引っ張りだした。 少女と天井の間で細い両腕に掲げられたそれは、あちこちが解れてぼろぼろになったクマのぬいぐるみだった。 「……」 見た目というものは案外意味としては大きいもので、殆どの人間は心の何処かでそれがひとつの生物であるかのように錯覚する。 頭ではそれが「モノ」でしかないと解っていながら、時折それが意思を持っているのではないか、と思うのだ。 しかし彼方は違った。彼方の光のない瞳は、静かにその片目のボタンが取れた顔を見つめていた。 こんなものをペットにしていた頃の自分は、表面的なことしか理解できない頭しかなかったのだと、少女は昔を思い出していた。 「どうして、私はこんなものをまだ置いてるのかしらね」 言い終わらないうちに、彼方はぬいぐるみの耳を乱暴に引っつかむと、無造作に投げた。 細い指から離れた布の体がニ、三度宙を舞い、ゴミ箱の中にどさ、という音を立てて収まるのを確認すると、彼方は背中を向けて目を閉じた。 その時だった。 「乱暴にしないであげてほしんだぞ」 急に部屋に響いた聞きなれない細い声に、咄嗟に少女が振り向いた。 そこにいたのは、ゴミ箱からクマを取り出し埃を取り除いている、幼い容姿の人物だった。 白く短い髪をしていて、素肌にスポーツブラジャーと男子用水着を着け、その上から茶色のコートを羽織った姿。 顔も体格も中性的で、外見からは性別が解らない。 「あなた、だ……」 問いかけようとした少女の言葉が、途切れた。 目の前の人物の、奇橋な格好に絶句した訳ではない。彼方の仲間には、もっと奇橋な言動をとる人物がごまんといる。 あまり感情を見せない瞳が、わずかに驚愕の色を浮かべつつ見据えているのは、その瞳だった。 「あなたは……」 「俺はムスタング・ディオ・白樺っていうんだぞ。俺を覚えているか、空条彼方」 少女のようにも少年のようにも聞こえる声が、言葉を繋げない少女を無視した。 棒のように細い素足がこちらに向き直り、ぺたりぺたりと音を立てて、静かに彼方との距離を詰める。 彼方は静かに、不自然にならないように後ろに下がり、距離を取った。 「貴方みたいな変態に知り合いはいないわ。ところで――」 「この眼だろ?」 ムスタングと名乗る人物の問に、彼方が無言で肯定する。その問いから、ムスタングは自分の眼のことを知っている可能性が高いと彼方は踏んだ。 彼方の眼には『赤』が見えない。過去に起こった、全ての歯車が狂いだしたあの事件から、彼方の瞳は暖かい色を忘れてしまっているのだ。 しかし、目の前のムスタングの瞳は、どう見ても「赤」以外の何色でもなかった。 もっと言ってしまうなら、人間の遺伝子上あり得ない、血のように赤い瞳だった。 「……貴方の、その眼は何なの?私の眼がおかしいのは事実だけど、貴方のも十分おかしいわ」 問いかけながら、気付かれないようにベッドの横の拳銃に手を伸ばす。 今まで察知されることなく部屋に侵入し、かと思えばぬいぐるみの心配をしだすなど、ムスタングの行動目的がまるで解らない。 ならばまずは殺害し、その後でこの男だか女だかわからない奴の正体を探るべきと彼方は既に結論を出していた。 「実はこう見えて吸血鬼なんだぞ。おとなしくしないと血を吸うぞ」 「あ、そう。なら銀の弾丸が必要ね」 「良い吸血鬼だっているんだぞ。何も殺さなくても――」 「もう遅いわ」 呟きが終わらないうちに、彼方の腕は既に拳銃を構え、撃っていた。 狙いは心臓、そして頭部。一瞬だった。 「あ――」 瞳の色と同じような、鮮やかな赤い血を迸らせ、幼い体が後ろに倒れていく。 とさ、と軽い音を立てて、ムスタングは静かに色味の少ない部屋の真ん中で、動かなくなった。 「知ってる?吸血鬼が人間に勝ったことって、一度もないのよ」 静かにつぶやくと同時に、彼方は携帯端末に手を伸ばした。 連絡先は本部。組織の幹部が襲撃を受けることはそう珍しいことでもない。 しかし最期の姿が、このような奇橋極まる格好だというのも哀れな気がした。 趣味とはいえ、まさか死装束になるとは思わなかっただろう。暫くは組織内で話のネタになるかも、と思った時だった。 「確かにそうだ」 一瞬、誰のものか理解できなかった。先程とまったく同じ声が、彼方のすぐ後ろから響いてきた。 次の瞬間、後ろから伸びた両腕が、彼方の口と両目を塞いだ。 「むぐっ!?」 動揺しつつも状況を把握、相手の足の甲があるであろう位置に、全力で踵を降ろす。 だが、手応えがない。感じたのは、歩きなれた部屋の床の、固い感触だった。 冷静さが急激に剥がれ落ちていき、死に物狂いで滅茶苦茶に踵を降ろすも、すべて手応えなし。 混乱した頭が、"足がない"という現実離れした結論を出しかけた時、再び声がした。 「でも、鉛の弾丸じゃ吸血鬼は倒せないんだぞ」 耳のすぐ側、息がかかるほどの位置で静かに囁く声に、全身が恐怖でぞくりと震える。 その時だった。 「ぐっ――!?」 かり、と小さな音がして、首筋に鋭くも柔らかい痛みが走った。 その瞬間、未だに状況を把握しないまま、緊張の糸がぷつりと切れた。 「――あ……あ……」 本能が"生存失敗"と認識したのか、その瞬間に彼方からは恐怖が吹き飛んでしまった。 その代わり彼方の頭の中には、行った覚えのない不思議な光景が広がっていた。 ――中世の頃のアプルーエ文化をそのまま再現したような、別の世界のような光景。でも何処か違和感を感じる。 ……まるで一度現代の文化をリセットしてから、無理矢理歴史を辿り直したような、自然体でない世界。 「なあ、聞こえるか。空条彼方」 ムスタングの問いに彼方は答えなかった。実際のところは聞こえてはいたが、言葉の意味をまともに認識できていなかった。 何処か心地良い首筋の痛みと、目の前の幻想的な世界と、奇妙なしびれが彼方の内側を麻痺させていた。 朦朧とした意識の中、ムスタングの声がよりぼんやりとした声で頭の中に響いた。 「許せよ。落ち着いてもらいたいから、ちょっと乱暴したんだぞ。 俺のことは、君の今までの全てを知っている誰かだと思え。覚えてないなら、君の過去や想いが創りだした幻だと思え」 返事をしないまま、不思議な幻想を見つつ体を震わせ続けている彼方に、ムスタングは続けた。 彼方からは見えてはいなかったが、その赤い瞳には、僅かに憐れむような、哀しげな色が浮かんでいた。 「俺にはすべて解ってしまっている。この先、世界に何が起こるのか。 レインディアーズ、ヒリングデーモン、グランジ……皆すでに世界の流れ、運命に巻き込まれている。 俺も君も、もう二度と幸せな日常に戻れない。歴史の葬列を傍観する誰かでいられない。全て、遠い日々だ」 ムスタングのその言葉の直後、訳の分からないまま緊張が解けたのか、彼方の膝からかくん、と力が抜けた。 まるで重力そのものを操ったかのように、ムスタングは抵抗なく優しく少女を受け止め、膝に頭を寝かせた。 短かったはずの白い髪は長髪に、幼い姿は成熟して間もない程の女性のものになっていた。 「だからこうして会いに来た。この先に待つ、終わりのない喜劇を共に演じる者として。 私たちの悲しみも、怒りも、想いも、全て世界の流れに飲み込まれて、跡形もなく忘れ去られてしまう。 ……どうせ、全て幻想なのだから。だからせめて今は嘘でも信じて、安心して眠って。 明日が来れば笑えると。幸せだったあの頃に帰れると。ここには誰も、貴女の敵はいないから。 おやすみなさい、彼方」 自分の前髪を、優しい手つきで弄ぶムスタングの赤い瞳が見えた。 薄れゆく意識の中、母の記憶を感じながら、彼方は眠りに落ちていった。 遠い日々。自分の全てを狂わせた、もう何処生きているのかも知れない母の温もりを。 彼方が両目の揃ったぬいぐるみを持ち歩くようになったのは、その日からだった。