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    <description>歴史改変SF @ ウィキ</description>

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    <title>日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/設計局内の権力闘争</title>
    <link>https://w.atwiki.jp/alternativehistoryjp/pages/13.html</link>
    <description>
      ※未完成
設計局内の権力闘争とは、[[NASDA&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/宇宙開発事業団]]内部で行われた一連の権力闘争である。当項目では陸海軍対立時代から、[[コロリョフ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/セルゲイ・コロリョフ]]と[[グルシュコ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴァレンティン・グルシュコ]]を中心に発生した一連の対立について触れる。

**NASDA設立まで
日本の宇宙開発における設計局同士の対立のルーツは戦前の陸海軍の対立に遡ることができる。帝国陸海軍は戦前から関係が悪く、その理由の一つが陸軍は戦闘を重視し海軍は技術開発や経済的利益を得ることに重きを置いていたことである。これらの差異から、ロケット開発でも陸軍系の糸川英夫を重宝する一方でロシア系科学者の受け入れを認めなかった陸軍とロシア系科学者も積極的に受け入れた海軍など、ロケットの開発方針や設計思想にも影響を与えていた。宇宙開発において1番陸海軍間の対立が高まった出来事は、1955年にISAS(宇宙科学研究所)と陸軍合同のおおすみ衛星とQ-Ⅲロケットが海軍のETS衛星(後のきくシリーズ)とN-4ロケットにコンペティションで勝利したことである。これに対し、セルゲイ・コロリョフは「日本初、いや世界初の人工衛星を打ち上げたのがロシア人だということになるのが気に入らなかったのだろう。」と後に述べている。&amp;footnote(ただ、そのような態度は表に出さず、ロケット開発チームに対しては「来る日に備えて今はN-4の実用化に注力するんだ」と鼓舞するような発言をしている。)
結局1956年12月6日に陸軍が打ち上げたおおすみ1号はQ-Ⅲロケットの打ち上げ失敗と翌年2月1日に打ち上げに成功した海軍のN-4ロケットときく1号(ETS-1)によって海軍の影響力が増したが、対立は沈静化しないどころか激化した。しかし、これら陸海軍ですら困惑するドロドロの権力闘争が後に海軍系のロケット開発チームの間で行われることになるとはこの頃はまだ誰も知るよしもなかった。
**NASDA設立後
1958年7月29日、日本の宇宙開発を統括する機関である「宇宙開発事業団(NASDA)」が設立され、島秀雄が初代理事長に就任。陸軍と海軍の宇宙計画が吸収され、旧海軍技術研究所ロケット開発チーム(コロリョフ、グルシュコらロシア人科学者も含む)が組織内ワーキンググループ(WG)の[[第1設計局&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/第1設計局]]&amp;footnote(日本初の人工衛星きく1号打ち上げの実績が評価され最初のナンバーである1が与えられた。)に、旧陸軍のロケット開発チームとISASとの掛け持ちである糸川英夫らISASの1部メンバーが同じく組織内WGの[[第2設計局&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/第2設計局]]に編入された。&amp;footnote(これによってISASも事実上NASDAの指揮下に入る事となったが、最終的にNASDAとISASが統合されたのは2003年になってからであった。)
1961年、第1設計局が主導する日本初の有人宇宙飛行計画である[[しののめ計画&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/しののめ計画]]が成功すると、ますます第1設計局の影響力は拡大し、大きな設計局となって行った。しかし、その過程でしののめ計画に使用するロケットを巡ってN-4ロケットに上段を追加した「N-4Aロケット」を使用することで速やかに有人宇宙飛行を成し遂げようとするコロリョフや[[ミーシン&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴァシーリー・ミシン]]率いるケロシン派と、ハイパーゴリック推進剤(ヒドラジン燃料)を使用したロケットを開発し、今後の宇宙計画の為の「投資」をするべきだと主張したグルシュコや[[チェロメイ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ウラジミール・チェロメイ]]率いる「ヒドラジン派」に分裂。コロリョフとグルシュコの技術思想が真逆なこと、人間関係が最悪なこと&amp;footnote(元々グルシュコは亡命後あたりからまるで自分がコロリョフの下請けのように使われているのではないかと疑念を持ったことに加え、1950年代中盤まではコロリョフはグルシュコのことを対等なライバルとして見ていたが、興味本位で見てしまった枢軸国によるスターリン大粛清の機密文書公開で自身を告発したのがグルシュコだったことが判明。これにより、以降コロリョフとグルシュコの関係は修復不可能となった。)、特に陸軍がヒドラジン燃料に対して好感触を示したこと、同じ屋根の下に置いておくと開発が止まるということをを官僚が嫌ったことなどが重なり、ヴァレンティン・グルシュコ率いるヒドラジン派が[[第3設計局&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/第3設計局]]として独立する運びとなった。

**かぐや計画とPLANET計画
1960年に民進党の河上丈太郎が総理大臣になり、日独の弾道弾格差(ミサイル・ギャップ)を埋めるためにかぐや計画を推進することを決定。少なくとも1名以上の人間を月に着陸させ、無事に帰還させることを1960年代の終わりまでに達成させると宣言した。
これにより、NASDA内では案の定どこの設計局が月着陸を行うのか、そしてどこの設計局がロケットを作り、更にどこの設計局が月探査機を製造するのか揉めに揉める結果となった。

1962年、第1設計局・第2設計局・第3設計局は有人月着陸ミッションのコンペティションに挑んだ。最初に第三設計局が提示したのは「[[LK-1&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/LK-1月周回船]]」月周回船と「[[LK-700&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/LK-700月着陸船]]」月着陸船であった。LK-1は、[[UR-500&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/UR-500ロケット]]で打ち上げられた後に月を周回して地球に帰還するというミッションであり、LK-700は[[UR-700&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/UR-700ロケット]]で一気に月軌道まで打ち上げ、そのまま着陸・離陸するという所謂「直接降下・着陸方式」をとるというものであった。
続いて第1設計局が提案したのは「[[同盟&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/同盟宇宙船]]」宇宙船で、同盟A有人船、同盟B推進船、同盟C補給船をそれぞれ別のロケットで打ち上げ、軌道上で一列にドッキングして月接近飛行を行うというコンセプトであった。そして、同時に「上昇段・下降段を大型ロケットで打ち上げて軌道上でドッキング、そしてまた大型ロケットで宇宙船に燃料補給を行い、また別のロケットで宇宙飛行士を着陸船まで運び月に着陸する」という所謂「地球周回ランデブー方式」を採用した有人月着陸プランを提案した。しかし、具体的にどのロケットで打ち上げるかは決まっておらず、どのロケットで打ち上げるかは追々決めるという形だった。
最後に第2設計局は、同盟A宇宙船と類似した軌道船(拡張モジュール)、帰還船(期間モジュール)、機械船(推進モジュール)を持つ「[[ふじ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/きょくじつ宇宙船]]」宇宙船を超大型ロケット「[[CR-01&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/CR-01ロケット]]」で打ち上げて月周回を行い、更に拡張モジュールを月着陸船に置き換えることによって将来の月面着陸も可能であるというプランを提示した。
このコンペは、当初の予想では明確なプランを提示している第三設計局か第2設計局が勝つと思われており、第1設計局のプランは通らないという見方が大多数であった。しかし、陸海軍対立よりも第1設計局・第3設計局間の対立の方が深刻であることを察知した糸川英夫は第1設計局に接触、「ふじ宇宙船を取り下げる代わりにコロリョフさんの月着陸船をCR-01に乗せて打ち上げないか」と提案した。コロリョフ側は最初は難色を示したものの、糸川が「コロリョフさん、このままでは第三設計局の計画が通ってしまいますよ。おそらく宇宙船も彼らのものが使われることでしょう。仮にコロリョフさんの宇宙船が通ったとしてもあなたはこれからはグルシュコさんに頭を下げて宇宙船を打ち上げさせてくれと頼むことになる。それでいいんですか」と熱い説得をしたことで、コロリョフも第1設計局もCR-01開発に関与させてもらう事、第2設計局が既にHロケットで実用化していた液体水素・液体酸素を使用したエンジンや燃料取り扱いの技術を移転してもらうという交換条件を突きつけこれに糸川が合意。第1設計局と第2設計局の計画は統合され、後のかぐや計画の正式なプランに近いものが出来上がった。
コロリョフ・糸川合同プランはコロリョフと糸川の短所をお互いの長所でカバーし合う理想的な計画へと仕上がり、これによりヒドラジン燃料を使用した第3設計局の計画が劣勢となり、最終的にコロリョフ・糸川連合チームが勝利し、かぐや計画は第1設計局と第2設計局が合同で行うこととなった。
一方グルシュコはこのコロリョフと糸川の連合が逆転勝利したことに激怒。グルシュコは糸川に詰め寄るが、糸川はすぐさまISAS主導の月探査計画&amp;footnote(後のひてん計画、フクシア計画、つくよみ計画、はくと計画、たまてばこ計画。)と惑星探査を目的とした「PLANET計画」の共同実施を提案。これにグルシュコが渋々ではあるものの飲んだことにより、第2設計局を中心に有人探査を第1設計局が、無人探査を第3設計局が行うという分業体制が成立することとなる。

[[かぐや計画&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/かぐや計画]]を本格的に引き受けた第1設計局と第2設計局は、CR-01開発の方針を巡って多少対立することとなった。

PLANET計画の探査機設計と月探査機の設計、そしてそれらを打ち上げるロケットを一手に引き受けることとなった第3設計局は、金星探査機の[[あかつき計画&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/あかつき計画]]と火星探査機の[[なつひぼし計画&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/なつひぼし計画]]を片手間で行いつつ、第1設計局の月着陸のための情報収集を行った。1961年から1965年にかけては月インパクターである[[ひてん探査機&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ひてん計画]]を打ち上げ、月着陸地点候補の高画質画像を部分的ではあるものの確保した。1966年から1968年にかけては無人月ランダーの[[フクシア着陸機&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/フクシア計画]]を打ち上げ、7回にわたり月面軟着陸の技術実証と月の地質調査を行った。フクシア計画と並行して、月周回衛星の[[つくよみ探査機&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/つくよみ探査機]]を月に送り、かぐや計画の月着陸候補地の調査と月面地図作成に貢献。1968年から1969年にかけて[[はくと月面車&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/はくと計画]]による月表面の調査をする一方、かぐや計画の[[LK着陸船&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/LK月着陸船]]の無線誘導を行い、[[たまてばこ探査機&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/たまてばこ計画]]のサンプルリターンで月面に有害物質がないか調査を行った。

しかし、これらのミッションは糸川との妥協で手に入れたものとは言え、グルシュコはこれらのミッションを自分の自尊心を満たすために使ったという側面も存在する。特に1967年に行われた[[あかつき3号&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/あかつき3号]]と1969年に行われた[[なつひぼし3号&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/なつひぼし3号]]と[[4号&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/なつひぼし4号]]では、金星大気圏観測カプセルや火星表面ランダーの中に菊花紋章(大日本帝国の国章)の金属プレートだけでなく、第三設計局のロゴの金属プレートが書かれていた。これは、後世で関係者が語るには「コロリョフよりも先にほかの惑星に到達したのは我々第3設計局だ」「日本の惑星探査を背負ってるのは第1設計局でも第2設計局でもない、我々だ」という強い意志を表しているという。そして執拗なまでに用意周到な月探査機も、コロリョフの計画をやるまでもないほど徹底的に月の謎を解き明かすことによりかぐや計画の存在意義を消失させることを目的としていたという。事実、1969年6月14日に打ち上げられ、同年6月28日に帰還したたまてばこ2号によって世界初の月の石を入手することに成功した影響により、かぐや6号で世界初の有人着陸成功直後なのにも関わらず「もう無人探査で十分ではないか」というかぐや計画中止論を巻き起こすことに成功、実際に1972年のかぐや12号でかぐや計画は中止になり、第1設計局の後続の宇宙ステーション計画である「はなび」も最終的に第三設計局の宇宙ステーション計画「こんごう」に吸収されるなど、これらの計画はかぐや計画の成功に貢献した一方でかぐや計画打ち切りの原因にもなった。結果、第1設計局は宇宙ステーション計画の手柄すらも第3設計局に取られ、存在感を発揮できないまま1985年に設計局制度は終焉を迎え、没落した。    </description>
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    <title>日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/宇宙開発事業団</title>
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      ※未完成
&amp;bold(){宇宙開発事業団}（うちゅうかいはつじぎょうだん） は、大日本帝国の宇宙開発を担う目的で帝国政府が設立した特殊法人である。英文名称:National Space Development Agency of Japan, NASDA（ナスダ）。設立日は1958年（昭和33年）4月2日である。旧科学技術省所属。大日本帝国海軍の宇宙計画と大日本帝国陸軍の宇宙計画と大日本帝国空軍の宇宙計画が発展して発足した。2003年（平成15年）10月1日、旧文部省所属の宇宙科学研究所（ISAS）と統合し、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構（JAXA）に改組された。

*歴史
**宇宙開発競争
1956年3月7日、ナチス・ドイツが人類史上初の人工衛星トラバント1号を成功させたことにより、帝国臣民は「日本の宇宙開発技術が、いかに貧弱であるか」という事実を改めて思い知らされた（トラバント・ショック）。国会は日本の安全保障および技術の先駆性が脅威に晒されていることを警告し、帝国政府は直ちに何らかの行動をとるよう促した。

これを受け、岸信介内閣は対応策を慎重に検討し、有識者会議を交えつつ数ヶ月にわたって検討を重ねた結果、「非軍事目的の宇宙活動を実施するためには、陸海空軍などが独自に宇宙開発を進める状態を改め、指揮系統を一元化するべきだ」との結論に達し、国防高等研究計画局（仮）も同時に、創設されることとなった。

1957年1月12日、文部省および科学技術庁は島秀雄を委員長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。委員会は、第二次世界大戦後に日本に帰化した[[セルゲイ・コロリョフ&gt;https://w.atwiki.jp/alternativehistoryjp/pages/11.html]]をリーダーとする帝国海軍弾道弾開発グループから提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年1月14日、科学技術庁長官正力松太郎は「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。
|&#039;&#039;「&#039;&#039;|&#039;&#039;我が国の威信および軍事的な必要性の両面から考えれば、今回の挑戦（トラバント）に見舞われた、宇宙征服のための調査および開発の計画を精力的に推し進めることは、緊急かつ重要な課題であります。（中略）そのため、非軍事的な国家機関によって科学的な調査が行われるべきだとの提案がなされました。（中略）科学技術庁は宇宙開発技術で主導権を取ることにより、その成果を急速に拡大し延長する能力がございます。&#039;&#039;|&#039;&#039;」&#039;&#039;|
1957年11月2日、きく1号を搭載したN-1ロケットが発射され、日本初の人工衛星となった。翌年の1958年3月8日、正力は、岸総理大臣に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、帝国陸海軍と東京帝国大学で行われている宇宙開発計画を統合した文民統制型の宇宙機関を創設することを促した。同年3月末に科学技術庁は、当時企画中だった[[水素&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0]]と[[フッ素&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E7%B4%A0]]を推進剤とする453[[トン&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3]]の推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。
同年4月岸は国会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、宇宙開発機関設立のための予算案を述べた。委員会のそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、貴族院は予算案を可決し、同時にNASDA設立のための具体的な根拠となった「宇宙開発推進法」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、コロリョフ率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状の日本の宇宙開発には様々な省庁が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。宇宙開発委員会はコロリョフらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。
**&#039;&#039;NASDAの設立&#039;&#039;
1958年[[7月29日&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8829%E6%97%A5]]、宇宙開発推進法が貴族院を通過し、ここに科学技術省宇宙開発事業団（NASDA）と文部省宇宙科学研究所(ISAS)が正式に発足した。同年[[10月1日&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%881%E6%97%A5]]に実務がスタートすると、NASDAは直ちに帝国海軍のロケット開発チーム、帝国陸軍のロケット開発チームを、ISASは東京帝国大学の宇宙計画をそのまま吸収した。
コロリョフが所属していたロケット開発チームもまたNASDAに併合された。NASDAがドイツとの宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦時に[[ドイツ&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84]]より、遣欧潜水艦作戦でもたらされたA4ロケットの技術であった。そこにはコロリョフのソ連時代に行ったGIRDの研究成果も取り入れられている。糸川英夫が行っていたロケット研究も、NASDAとISASに引き継がれた。1958年12月には、ISASも文部省の指揮下からNASDA同様の科学技術庁の指揮下に入った。
**&#039;&#039;しののめ計画&#039;&#039;
NASDAが最初に行ったのは、[[冷戦&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%88%A6]]下におけるドイツとの熾烈な[[宇宙開発競争&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%96%8B%E7%99%BA%E7%AB%B6%E4%BA%89]]の中で実施された[[有人宇宙飛行&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E4%BA%BA%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%A3%9B%E8%A1%8C]]計画であった。NASDA内部に設立されたセルゲイ・コロリョフを中心とするワーキンググループである第一設計局により、1958年に開始されたしののめ計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また帝国陸海軍からも代表者が送り込まれ、NASDAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍の[[テスト・パイロット&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88]]の中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。
[[1961年&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/1961%E5%B9%B4]][[5月5日&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%885%E6%97%A5]]、第一次選抜飛行士「しののめ七人衆」の一人である(名称未定)飛行士がしののめ1号で2時間半の飛行を行い、日本初の[[地球周回飛行&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E8%A1%9B%E6%98%9F%E3%81%AE%E8%BB%8C%E9%81%93]]を成功させた。
**&#039;&#039;きょくじつ計画&#039;&#039;
しののめ計画の終了後、糸川英夫率いる第二設計局主導で月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのきょくじつ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は[[1965年&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/1965%E5%B9%B4]][[3月23日&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8823%E6%97%A5]]のきょくじつ3号で、(名称未定)と(名称未定)が地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の宇宙船との[[ランデブー&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%96%E3%83%BC_(%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%96%8B%E7%99%BA]])やドッキングが可能なことが証明され、[[無重力&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8D%E5%8A%9B]]が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASDAはISASとヴァレンティン・グルシュコ率いる第三設計局と合同で[[太陽系&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%B3%BB]]探査のための様々な宇宙機を打ち上げた(PLANET計画)。史上初の有人飛行（オーディン1号）と同様、[[月の裏&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E8%A3%8F]]側の写真を初めて撮影したのはドイツの探査機だったが、地球以外の[[惑星&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F]]（[[金星&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%9F]]）を初めて探査したのはNASDAのあかつき2号だった。
**&#039;&#039;かぐや計画&#039;&#039;
かぐや計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらかぐや1号では、機関の際にカプセルの空気漏れとパラシュート展開失敗事故が発生し、飛行士は緊急脱出して生還したものの、カプセルが失われた。これにより、かぐや宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。3号と5号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。[[1969年&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/1969%E5%B9%B4]][[7月7日&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8820%E6%97%A5]]、かぐや6号が月面に着陸し、(名称未定)飛行士が[[人類&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E]]として（また地球上に誕生した[[生物&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9]]として）初めて、地球以外の[[天体&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%93]]の上に降り立った。かぐやでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また[[土質力学&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%B3%AA%E5%8A%9B%E5%AD%A6]]、[[流星物質&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E6%98%9F%E7%89%A9%E8%B3%AA]]、[[地震学&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E5%AD%A6]]、[[伝熱&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E7%86%B1]]、[[レーザー光線&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E5%85%89%E7%B7%9A]]を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、[[磁場&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%81%E5%A0%B4]]、[[太陽風&gt;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%A2%A8]]など、多数の科学的実験が行われた。    </description>
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    <title>日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/セルゲイ・コロリョフ</title>
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      &amp;bold(){セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ}（ウクライナ語: Сергій Павлович Корольов, ロシア語: Сергей Павлович Королёв; 1907年1月12日〈旧暦1906年12月30日〉 – 1966年1月14日）は、大日本帝国の最初期のロケット開発指導者。第二次世界大戦後にソビエト連邦から大日本帝国に帰化し、研究活動を行った。コロリョフは、同じく日本の糸川英夫、ヴァレンティン・グルシュコらと並び日本宇宙開発三傑(あるいは御三家)と呼ばれる。
NASDA海軍派ワーキンググループの第一設計局設計主任として帝国海軍初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) であるN-4ロケット(一七式大陸間弾道誘導弾)を開発した。N-4はペイロードを核弾頭から宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に日本最初の人工衛星きく1号を打ち上げ、1961年には日本初の有人宇宙飛行として本郷秀明を宇宙に運んだ。
**人物・来歴
***エンジニアとなるまで
コロリョフは当時ロシア帝国領だった（史実でもこの世界線でも現在はウクライナ領）ジトーミルにロシア人の父とウクライナ人の母の間で生まれ、若い頃はオデッサで、その後はキエフで学び、1920年代前半にはキエフの航空研究会に所属してグライダーを設計した。1926年にモスクワ最高技術学校（史実における現在のバウマン・モスクワ工科大学）に進み、有名な航空機設計者のアンドレイ・ツポレフの指導を受けながら1930年に卒業した。その後は爆撃機の設計に従事しながら、航空機にジェット推力を使う事を構想し、1931年にはジェット推力研究グループ (GIRD) に参加した。

***シベリア流刑
1933年にはソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。1938年7月22日、新ロケットの開発に難航する中、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部 (NKVD) に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪である。

容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費であった。尋問の際には顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10年の刑を受け、シベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られた。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだ。

コロリョフはその後、師であるツポレフの嘆願などにより再審が行われて8年へ減刑され、1939年末にモスクワにある科学者刑務所に移され、かつての同僚でコルィマ送りのきっかけとなったグルシュコと共に再び戦闘機・爆撃機開発に従事した。コロリョフの罪が免除されたのは1944年だった。

後にコロリョフは、自分を収容所に送った元凶がグルシュコの虚偽の告発と知り、グルシュコもまた、常にコロリョフの陰に置かれる立場が気に入らず、死ぬまで相互不信が続く事になった。民進党の河上丈太郎総理は2人の不仲を非常に気にかけ、コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしたが、成功しなかったという。

***日本への亡命
1945年5月にソ連は枢軸国軍に敗北することが確実な状況となり、コロリョフは直ちに航空宇宙工学の科学者たちを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどはナチスを恐れ、生き残ったとしても奴隷のように扱うだろうし、イタリアにはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのが大日本帝国である。

偽造した書類で列車を盗み出した後、コロリョフは日本軍に投降するために500人を連れ出した。その頃NKVDは、赤軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠し日本軍と接触を試みているロシア人技術者を、殺すよう命令を受けていた。

ソ連が枢軸国軍に対し降伏した後、最終的にコロリョフ一行は満州の民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、帝国海軍は即座に満州で投降したコロリョフ一行を保護した。しかしロシア人科学者の大半は間もなく進駐してきたドイツ軍の捕虜になった。

6月20日に、日本の重光葵外務大臣はコロリョフらロケット科学者及び航空機設計者を内地に移送することを承認した。この移送は付箋作戦として知られる。
最終的に、コロリョフと126人の航空宇宙工学技術者達は、台湾南部の屏東で、彼らに与えられた新たな居住地域に移された。彼らは日本で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしに居住地域を出ることができなかったことから、時には自らのことを戦時捕虜ならぬ「平時捕虜」と呼んだ。

屏東に滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツから小港に運ばれてきた多数のA-4ロケットを解析し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性、そして日本社会や資本主義社会に適応するための作法や常識などについて学ぶことになった。

***ロケット開発への参加
日本国内に移送されたコロリョフ一行であったが、彼らは比較的良い扱いを受け、1947年にA-4の国産型であり改良型のN-1多弾頭型ロケット(七式短距離地対地誘導弾)を打ち上げ、翌年のN-2ロケットはA-4の倍の飛行距離を記録した。ロシア人技術者達は1954年から1956年にかけてロシア共和国(極東ロシア)に帰国する事になったが、大半がロシアではなくウクライナにルーツを持つロケット技術者達は極東ロシアへの帰属意識を持てず、それ以上にロケット開発に携わることを望んだことからコロリョフ、グルシュコ、ミーシン、チェロメイ、ヤンゲリなどの一部の科学者は帰国せず日本へ帰化した。その後、新型の開発を進めるもグルシュコの設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航、一時は開発打ち切りの危機に瀕したが、1953年にはN-3(一三式中距離弾道弾)で射程1200キロメートルの中距離弾道ミサイルの開発に成功し、さらに1957年8月にはN-4(一七式大陸間弾道弾)の実験に成功し、模擬弾頭を台湾の九棚からミッドウェー諸島に到達させた。N-4は射程が7000キロメートルと長距離で、早速ICBMとして配備され、日本は北極海を超えてドイツ本土を直接攻撃できるようになった。

なお、コロリョフは1958年1月に設立された宇宙開発事業団(NASDA)内に設置された第1設計局 (海軍系技術者のワーキンググループ) の設計主任に任命された。一方、1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれたが、強制労働中は引き離されて以来一度も再開しておらず(それどころか行方も分からない)、1949年に日本人の御幸と再婚した。

***宇宙開発への貢献
1956年にドイツが打ち上げられた世界初の人工衛星トラバント1号、そして日本初の人工衛星になるはずだった帝国陸軍のおおすみ1号、そして1957年にドイツがサルを乗せて打ち上げたトラバント2号に続き、11月3日にN-4ロケットにより日本最初の人工衛星きく1号を打ち上げた。コロリョフは1953年に犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張したが、海軍上層部の反対で実現しなかった。しかし、1957年が国際地球観測年である事を知っていたコロリョフは、帝国海軍が陸軍やドイツに先駆けて世界最初の人工衛星を打ち上げることの意義を説いて、人工衛星の打ち上げにこぎ着けた。しかしながら、1955年に日本初の人工衛星計画において陸軍のQ-IIIロケット(一六式大陸間弾道弾)とおおすみ衛星が策定されたことで打ち上げは延期されたものの、陸軍とは対照的にコロリョフの計画は完全に成功。重量83.6キログラムでシンプルなデザインの人工衛星が大気圏外に打ち上げられた。

続いて有人宇宙船しののめ（しののめ計画）を開発し、1961年に日本初の有人宇宙飛行として本郷秀明を宇宙に運んだ。

さらに有人月旅行を目指して新型宇宙船「かぐや」や陸軍系WGの糸川英夫率いる第二設計局と合同で大型ロケットCR-01の開発を進めるが、1966年、ガンの手術中に心臓停止し、死去。59歳没。若年期のシベリアでの強制労働が原因で身体は弱り果てていたという。国葬で送られ、多磨霊園名誉霊域に東郷平八郎などの日本の発展に寄与した偉人らと並んで葬られた。

コロリョフはドイツのヴェルナー・フォン・ブラウンと共に日独宇宙開発競争の中心人物であったが、両者は一度たりとも対面したことはなかった&amp;footnote(ただし糸川英夫は第二次世界大戦末期に一度A-4ロケット引渡しと技術指導の際に対面しており、「ヴェルンヘルンという名前の若きロケット科学者がいた」という情報が知る人ぞ知る一部にのみ知られていたのみであった。)ばかりではなく、コロリョフがフォン・ブラウンの存在を知ることはついぞなかった&amp;footnote(一応フォン・ブラウン側は報道でコロリョフのことを認知していたがヴェルナー・フォン・ブラウンはドイツ指導者の方針で秘匿されていたためコロリョフがフォン・ブラウンを認知することはなかった。)。

コロリョフの死後、第1設計局の主任設計者は、長年に渡り彼の首席補佐を務めたヴァシーリー・ミシンが引き継ぐ事となった。


**評価
コロリョフは第二次世界大戦中は、共産党政権下のソ連のために、戦闘機やグライダーの製作を指揮しており、戦後渡った大日本帝国では、その経歴や出自&amp;footnote(ソ連は共産主義国家の親玉的存在であり、天皇を尊ぶ大日本帝国のスタンスとは正反対の国家であり、ゾルゲ事件などもありソ連の手先ではないかと批判されることもあった。)のために様々な非難を受けたが、「共産主義には前から反対だった」「スターリンの苛烈な大粛清から逃れなかった」と弁明し、日本政府もコロリョフの経歴を利用。独裁体制の犠牲者として反共・反ナチ・民本主義擁護の側面から語られることあった。

第二次世界大戦中は、ソ連軍の勝利のために戦闘機を開発し、ソ連の敗戦後には、第二次世界大戦中にソ連の敵国であった大日本帝国の国家の威信のためにロケットを作るという変節は、ロシアを始めとした旧ソ連諸国や日本の評論家よりしばしば非難され、「忠誠が便宜に支配された男」と言う異名は日本で有名である。とはいえ、人生をロケットの研究にかけ、ソ連や日本のような一部の国家の発展にではなく、人類の出エジプト以来の生息域の拡大という、ホモ・サピエンスという生物種すなわち人類全体の発展に忠義を尽くしたともいえ、またコロリョフの東側諸国&amp;footnote(日本陣営の別名。対してドイツ陣営は西側諸国と呼ばれる)の科学・技術界における貢献は大きく、1962年、1966年に紫綬褒章を受賞している&amp;footnote(うち1回は死後に追贈されたもの。)。
**関連項目
-[[設計局内の権力闘争&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/設計局内の権力闘争]]    </description>
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    <title>日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく</title>
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      ***日独宇宙開発競争の歴史へようこそ!
この世界線は歴史改変SFWiki設立者の華峰すざくが個人的に貯めていた設定を放出すると同時に利用者の皆様にお手本を示すことを目的としております。まあこんなノリで世界線を書いていくんだぞっていうのを理解していただければなと思います。

**あらすじ&amp;世界観紹介
1945年、第二次世界大戦は枢軸国の勝利に終わった。イギリスはイングランドとウェールズがブリタニア国家弁務官区に、北アイルランドはアイルランドに統合され、スコットランドもドイツの衛星国家となった。アメリカ合衆国は東西から日独に挟み撃ちされ、南はメキシコに1部領土を奪われ、西はアメリカ合衆国が皮肉にも13個の星の国旗を掲げ、東アメリカはナチの傀儡国家となった。ではソビエトはどうか…?
ソビエト連邦も完全に粉砕され、極東ロシアには日本の衛星国であるロシア共和国がロシア帝国・ソビエト連邦の後釜として我こそは真のロシアと主張している一方で、ロシアの心臓だったヨーロッパ部はもはやナチスの東方生存圏となってしまった。
そんな絶望的な祖国から脱出しようとする科学者達がいた。[[セルゲイ・コロリョフ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/セルゲイ・コロリョフ]]、[[ウラジーミル・チェロメイ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ウラジミール・チェロメイ]]、[[ヴァレンティン・グルシュコ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴァレンティン・グルシュコ]]、[[ミハイル・ヤンゲリ&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ミハイル・ヤンゲリ]]、[[ヴァシリー・ミーシン&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴァシーリー・ミシン]]などなど…
彼らはナチスの迫害を逃れるべく大日本帝国へ亡命。そして彼らは日本の宇宙開発を牽引し、宇宙への道を切り開いていくこととなる。
一方で同じく戦勝国となったドイツでは[[ヴェルナー・フォン・ブラウン&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴェルナー・フォン・ブラウン]]が健在であり、ドイツが宇宙開発の覇者になることも当然有り得る。
果たして勝つのは指導者原理で中央集権化を進めたヴェルナー・フォン・ブラウン率いるドイツの宇宙開発か、それともセルゲイ・コロリョフ、[[糸川英夫&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/糸川英夫]]、ヴァレンティン・グルシュコという三人の天才を抱えつつもお互いを出し抜こうと[[対立や策略&gt;日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/設計局内の権力闘争]]蠢く大日本帝国なのだろうか?

**登場国家
-大日本帝国
主人公国家その1。この世界線は高い城の男並の大勝利を手に入れ、ロシアとアメリカの地を日独で分割するほどの覇権を手に入れた。しかしながら、陸軍省と海軍省の統合は依然として進まず、陸海軍がそれぞれ好き勝手にミサイル開発をしているという状況である。1958年、ドイツに世界初の人工衛星を打ち上げられ、オマケに世界で初めて生物を周回軌道に送るなど先を越されまくった日本は[[宇宙開発事業団]](NASDA)を設立し、宇宙開発を1本化しようとするが…

-大ドイツ帝国
主人公国家その2。TWR然りTNO然り、ヒトラー亡き後のドイツは大抵ろくな事にならないのだがこの世界ではひと悶着あったものの何とか比較的穏健に[[ヘルマン・ゲーリング]]への継承が行われた。1956年、ゲーリング政権下で世界初の人工衛星「[[トラバント1号]]」が打ち上げられ、翌年の[[トラバント2号]]では世界で初めてサルを周回軌道上に送った。これだけに飽き足らず、なんとドイツは世界初の有人宇宙飛行と世界初の月探査機打ち上げも目指しており…?

-イタリア王国
第二次世界大戦に勝利し新ローマ帝国を築き上げた戦勝国。宇宙開発は日独ほど入れ込んでおらず、科学と最低限の軍事目的だけで行っているというこの世界線の数少ない良心のひとつ。

-西アメリカ(アメリカ合衆国)
敗戦国。戦後は航空産業開発が禁止されたが北米戦争をきっかけに解禁された。しかし、敗戦してもなお野心やプライドは存在しており、1975年、日本からHロケットを輸入し独自の第二段を付け加え、「[[デルタロケット]]」を開発し、宇宙開発しようとするのだが…

-中華民国
敗戦国。この国もまた戦後は航空宇宙産業が禁止されるが1953年からは平和目的に限り許されることに。そこに日本への非協力的態度から米国から「強制送還」された[[銭学森]]が帰国し…

-タイ王国
一応戦勝国。タイ王国も日本に比べれば小規模なものの、独自の宇宙開発プログラムを行っている。    </description>
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    <title>日独宇宙開発競争の歴史by華峰すざく/ヴェルナー・フォン・ブラウン</title>
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      ヴェルナー（ヴェルンヘル）・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル（男爵）・フォン・ブラウン（Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日）は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。大日本帝国のセルゲイ・コロリョフや糸川英夫と共に日独の宇宙開発競争の代名詞的な人物である。

**出生・少年期
ドイツ帝国東部ポーゼン近郊のヴィルジッツで貴族（ユンカー）の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウン男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派の堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学と宇宙分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。

1920年、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約に基づいてポーランド領になると、彼の一家は他の大勢と同様にドイツ領へ移住し、シュレージエン地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家パウル・ヒンデミットにピアノを教わっている。

彼はロケットの先駆者ヘルマン・オーベルトの著した論文『惑星間宇宙へのロケット（1923年）』を手に入れるまでは、物理学と数学が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。

**第二次世界大戦まで
***学生時代
1930年にベルリン工科大学に入学した。ドイツ宇宙旅行協会にも入会し、ヘルマン・オーベルトの液体燃料ロケットエンジンの試験を手伝った。

その後、工学士の学位を得てベルリン大学へ進み、ドイツ陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていたクマースドルフの固体ロケット試験場の隣で研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。しかし、このとき公表された博士論文は全体の一部であり、完全な論文が公表されたのはナチス政権末期の1990年にウムゲシュタルトゥンク(情報公開)で機密開示になってからであった。

***ミサイル開発
1934年の暮れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功したが、この頃すでにドイツロケット協会はなく、ロケットの実験は新たな体制では禁止されていた。軍用の開発だけが許可され、ドイツ北部のバルト海のペーネミュンデ村により大きな施設が建てられた。

***A-4ロケット
第二次世界大戦においてドイツ軍が連合国軍に対して終始優勢であった1943年、ドイツ国総統のアドルフ・ヒトラーはA-4（独：Aggregat 4型）ロケットを「モスクワ攻略兵器」として使うことを決定。フォン・ブラウンらのグループはモスクワ攻撃のために、弾道ミサイルA-4の開発をすることになった。

ヒトラーの生産命令から14ヶ月後、最初の軍用A-4が、このころにはハインリヒ・ヒムラーの考えた名前の「モスクワ砲」と呼ばれることになっており、1944年9月7日にロシア西部に対し発射された。

その後ドルンベルガーはドイツ陸軍のロケット開発指揮官に、フォン・ブラウンは技術部長になった。彼らは航空機とジェット補助離陸（広義の「ジェット」の意味であり、空気を吸い込まないロケットも含む）用の液体燃料ロケットエンジン、長射程弾道ミサイル・A-4（V2ロケット）と、超音速対空ミサイル「ヴァッサーファル」を開発した。

***逮捕
SS（ナチ親衛隊）とゲシュタポ（国家秘密警察）は、「（軍事兵器の開発に優先して）フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、おそらく月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」、としてフォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。フォン・ブラウンの罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」、というものであった。

ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。

1945年にフォン・ブラウンはモスクワ陥落を受け初のドイツ芸術科学国家賞を受け、国防軍では大佐の階級を与えられた。


**戦後
***結婚
この時期、フォン・ブラウンは従妹で18歳のマリア・フォン・クヴィストルプに求婚する手紙を書いた。1947年3月1日、彼はマリアと、彼女の住む地域のルター派教会で結婚式を挙げた。1948年12月に最初の娘アイリスがベルリン市内の病院で誕生した。


***A-9・A-10・A-11ロケット
1950年から1956年にかけ、フォン・ブラウンはペーネミュンデ陸軍兵器実験場で陸軍のロケット開発チームを率いて、世界初の大陸間弾道弾「Götterdämmerung」(A-9/A-10、コードネーム:アメーリカ・ラケーテ)を生んだ。

1955年のGötterdämmerungの試験打ち上げ成功と、それに対抗する日本軍の動きを受け、陸軍兵器局の液体燃料ロケット開発チームの長として、フォン・ブラウンらはGötterdämmerungに下段のA-11を取り付けたW-1ロケット(Himmelsleiter、ヒンメルスライター)を開発した。W-1は1956年3月6日、世界で初めての人工衛星・トラバント1号の打ち上げに成功した。この出来事は特に日本率いる東側諸国に大きな衝撃をもたらし、トラバント・ショックや弾道弾格差論争を巻き起こした。

***宇宙計画への関心
1952年、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て宇宙ステーション構想を発表した。この宇宙ステーションは直径75mで、高度1700kmの軌道に置かれ、人工重力を発生するために自転するとされた。彼の予見では、ここは月探検のための理想的な出発点、あるいは東方生存圏に続く第二の生存権「天空生存圏」の主要な場所になるはずだった。

フォン・ブラウンはまた、ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省の宇宙探検に関する3本のテレビ映画の制作に技術監督として参加した。フォン・ブラウンはその後何年も、未来の宇宙計画に対してより多数の公衆の興味を惹くことを望んで、宣伝省との仕事を続けた。

***RLR時代
1960年、ヘルマン・ゲーリングは宇宙開発を統括する組織である帝国航空宇宙センター(RLR)を新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをドイツ陸軍からRLRに移籍させた。フォン・ブラウンはRLR本部所在地のケルンに移り、1960年から1976年まで同センターの初代所長を務めた。

RLRの大きな初仕事は、1960年の日本で河上政権の指揮下で計画がスタートしたかぐや計画に対抗し、宇宙飛行士を月に運べるマーニロケットの開発であった。

フォン・ブラウンの子供時代の方針であった「時代を動かすこと」とその後の夢となっていた人類が月面を踏む手助けをすることは、1969年7月16日、RLRが開発したマーニVロケットがアポロ11号の搭乗員を打ち上げた時に現実のものとなった。アポロ計画の過程で6組の宇宙飛行士チームが月面を探検した。

1970年フォン・ブラウンと家族はベルリンに移り、ボルマン内閣の科学・教育・国民文化副大臣に任命され、テクノクラートとしての役割を果し、アポロ計画後は世界初の宇宙ステーションであるヒンメルスラボールや世界初の宇宙往還機のラウムフェーレ開発にも携わった。


***死去
ラウムフェーレ開発の最中、フォン・ブラウンは自分が癌であることを知った。手術を受けたが癌は進行し、1976年12月31日にRLR長官ならびに科学・教育・国民文化副大臣の辞職を余儀なくされた。1977年6月16日、ベルリン大管区にて死去。65歳没。

***現在
-ドイツの主要ロケット・宇宙機器製造会社がフォン・ブラウンの名称を付けている。
-上記の会社があるベルリン郊外の街ファルケンゼーがヴェルンヘルスブルクと改称されている。
-フォン・ブラウンが学生時代に学んだベルリン工科大学に「フォン・ブラウン記念アカデミー」の名前が付されている。    </description>
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たとえば、#recent(20)と入力すると以下のように表示されます。


#recent(20)
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