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 &font(#6495ED){登録日}:2014/07/11 (金) 19:35:24
 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
 &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます
 
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 **概要
 
 ベルリン会議とは、1884年からドイツのベルリンで開かれた国際会議。
 勘違いされがちではあるが、1878年に開かれた方のベルリン会議は露土戦争に関する会議であり別物である。
 
 この会議はどういう物だったかというと、『アフリカの分割』を話し合った会議。
 アフリカの歴史を語る上ではさり気なく外すことのできない出来事だったりする。
 
 
 **経緯
 
 &font(#ff0000){レオポルド2世}「&font(#ff0000){植民地帝国作りたい!アフリカに植民地欲しいわ}」
 
 
 と考えた当時のベルギー国王の[[レオポルド2世>レオポルド二世(ベルギー王)]]。
 
 彼は他のヨーロッパ列強と同様に海外植民地獲得に興味を持っていたのだった。
 しかし、当時のアフリカの多くは既にヨーロッパ諸国が目をつけていた。
 
 
 &font(#ff0000){レオポルド2世}「&font(#ff0000){どうすっかな…あっ、コンゴがあるじゃん}」
 
 
 彼はまだヨーロッパ列強が見逃していた『コンゴ』に興味を持った。
 レオポルド2世は『上コンゴ研究委員会』なるものを設立。
 
 これは後の『コンゴ国際協会』の前身組織なのだ。
 その元で探検家スタンレーがコンゴに送り込まれた。
 
 スタンレーは現地の交通網などを整理し、現地の長と関係を結ぶなどの働きを見せた。
 コンゴはベルギーが急速に進出していった。しかしこれに異を唱える国があった。
 
 
 &color(green){ポルトガル}「&font(#ff7800){そこまでコンゴが欲しいかベルギーのくせに!}」
 
 
 ポルトガルがこのベルギーの動きに猛烈に反発した。
 
 実はポルトガルもアフリカ沿岸部における利益拡大を狙っていたのだった。
 ポルトガルは1882年にコンゴ川の主権を主張する。
 
 ポルトガルをイギリスが支持する一方、アフリカ方面でイギリスと対立していたフランスはベルギーを支持する。
 だが、フランスは実際には自身がアフリカ内陸部を調査していたのだが…
 
 宰相ビスマルクのドイツ帝国もポルトガルを支持しなかった。
 ヨーロッパ列強の対立が始まってしまっていたのだ。
 
 これを解決するべく、ドイツのベルリンで会議を開くことになった。
 
 
 **参加国
 
 ・&font(#ff0000){イギリス}
 ・&font(#ff7800){ドイツ}
 ・&font(#008cff){ロシア帝国}
 ・&font(#ffdc00){オーストリア・ハンガリー}
 ・&font(#ffb74c){スペイン}
 ・&font(#b8d200){デンマーク}
 ・&font(#994c00){ベルギー}
 ・&font(#0000ff){フランス}
 ・&font(#ff69b4){[[アメリカ合衆国]]}
 ・&font(#008000){イタリア}
 ・&font(#ff0000){オスマン}&font(#994c00){帝国}
 ・&font(#008000){ポルト}&font(#ff0000){ガル}
 ・&font(#afdfe4){オランダ}
 ・&font(#808080){スウェーデン}
 
 
 当時の世界を代表する14国が会議に出席した。
 なお、最終的にアフリカ分割に参加していないアメリカやスウェーデンも出席している。
 
 後は意外なことに当時既に自国が分割されそうだったオスマン帝国が参加していることにも注目したい。
 これは、当時の西欧列強からすればオスマン帝国は一応『分割される』側ではなく『分割する』側だという認識があったのだろう。
 
 もっとも、会議が開かれた当時はオスマン帝国がリビアを領有していたこともあるのだろうが。
 まあ、後にイタリアに奪われちゃったけどね。
 
 
 **結果
 
 この会議の結果、全7章38条で構成されるベルリン協定が締結された。
 その内容はアフリカ分割の取り決めや、コンゴ盆地に関することである。
 
 
 ○ベルギー、念願のコンゴ獲得とその統治
 
 まずコンゴ盆地の地理的範囲を画定させた。
 そしてコンゴでの自由貿易や、中立化などの様々な取り決めがされた。
 
 結果的にレオポルド2世及びコンゴ国際協会はコンゴ盆地の統治権を認められた。
 念願のコンゴをレオポルド2世は獲得することに成功したのだ。
 
 なお、コンゴはベルギー国家でなくベルギー王の私財といった形で扱われるようになった。
 それでコンゴ国際協会の改組にともなってコンゴ自由国が成立した。
 
 
 こうして、コンゴ周辺は事実上ベルギーの植民地となった。
 
 
 ベルギーもコンゴの獲得によって、ついに海外植民地を手にする。
 海外植民地の獲得により、ベルギーも国際的な扱いでは列強国に値する扱いを受ける。
 
 しかし、コンゴ自由国の未来はコンゴに住む人々にとっては悪夢をもたらすことになった。
 
 レオポルド2世はコンゴ自由国において残忍な政策を数多く行う。
 当時の価値観から見ても残酷な圧制と搾取がコンゴ自由国では平然と行われてしまった。
 
 住民は象牙やゴムの採集を強制された。
 しかしそれだけではなく、&bold(){規定の量に到達できないと手足を切断するという刑罰}が容赦なく施行されまくった。
 
 案の定、コンゴ自由国には世界中から非難の声が多く寄せられる。
 そしてジャーナリストのエドモンド・モレルの『&font(#ff0000){赤いゴム}』という著作でコンゴの残虐な実態が明らかにされた。
 
 ベルギー政府は世界中からの批判の声に頭を悩ませた。
 1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定。国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。
 
 コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。
 ベルギー領コンゴではキリスト教の価値観をもとに政策が行われていくことになった。
 
 我らが日本にとってベルギーの歴史を深く知る人はあまり多くないものかと思われる。
 しかし、レオポルド2世は日本の世界史においてもそこそこの知名度を持つ人物となった。
 
 
 ○植民地分割の原則
 
 会議ではアフリカ沿岸部における植民地化のルールが確認された。
 
 どの様なものかというと、アフリカを植民地化する場合はベルリン協定調印諸国にその内容を通告。
 そして、会議で確認された原則を遵守することが求められた。
 
 つまりてっとり早く言えば&bold(){植民地獲得は早い者勝ち}ということである。
 
 この会議を契機として列強のアフリカ分割は本格化。
 そして、現地の民族配分に(確かに調整は難しいが)一切配慮しない列強間の調整を通じた地図上での植民地分割が行われていった。
 
 なお、この会議後もアフリカを巡る戦争は起きている。
 代表的なものだとイタリアとオスマン帝国による伊土戦争なんかだろうか。
 
 ちなみに、この会議による列強のアフリカ獲得に伴う国境線の画定は現在まで残る問題に繋がった。
 
 上記でも述べたように、植民地獲得の際の国境線はアフリカに住む民族に対して一切の配慮がなされなかった。
 アフリカ諸国が独立した後も、現在まで続くアフリカの民族紛争の火種となったとも言われている。
 
 一応言っておくと、アフリカ大陸は民族の配分が非常に多い上に細かく、そこまで配慮した国境線が引けないことは確かである。
 しかし、そこは少しでも配慮してくれていれば多少は民族紛争の火種は減った…とも考えられる。
 
 
 
 
 
 
 追記・修正はアフリカに植民地を領有してからお願いします。
 
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 - 植民地なんか住人は人間扱いせずカスすら出ないくらい搾取するのが当たり前だった当時の価値観ですら残酷ってすごいなベルギー王  -- 名無しさん  (2014-07-11 20:56:14)
 - ここまで身勝手な国際会議もあまりないよな  -- 名無しさん  (2014-07-12 01:41:18)
 - ↑×2まあベルギーの国有植民地じゃなくて王の私領扱いだったからな あまりに批判が大きすぎて国王私有地から国家植民地に変更された  -- 名無しさん  (2014-07-12 01:47:16)
 - ルワンダの悲劇も元を辿ればベルギーだったっけか  -- 名無しさん  (2014-07-12 03:00:23)
 - 列強「何で白人様の俺らが黒人ごときに配慮しないといけないんだよHAHAHAHA」  -- 名無しさん  (2014-07-12 06:28:00)
 - 日本もこうなってた可能性あるわけで恐ろしい…植民地政策時代の列強は今考えると頭おかしなことやっとる  -- 名無しさん  (2014-07-12 06:37:08)
 - ほんと、人の国を勝手に…て、日本だって戦前は似たような事やってんのよな。違いは、後々それの責任を追及されているかどうかだ。  -- 名無しさん  (2014-07-12 10:29:49)
 - ↑だが資源の搾取をしないできちんとインフラ整備してるだけマシなんだがね…  -- 名無しさん  (2014-07-12 10:42:54)
 - ↑それです。てか、他の国でも植民地支配とかしてたのに、何で日本だけボコボコなの?て。  -- 名無しさん  (2014-07-12 10:48:30)
 - ↑強気に出られない敗戦国だからさ。でもドイツと違ってゲルマンの国じゃないから見下されている  -- 名無しさん  (2014-07-12 11:03:46)
 - ↑次は勝たなきゃ(使命感)  -- 名無しさん  (2014-07-12 17:19:19)
 - ↑まあ戦争しながら占領地経営してたんで、軍の駐留や物資の流通の為にインフラ整備が不可欠だった&アメリカに輸送船撃沈されまくってた関係で本土への輸送に慎重になってたという大人の事情はあるが。  -- 名無しさん  (2014-07-13 21:53:00)
 - 「植民地化される側の現地人がその分をわきまえず我々の真似をしている!」って不快に思われてたんじゃないかな>>なぜ日本だけ  -- 名無しさん  (2014-08-04 13:02:28)
 - あとタイミングの問題でそういうことに対する非難が欧米で出始めた時にそういうのを始めたってのがある。  -- 名無しさん  (2014-08-04 16:00:19)
 - しかし一国の国王ともあろう人がこんな残虐な統治するなんて・・・  -- 名無しさん  (2014-10-14 23:42:49)
 - ↑むしろ王様だからこそやる、更に酷いヤツもいる。  -- 名無しさん  (2014-10-15 04:16:23)
 - この会議の後にも、英仏のスーダンを巡る領有対立(いわゆる"ファショダ事件")はあったんだけどね。  -- 名無しさん  (2014-10-15 18:30:45)
 - 受験の時にやったなぁ 懐かしい  -- 名無しさん  (2016-02-24 19:21:57)
 - ↑3 自国じゃないから支持とかどうでもいいからな  -- 名無しさん  (2016-10-13 12:37:58)
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