明智光秀(戦国武将)

登録日:2018/11/08 Thu 15:21:44
更新日:2024/04/08 Mon 08:49:10
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ときは今 あめが下しる 五月かな


明智光秀(1528?~1582)とは、安土桃山時代の武将。織田信長の家臣。
武将としての功績にそこまで目立ったものはないが、ただある事件を引き起こしたという一点だけで歴史の教科書に名前が載ることになったある意味偉大な御仁。ある意味小早川秀秋と似ているか。


●目次

経歴

美濃源氏土岐氏の分流である明智氏の出身とされるが、青年期前半の経歴には不明瞭な点が多い。
「まともな記録も残っていないほど低い身分の出身だった」ことの証左かもしれない。
出生年も恐らく1528年とされるが、諸説あり。ただし、「信長よりは年上」というのは確実。

「美濃の蝮」斎藤道三に士官し斎藤家に仕えるも、長良川の戦いで道三が息子義龍に敗れたことで勤め先を失う。
その後は朝倉氏に10年ほど仕えた後、初めて信長と接点が生まれる。

この辺りの事情はかなりややこしいが、後の15代将軍である足利義昭が上洛を前に各地の大名に協力を求めたが、
朝倉はなかなか動こうとせず、信長は美濃が不安定で上洛できない状況にあった。
そこで、義昭が信長を説得するために朝倉方から引っ張り出した使者が光秀だった……らしい。
なぜ光秀が選ばれたのかはよくわかっていないが、信長の正室である濃姫(帰蝶)と何らかの血縁関係(従妹とも)があったと思われるそうで、
義昭が協力要請をしていた朝倉義景の部下である光秀が、信長の妻の血縁者であるという伝手で義昭が頼ったのではないかと言われている。

その後は朝倉から離れ、義昭と信長双方に属する仲介役として働いていたようだ。
主に京都周辺で実質的な奉行として働いていたが、次第に義昭と信長の関係が悪化し、双方に同時に仕え続ける状況に無理が生じてくる。
1570年に出された事実上の義昭への自由剥奪宣言であるとされていた「殿中御掟」の宛名は光秀と朝山日乗となっており、この時点で既に信長からは高い信頼を得ていたことが窺える。
ただし、殿中御掟が出された後も表面上は協力関係は続いている*1

1570年の金ヶ崎の戦いでは、追撃する朝倉軍相手に、秀吉(この時は木下藤吉郎)と共に殿(しんがり)を勤め上げ、生還している。
この辺りから織田軍の重鎮としての役割がハッキリしてきたようである。

1571年の比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心的役割を果たすなど、武功も多く挙げている。
また、この時期に領地として近江滋賀群5万石を正式に与えられ、幕臣としての立場から織田家家臣に完全にシフトしたようである。

1573年に義昭が挙兵し、公然と信長と袂を分かつと、光秀は完全に信長側に着くことを選ぶ。
そして、丹波攻略や雑賀攻めなどにも従軍し、功績を上げ続けた。

1579年には丹波国を平定。近畿地方において寄騎も合わせると240万石もの領土を統括する立場となる。
この頃の織田家は重臣が複数の家臣を束ねる「方面軍」のようなものを構成しており、その影響力は地方大名を凌ぐほど。
光秀はその中でも国家中枢である京を含む近畿方面を束ねる立場となり、名実ともに最重臣の一人となった。

父親の名前もハッキリしていない下級士族から一国一城の主まで大出世を遂げており、ここまでなら間違いなく勝ち組まっしぐらであった。
だが、これだけだったなら「信長の家臣には明智光秀という優秀な武将が居た」というだけであり、歴史好き以外は名前も知らない存在だっただろう。
彼が全日本国民に名前を知られる要因となった最大の理由、言うまでもなくそれこそが本能寺の変である……。


本能寺の変


敵は本能寺にあり!!

1582年6月2日。
信長は秀吉から発せられた毛利征伐の援軍要請を受け、光秀にもこれへの参加を命ずる。
軍を率いて京都を抜け中国地方に向かおうとしていた光秀は、突如として京都市内に方針を転換。
完全武装で信長の逗留地であった本能寺を包囲し、瞬く間に主君を討った

さらに信長の嫡男である信忠、重臣である村井貞勝などの京都付近にいた織田家の重要人物を次々と討ち取り、京都を完全制圧する。
特に後継者だった嫡男・信忠を討った事は大きく、これにより織田家は凋落することになる。
なお徳川家康も京都近辺にいたが、ただちに危険を察知して本拠地三河に戻ったため難を逃れている。

ちなみに、本能寺の変の時に光秀は京都を封鎖していなかったため、信忠は明智勢に討たれる前に京都を脱出できる可能性があった。
実際、信忠と共に行動していたはずの織田有楽斎は変後の京都からの脱出に成功している。
真偽不明だが、「当代記」には家臣から安土に逃れて再起を図るように諫言されたものの、
信忠は「こんなことを企てる者が京都を封鎖していないわけがない」と拒否し、「逃げる途中で討たれる方が無念」として応戦を決意したとある。
歴史に「もし」はないが、信忠が安土まで逃れ、再起できていたのならば、その後の豊臣政権も江戸幕府もなく、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。


山崎の戦い、そして三日天下へ……

かくして信長・信忠を討ち、下克上を成功させたかに思えた光秀。
この後は京都を抑え、周辺諸大名の協力を取り付けて権力基盤を万全にしたかったところであろうが、ここで予想外の事態に見舞われる。
それは、信長の遺体が全く見つからず、死亡を確定させることができなかったこと、
更に毛利を攻略中だったはずの秀吉が講和を取りつけ、あり得ないほどのスピードで京都に戻ってきたこと(中国大返し)である。
前者により、「本当に信長が死んだのか?」と疑いを持っていた諸大名に中立を決め込ませて協力を取り付けることができず*2
後者により、「主君を討った裏切者VS主君の仇を討つ忠義の士」の構図に組み込まれてしまったのだ。

結果的に、本能寺の変からわずか11日後には天王山を中心に布陣することになった羽柴・明智の両軍だったが、
協力を仰げなかった戦力不足が祟り、中国大返しで疲弊していたはずの羽柴軍に敗れることになる(いわゆる「天王山攻防戦」は現在では創作とされる)。

その後、本拠地である坂本城まで逃げ延びようとした光秀だったが、落ち武者狩りに遭い、深手を負った後自害した。*3
信長を討ってから僅か13日で秀吉に敗れ、自害に追い込まれたこの光秀の顛末は、「三日天下」と俗称されることとなった。

こうして、「三日天下」「洞ヶ峠」「天王山」と色々なことわざを後世に遺しながら、光秀は散ったのであった。

なお、「実は無事に母方の地元である現在の岐阜県山県市に落ち延び、その地で関ヶ原の戦いまで生きていた」等の生存説もあり、
その山県市には、彼の墓と位牌とされるものが伝わっている他、名前を変えた彼の子孫を名乗る方もおられる。
その説によれば、影武者として自分の代わりに死んだ荒木山城守に恩義を感じた光秀は「荒深小五郎」と名を変えて隠れ住んでいたという。


なぜ本能寺の変を起こしたのか?

実のところ不明
光秀自身の内心によるところが大きいようだが、「海も枯れれば底を見せるが、人は死んでも心を見せない」という言葉の通り、
既に数百年前に実行犯が死亡している以上、恐らく今後も決定的な論はできないだろう。

諸説は大きく分けて「光秀単独犯説」と「黒幕存在説」に2分され、単独犯説でも怨恨説・野望説からノイローゼによる心神喪失説まである。

「信長による光秀への行動が酷かったために怨恨を抱いた」という怨恨説は有名。
例えば、
  • 大酒を飲むよう強要された(パワハラ・アルハラ)
  • 大勢の前で「キンカン頭(禿げ頭)」と馬鹿にされた
など。
特に「キンカン」という悪口は有名だろう。
しかし信長は秀吉にも「ハゲネズミ」という悪口を言っていたぐらいなので、言っていてもおかしくはないが、
そのぐらいで謀反するまでブチぎれるのも大人げない話ではある。
また信長としては後者はともかく前者についてはスキンシップだったと思われる。スキンシップなら良いと言う話ではないが。
そもそもこの「キンカン頭」の由来となった柑橘としての金柑自体がもともと日本には存在せず、江戸時代になってようやく渡来し、全国に波及したものであるため、
近現代の小説でそのように描写されたのが始まりとされており、信長が実際のところ悪口を言ったのかはさておき、それが「キンカン頭」というのは完全な創作である。
また、1次資料に本人が禿げていたとされるような記述は発見されていない。(「光秀」という字から言葉遊びで付けたとする、これまた創作の話はあるが)

なお、光秀が信長に恨みを抱いた直接的な契機として、創作などでよく描かれるものに

「武田の滅亡後、光秀が『我らも骨を折った甲斐があった』と言ったら、信長が『お前がどんな働きをしたと言うのだ』とブチ切れて、光秀をボコボコにした」
「信長が、家康の供応役を任せた光秀の様子を見に行ったところ、その仕事ぶりが気に食わず、光秀をボコボコにした」
「光秀の母を人質に出していた大名を信長が攻め、その報復として母を処刑されてしまった」

の三つがあるが、この三つはいずれも後世の文献にしか見られないものであり、史実ではないと考えられている。


光秀と信長は方法論が噛み合わず、互いの理想の差により見限った、というのも良く見られる説。
この場合、「暴力的で革新的な信長VS理性的で保守的な光秀」という構図にされやすい。
鎮護国家の大道場である比叡山焼き討ち*4や女子供問わない一向宗に対する徹底的な弾圧、
一時は臣下の礼を取った足利義昭と対立し、追放して室町幕府を事実上滅亡させたことなどで信長の暴走を危険視したためなど。
一方で残された書状を見ると、光秀はむしろ信長の革新的な政策に理解を示しており、積極的に政策実現に奔走している節もある。
政策の対立を示すような文献も無く、現在では上記の怨恨説で付いた不仲のイメージから派生した俗説という見方をされることも多い。

また、近年注目を浴びている説が「織田政権内での自分の将来性を悲観した」という悲観説である。
これは後述するように、この時期の光秀は四国の長曾我部氏との交渉の窓口を担当していたのだが、
結局信長は四国を武力攻めすることを決定してしまい、それまで四国との交渉を担っていた自分の立場・面子が潰されたと感じたこと、
また、長年信長に仕えた佐久間親子や林秀貞が信長の怒りを買い、追放されたことなどから、
同じように長年仕えた自分も近いうちに「用済み」として処分されるのではないかと悲観したことが原因だとされている。
さらに近年、光秀が信長の四国政策に対して不満を述べる書状が発見されたことで、一躍脚光を浴びた。
しかし、不満と言っても「今度、信長様に進言してみる」という程度のものに過ぎず、
切っ掛けの一つにはなったかもしれないが、これが謀反の動機であるという確信が持てるようなものではない。

信長には敵が多かったこともあって、光秀の一存ではなく「光秀を操った黒幕がいたのではないか」という説も多い。
例えば、朝廷や幕府の残党による陰謀説も根強い。
この場合腑に落ちる点は多いものの、それにしてはあまりにも乱の前後の反応が薄すぎる上に、
本当に連携を図っていたならば、両者が交わした密書もどこかに残っていそうなものだが皆無。
更に結局の所、信長家臣の中にも仲間が居なければ下剋上後に信長の家臣に倒されることも目に見えているので現状では厳しいか。

また朝廷による陰謀説には決定的な問題もある。
光秀は京都で実質的な奉行として叩いていたと上述したが、その状態で領土である丹波(京都を一部含む)で横領をしているのである。
当時の横領とは土地を奪うことに近く、そこを領有していた寺社などは困って朝廷に訴え出たため、
光秀の上司である信長のところに勅使が直々に、それも2度も来る事態となった。
自分の正当性が揺らぐことになる信長は、当然何度も「横領をやめるように」という命令を出すものの、
光秀は「他のやつらもやってるからいいじゃん」とばかりにその命令を無視*5
これが結果的に丹波取り上げ、日向への移転と繋がったという見方もある*6
このように、光秀が朝廷を重んじていたわけではなく*7、信長が朝廷を軽んじていたわけでもない。

また、「秀吉が陰で操っていた」という秀吉黒幕説も歴史のある説である。
「誰が本能寺の変で一番得をしたか」という点で秀吉の一人勝ち*8であることや、迅速過ぎる行動などから疑わしく見える。
しかしこれも状況証拠に過ぎず、他と同じく証拠は全くない。
そもそも、本能寺の変が起きた当時、秀吉は毛利攻めの真っ最中であり、
仮に毛利が講和に応じていなかったら迅速に行動する事は不可能だったという点は留意しておくべきだろう。
それどころか毛利サイドには「秀吉が撤退した直後に信長の死を知った吉川元春が追撃を主張して小早川隆景に制止された」という逸話まであり、
「秀吉が糸を引いていた」とするなら、追撃されれば味方に大損害が出かねない「中国大返し」というハイリスクな策を何故採ったのかという点が問題となる。
さらに言えば、共謀して信長を殺害してその後釜(天下)を狙おうとしていたのなら、確実に信長・信忠父子を殺害しなければならない*9のに、
上述の通り光秀は京都を封鎖していなかったため、結果的に信長・信忠父子を殺害できたとはいえ、信忠に関しては逃げられてもおかしくない状況であり、
秀吉に限らず、誰かと共謀して織田父子の隙を狙っていたのであれば、逆説的になるがこのような詰めの甘い襲撃をしただろうかという疑問が湧く。

徳川陰謀説もあり、その最大の根拠として松平信康と正室・築山殿の自害を命じられた件等々がある。
しかしこちらは黒幕以前に、動機とされている『信長が信康らの自害を命じた』という通説自体が近年疑われている。
細かく見ると不審な点や矛盾が複数存在しており、実際には家康本人の意思で両者を自害に追い込んだという説が主流になっている。
また、上述のように本能寺の変の直後は家康もかなり危機的な状況に陥って、命からがら逃げ延びており、
仮に関与があったとしても黒幕ではなく、本能寺の変は徳川にとっても計算外だったと考えるのが自然だろう。

また、計画的な謀反にしては詰めが甘いことから、突発的な行動だったとする説もある。
『軍を率いた状態で無防備な信長(+信忠)の宿所の近くを通る』という千載一遇のチャンスが到来したため、
今しかないとばかりに、根回しなどを十分に行わないまま、謀反を実行したという説である。
しかし光秀は決して暗愚ではなく、むしろ信長が重用し続けていたように優秀かつ計算高い武将だったことがうかがえるため、
周囲から協力の確約もないまま謀反を起こすだろうかという点では疑問も残る。
近年ではその疑問に対して光秀が「認知症・痴呆だった」という異説も登場している。
当時の光秀は若くとも55、一説によれば75とも言われるので年齢的にはあり得るが、当然ながら何の証拠も無く、憶測の域は出ない。

更には極稀にだが「実は別の敵が本能寺を襲撃、或いは本能寺が失火して信長は焼け死んだ」とされ、
「たまたま行軍中で近くにいた光秀が謀反を起こしたことにされた」という極論すらある。
突如主君が横死したばかりか、謀反人という濡れ衣を着せられた光秀は、信長死後の混乱を鎮めるべく奮闘したが、
混乱は鎮まるどころかむしろ加速し、光秀は冤罪で「日本史上最も有名な反逆者」として語り継がれる羽目になった、
或いは自分が信長にとって代わる為にあえて自分がやったと喧伝し、それが後世まで信じられたという訳である。



この様に、どの説においても決定的な証拠がなく、その真相は今なお謎である。
一方で、あまりにインパクトが大きい事件が様々な人の創作意欲を駆り立てるのか、トンデモ説も多い。

「秀吉黒幕説だが、忍出身の秀吉が実行犯」
「濃姫と光秀のラブロマンスで、二人が結ばれるために信長を討った」
「信長は戦乱の世に疲れており、それを理解者である光秀が汲んで討つことで救済した」
「実は異世界から来た敵が信長を殺して、光秀は混乱を鎮めるために自分が犯人という事にした」
「信長はキリスト等の死後の再臨を再現して神になろうとして、光秀はそれに協力した」
等など、好き勝手に弄られている。
歴史的事件でありながら、ここまで多様な解釈をされるものも珍しい。

なお、意外と(?)「特に日頃の恨みなどの深い理由があるわけではないが、単に下克上のチャンスだったので動いただけ」という権力欲的な解釈をされることは滅多にない。
しかし、光秀はかつて「仕えていた主君である斎藤道三を、息子の義龍の下剋上が原因で失いどん底に落とされた」という経験がある為、
「明智家の再興や天下を手に入れる為ならば下剋上を出す事も厭わない」という考えに至っても別におかしくはないので、権力欲説も否定は出来ないと思われる。


人物

「裏切者の極悪人」のイメージが強いが、これは江戸時代に信長に好意的だった徳川方が作ったイメージである節も強いため、どこまで実態に近いかは謎。

信長が元々激しい気性だったこともあって上述の通り光秀は度々信長から現在でいうところのパワハラを受けており、
後に本能寺の変を起こして信長を討ったこともあって信長と光秀は険悪な関係だったと誤解されがちだが、
信長は光秀を冷遇するどころかずっと重用しており、信任を置いていたと思われる上、
光秀も「没落しかけていた明智家を召し出して多くの兵も預けてくれたお方だから一族家臣は御奉公を忘れないように(意訳)」と、
本能寺の変の前年度に家法として定めた明智家法の後書きに残しているなど、信長を主君として慕っている様子がうかがえ、
その他にもお互いに窮地を助け合うなどの信頼関係が厚くなるだろうエピソードも残されており、険悪どころかかなり強い信頼関係があったと考えられる。
少なくとも、近江坂本という重要な場所を任せている辺りで、信長の方は光秀を強く信頼していたと見て間違いないだろう。
実際に信長と光秀が心の中でお互いをどう思っていたのかは解らないが、傍目から見れば本能寺の変までは良好な主従関係であり、
信長としても、謀反が起こったのはともかく、その首謀者が光秀ということは寝耳に水だったのではないだろうか。

他にもいくらか人物像にまつわるエピソードは伝わっており、
全体的に「穏やかで保守的な愛妻家」だったようである(判官びいきの可能性もあるのでこれも完全に鵜呑みにはできないが)。
しかしこの時代に正室しか作らず、側室を持たなかったのは事実だったようだ。

ただ、大黒天の像の逸話*10や無礼講とは言え宴会の雰囲気を信長に逆らう形でぶち壊す様なエピソードも踏まえると、
光秀は我の強い性格だったとも思われ、同じく我の強い信長と衝突していた可能性も捨てきれない。

内政の手腕には長けており、現在でも光秀の功績をたたえる祭りを行っている町もある。

文武両道で、特に鉄砲の腕前は達人級だったとのこと。


家族

光秀の家族についてはいくつか説があるが、ここでは明智軍記に基づく家族について書いておく。

  • 妻木煕子
光秀の正室。
結婚前に疱瘡にかかり、顔に痕が残ったために父が替え玉を用意したにも関わらず、光秀は煕子を嫁とすると言った話は有名。

  • 明智光慶
長男。山崎の戦い後に自刃。

  • 筒井定頼
二男。筒井順慶の養子になったと言われている。山崎の戦い後に実父に殉じる。

  • 明智乙寿丸
三男。山崎の戦いの直後に父に殉じた。

  • 明智倫子(大河ドラマでの名前)
長女。後述の明智秀満に嫁ぐ。

  • 二女
名前は不明。光秀の従兄弟明智光忠に嫁ぐ。

  • 細川ガラシャ
三女。詳細は後述。

  • 明智京子(本当にこの名前かどうかは不明)
四女。主君信長の甥、津田信澄の正室。


関連人物

  • 織田信長
主君。この二人の関係性については本当に謎が多いため、現在でも様々な解釈がなされている。

  • 濃姫
信長の正室。前述のように光秀とは血縁関係があったとされる。
その方が話として面白いからか、「幼馴染だった」「実は秘めたる恋の相手だった」のように話を盛られがち。
だが、少なくとも光秀が正式に信長の家臣となってからは表立った交流はなかったようである。
そもそも、濃姫という人物も信長の正室なのに妙に記述が少なく、名前すら不明*11と不明・謎な点だらけである。
側室である生駒芳乃は(跡継ぎである信忠や信雄、徳姫を産んだという点があるにしろ)一応『前野家文書』に記録が残っているというのに…何故だろうか。

信長の小姓。本能寺の変当日も信長に同行しており、奮戦するも討ち死にしたとされる。
光秀との関係は不明だが、「蘭丸と光秀は仲が悪かった」という不仲説が巷ではよく唱えられている。
が、両者とも信長直属の家臣ではあっても、職掌も年齢も全く異なるため、現実にはさほど接点はなかったと考えられる。
例えるなら、「総理大臣秘書」と「外務大臣」ぐらいには縁遠い2人である。

本能寺の変が起こった当時は羽柴秀吉。
変によって一時は危機的状況に追い込まれたが、上手くその修羅場を潜り抜けた上、
光秀との戦いに勝利したのを皮切りに最後には天下人に成り上がるなど、結果的に本能寺の変で最も利益を得た人物になった。
変以前にどこまで交流があったのかは不明。金ヶ崎で戦陣を共にしたのは間違いないようだが。

  • 明智秀満
光秀の腹心の一人で、一般的には光秀の親戚(但し諸説あり)とされる武将。通称は「左馬助」等。光秀の娘婿でもあった。
山崎の戦い後、家族諸共自害したとされ、死の直前立て籠った坂本城より一時降り、城にあった名刀等を敵方に渡した挿話で知られる。
ちなみに幕末の坂本龍馬の実家には、先祖は彼の遺児だという伝承が存在し、それゆえに坂本家の家紋は光秀と似た「桔梗紋」となっている。

  • ガラシャ
本名:明智(細川)玉(珠、玉子)。光秀の娘の一人で、細川忠興の妻。
父親との関係は謎だが、気の荒い夫に張り合えるだけの強さをもつ女性だったらしい。
優れた美貌の持ち主で、故に忠興は彼女が秀吉の目に触れることを心配していたという。
実際女好きである秀吉は、部下である夫が戦役に行って不在の時にその妻を呼び出して手を出すこともあった*13が、
ガラシャも例に漏れず、忠興が遠征中に秀吉に呼び出されたが、その際にわざと転んで懐に入れていた短刀を見せ、
これまた例に漏れず彼女に下心を持っていた秀吉を怯ませ、真正面から撃退するという大技をやってのけた女でもある。
因みに現在残っている光秀の血脈は細川珠代と天皇家の2つだが、実はこの系統を辿っていくと2つともガラシャに辿り着くのだ。
後世まで光秀の血脈が残ったのは彼女のお陰と言っても過言ではない。

幕臣時代からの同僚。
フィクションではよく親友扱いされる。
政略もあっただろうが、お互いの子供同士を結婚させる辺り、実際それなりに親しかったと思われるが、
本能寺の変後、光秀から再三味方となるよう要請を受けるも、最終的には息子に家督を譲ってでも頑として断っている。
後に秀吉に重用され、細川家も存続したことを考えると、先見の明があったと言えるかもしれない。

娘婿。
妻であり、光秀の娘であるガラシャを本能寺の変後も離縁などはせずに愛し続けたが、
彼女の父で、自身にとっては舅である光秀には実父共々味方しなかったという、なかなか複雑な立場の人。
ガラシャが優れた美貌の持ち主であったこともあり、異性の目を惹くことを心配していたとされ、
女好きで知られた主君・秀吉のことも警戒し、朝鮮出兵でガラシャの元を離れる時には手紙を再三送って秀吉に靡かないよう忠告している。

意外かもしれないが、家臣同士が婚姻を結んでいたり、かなり縁の深い人物。
本能寺の変は「四国黒幕説」も根強い。実際本能寺の変直前に元親から光秀家臣に当てた書状が発見されている。
元親が信長に従う姿勢を示したのは、光秀がとりなしたから、とされており、
それでいながら信長が四国征伐の姿勢を見せたため、顔に泥を塗られたと思って光秀の怒りを買った……というのも考えられる。

  • 南光坊天海
徳川家康に仕えた僧侶で、100年生きたと言われる高僧。
家康の信任は篤かったようだが、自らの出自については弟子にも語ることはなかったという。
間違いなく光秀とは関係のない人物……のはずだが、何故かその正体は「山崎の戦い」の後も実は生き延びていた光秀ではないかという驚きの説がある。
大河ドラマ『麒麟がくる』でもこの解釈が可能なラストになっており、演者もその趣旨のコメントを残している。その場合の麒麟は…

詳しくは生存説参照。


フィクションにおける明智光秀

戦国武将をモチーフにしたフィクションでは最重要人物の一角であり、ほぼ間違いなく登場する。
そしてその大半が9割方本能寺の変を前提にキャラ付けされている
作品ごとにその扱いが大きく変動する武将の一人と言え、「裏切者」「野望を胸に謀反を起こした野心家」「理想を抱いた革命家」
「偉大過ぎる信長の影に怯えてしまった臆病者」「単なる変態」まで非常に幅がある。この辺は主の信長と似ているかも。
特に「信長との関係をどのように描くか」はオリジナリティと歴史との整合性が問われる非常に重要なファクター。
NHK大河ドラマでは、その重要度に反して前半生の不明瞭さや本能寺おける動機等の不明さからか、サブキャラとしての立ち位置が常だったが、2020年の『麒麟がくる』で遂に主役に抜擢された。

ゲーム作品

政治や知能が高めだが、戦争も苦手ではない万能型。そつのない優秀な配下。
意外なことに裏切りに関わる数値である「野心」は高いことは高いが、そこまで極端な数字ではない。
本作での解釈は「やむを得ず謀反を起こした」というスタンスなのだろう。
後述の戦国無双を合わせてこれがKOEI的な光秀の解釈なのかもしれない*14
なお、本能寺の変後の扱いは作品によって様々。独立大名となる作品もあれば、即座に中国大返し→山崎の戦いが発生して 自動的に死亡 してしまうことも。酷い。

  • 太閤立志伝シリーズ
信長の野望と同じく高水準な万能型武将。技能レベルも全体的に高めで非常に優秀。
武田家滅亡後に信長に折檻されるイベントが存在するなど、謀反の動機としては怨恨説を採用している。
史実通りに本能寺の変イベントを起こすか、忠臣として信長に仕え続けるか、あるいはイベントに頼らず謀反を起こして信長との真っ向勝負に挑むかはプレイヤー次第。
山崎の戦いに勝利すると室町幕府を復興させて足利家の家臣になり、その状態で足利家に天下統一を達成させると専用エンディングが(足利義昭に褒められるだけだが)が見られる。
なお、太閤立志伝5では秀吉が信長に反旗を翻すIFイベントが用意されているのだが、このイベントを発生させると光秀は「実は自分も前から信長を危険視していた」と羽柴家に加入してくれる。前述の通り最高クラスの武将なので非常に頼りになるのだが、それでいいのか光秀。


なぜか信長が生存しているのに独立している
三日天下のイメージからか、配下の忠義がことごとく低く速攻で引き抜かれる。
間違いなく最雑魚大名であり、プレイヤーとして選んだ場合の難易度はマックス。
なお、謀反を起こした理由は 本能 。一番酷い理由かもしれない。

明智光秀(戦国無双)を参照。武器は日本刀。
信長に忠実な家臣だったが、苛烈な信長のやり方についていけなくなり謀反を起こした大義の人。
平和を望む心穏やかな人物であり、信長に仕えたのも彼が一番早く世を太平に導けると感じたから。
いくつかある光秀の中でも 屈指の美形 であり、屈指のサラサラヘアー。
金柑頭を「禿頭」ではなく「輝くほど美しい長髪」と解釈したのだろうか…

  • 決戦3
知る人ぞ知るコーエーのリアルタイムウォーシミュレーション第三作目にも、織田信長などが主要人物だけあって当然のごとく登場。
士官後に名を挙げ「織田の白鷹」と呼ばれるまでになるわ、信長に匹敵する英雄の才能を持つわとという人物だったが、
信長とは物語の始まりごろにヒロイン・帰蝶をめぐる三角関係的な対立が出来ており、その結果として才能と野心と愛憎は暴走してゆく…
本能寺以降で歴史が変わった後も室町幕府をはじめとする反織田勢力のトップにまで上り詰めたりして、表のラスボスとして立ちはだかる。
余談だが上記の戦国無双と声優も発売メーカーも同じであり、どちらかを先にプレイした後でもう一方をプレイするとキャラのギャップに驚く。

明智光秀(戦国BASARA)を参照。武器は鎌。
通称 本能寺の変態 。数ある光秀の中でもブッチギリでヤバイ人物像であり、趣味は 殺戮
信長に仕えているのも、 信長の下ではたくさん殺せる+あわよくば信長の首も取れるから
ただし、ナンバリングの『3』以降は「変態なのになまじ倫理観がしっかりしていたが故に、殺戮趣味と『まっとうな人間としての生活』に対する憧れの板挟みに苦しんでいる」という 哀しき変態 として描かれている。
意外なことにストーリー開始時点で既に本能寺の変を起こしていることが多く、光秀が主役のシナリオで本能寺がラストステージになったことはない。

明智ミツヒデ(戦国乙女)を参照。
アニメでは同時期にやっていた某魔法少女アニメヒロインと同じような恰好、同じような声、同じような境遇でパッと出た別の女に想い人を取られ暴走する。

ゲーム開始からいる武将。職種は軍師。
合戦ステータスが貧弱で、初見でよくわからないまま使ってなんだこいつ弱ええと思うのはお約束。
このゲームにおける軍師は使わない=縛りプレイと言っても過言ではないほど強いのだが、そう思わせないためにあえて弱くした可能性すらある。
内政能力はそこそこ優秀。
ランスが虐めまくると失踪し、ガラシャに置き換ってステータスアップするが、そこまでする手間を考えるとリターンは薄いか。

  • 戦国✟恋姫
訪日した宣教師、『ルイス・エーリカ・フロイス』の日本での名前*15が『明智光秀』という、まさかの設定で登場。
見た目は完全に異国人であり、金髪の美少女。史実通り久遠(信長)には『キンカン』と呼ばれるが、本作でのあだ名の由来は禿頭ではなく金髪から。
元々著名な武将が悉く美少女化して登場する本作だが、「元ネタとなる歴史上の人物が二人いる」のはエーリカだけであり、
劇中でも本人はいたって真面目で、文武両道かつ礼儀作法にも詳しいと史実の光秀同様に優秀な人物として描かれているが、どこか謎めいた雰囲気を纏っている。

イベント、ぐだぐだ帝都聖杯奇譚ー極東魔神戦線1945ーに登場。
この光秀は信長にかなり心酔…というか ヤンデレ の域に達しており、本能寺の変を起こした理由も 「秀吉になびいて自分の理想からかけ離れたから(意訳)」
更にシナリオ中では真の(=自分の理想の)信長公を作り出すために天海として300年も暗躍し、あげく最終的には 自分自身が信長公になろうとする というBASARAとは別ベクトルでヤバイ奴になっている。

  • 戦国大戦
イケメンとして登場。
「本能寺にあり!」では高水準の能力、計略、特技で好まれたが、アクション台詞「さらばだ!」が妙にシュールでネタにされた。
ちなみに「南光坊天海」も登場したが流石に別人扱い…と言いたいところだが、イラストレーター(更に言うなら目つき)が同じ、アクション台詞が「さらばだ!」…と匂わせてはいる。


漫画作品

  • 信長協奏曲
明智光秀(信長協奏曲)を参照。なんとその正体は 本物の織田信長

南蛮渡来のメガネを愛用する初老の男性。珍しく、信長よりもかなり年上に見えるデザインで描かれている。
信長からは「凡庸」と評されているが、その一方で愚直ながらも覚悟の強さを評価されている。
また、光秀の方も信長に絶対の忠誠を誓っており、とても変が起きるような関係性には見えないが……?

無私無欲の清廉潔白な人物であり、色々と強烈なキャラの多い本作では希少な清涼剤。
しかし、その清廉さを利用される形で、本作の本能寺の変の黒幕である秀吉と 千利休 に載せられる形で謀反を起こしてしまい……。

若く忠義心に溢れた織田家家臣。
ただし、信長からは松永久秀などと並んで「いつ裏切るか」の賭けの対象にされている
本人に裏切る気は全くないのだが、織田家における数少ない常識人であり、周囲の奇矯な人物たちに振り回されて疲れ気味。
なお、本編では本能事の変周辺の時代が取り扱われなかったため最後まで忠臣のままだったが、後述の「信長の忍び」とのコラボ漫画ではついに自分とこの信長に愛想をつかして「信長の忍び」陣営に引き抜かれた挙句、「信長の忍び」の光秀と一緒にダブル本能寺の変を起こした

金柑頭を拡大解釈して丸顔デコハゲの可愛い顔立ちに。
目にハイライトがなく、近寄ると怖いと専らの評判。
道三亡き後は各地を放浪し、ようやく仕えた朝倉家では、才能を評価されず。だが妻子や家臣のため、目と心を閉じて雑用係を甘んじて受け入れていた。個人の能力を重視する信長に仕えたことでようゆく目を開けることができた。
従妹の帰蝶(濃姫)が大好きで、結婚が決まった時には口に鉄砲を加えて自害しようとしていた。
その一方で妻に向ける愛は本当であり、彼女が自分を置いて逝ってしまった時には涙を流し、
信長からも「妻のことを考えていてはいずれ自分を責めてしまうから、今は別の仕事を回してやる(意訳)」とまで気を使われた。
才能は極めて高いが、クソ真面目で柔軟性に乏しく、不道理や不義理を嫌うタイプ。そして土下座と突っ込みの天才。
娘婿の父にして親友の細川藤孝からは「有能であるがとても天下を握る器にはない」と断じられた。
その性格から史実を知る者にとってツッコミ待ちの様な発言をする事が多く、「殿といっしょ」の光秀ほどではないが、ナレーターによく本能寺の変ネタで弄られている。

ちなみにこの世界の天海はたまたま顔が光秀そっくりだっただけの赤の他人であり、同時にどう否定しても光秀とは別人だと信じてもらえない苦労人でもある。

信長も漂流している異世界に死ぬ前後に召喚された(?)という設定。
謀反を成功させることはできなかったからか、妄執が凄まじい『廃棄物』らしく、今度こそはと信長絶対殺すマンみたいになっている。
基本的には冷静で理知的な感じだが、他のことを考えていても信長を殺せるならどうでもいいという結論になったりと、信長に目が無い。

信長、秀吉同様この世に未練を抱いていたため死にきれず亡霊になっていた(三人ともパンイチ)。
秀吉にあっさりやられたことをいまだに恨んでいた。

実に珍しいことに光秀を主人公にした漫画。破戒僧「天海」(まだ南光坊ではない)として登場。
炎熱をつかさどる籠手型重臣級蘇土無「迦楼羅」の使い手。
本能寺ごと信長を抹殺した秀吉に謀反人の汚名を着せられ、落剝の後に小坊主・無垢と出会い出家。残虐の限りを尽くす豊臣政権打倒のために立ち上がる。
イケメンかつ超スケベでロリコンのコスプレマニアというひっでえ設定であるが、信長より年上のため実年齢は66歳である。

ざんばら髪に歌舞伎役者めいた化粧という出で立ちの大柄な男。外見のモデルはヒュー・グラントでこれまたキャラが濃い。
用兵の達人であり、得意の包囲戦術「殺し間」を駆使して微笑みながら敵兵を殲滅するさまは下手な敵より恐い。
根は理想を抱いた革命家タイプだが、ルイス・フロイスによる光秀評を紹介して(創作では珍しい)その理想には野心的な独善や狡猾性が潜んでいることも示唆している。
信長に対する尊敬と忠誠の念は確かだったのだが、一方でその統治の危うさをも感じていた光秀は、かねてから現代の民主主義のような全く新しい統治方式を夢想していた。
やがてある日、彼は天啓を受けたかのようにほとんど衝動的に理想の実現に踏み切り、何ら怨恨や因果の類もなく信長を討つが、史実通りに山崎で秀吉に敗れて死亡する(光秀の指揮力で途中までは優勢だった違いはあるが)*16。敗因は自らの民主構想を理解し得ない民度の民衆には秀吉のような者が統治者に相応しかったからだと分析している。

  • 信長を殺した男
『「本能寺の変」431年目の真実』を題材とした本作では、漫画作品では珍しく主役を務める。
端正な顔立ちかつ引き締まった体格の白髪イケ爺という割と珍しい光秀像を打ち出しており、後世での悪評は大体秀吉の情報操作という事になっている。
それでいて性格は生真面目かつ信長に忠実、そして文武両道という非の打ち所が無い完璧超人。愛妻家という面も強調されている。
そんな光秀が何故主君殺しという大逆を犯したのか、というのが物語の主軸の一つとなっており、本能寺の変に到るまでの経緯が詳しく描かれている。
ちなみに原作者は明智光秀の子孫(とされる一族の出身)であり、作中における光秀の顔立ちもやや彼に似せられて描かれている模様。

  • 何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?

禿頭をカツラで隠しており、それがコンプレックス。
本能寺の変を起こした理由については「四国征伐への反感」と「濃姫への恋慕」が主に挙げられている。
本能寺の変から時を遡った信長に何度も斬り殺されるも、一向に本能寺の変の未来が変わらないかった(光秀の代わりに柴田勝家や羽柴秀吉が変を起こす未来もあった)。
そのため今度は信長は懐柔策に出る…も、その時間軸では弱腰になったせいで弱体化した織田家を切り捨てて長宗我部家と結託、あろうことか西日本全土を支配する「覇王」にまで成り上がり、信長を「変」ではなく真っ向勝負の戦争で討ち滅ぼそうと蜂起することに。
なお、「覇王」となった後も基本的には弱者に気を使う名君であり、暴君として描かれている本作の信長とは対比されている。もっとも、相変わらずハゲと言われると問答無用でブチギレる(場合によっては相手の発言を曲解してまで「ハゲ」と言ったことにこじつけることすらある)。


小説作品

  • 豊臣秀吉(山岡荘八の作品)
生存説を採用し(但し光秀=天海説は作中解説できっぱり否定)、序盤で朝倉家家来として秀吉と出会った後、後半のキーパーソンとして登場。
本能寺の変以前、元高僧の魔性に刀を捧げある願掛けをしており、そのせいか秀吉が天王山後掴んだ彼の首は偽物だった…という設定(秀吉が事を収めるのを優先して偽首を本物としたため公の歴史は変わらず)。
その後ひょんな事からかつて自分が手を付け子作りした娘(子供は成長後出家)の父親である豪商曾呂利新左エ門と再び縁が出来、
片目の下に太陽の様な痣を持つ僧侶「大日坊」として堺に隠棲。曾呂利を通じて秀吉へ助力していく。
ちなみに本作には天海も「随風」として登場し少年時代の秀吉と邂逅しており、「大日坊」と交友関係を築いている。

  • 国盗り物語
後半にて信長と並ぶ主人公として登場。本作では斎藤道三の正妻の親戚で少年時代から彼に仕えており、妻「お槇」を大切にしている。
知性や鉄砲など軍才に長けるが、信長や道三と違い古くからの伝統や礼儀を大切にし、その一方で果断さに欠ける面もあり、信長につく際や義昭を見捨てる際も悩んでいた。
信長に付き従う中、間の悪さ等も合わさり徐々に精神が疲弊していき、最終的に秀吉への助力要請時「元の領地捨てて新しく取れ(意訳)」と命じられたせいで限界に達し、懊悩の果て本能寺の変を起こす。
また同じく伝統を大切にする古くからの友人だが、苦労したせいか要領のいい細川藤孝からは義昭離反時の対応で「甘い」・「裏が読めてない」と見られ、本能寺の変後見限られた。

『明智十兵衛』名義で登場。広いおでこが特徴的な黒髪の美少女。
有能だが毒舌で短気かつ自分に厳しい性格であり、主人公(秀吉の影武者)相良良晴を表向きは後輩として慕っている風を見せつつ、他者の目がない時は「サル人間」と呼んで小馬鹿にしていた。
いがみ合いながらも仲良くなっていき、彼が殺された(ように見えた)時には本気で下手人を殺そうとした他、重傷によって意識朦朧とした良晴が洩らした弱音を聞いたことで彼を異性としても意識するようになる。
なお、親友の間柄になった良晴からは「元康同様いずれ織田政権を担う両翼となる欠かせない人物」と評されている。


彼の役割を継いだ「襲名者」で、P.A.Oda(織田家)の最高幹部「五大頂」の一人でもある『明智・光秀』。
容姿はアラブ風で痩せ型のひげ男性で、趣味は読書。あくの強い他の幹部陣に比べておとなしく物静かな文系タイプ。
またストーリーの都合上、亡き恩師が家康(CV:BASARA光秀)で、かつ娘ガラシャ(の襲名者)がスウェーデン女王でもあるという奇妙な状態だったりする。
本作の世界では「超古代の歴史を今の人間達が再現する」というルールがあり、本能寺の変を起こす理由も「歴史的にそうなるから」。ただそれだけであり、他の幹部達とも最後まで仲は良かった。
だが彼の仕えるP.A.Odaはそれを単なる歴史再現だけでなく、「末世(世界滅亡)」を防ぐための最終プラン「創世計画」(恩師も参画)実行への布石にしようと画策しており、
それをなんとなく勘で察した主役陣営(娘夫婦を助け保護中)と同人誌即売会で対談し「光秀の襲名権譲渡」を持ち掛けられた後、なんと本能寺の前に京の内裏を襲撃。
内裏にて主役陣営と2度目の対話を全国生中継で行うもある理由で消失
その後主役陣営は主人公を便宜上光秀役とし、本能寺に突入するも、信長(10代女子)から事情を聴かされたことで歴史と世界に殉じて自害を選んだ信長を止めようとするが…

平安時代から生きており、アケチ・ニンジャの名でも知られるリアルニンジャ。第四部では現代に復活し、カナダ一帯を統べる悪逆非道のボスとして君臨する。
現代編については置いておくとして、戦国武将モチーフの部分に着目すると、その描写は驚くほどシリアスかつ精細である。
平安の大イクサの後、光秀は織田信長ことオダ・ニンジャに副官として仕えることを選び、ソガ・ニンジャ(足利将軍家めいた立ち位置)との折衝や権謀術数を引き受けた。この時期までは、革新的な信長と調整家の光秀は理想的な信頼関係にあった。
しかし信長は一度結んだソガをあっさり裏切るなど、副官の自分すら置いてけぼりにして思い切った戦略をとり続ける。光秀は信長のことを信じきれなくなり、とうとうある日ソガの側について謀叛を決意する。
一度目の衝突の後、二人は改めて本能寺にて向かい合い、すべての感情をぶつけ合って問答し、決裂し、ついにはナックルダスターをはめた光秀の右ストレートが信長に炸裂した
かくして信長ことオダ・ニンジャは滅んだが、敗北すらも笑って受け入れる信長の精神性を光秀は最後まで理解することができず、彼はその後も長くオダの影に囚われ続けることになるのであった。
忍殺らしいトンチキ日本史でありながら、そのキャラクター性や愛憎ない交ぜの複雑な関係性はまさに我々が知る光秀・信長のイメージそのものであり、改めて「作者は実は日本人では?」説がささやかれることとなった。あと後述の大河ドラマ「麒麟がくる」の時期とかぶってTwitter民が困惑した

ドラマ

  • 麒麟がくる
数々の戦国時代を描いたNHK大河ドラマに登場した明智光秀を、初めて主役として抜擢した作品。
主演は『シン・ゴジラ』などで知られる長谷川博己。
戦国の世で荒れ果てた世の中を憂いており、戦なき太平の世に現れると言われる「麒麟」を呼ぶ人物を探し求める。

  • 光秀のスマホ
上記の「麒麟がくる」に合わせて放送されたSF5分ドラマ。
「もし光秀がスマホを持っていたら?」という設定で進行されるのだが、
光秀の顔は一切映らず、ドラマの光秀の持つスマホの画面で進み、光秀はほとんど手元しか映らない。
信長の陰口を裏垢で呟いて愚痴ったりと、結構今どきな感じの光秀はなかなかシュールで共感出来てしまう。



逆順 二門無ク

大道 心源ニ徹ス

五十五年ノ夢

覚メ来リテ 一元ニ帰ス

叛逆でもなければ忠義でもない
私は己の心のままに道を歩んだだけだ
五十五年の人生も夢のようなもの
覚めてしまえばそれだけのこと

――明智光秀、落命時に鎧に忍ばせていたとされる辞世の句

追記・修正は、南海坊天海として余生を過ごしてからお願いします。

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  • 6月2日
  • 南海坊天海の正体→という説

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最終更新:2024年04月08日 08:49

*1 最近の研究では、殿中御掟は信長の独裁やら義昭の傀儡化やらではなく、そのほとんどが「室町幕府の先例のようにせよ」「今のやり方では幕府の権威が崩れるぞ」といったものであると判明している。また両者の対立が決定的になるのはまだ先である。

*2 筒井順慶とのこのエピソードが「洞ヶ峠を決め込む」ということわざの由来になっている。

*3 落ち武者狩りによって落命したと言われることが多いが、落ち武者狩りでよく用いられた竹槍で刺されたくらいではまず落命することはなく、深手を負って逃げきれないと悟り、自害したというのが正しいだろう。

*4 当時の比叡山は権力との癒着などで堕落して軍事化し、とても修行僧の場所ではなかったという面もある。

*5 実際、当時は横領をやってない人物などほとんどいなかった。幕臣たちも当たり前にやっており、前述の殿中御掟ではそのことに関しても激怒しつつ触れている。

*6 当時の日向国はキリシタンの天下であり、神社仏閣は不毛の地であった。光秀からしたら横領先がなくなってしまう。

*7 むしろ当時の人々の大半がそうであったのだが…。

*8 後の徳川もそうだったように色々盛ったりもしている

*9 『本能寺の変』が起こった頃には既に信長は織田家の当主の座を信忠に譲っていたため、信忠さえ生きていれば織田家が歴史の表舞台から姿を消すことはなかった可能性が高い。

*10 若き日に「1000人の頭になれる」と言われる大黒天の像を拾ったが「俺はもっとビッグになるからいらねぇ」と放り捨てたエピソード。

*11 『濃姫』は「美濃の姫」を略して呼んだもので、『帰蝶』も出典元となる『美濃国諸旧記』自体がやや信憑性に欠ける。

*12 『蘭丸』は俗称

*13 立花誾千代を呼び出した際には完全武装+鉄砲を持たせた護衛の侍女連れで来られ、さしもの秀吉も手も足も出なかったという逸話もある

*14 尤も一部の作品では野心と狂気に囚われた危険人物的扱いもされているが…

*15 母親が日本人、かつ出身が明智氏。

*16 後の作中では、作中人物が老いて耄碌した秀吉と比較する形で「『老いて耄碌した織田信長』を見たくなかったから変を起こしたのではないか」という推測もなされている